あれから、暦さんが戻ってきても目すら合わせられず、僕は一足先に家に帰った。

 次の日になっても胸の内がモヤモヤして、行くかどうか考えあぐねる。

 だが、予想していたが龍也が迎えに来て、強制的に暦さんの家に連れてこられた。

「さあ、諸君。是非とも勉強教えてください」

 迎えに来たときから、龍也のテンションが変だ。無理やり場の空気を明るくしようと努めている。

「あ、暦ちゃんは歩の隣ね」

 テーブルの向かい側に座ろうとしていた彼女を、僕の隣にやった。

「こうやって、2人並んで座っているとお似合いだな」

 今度は龍也が向かい側に座り冷やかしてくる。僕が告白する気になるように焚きつけている。

「仲良しだってことかな?」

 龍也の行動をいまいち理解できていない彼女は深い意味はなく、友達という認識でそう言っているのだろう。

 わかってはいるが、至近距離からそんな言葉をかけられると顔が熱くなる。

 熱を冷まそうと出されたアイスティーを必死に飲んでいると、「なーんか。集中切れたー」と龍也が呟いた。

 今回は長く持った方だ。龍也が勉強を閑却するのは、集中力が続かないことも要因している。

 ここら辺で1度、息抜きさせた方が賢明だな。でも、龍也の家と違って漫画もゲームなどの息抜きする道具がない。

 どうしたものかと部屋を見回すと、ピアノに目が止まった。

 この部屋にはピアノが置いてある。昨日、暦さんはピアノの椅子に座っていたが、弾けるのだろうか?

 意識が龍也から逸れる、いつの間にか暦さんのことを考えていた。

 それに気づいたのか龍也は「ねぇねぇ、暦ちゃん。あのピアノ弾ける?」と暦さんに尋ね出した。

「弾けるよ」

「息抜きに何か弾いてよ」

「うん。いいよー」

「おい」

 彼女の迷惑も考えず勝手に頼んだ龍也を誡めるが、「いいから。いいから」といなされた。

「どうせ。暦ちゃんの障害のことを気にして、彼女のことをあんまり聞かないようにしたんだろ。それじゃあダメだろ。恋愛はガンガンいかなきゃ。相手のことを知ったら、自分のことを知ってもらう努力をしたら、少しは好いてくれるかもよ」

 小声で話していたし、暦さんはピアノの弾く準備に目がいって、こちらの話は耳に入っていなさそうだ。でも、万が一聞こえたときのことを考えて不安でハラハラした。

 暦さんは椅子に座り込み、一息つくと表情が変わった。

 いつもの温和な雰囲気が霞み、楚々とした表情を見せる。

 弾いた曲はテンポが良く、気力が満ちてくるようだった。ピアノに詳しくないので確信はないが、音楽の授業でモーツァルトの曲だと習った気がする。

 奏でられる音楽に耳を澄ませると、沈み気味だった気持ちが沸き立ってくる。

 曲が終わり、暦さんは顔を上げる。

「どうして、歩くんと竜弥くんが私の部屋にいるの?」

 さっきまでの慎ましさは消え、いつものぼんやりとした可愛らしい彼女に戻った。

 その移り変わりがおかしくて、少し笑ってしまう。

「遊びに来たんだよ。それにしても暦ちゃん、ピアノうまいね」

 代わりに答えた龍也は彼女のピアノの腕前を褒めた。

 素人の僕たちでも彼女の演奏は一級品ということがわかるほどの腕前だ。

「私のピアノ聞いてくれたの。ありがとう」

 龍也の素直な感想にお礼を述べると、「歩くんは聞いてくれた?」と聞いてきた。

 尋ねられるとは思っていなくて、「うん、まあ。良かったんじゃない」と素っ気ない返事をしてしまった。

「もっと素直に褒められないのかよ」

 自分でも不甲斐なく思う。これでは率直に褒めた龍也の好感度が上がって、逆に僕が下がってしまった。

 論点をずらそうと、「さっき演奏した曲ってなに?」と聞いてみた。

 暦さんは演奏した曲がなんだったのか忘れたみたいで、少しの間思い出そうと考え込む。

「えっとね…モーツァルトの『2台のピアノのためのソナタ』っていう曲。でね…」

 再び考え込みながら、龍也の方に視線を向ける。先ほど、彼女を褒めた龍也を思い出して、僕の中で焦りが生まれる。

「あっ、そうそう。集中力が高まる曲なの。竜弥くん、集中力悪そうだから、選んだんだ」

 龍也を見つめていたのは、選曲した理由を思い出そうとしただけだったようでホッとする。そして、暦さんは龍也の集中力の悪さを完全に覚えてしまった。

 悪い印象で記憶されたことを知り、龍也はしばらく愕然とする。