昨日聞いた、悲し気なピアノの演奏がずっと頭に流れ一睡もできなかった。

 告白を考える余裕もなく、ただ暦さんの様子が知りたくて龍也が迎えに来るより先に彼女の家に来た。

「喜録様。ようこそおいでくださいました」

 早く来たにも拘わらず、大川さんは快く出迎えてくれた。

 だが、屋敷に通されると彼女の部屋ではなく、お客様の接待をするような部屋に通された。

「君も座ってくれないか?」

 そして、テーブルを隔てて迎え側には暦さんのお父さんが座っている。僕も椅子に座ると、大川さんや他の使用人の人たちは部屋から出ていき2人きりの状態になった。

 初めてこの屋敷に来たときもこの人と2人きりされたことを思い出していると、「最近の娘の様子はどうな感じなのかい?」と尋ねられた。

「暦さんの様子ですか?」

 雅史さんの言葉を反芻しながら、普段の彼女の様子を頭に浮かべる。

「最近と言うより、暦さんは普段から明るくて、並大抵のことは気にしない大らかな感じです」

 浮かべた彼女の姿を順々に紡いでいく。

「だけど…」

 すらすらと浮かんだ明朗とした姿に靄がかかる。靄の間から垣間見えた彼女はうっすらと影を抱えて危うげな印象を受ける。はっきりとしない中、唯一確認できるのは頭の中に流れるピアノの音色。寂しく悲しい曲は彼女が表に出さない感情の表れのように思えてくる。

「だけど、内心では辛い思いを溜め込んでいるときもあるんじゃないでしょうか」

 ピアノのことだけではない。自分の記憶障害が原因で周りへの迷惑を気にしたり、物事を覚えられないことを嘆いている。

 表に出さない感情を時折見ると、切なくなってくる。

 悲壮から吐露した言葉に雅史さんは、「やはりか」と思い詰めた顔をする。ため息を吐き、僕が抑鬱にさせたようで罪悪感に迫られる。

「すみません。娘さんが辛い思いをしていると勝手に思われたら、不愉快ですよね」

 彼女から直接辛いと言われたことはない。確証はあるが、はっきり本人の口から言われてはいないことを父親に言うべきではなかった。

「いや。寧ろあの子の本心を知りたかったから」

 だが、雅史さんはこの答えを求めていたらしく、悲しげな笑みを見せる。

 そのタイミングで、七瀬さんがお茶のおかわりを持ってきた。

「ありがとうございます」

「七瀬くん。すまないね」

「仕事ですので」

 彼女はなぜか、僕だけではなく雅史さんにも素っ気ない態度を取る。使用人が屋敷の主人にこんな態度を取って良いのだろうか?

 七瀬さんが出ていくと、少しだけ肩の力が抜け深く息をついてしまった。

「緊張しただろう。すまないね」

 目の前に人がいるのにはしたなかった。

「いえ。こちらこそすみません」

「元々七瀬くんは、弥生(やよい)…私の妻の実家で使えていた使用人でね。妻がこちらへ嫁いで来るときに、付いてきたんだ。だから、妻や妻に似ている娘に近づく人には警戒心が強い人なんだよ。昔、妻や娘に厳しくし過ぎた私も含めてね」

 奥さんや暦さんに厳しくしていたということを疑問に思った。普段の暦さんの生活態度に目を瞑っている。今は甘やかしているようにすら思えるのに。

「歩くん。これから話すことは他愛のない、おっさんの独り言だと思ってくれ」

 雅史さんはかつての自分の行いを厳かに語り出した。