いつものように風無の屋敷に入らせてもらう。

「すみません。届けていただいて」

「今回は緊急の連絡だったので。これくらい構いませんよ。普段から通っていますし」

 長く廊下を渡りながら、大川さんと雑談をする。

 やがて、暦さんの部屋の前に着くと、沈下した緊急が蘇ってきた。

 何故だか、大川さんはノックもせず扉に手をかけた。

 驚いて反射的に開けることを阻む。

「何故こんな…」

 大川さんは内緒話をするような小さな声で、「お嬢様が怒ったら、(わたくし)の所為にしてください」とだけ言ってから改めて開閉する。

 閉める前に僕を部屋に押し込める。扉の向こうからは遠くなっていく足音が聞こえた。

 部屋の中は寂寞としていた。視覚できる範囲に彼女はいない。だが、ベッドからゴソゴソという人がいる気配がする。

 ベッドは天蓋付きで、完全にカーテンに覆われて外界と遮断された空間を作っていた。

 ベッド脇まで歩くと、「何でここにいるの?」という暦さんの声が中から聞こえた。

「大川さんが通してくれた」

「じいやのバカ」

 彼女はベッドに籠ったまま不平不満を言う。

 いつまでたっても出てこない暦さんは、やはり僕と顔を合わせたくないのだろう。

 プリントを置いてこのまま帰ることにした。

「学校のプリント、テーブルの上に置いたから。じゃあね。暦さん」

 立ち去ろうとしたが、布団を蹴飛ばした音に反応して振り返る。続いてカーテンが開かれ、彼女は跳び上がり僕に抱き着いた。

 飛躍の勢いが強く僕らは後ろに倒れ込んだ。床は柔らかいカーペットが敷かれていて、僕だけが少し腰を打ち付ける程度で済んだ。彼女に怪我がなくて安心する。

 上半身を起こして、彼女に説教を垂れる。

「ベッドから飛び跳ねたら危ないよ。しかも人に飛びついて。暦さんの怪我がなくて良かったけど「呼び捨て…」

 彼女は言葉を遮り、「この前、呼び捨てで呼んでくれた?」と上目で僕の顔を覘きこんだ。

 不安げに震える瞳は、肯定することを余儀なくさせる。

 羞恥心を忘れ頷きと、彼女は頬を膨らませた。

「じゃあ何で、今はさん付けなの?」

 大川さんへの不満を漏らしたときより、鬱屈としていた。

「あれは、その、勢いで」

 告白自体は覚えていなさそうだから、言葉を濁して誤魔化す。

「勢いって?やっぱりあのとき、私に何か言ったの?」

 だが、煙に巻こうとしたことが不愉快で、追及された。

「別に大したことじゃ…」

「言ってよ!大事なことなら!」

 これほどまでに感情を高ぶらせ食い下がる彼女を見たことがない。

「聞きたい。思い出したい。記憶に残したい。歩くんが私に言った、伝えた、言葉を…」

 紡がれた言葉は徐々に威力をなくし、最後には弱々しく途切れていった。

 海でも直面したが、彼女は自分が物事を忘れてしまうことを疎ましく思っている。僕はまだその事実を軽視していた。思い悩むどころか、疲弊する姿に心砕く。

 同時に言い知れぬ喜びを感じている。彼女は忘れても、僕が伝えた言葉を大事にしていることに。

 今、彼女を追い詰めている僕が欣喜するのはお門違いだが、一方通過だと思っていた恋慕に薄日が差す。

 彼女の求めているものに答えたい。彼女に改めて思いの丈を伝え記憶に残してほしい。ないまぜの感情に押されていく。

 居住まいを正し、彼女と向き合う。

「僕は君のことが…」

 好きと発する前に、突如扉が開けられた。

「お嬢様。お茶をお持ちしました」

 犯人は七瀬さんだった。彼女は僕らの間に割り込み、あからさまに僕と暦さんとの距離を離す。

「喜録様。お嬢様と仲がよろしいようですが、行動は慎んでください」

 またしてもあからさまな敵意を向けられ、僕を睨みながら部屋から出た。

「「…」」

 沈黙が流れる。それを破ったのは暦さんの方だった。

「何の話をしてたんだっけ?」

 詳細は憶えていないが、気恥ずかしい出来事があったという認識をしているのだろう。僕同様に彼女の顔も赤くなっている。

「大したことじゃないよ」

 さっき七瀬さんが来たタイミングを察するに、この部屋にも監視カメラが設置されている。彼女の安全確認のためだと思うが、行動を監視されるのは息苦しい。

 見られていることに嫌気がさして帰ることにした。

「用事思い出したから帰るよ」

 帰る旨を伝えると、寂しげな視線を向けられる。

 その眼差しに、心落とされる。先ほど叶わなかった再度の告白は流石にできないが、せめて彼女が渇望していた言葉を放つ。

「『暦』。また明日」

 呼び捨てをして、彼女は目を見張った。だが、直ぐに暦らしい、晴れやかな笑みを浮かべた。

 まだ、暦への恋慕伝えるべきではないだろう。だけど、この感情を前向きになってもいいかと思えてきた。

「また明日」

 僕には彼女は眩しすぎる存在だが、近づく努力をしていく決心が固まりつつあった。