お風呂から出た時、俺は叔父の家で食事をしてから帰ると自宅に電話していた。

食事と言ってもインスタントラーメンだった。

叔父特製、豚骨醤油ラーメン。

ただ二つのラーメンを合わせるだけだけど、これが旨いんだ。
何でも死んだ奥さんが間違って作ったのを思い出して時々やるようになったらしい。


俺は叔父が、少しおっちょこちょいだったと懐かしがる奥さんのことが少し知りたくなった。

見た目だけで洋服を選び失敗したこととか。

アイメイクをした目が痒くなり、擦ったらパンダ目になったり。

叔父が語る奥さんは、人間味溢れていたから。

でも、これの特製ラーメンが出来るのは俺が一緒にいる時だけなんだ。


「流石に二杯はたべられないからな」

そんな言い訳をして、俺が負担にならないように気遣ってくれる。

元凄腕の警察官だったけど、本当に優しい人なんだ。




 「これ、歩き辛くなかったか?」
俺の脱いだワンピースを畳みながら叔父が言う。


「うん。でも何で今更言うの?」


「いや、ちょっと思い出したことがあってね」

叔父はそう言ったまま黙ってしまった。


「あれからもう……」
叔父は辛そうに話出した。

心なしか泣いているように俺には見えた。




 「あれから……殺されてからもう十年以上だな。確か今年が十三回忌だよ」

「犯人はまだ捕まっていないんだよね?」


「でも殺人の時効が無くなったから、同じには救われたよ」

叔父は俺の脱いだワンピースを抱き締めていた。


(おいおい……)
俺は少し青ざめた。
何時までもそのワンピースを離さない叔父。
よっぽど思い出があるなだろう。

俺はそんなやるせなさそうに座り込む叔父を初めて見た。

どうやら俺の言動が琴線に触れてしまったらしい。

俺は今……
確実に取り乱していた。




 時々叔父は遠い目をする。
きっと奥さんのことを思い出しているのだと思う。


俺はこの先、叔父のように傷を抱えたまま生きて行くのだろう。

でもまず、みずほを殺された真実に立ち向かわなければいけない。


誰のためでもない。
全ては自分のために。

この悲しみを生きる糧にするためにも。


俺はさっき、みずほの元へ行きたいと思った。
意地もしがらみも全てかなぐり捨てて、みずほと共に過ごせたらこんなに嬉しことはないと思った。

でも……
みずほはきっと許してくれないと思ったんだ。




 星川の通りから一本、中に入った道。
古い木造アパートの二階。

東側の窓に手作り看板。

《イワキ探偵事務所》
はあった。


2Kの間取り。
小バスユニット付き。
出来た当初はきっと斬新だったんだろう。
でも今は外階段に赤錆もそのまま放っておかれてる。


通路側に開くドア。
靴置き場のみある玄関。

その横に広がる、四畳半程の洋間に小さなテーブルセットと冷蔵庫。

きっと団欒の場だったのだろう。

其処を仕事場にして、方開きの押し入れを書類棚にしていた。

一畳程のキッチンは流しと二口ガスコンロのみ。
キャスターがロックしてある可動式のワゴンは食器置き場になっており、上部にまな板を置いて調理していた。


玄関のすぐ脇にある扉の奥は、さっき俺の入ってた約一坪のシャワー次バスルーム。
其処には小さなトイレも付いていて、夫婦二人暮らしには手頃だったのだろう。


実は当初は仮宿所にするはずだったらしい。

警察には家族寮があり、いずれは其処へ移るつもりだったのだ。


『まさか此処でずっと暮らす事になるなんて』

叔父は何時も言っていた。




 愛の巣だったと思われる、六畳の和室の押し入れをベッド代わりにしてる叔父。
その下のスペースに、沢山の衣類。


「初めて此処に来た時これを着ていたのを思い出してな。歩き辛いって言ってたような事、さっき思い出したんだ」
叔父はそう言いながら、大事そうに衣装ケースにワンピースを締まった。


もしかしたら、見た目だけで選んだ洋服ってそのワンピースだったのかな?

確かに可愛らしいワンピースだった。
恋人のために、叔父のために。
可愛い女性になるために。
俺は叔父が急に羨ましくなった。




 以前母に、何故叔父が押し入れで眠るようになったのかを聞いたことがあった。


それは嗚咽を隠すためだった。

亡くなった妻が心配しないように……

それでも泣きたい時は泣くように……

叔父は心の闇を、更に闇で包み込もうとしていたのだ。


叔父はきっと母が気付いていると思ってはいないだろう。


でも叔父はまだ、其処から立ち上がれないままにいた。

それを知っている母だからこそ、俺を此処にアルバイトさせてくれているのだと思う。

だから俺が此処に入り浸っていても文句一つも言わないんだ。
叔父はたったひとりの弟だったから。




 「叔父さん。その時の容疑者が怪しいと思っているんでしょう?」


「当たり前だ。アイツ以外考えられねぇ。でもよぅ、俺はアイツが好きなんだよ」
叔父は声を絞り出すように言った。


アイツとは、ある殺人事件の共犯者とされた人物だった。

叔父が補導した元暴走族だった。

仕事の世話。
結婚の見届け人。
若い叔父は出来る限りの力を尽くした。

だから……
共犯者として名前が出た時も、意義を申し立てた。


犯行時間直後。
現場近くの道で、携帯電話を掛けている人が目撃された。

丁度その頃。
叔父に電話があった。

そのアイツから……


叔父さんはアリバイを主張した。

でも認められず、アイツは服役したんだそうだ。


「アイツは、どうやら騙されていたようだ。自白に追い込むための汚ない手を使われてな」


「そんな。それで恨まれたんだ。叔父さん悔しいね。でも、逮捕するためなら何をやってもいいってことないよね?」

俺の質問に叔父は頷いた。




 警察は誘導尋問や、拷問を繰り返す。


そして……
叔父がアリバイを覆したと教えた。

勿論嘘だった……


叔父はずっと言っていたのだ。


「犯行時間されている時刻に、間違いなく電話を受けていると」


丁度、携帯電話も普及してきた頃だった。

きっとそれから掛けてきたのではないのかと同僚は思い込んでいたのだ。

でも、アイツにはそんな余裕はなかった。


まだ式を挙げていなかったため、ずっと節約していたからだった。


奥さんに内緒のプレゼントとするために。

それは結婚指輪と、教会での結婚式だった。




 「ラジオって言葉知ってるか?」
叔父が聞く。


「ラジカセのラジオ?」
俺もまた、普通に答える。


「違うよ。業界用語で無銭飲食のことだ」


「俺まだ探偵用語なんて習ってねえよ」

俺はてっきり、そっちだと思った。
でも良く考えてみたら、無銭飲食を見張る事も無いなと思った。


「それって、もしかしたら警察用語?」

俺の質問に叔父は頷いた。


「ラジオの詳しい言い伝えは解らない。無銭と無線をかけたのじゃないかな?」


「でも叔父さん、無線だったらトランシーバーじゃないの?」

俺はつまらない屁理屈だと思いながら、言っていた。




 「ああ、確かに」
叔父はそう言いながら話を続けた。


「無銭飲食だと電話が来たんだ。でも違っていた。財布を取られたんだ、其処の客に。それは後で判った。現金を抜かれた財布が店の脇の通路から見つかって」


「それがアイツ?」

叔父は頷いた。


「元暴走族だと言うだけで捕まえたんだよ。でも俺にはか弱い人間に見えた。だから……」


「だから親身になって面倒を見たんだよね」


「ああ……なのに」

叔父は何時しか拳を握っていた。




 「アイツが服役する羽目になった事件の捜査だっていい加減なものだった!」

珍しく叔父が、興奮していた。

こんな叔父は始めてだった。

俺は奥さんの質問をしたことを後悔していた。


「俺はアイツが事件現場に居なかったことを知ってる! なのに、寄って集ってアイツを共犯に仕立て上げた! ホンボシの自供だけでな……か」

叔父は握り拳を左の手のひらで包んだ。

そうやって、やっと自分を抑えている。
叔父の痛みが俺の深部に伝わった。




 出所したアイツは、妻の行方を探す。

でも見つけ出すことは出来なかったらしい。


そして怒りの矛先は叔父に向かう。

叔父と結婚したばかりの新妻へ向かう。


叔父は心の奥底では否定しながらも、そう思っていたのだ。


でも……

主張したアリバイが今回は認められ、釈放されたのだった。


それは目撃者のいる確かな物だったらしい。


「本当は、アイツを信じている」
叔父は辛そうに言った。

俺はそれ以上言えなくなった。


「なあ、瑞穂」
でも叔父は、俺を気遣ってくれた。
叔父は掌で俺の後頭部を包み込んで、胸元に引き寄せた。


「瑞穂、悲しい時には泣け。俺に遠慮は要らない」
本当は自分も苦しいはずなのに……
俺を励まそうとしてくれていた。




 気が付くと俺は自分の部屋にいた。
此処まで帰って来た記憶が無い。

俺はベッドの上で泣いていた。


みずほのように有美も殺されるかも知れない。

その事実が怖くて仕方なかった。

それも俺とみずほにとって幼なじみの、福田千穂がみずほの死を願ったのだ。


みずほが死ねば、俺がなびくとでも思ったのか?

言い訳じゃない。
俺は本当に知らなかったんだ。
千穂が俺に恋心を抱いていたなんて。


千穂の痛みは解る。

でもあの時千穂ははっきり言った。

松尾有美なら死んでも誰も悲しまない。
サッカー部のエースの彼女だから、みんな大喜びするはずだと。




 俺はそんな、人を呪い殺しても平気な顔をしている千穂に愛されていたんだ。


(怖い! 怖過ぎる!)

千穂が殺人鬼だなんて思いたくはない。

でも……
みずほを殺すことを画策しておきながら、平然としているのも事実だ。


(もし俺が千穂を愛さなかったら、きっと何時かは俺が殺される! 俺を振り向かせる為に又何かをやらかす。だって、そのためにみずほは殺されたんだ。俺が居たから……みずほを好きになったから……だからみずほは死んだんだ!!!!)




 クローゼットを開ける。
気が付くと俺はクッションに顔をこすりつけ泣いていた。


嗚咽を漏らしたくなかった。

みずほが悲しむことが解っていたから……


俺は叔父と同じ方法をとっていた。


又命が失われるかも知れない。


幼なじみが犯人かも知れない。


知れば知る程地獄に近付く。


「う、ううー」
それはとうとう始まった。


俺はクッションをキツく口に充てた。


「わあぁぁぁ――」
口から激しい泣き声が湧いて出る。

それを止めることなど、はもう俺にも出来なくなっていた。




 それでも気丈に立ち上がる。

例え人殺しだったとしても、有美を守ってやりたかった。

そして何より、千穂に殺人を犯させないために……


(たとえ親を殺したのが有美だとしても……守ってやれるのは俺だけなんだ!)

そう肝に命じた。