麗らかな春の日、桜の花びらがまるで絨毯のように敷き詰められた道を、児童に囲まれながら女性教師が歩いてくる。色白で線の細い華奢な体つきが弱々しさを感じるが、内に秘める芯の強さを眩いばかりに輝く二重瞼の大きな目が物語っていた。 
 赤子のような小さく丸い鼻も、少女のような可憐さを残していて可愛い。
「先生、お早うございまーす。」
 高学年の男子生徒が、道路に落ちている桜の花びらを巻き上げながら、女性教師=田原(たはら)史美(ふみ)の横を駆け抜けていく。
 史美が勤める私立聖応小学校(わたくしりつせいおうしょうがっこう)は、横浜市内でも高学歴かつ高収入の父兄が多く、エスカレーター式に高校まで進学出来る学校だ。
 教員生活も2年が過ぎ25歳になる今年、漸くクラスの担任を受け持つことになった。新卒でクラス担任を任される場合もあるらしいが、史美の赴任している私立はそうはならなかった。父兄にとっては経験があり、信頼のおける教師が望ましいのである。
 理由は他にもあった。教員1年目にある事件が起こり、学校と父兄の間で騒動になっていたのだ。史美自身が原因ではないが副担任として関わりがあり、学校側が父兄への配慮として担任を持たせることに慎重だったのである。
 ほとぼりが冷めたと判断された史美は、クラス担任を持つ許可を学校長からもらった。学年は1年生を任されることとなった。
 桜舞い散る中、指定のランドセルを背負い生徒たちが歩いている。史美の横を愛らしく手を振りながら、受け持ちクラスの生徒が駆け抜けていく。
「田原先生!おはようございます!」
「おはようございま~す。」
 数日前まで親に付き添われ、学校に通っていた1年生も一人で通学している。小学生といっても一年生は、まだ幼児の域を出ていない。制服もサイズが大きめなのか、袖に手が隠れてしまっている。
 2人の生徒が史美に近寄って手を握ってくる。
「田原先生~。」
 幼稚園でも2人仲良く通っていたのであろう、歩く歩幅もタイミングが見事に揃っている。
「おはよう!」
 小学1年生といっても、3月に幼稚園や保育園を卒園したばかりである。まだ、小学校を幼稚園や保育園の延長としか思っていないかも知れない。1年生の生徒たちにとって史美は、差し当たり幼稚園や保育園の先生といったところである。
“ 可愛い。”
 この年頃の仕草は、何をやってもこの言葉しか出てこない。
「田原先生、一緒に行こう!」
 史美は生徒たちに手を引かれ、一緒に校門に入っていった。

※                ※                ※
                
 職員室の戸が開いて、教師たちがいそいそと受け持ちクラスへと向かう。
 始業時間を知らせるチャイムが鳴る中、職員室から出てくる史美たちを見て慌てて階段を駆け上がっていく児童も数名いる。
「コラッ、遅刻だぞ!」
 学年主任の教師が、駆け上がっていく高学年の児童にハッパをかける。教室の前の廊下では、まだ生徒たちが駆けずり回っていた。史美は出席簿を抱え廊下ではしゃいでいる生徒たちに声をかけた。
「チャイム鳴っているよ。教室に入りなさい。」
 学校に慣れていない1年生は、史美の言葉に素直に応じ教室へと入っていく。史美は促されて教室に入る生徒と一緒に教室に入って行く。1年生の生徒たちは、一点の曇りもない清らかな目で教壇に立つ史美を見ている。
「はい、みんな席についてますか~。」
 児童たちが一斉に自席に座り始める。
 起立の掛け声を日直当番の生徒が声を出す。
「せんせ~い、おはようございます。」
「おはようございます。」
「着席!」
 史美は出席簿を広げ、クラスの児童たちの名前を次々に読み上げる。児童たちのはつらつとした可愛い声が、窓をすり抜けていく風と共に教室から廊下へと流れていった。

※                ※                ※

 4月とはいえ6時を過ぎれば、陽が落ち始め気温も肌寒い。学校敷地内には、生徒たちの姿は当然ない。職員室では史美が、明日の授業に向けて準備をしていた。机の片隅には史美と、幼馴染たちが写っている写真が飾られていた。
 写真の幼馴染は、史美を中心に右隣が篠塚(しのづか)秀輝(ひでき)、左隣に加藤(かとう)和明(かずあき)、後方左に古谷(ふるや)(たける)、尊の隣に桐原(きりはら)眞江(さなえ)が笑顔で写っている。
 5人は小学校からの幼馴染である。付き合いは、小学校卒業以来13年になる。高校は学力の違いもあり、互いに違う学校へと進学したが付き合いは継続していた。
 和明は端正な顔立ちでマスクもよく、幼い頃から女の子にモテていた。一見遊び人に見える風貌だが、4人の中では一番堅実な考えを持ち真面目な男だ。
 眞江は所謂(いわゆる)優等生タイプの女の子で勉強もよく出来て成績優秀、史美たちが住む地域の学校では偏差値の高い高校へ進学していた。真面目で大人しく見えるが、芯は強く物事をハッキリ言えるところがあり史美は眞江を昔から頼りにしていた。
 尊は和明や秀輝に比べると口数も少なく、物腰も静かで目立つような男ではないが常に冷静沈着な男だ。ここぞという時には、周囲を(うな)らせる的確な意見を出してくる。
 最後に秀輝だが、とにかく短気で喧嘩っ早く口が悪い。口より先に手が飛んでくるというのは日常茶飯事で、和明などは何度秀輝の餌食になったことか。ガサツで単純を絵にかいたような男だが、自分の事より他人の事を優先させる情に厚い一面もあった。史美は実家が秀輝の実家と近かった事もあり、4人の中では秀輝と一番接する機会が多かった。秀輝は5人の仲間を良くも悪くも統率するリーダーでもあった。暇を見つけては史美達に召集をかけ、行きつけのバーで酒を飲んでいた。
「よし!」
 翌日の授業の準備や事務処理などを終えた史美は、大きく背伸びをしてストレッチをする。
 周囲の雰囲気を気にしながら、携帯電話のLINEのチェックをしている。“ 俊ちゃん ”と表示されているIDを開いてメッセージを確認する。
 史美には、付き合って3年になる3歳年上の佐古(さこ)俊一(しゅんいち)という恋人がいた。大手商社に勤める俊一は、海外出張が多くアメリカと日本を行ったり来たりの生活だった。正式なプロポーズはされていないが、俊一とは何れ結婚するのだろうと頭の片隅でなんとなく思っていた。
 LINEのメッセージには、ホテルから見える夜景をバックに自撮りしている俊一の画像が添付されていた。
「彼氏に電話?」
 史美の後ろを同僚教師が茶化して通り過ぎる。 
 残業をしている他の教師たちを気にしながら、史美は電話を掛けにこっそりと職員室を出て行く。
 廊下の壁にもたれて、これから約束のある相手に電話を掛ける。
「あ、篠塚?・・・アタシ。ねぇ、桜木町駅の改札7時でいいんだよね。」
 電話の相手は秀輝だった。
「ん?うん。わかってる。じゃあ、後でね。」
 史美は携帯電話をポケットにしまって職員室に戻っていった。
 教頭の池本(いけもと)義春(よしはる)が、入って来た史美を横目で見ている。池本の視線を気にかけながら、史美はそそくさと机の上を片付け職員室から出て行った。

※                ※                ※

 桜木町。みなとみらい21地区が整備され、異国情緒漂う街も未来都市へと変貌を遂げつつあった。数十年前は倉庫だった場所も、今ではお洒落な商業施設に変わっている。
 街のイルミネーションが、帰宅途中のサラリーマンやOLたちを華やかに映し出す。桜木町駅の改札口前には、様々な人間たちが恋人や家族、友人たちを待っていた。しかし、殆どの人間がスマホの画面に気を取られ、出てくる乗客たちに気付かない。
 そんな様子を尻目に、史美は通り過ぎていく人々に目を走らせ、間もなく到着する秀輝を探していた。
 秀輝は人混みの中を、かき分けるように改札を出てくる。身長の高い秀輝は、人混みの中にいても頭一つ分出ているので見つけやすい。
「オッス!ごめん、待ったか?」
「ううん、大丈夫。」
 史美は秀輝がしているネクタイをいぶかしげに見る。
「何、そのネクタイ?」
「いいだろ?」
「えっ・・・。」
 何がいいのか、理解に苦しむ史美は首をかしげている。
「ハードボイルドだから、俺。」
 この言葉に何度となく呆れている史美であった。
 ハードボイルドとは感傷や恐怖などの感情に流されず、冷酷非情で精神的・肉体的に強靭な人間の性格を言うらしい。秀輝の口癖が耳に残った史美は、ウィキペディアで調べたのだ。情に厚く涙脆い秀輝は、ハードボイルドというより浪花節タイプの人間だ。
 オシャレにしても、ハードボイルドとは程遠い。紺のスーツに同系色のシャツ、そして強調するように訴えかけてくる派手な模様の入ったネクタイ。秀輝本人は、それを本気で良いと思っている。モデルかイケメンの俳優がやれば、オシャレに見えるかも知れないが・・・。
 秀輝が着ると、ただのチンピラファッションである。
「聞き飽きたね。」
「何だよ。」
「映画や小説の主人公だか何だか知らないけど、似合っていると思っているの?」
「俺以上に似合っている奴がどこにいんだよ。」
「どこから出てくるの、その自信・・・。」
「ハードボイルドだからな。」
「アンタさ、そんなんだから彼女出来ないんだよ。」
「出来ないんじゃないの!作らねーの!」
“ 作らない ”という言葉に史美は閉口してしまう。
「ほら、俺に彼女出来たら世界中の女が悲しむだろ?」
“ 世界中の女が悲しむ ”
 この聞き飽きたフレーズは、もてない男に限って使う言葉だ。 
 モテない男というものは、そもそも自分を分かっていない。秀輝は、まさにその典型であると史美は思った。
「馬鹿じゃない!誰がこんなオッサン。・・・少しはさぁ・・・面倒クサッ。もう、や~めた。」
 この問答を何年やってきたか、史美は途中まで言いかけるが馬鹿馬鹿しくなってやめる。
「ねぇ、お腹減った!」
「よし!じゃ、肉でも食いに行くか。肉!」
「うん!」
 史美は秀輝を引っ張るように、桜木町の繁華街へと歩き出して行った。

※                ※                ※

 大岡川に架かる都橋周辺には、数々の居酒屋やバーが軒を連ねている。大岡川に沿うように建っている二階建ての建物/都橋商店街は、バーや居酒屋が(ひし)めき合うように入っていた。
 その中に“ 華 ”という店があり、秀輝はそこの常連客だった。史美と秀輝は酒を飲みながら店のママと談笑していた。
 店内は6~7人程座れば満員になるこぢんまりとした店内である。
 居酒屋のママ・宮島(みやじま)(はな)がグラスを2人に渡す。
「あ、すみません。」
 史美は常連の秀輝とは違い、遠慮がちにグラスを受け取る。
「へぇ~。小学校からの幼馴染ねぇ・・・。」
 華は2人の顔を見比べながらしみじみと言う。
「俺が6年生のとき、転校してきたから・・・13年か。」
「もう、そんなに経つんだぁ・・・。」
 史美は、秀輝の横顔を見ながら転校してきた頃を思い出していた。転校生らしくなく最初からクラスで大きな顔をしていた秀輝であった。当時から秀輝は、体も大きく腕っ節もなかなかであった。典型的なガキ大将である。
 2人は席が隣同士になることも多かった。
“ ケシ貸せ!”
 “ 消しゴムを貸せ ”という意味を込めて史美に伝えるのだが理解できない史美は、秀輝に何度もその意味を訊ねていた。
“ ケシって言ったら消しゴムに決まってんだろ!”と言われ、その都度頭を小突かれていた。
「2人とも、ずっと一緒だったの?」
 華は煙草に火を点けながら2人を交互に見る。
「ずっと一緒っていうか・・・。気がつくと側にいたって感じ・・・だよね?」
「家も近所だったしな。」
 秀輝は一人暮らしをしているが、実家は史美の住むマンションの隣の棟だった。
「今の時代、なかなかそういうのって続かないから珍しいんじゃない。」
「男と男の友情ってやつですよ。」
 減らず口を叩く秀輝の後頭部を、史美は平手ではたく。まるで漫才コンビのような二人のやり取りに、華は思わず吹き出してしまう。
「アタシは女です!」
「女?」
「はい!」
「女なんてママさんの他にどこに《《いん》》だよ?」
「ここにいんじゃん!可愛い女が・・・。」
「どこ?」
「ここです!」
「どこ?」
「ここ!」
「ど・こ・か・な?」
 秀輝が、わざとらしく店内を見渡す。
「バーカ!付き合ってられない。」
 秀輝の冗談は際限がない。付き合えばいつまででも続いて終わりがないのだ。いつも史美の方から相手にするのを止める。
 華は2人の様子を窺い、何か分かったように数回頷いた。
「なるほどね。」
 勝ち誇るように秀輝はウィスキーを一気に飲み干す。やり込めたと思い込んでいる秀輝の横顔に、史美はしかめっ面をしてやり返した。

※                ※                
   
 春を感じさせない冷たい風が草木を揺らしている。巻き上げられた桜の花びらの中を、史美と秀輝を乗せたタクシー走って来る。タクシーは史美の住むマンションの前に停まった。史美と秀輝が、ほろ酔い気分でタクシーを降りてくる。
「あぁ、もうお腹いっぱい!」
「よく食ったな、お前。」
 史美は小柄で痩せているが、同年代の女性に比べ、よく食べる方であった。酒を飲んだ後には、必ずラーメンを食べるのが日常である。
「だって美味しかったんだもん。最後のラーメンもまた美味しかった。」
「あのラーメンは、メニューにないものだからな。ママさん手製の特別ラーメンだぞ。」
「ホント美味しかった!」
 華が作るラーメンは常連客の間で、かなり人気がありそれだけを食べに来る客もいるのだ。
史美は満足そうな顔を秀輝に向ける。
「彼女いないくせに、いっぱい知ってるね。そういうお店。」
「彼女いねぇとか関係ねぇだろ。」
「宝の持ち腐れです。」
「うるせぇ!」
 秀輝は、なかなかのグルメで美味しい店を、ジャンルを問わずよく知っている。
「アンタが彼女出来るまで、アタシが有効に活用してあげますから・・・。」
「バ~カ!」
 秀輝は史美の額を指で弾く。
 小突かれた史美は、秀輝に無邪気な笑顔を見せる。
「へへへっ・・・。」
 史美の携帯電話の呼び出し音が鳴る。
「あ、俊ちゃんだ!ちょっとゴメンね。」
 携帯電話を取り出して秀輝から少し離れて話し始める。
「えっ?明後日帰ってくるの?・・・うん、迎えに行こうか。」
 携帯電話で会話中の史美の側で、秀輝は手持ち無沙汰そうに立っている。史美の恋人である俊一とは、もう何度も会ったことがある。史美は恋人のいない秀輝を憐れんでか、俊一とのデートに秀輝を連れて行くことも屡々(しばしば)あった。俊一は、のこのこ付いてくる秀輝に嫌な顔一つ見せず笑顔で接していた。背が高くスッキリした顔の二枚目だが、気取ったところがなく馴染みやすい人柄の男だった。
「じゃあね、おやすみ~。」
久し振りに俊一の声を聞いた史美は、上機嫌になって鼻歌を口ずさんでいる。一瞬忘れていた秀輝の存在に気付き、慌てて携帯電話をバックにしまう。
「あ、ごめん。」
「いいよ、いいよ。それより、佐古さんからか?」
「うん。俊ちゃん、明後日帰ってくるって。」
「よかったな。」
「うん。」
 嬉しそうな史美の顔を見て、秀輝も微笑む。
「じゃあ、帰るわ。」
「うん、じゃあね、気をつけて帰んなよ・・・。」
「おう、お前も早く寝ろよ。」
「うん。」
 史美は手を振りながらエレベータロビーに歩いていく。3階のフロアに史美が姿を見せるまで、秀輝は部屋を下から見ていた。エレベーターから降りてきた史美が下にいる秀輝に手を振る。
「おやすみーっ。」
「おやすみ。」
 史美は手を大きく振りながら、ドアを開けて部屋に入っていった。
 マンション廊下側にある史美の部屋の灯りが点いた。秀輝は暫く史美の部屋を見つめていた。ザワザワと吹く夜風は、道路に舞い落ちた桜の花びらを一気に巻き上げていた。

※                ※                

 日が暮れて人気が無くなった校舎は、それだけでオカルトチックで身が縮み上がる。児童たちの熱気が冷めた校舎は、静まり返っていて大人でも気持ちのいいものではない。教師たちのいる職員室だけが、その中で煌々と明かりが灯っていた。
 新しい学期が始まり、教員たちは忙しさを増す。新しい出席簿、新しい連絡網、新しい教務ファイル、新しい学年便り、新しい学級通信、家庭訪問の計画という具合にやる事が目白押しだ。史美は凝り固まった体をほぐすように背伸びをする。目をつむると、昨夜に秀輝とスナックで食べたラーメンの味が脳裏に浮かんでくる。
“ 美味しかったなぁ・・・。”
 ラーメンの味を思い出しながら一人その余韻に浸っている。史美のそんな様子を、同僚教師が怪訝な顔をして後ろを通り過ぎて行く。
 夢見心地だった史美を、携帯電話の振動が現実へと引き戻す。史美は職員室を出て、廊下の壁にもたれて携帯電話に出る。
「アタシ、どうしたの?」
 電話の相手は、秀輝だった。
「今日、ホワイトデーでみんな集まるの?うん、行く行く。何時?」
「田原先生~。」
 史美を呼ぶ声が職員室から聞こえて来る。
「ごめん、電話切るね。後で、また連絡するから。」
 この時間、これ見よがしに用を言いつけるのは教頭に決まっている。
 史美は大きな溜め息をついて再び職員室に戻って行った。

※                ※                

 横浜駅西口から路地を抜けた飲み屋街に、史美たちの行きつけのバー「ホワイトデー」がある。周りをビジネスホテルやブティックホテルに囲まれているためか、賑やかな区域とは違い人通りも疎らだ。   
 防音設備が整っていても、ドアを開ければ店内からの音が漏れて周囲に響き渡ってしまう。
 店の隅で秀輝と仲間の和明、そして尊がテーブルを囲んで酒を飲んでいる。携帯電話で史美と話を終えた眞江は、秀輝たちのテーブルに戻ってくる。
「ねぇ、田原怒ってたよ。電話に出ろってさ。」
 秀輝は眞江に言われて、慌てて携帯電話をチェックする。史美から数秒おきに、10回ほど着信があった。
「やべ~。」
「アンタいっつもそうなのよね。何のための携帯なのよ。」
「そんなことより、アイツ何時頃になるって言ってた?」
「今日は残業でこっちに来れないって。」
 眞江の言葉に秀輝はガックリと肩を落としている。
「仕事なんだから・・・。」
 隣に座っている眞江は、秀輝の肩に手を置いて慰めた。
「つまんなそうな顔するなよ。」
 史美が来られなくなって寂しいだけで、つまらないとは思っていない。秀輝は眉間にしわを寄せて和明を睨んだ。
「この間も田原と会っていたんだろ?」
「あぁ・・・。」
 和明と尊はサインでも送るように、一瞬お互いに目を合わせた。
「何だ、悪いか?」
 角のある秀輝の言い方に、和明は呆れた様子で秀輝を睨む。
「悪いなんて一言も言ってねーだろ。」
「じゃあ、何だよ?」
 和明を見る秀輝の目が険しさを増していく。
「何だよって別に・・・。」
「俺が田原と会ってちゃいけないのか?」
「そんなこと言ってないだろ~。」
「奥歯に物が挟まったような言い方するからだろ・・・。」
 吐き捨てるような言い方に、和明の顔色が一瞬で変わる。
 尊が和明の肩を掴んでなだめる。こういう時、秀輝に何か言葉をかけると逆効果になるのは10年来の付き合いで分かっている。
 和明は尊の静止も聞かずに秀輝に言う。
「俺はな・・・。ずっと心配してんだよ。」
 秀輝は和明の言葉に困ったように俯いた。
「そうだよ。和明だけじゃない、アタシたちだって・・・。」
 眞江は秀輝を見つめながら言う。
「田原に彼氏が出来るたびに、アタシ達はいっつもアンタの事を心配しているの。」
 秀輝は俯いたまま何も話さない。
「このまま田原が、今の彼氏と結婚しちゃってもいいの?」
 4人は言葉に出してはいけないキーワードを言ってしまったかのように押し黙ってしまう。賑やかな店内の中で、4人が囲むテーブルだけが異質な空間を作り出していた。
 秀輝は、小学校6年生の時に史美たちのクラスに転校してきた。ガキ大将を絵に描いたような秀輝は、クラスにも直ぐ馴染んでいた。史美への思いは、その頃からであった。
 高校時代に一度、想いを伝えたことはあった。しかし、彼氏がいた史美は秀輝の気持ちには応えられなかった。それから史美のことを忘れようと別の女性と交際したが、何れも長くは続かなかった。
“ 振ったのは私じゃない。あなたの方だから・・・。”
“ あなた、私の事を好きじゃないでしょ?”
 付き合う女性に必ずこの言葉を浴びせられるのだ。最初は彼女たちの言葉の意味が分からなかった。だが、ある時気付いたのだ。何を見ても、どんなことをしていても、史美を基準にしてしまっていた。
“ この景色、アイツに見せてやりたかった。”
“ この場面、アイツならきっと大泣きして見てる。”
 自分の隣にいる史美の姿が、秀輝の脳に映し出されているのだ。そんなこと思ってどうすると、何度も自分を諫める言葉が頭の中を駆け巡る。未練がましくて情けないと、嫌気が差してしまう日々を繰り返していた。
「ねぇ、どうするの?」
 黙ったまま俯いている秀輝に眞江が詰め寄る。
「そ、その時は・・・。 “ おめでとう ”って、言うに決まってんだろ。」
 秀輝が長い沈黙を破って呟いた。
「何言ってんだよ。」
 和明は気持ちを抑えている秀輝が痛々しくて堪らなくなる。
「なぁ・・・もう十分じゃないか。」
 胸が詰まる思いに耐えられなくなった和明が、秀輝の想いを終わらせようと身を乗り出す。
「田原のこと、まだ諦められないのか?」
「諦める?諦めるってどういうことだよ。」
「あ・・・ごめん。」
 和明は秀輝に対する禁句を、再び言ってしまったことに後悔した。
「俺は田原と付き合いたいとか、そういうんじゃねんだよ。」
 眞江は秀輝の膝に手を置いて、“わかってるよ”と宥める。
「俺はな・・・ただ。」
「・・・ただ?」
「俺はあいつが、いつも笑顔でいてくれれば、それでいいんだ。」
「何だそれ?・・・自分の幸せは?お前、本当にそれでいいのか?」
 秀輝は本当にそれで良いかも知れない。しかし、それでは周りにいる自分たちが納得出来ないし堪らない。
「そんなもん、・・・考えたことねーよ。」
 史美のことを思う秀輝の顔は、穏やかな優しい顔に変わっている。そんな秀輝の顔を見た3人は、いつも言葉を失ってしまう。
 携帯電話の呼び出し音が鳴り秀輝は店の外へ出て行く。
「悪い、ちょっと・・・。」
 出て行った秀輝を確認して、眞江は和明と尊に向き直る。
「ねぇ、このままでいいの?」
 和明も尊も眞江の気持ちは分かっていた。ここ数年3人は、秀輝の史美に対する想いに触れないようにしてきた。だが、それももう限界なのだ。
「良くないけど、下手に俺たちが気を回したらアイツ怒るぜ。」
 尊は言いながら、持っていたグラスの酒を一気に飲み干した。
「じゃあ、このまま何もしないの?」
「何が出来るんだよ、どうしようもないだろ。」
 和明は眞江に突っかかるような物言いをする。
「そんなことないよ!」
「田原に篠塚の気持ち伝えろっていうのか?そんなことをしたら二人が辛くなるだけだろ!」
「だって、可哀想じゃない。篠塚が・・・。」
 どうにも出来ない状況に、項垂れる眞江と和明、そして尊だった。
藤原(ふじわらの)実方(さねかた)の歌だね。まるで・・・。」
 マスターの牧野(まきの)浩二(こうじ)が横から口を挟んできた。
 突然会話に入ってきた牧野に驚いて、眞江も和明も尊も我に返る。
「ごめん。こいつ運んで来た時、聞こえちゃったもんで・・・。」
「別にマスターだったらいいですよ。」
 和明は、牧野からグラスを受け取りながら答える。
「ま、聞かなくても篠塚君が、史美ちゃんを好きなのは傍から見ていてもわかるけどね。」
「ねぇ、それよりマスター。その何とかの歌って何?」
 牧野がポツリと言ったことが気になった眞江は、袖口を引っ張って訊ねる。
「あぁ、実方ね・・・。」
「サネカタ?」
 聞きなれない言葉に3人は眉間にしわを寄せる。
「言うに言えない恋心を歌った百人一首の中のひとつ。知らないの?かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを・・・って言うんけど。」
 和明たちは揃って首を横に振る。
「悲しい歌なんだよね・・・。」
「マスター、意味は?」
「あなたが好きだけど告白することは出来きません。でも伊吹山のさしも草のように、僕の想いは燃えています。しかし僕がこんなにも思っているなんて、あなたは知らないでしょうね・・・って意味・・・。あ~あ、切ないねぇ。」
 牧野は大きく溜息をついて、和明たちと一緒になってふさぎ込む。
 重く沈んだ和明たちのテーブルとは逆に、店内では客たちの賑やかな声が響き渡っていた。

※                ※               

 その頃秀輝は、バー「ホワイトデー」の店の前で花村(はなむら)沙帆(さほ)と携帯電話で話をしていた。沙帆は、秀輝が転校する前に在籍していた小学校の同級生である。
 以前父親の勤めていた会社の家族寮に住んでいた頃、隣に住んでいたのが沙帆だった。何もかもミニサイズで、昔から秀輝の周りをちょこまかと走り回っていた。
「あ、沙帆ちゃん?こんばんは!」
― ヒデ君?今、大丈夫?―
 アニメの声優のようなキーの高い声が聞こえて来る。
「あぁ、いいよ。」
― 明後日、仕事帰りに会わない?―
「ごめん、その日は地元の友達と会う日なんだ。」
― じゃあ、土日のどっちかで遊ぼうか。―
「土日は仕事が入っているから・・・ちょっと。」
― じゃあ、来週仕事終わったら会おうよ。観たい映画があるの。―
「うん。」
― いい?―
「うん。」
― 良かった。じゃ、おやすみ。―
「おやすみ。」
 電話を切った後、携帯電話に保存してある写真を呼び出す。呼び出された画像は無邪気に笑う史美の顔が映し出されていた。

※                ※                

 和明たちを店に残し、秀輝は家路についていた。いつもなら深夜まで飲み続ける秀輝だが、今日はそんな気分にならなかった。
“ アイツ、まだやっているのか。”
 携帯で史美のLINEを見る。仕事が忙しいのかメッセージが既読になっていない。
 秀輝は自分のアパートへ向かう道を引き返し、史美のマンションへ向っていた。小高い丘の上にあるマンションは、心臓破りの百段階段を登らねばならない。
 高校時代に、この階段を登り切ったところで史美とよくお喋りをしていた。あれから、もう7年も経っている。途中息切れしながらも、秀輝は百段階段を登り切った。
“ タバコ、減らそうかな・・・。”
 百段階段から見下ろす景色は、昼間と深夜では全く違う。眼下の道路を行き交う車も少なく、照明灯の明かりが闇の中で際立ち幻想的に見える。下から吹き上げる風も、気持ちを爽快にしてくれる。
 階段の百段目で暫く佇んでいると、坂の下からタクシーが登って来る。タクシーのライトが、秀輝の姿をスポットライトのように照らす。タクシーは秀輝の真横に停まり、中から史美がびっくりしたような表情で降りてくる。
「何してんの?」
「なんだ、お前か?」
「なんだはないでしょう・・・。」
“ お前のことが心配で・・・。” と言いたいところだが、そんなストーカー染みたことなど言える筈もなく。
「ちょっと実家に忘れ物があってさ・・・。」
「フーン・・・。」
「仕事か・・・。」
「うん、終わんないから持って帰ってきちゃった。」
「テストの採点ぐらい手伝ってやろうか。」
「出来るの?足し算だよ。」
「お前、舐めてんのか?」
 予想通りの反応に史美は大うけしている。
 からかっただけなのに、まだ秀輝はムキになって怒っている。
「そんなにおもろいか?。」
「ゴメン、ゴメン。大丈夫だよ。」
 謝りながらも史美は、秀輝の顔を見るたびに吹き出している。相手にするのも馬鹿らしくなった秀輝は、アパートへ戻ろうと歩き出した。
「いつまで笑ってんだよ、バーカ。じゃあな。早く寝ろよ。」
「うん。アンタもね。」
 何とも締まりのないやり取りだったが、一日の終わりに史美の笑顔を見られた秀輝は誰よりも幸せな気分になっていた。

※                ※                

 日本大通りの道は、休日ともなれば中華街へ向かう観光客で賑わっている。道路脇に植えられている銀杏の新緑も美しく風にそよいでいる。
史美と俊一は行き交う人並みの中を、肩を並べて歩いていた。
「俺に会えなくて寂しかったろ?」
 仕事で海外に出張していた俊一は、史美と会うのは3週間ぶりであった。
「別に!その間、篠塚と遊んでたから・・・。」
 茶目っ気のある史美の笑顔が、俊一には堪らなく愛しい。
「また史美の暇つぶしに、篠塚君を付き合わせたのか?可哀想だよ、篠塚君が。」
「いいの、いいの!彼女いるわけじゃないんだから・・・。そんな俊ちゃんが気に病む必要ないの。」
「史美がそうやって誘うから篠塚君、彼女作る暇がないんじゃないのか?」
「そんなことないですよ~だ。」
 ペロッと舌を出しておどける史美に、俊一は苦笑いを浮かべる。弾むように歩いて行く2人は、そのまま町の雑踏に消えていった。

※                ※                

 夜の山下公園のベンチに肩を並べて史美と俊一は座っていた。
 夜ともなれば恋人たちが集い、潮風に吹かれながら互いの未来を描き、夢を語り合っている。停泊中の豪華客船の光が、美しく夜景とマッチして恋人たちを演出している。打ち寄せる波の音は、心地よいBGMにもなっていた。
「やっぱり日本が一番いいなぁ・・・。」
 俊一が夜景を見て、しみじみと感慨深く呟く。
「女の子も日本が一番でしょ?」
 返事の代わりに俊一は史美の頭を抱き寄せる。
「ずっと会いたかった。」
「うん。」
 史美の温もりを感じようと俊一は強く抱き締める。
「史美。」
「何?」
 抱き締められながら、史美は俊一の胸の中で返事をした。籠った声が俊一の耳に届いたかどうかは分からない。
「ちょっと話したい事があるんだ。」
「何?改まって・・・。」
一呼吸して俊一は史美を見つめ直した。
「結婚・・・、してくれないか?」
「えっ・・・。」
 予想していた出来事なのに、プロポーズというものは戸惑ってしまう。
「ごめん、いきなりこんな事・・・。」
「ううん。」
「前からずっと考えていたんだ。ちゃんとプロポーズしようって・・・。」
「俊ちゃん・・・。」
「史美と結婚したい。」
 3年も付き合っていれば結婚という次のステップへ進んでいくのだろうと、何となく分かってはいた。俊一と結婚すればきっと幸せになれる。今日のような場面を、ずっと待ち望んでいたはずだった。しかし、いざプロポーズされると即答することが出来なかった。
 驚き戸惑っているような様子の史美を察したかのように俊一は肩を落として俯いた。
「ごめん。史美もそりゃ、色々あるよな。」
「そんなことないよ・・・。」
「ま、俺も仕事でなかなか休みも取れなかったし、こうして会うのだってやっとだから・・・。だから、今すぐってわけじゃないんだ。考えておいてくれないか?考えが落ち着いたら、返事を聞かせてくれ。」
 史美は頷くだけで声が何故か出なかった。
「待ってるから・・・。」
「明日から、また会議会議で大変なんでしょ。そろそろ帰らないと?」
「そうだな・・・帰ろうか。」 
 史美と俊一は、ベンチから立ち上がって歩き出した。流れてくる潮風や聞き慣れている波の音が、急によそよそしく感じて史美は足を止めた。
「どうした?」
 心配そうな顔で覗き込む俊一に返事も返さず、史美は振り返って夜の海を見つめた。暗い海に夜景の灯りが反射し、ユラユラと幻想的な景色が広がっている。
「史美、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ごめんね。」
「さ、行こう。」
史美は俊一に促されるままに山下公園を後にした。