史美はベッドに横たわりボンヤリとしていた。
 いつも流している音楽も聴く気分にはなれなかった。時折、木材の湿気の変化によって起こる乾いた音が聞こえてくる。オカルト的な解釈ではラップ現象などと呼ばれている。
 普段気にならない音が、今日はやけに耳に入ってくる。

“ うるさいな・・・。”

 史美は気晴らしに箪笥の上に飾られている仲間たちの写真に目を移した。史美の隣に写る秀輝を見る。沙帆を見送る悲痛な秀輝の顔が忘れられない。まるで心が押し潰されたように苦しそうで、その痛みと辛さが史美にも伝わって来ていた。
 携帯電話を取り出し、秀輝の番号を表示させる。
 史美は暫く、その番号を見つめていた。

“ どうしたのよ。何があったの?”

 史美のざわつき出した心は、静寂さを取り戻すことは出来なくなっていた。
 携帯に表示された秀輝の電話番号に指をかざした時、リビングから史美を呼ぶ母/珠美(たまみ)の声が聞こえてくる。
「コーヒー淹れたけど飲むかい?」
「ん?うん。」
 携帯電話の0の文字に触れようとした指を止めた。

“ 何て聞けばいいのよ・・・。”

 大きく溜息をついた後、思い直した史美は携帯電話をドレッサーの上に置いた。

※                ※                 ※

 帰宅途中の駅で和明から召集の電話が掛かって、史美はバー「ホワイトデー」に向かっていた。秀輝のことが気に掛かっているからか、普段よりも足取りが重く感じていた。史美が店のドアを開けると、秀輝と和明と眞江は既に到着していた。尊は後から遅れて来るらしい。
 秀輝は、いつもと変わらない様子で史美を迎えた。
「オッス!お疲れ、忙しいんだな。」
 仕草や表情に変化はない秀輝に、史美は拍子抜けしてしまう。沙帆と並んで歩いていた秀輝の表情からは思いもつかない。
「うん。」
 秀輝の顔を見ると史美は、先日の出来事を思い浮かべてしまう。
「史美ちゃん、いらっしゃい!」
 マスターの牧野がカウンターから声をかける。
 いつものようにビールを注文すると、史美は秀輝の隣に座った。史美の隣で秀輝は、普段通り明るく振舞っている。

“ 何があったのよ。”

 史美の心配をよそに、秀輝は和明たちと賑やかに酒を飲んでいる。和明が覚えたての曲を唄うため店内の小さなステージへ向かった。
 曲が流れ和明の熱唱が始まった。しかし、史美の耳には和明の歌声は入って来なかった。秀輝は沙帆と何かあったのだろうか。それがずっと気になっている。俊一が言った通り秀輝と沙帆が付き合うことになれば、それは喜ばしい事なのに気持ちは鉛を抱いているかのように重い。
 賑やかな店内とは対照的な史美の様子に、秀輝が声のトーンを抑えながら話しかけてきた。
「おい、どうした?」
 いつもと違う史美の様子に秀輝は気付いていた。
「別に。」
 史美は出来る限りの作り笑いをして気持ちを隠した。
「なんかあったんだろ?」
「ないよ。」

“ 何かあったのはアンタの方でしょ。”

 史美は思わず口に出そうになった言葉を飲み込んだ。
 秀輝は挙動がおかしい史美の顔を見つめている。
「何?」
「何かあったのなら、ちゃんと言えよ。」
「何にもないよ。」
「・・・それならいいけど。」
 秀輝は和明たちの手前、気を遣って大人しく引き下がった。
「ねぇ。」
「ん?」
「アンタこそ、何かあったんじゃない?」
「えっ?」
 秀輝は虚を突かれ慌てていた。その僅かな動揺を史美は見逃さなかった。

“ やっぱり何かあったんだ。”

「アタシに何か言うことない?」
「・・・べ、別にないけど。」
「ならいい・・・。」
 史美と秀輝の間に、気まずい空気が漂う。秀輝は隣に座っているのに、離れているかのように感じてしまう。
「おい、篠塚!お前の曲だぞ。早く行けよ。」
「おう!」
 秀輝は和明に促されマイクステージへ向う。
 唄っている秀輝は、普段通り何も変わらないように見える。しかし、沙帆といた秀輝は違った。それはとても痛そうで、苦しそうな顔だった。

※                ※                 ※

 モヤモヤした気持ちが晴れずスッキリしないまま、昨夜の秀輝たちの飲み会は終了した。おかげで今日という日は、やけに長く感じた一日だった。いつもなら時間に追われる授業も、時計を何度も見て残り時間を気にする一日だった。
 生徒たちを帰宅させ、史美は職員室で父兄たちに配布するプリントの準備をしていた。聖応小学校では父兄に対して、風邪や防犯など様々な情報をマメに連絡しているのだ。
 内容を一通りチェックし終えた史美は、背もたれに寄りかかり再び溜息をつく。今日は溜息ばかりついている。
 小学1年生は、まだ幼児の域を脱していない。一瞬たりとも目が離せない状況が続き、肉体的にも精神的にも疲労が溜まってしまう。
 職員室から見える校庭を、史美は放心したように眺めていた。脳裏にふと、昨夜の秀輝のことが過る。
 和明たちには、普段通りの秀輝で接していた。しかし、秀輝は史美の問い掛けに、ほんの一瞬動揺していた。恐らく沙帆と何があったに違いない。史美はそれが気になって仕方がなかった。
「どうしたの、大丈夫?」
 史美の隣にいる同僚教師が不意に小声で話し掛けてくる。この同僚は史美と同じ1年生の担任を持っていた。
「あ、大丈夫です。」
「最近、ボーッとしている事が多いみたいだから。」
「すみません。」
「彼氏の事?」
「いえ、別にそんな事・・・。」
「気持ちをしっかり持たないと。伊藤先生の二の舞になるわよ。」
「そんな・・・。」
「問題が起きても守ってくれないのよ。うちの学校は・・・。」
 忠告はしたというアピールが見え見えである。同僚教師は史美の不安を煽るだけ煽って、そのまま職員室を出て行った。

※                ※                 ※

 新橋のSL広場は待ち合わせスポットとして、多くのサラリーマンやOLが利用している。
 ライトアップされたC11形蒸気機関車の前で秀輝は俊一を待っていた。昼休みの時間帯に俊一から連絡が入り、相談したいことがあるというのだ。話の内容はおおよそ見当はついていた。初めてのケースに秀輝は不安と緊張を抱えながら携帯電話で時刻を確認する。
「もうそろそろかな・・・。」
 その時不意に、誰かに後ろから肩を叩かれる。驚いて振り返ると俊一が息を切らせて立っていた。
「申し訳ない。少し遅れたかな?」
「あ、いえ。大丈夫ですよ。」
「自分から連絡しておいて失礼だったね。」
「いや、そんなことないですよ。」
「時間はそんなに取らせないから、ちょっといいかな?」
「はい。軽く一杯やりながら話しますか?」
「そうだね。この辺どこか店知ってる?」
「ちょうどいい店がありますから、そこに行きましょう。」
 秀輝と俊一は、人混みをかき分けながらSL広場を後にした。

※                ※                 ※

 居酒屋の店内は、照明を抑えた落ち着いた雰囲気だった。秀輝と俊一は、カップルシートと呼ばれる席に案内された。俊一の声のトーンから込み入った話になるだろうと考え、秀輝が他と隔離されている席を店員に要望したのだ。
「忙しいところ悪かったね。」
「いえ、暇人ですから・・・。」
 秀輝の思った通り俊一はどことなく元気がなかった。
「相談したいことはさ・・・。史美との事なんだ。」
 予想した通りの言葉が俊一から出て来た。考えてみれば史美以外の事で自分に連絡することはない。
「どうかしましたか?」
「篠塚君に聞きたいことがあって。最近、史美の様子がおかしいんだ。」
「様子がおかしい・・・ですか?」
「どこか上の空で、常に何か考え事をしているようなんだ。」
「いつ頃からですか?」
「バーベキューした後くらいかな・・・。」
 俊一に言われ秀輝はホワイトデーでの史美を思い出した。普段は賑やかに過ごすホワイトデー店内で、史美は一曲も唄わなかったし酒の量も少なかった。
「篠塚君、何か知ってる?」
「い、いえ。自分は何も・・・。」
 秀輝はホワイトデーでの事を俊一には言わなかった。確証も何もない故に、秀輝自身も理由は分からなかった。分からないことを推測で俊一に言える筈がない。
「そうだよね。済まない、僕ら2人の事に時間を使わせて・・・。」
「そんなことないですよ。」
 俊一は肩を落として大きく溜息をついた。
「プロポーズ、まだ返事も貰っていないんだ。」
 秀輝の胸がドキンとする。
「そうなんですか・・・。」
 プロポーズという言葉を聞いて、衝撃を受けている自分を必死に抑えた。史美の幸せを願ってはいても、結婚となると今まで通り会うわけにもいかなくなる。理由は分からないが、史美が返事をしていないという事にホッとした胸の痛みだった。 
「仕事の事もあるとは思うけど。時期は別として、返事くらいはしてくれてもいいんじゃないかなと思ってさ。」
 秀輝の横で俊一は寂しそうに笑った。
「あいつに、それとなく聞いてみましょうか?」
 秀輝の申し出を聞いた俊一は、動きを止めて考え込む。そして、思い直して秀輝に向き直った。
「いや、いいよ。僕らの問題だから・・・。」
 それから秀輝と俊一の間に会話は続かなかった。気まずい時間が断続的に続き、いたたまれなくなった2人は居酒屋を後にした。肉体的な疲れよりも、精神的な疲れを存分に味わった時間だった。
 
※                ※                 ※ 

 同じ頃、横浜で眞江は沙帆と2人で食事をしていた。
 それは沙帆からの突然の電話だった。何の前振りもなく、いきなり眞江と食事がしたいと言ってきたのだ。
 眞江が選んだのはカジュアルに釜焼きピザやパスタが食べられ、ワインやサングリアなども美味しいイタリアンの店だった。
「沙帆ちゃんも結構飲めるのね。」
「そんな事ないよ。日本酒とか焼酎はダメだもん。」
 他愛もない会話の最中に、店員がチーズフォンデュを運んで来る。
「わぁ、来た来た!これね、美味しいんだよ。篠塚が教えてくれたんだ。」
 店員がチーズフォンデュを食べる時の注意点を説明する。待ち切れなかった眞江は、店員が厨房へ戻ると直ぐに鉄串を手に取って食べだした。
「うん、美味い!」 
「ねぇ、桐原さん。」
 勢いよく頬張っている眞江と違い、沙帆は取り分けた料理に手を付けていなかった。
「あなた達って、この間みたいにあんな風にしょっちゅう集まるの?」
「バーベキューのこと?」
「うん。」
「バーベキューは、たまにしかやらないかな・・・。よく飲みには行くけど。」
「仲良いんだね。」
 沙帆は相変わらず取り分けられたピザにも手を付けず、パケットの上のパンも一つも手にしていない。
「沙帆ちゃんと篠塚って、前の小学校の時に一緒だったんでしょ。」
「うん、団地でも隣同士だったの。」
 眞江から当時の話を振られた途端、沙帆の声のトーンが高くなった。
「沙帆ちゃんと一緒の時も、篠塚ってガキ大将みたいな感じだったの?」
「う~ん、そんなガキ大将って感じでもなかったけど。ただ運動も出来て、ケンカも強くて・・・。」
「喧嘩っ早いのは昔からなのね。」
「でも小さい頃、そういう男の子に憧れたことない?」
「まぁね。」
「アタシ・・・。ヒデ君のお嫁さんになるって、よく言ってたんだ。」
 沙帆は照れもせず、はっきりした口調で言っていた。
「そうなの?凄く積極的ね。」 
「だって同じ団地の女の子は皆、ヒデ君のことが好きだったのよ。ライバルだらけなんだから、最初に名乗り出たモン勝ちでしょ。」
「随分モテたのね、篠塚は・・・。」
 眞江が飲み干したサングリアのグラスを店員に渡し、“ 同じものを ”と注文する。
 沙帆は手つかずのピザを見つめ、当時を思い返している。
「ヒデ君が転校していった時は、一晩中泣いたんだ・・・。」
「沙帆ちゃん、もしかして・・・。」
 眞江がそう言うと、沙帆は向き直ってキッパリと言った。
「うん。今でもヒデ君が好きよ。」
「・・・そ、そう。」
 沙帆の真っ直ぐな視線に眞江はたじろいでしまう。
「桐原さん。聞いてもいい?」
「ヒデ君って、今まで彼女とかいなかったの?」
「あの人。そういう事は殆ど言わないから、詳しい事は知らないけど。何人か付き合った人はいたみたいだよ。」
「そうだよね。」
「でもね。付き合ってた彼女、皆に言われたんだって。あなたは、私の事を好きじゃないんでしょって・・・。」
「どういうこと?」
 秀輝が史美を想うが故になった事を知りながら、沙帆はワザと知らぬ振りをして見せた。
「さぁ・・・。」
 眞江も、それが史美の事を想っているからだと言えなかった。