僕らは砂浜でビーチバレーを始めた。ビーチバレーと言っても、3人と奇数だから2組に分けられず、広いスペースも確保できなかった。だから、ただ打ち合うだけのものだ。

「ほい」

「はい」

「えい」

 声をかけ合いながら打ち合いを続ける。しかし、次に暦さんが打ったとき、ボールがあらぬ方向へ行った。

 かなり遠くに飛んでいくのでそのままスルーして最初からやり直せばいいのに、龍也は転がるようにボールへ駆け寄った。ボールは着地ギリギリで打たれ、僕の方へ来た。ボールは頭上と打ちづらい角度だったため、またあらぬ方向へ飛ぶ。だが、その度に龍也がボールを絶妙なタイミングで打ち上げ、ラリーは続いた。3人だけでやっていた打ち合うは30分も続いた。

「ふぅー。楽しかったー」

 龍也は地面に落ちて砂塗れのボールを払いながら、息をつく。

 だが、直ぐに「次は泳ごうぜ」と声を上げる。

「一旦、休んだ方がいいよ。ずっと日に当たって、水も飲んでないんだ。このままだと日射病になる」

「へーき。へーき」

 僕の忠告を聞かず、龍也は海へと目指そうとする。

 お前が平気でも、僕たちはそうじゃないんだ。暦さんは女子だし、僕は勉強ばかりお前ほどの体力はない。こっちは30分のラリーで息が切れている。それに、龍也だって連続的に動き続けたら、いくら体力があって保たない。

 引き止めるが、龍也は「だったら、俺1人で泳いでいるよ。せっかくだし、歩は暦ちゃんと『2人仲良く』おしゃべりしたら」

 龍也は『2人仲良く』ってところを強調する。

 僕がその言葉に動揺した隙に、「じゃー、先に海を満喫してるからー」と逃げられた。

 龍也のやつ。後で体調悪くしても知らないからな。

 もう龍也は放っておいて暦さんを見ていようと、彼女が立っていた場所へ視線を向ける。

 だが、そこには暦さんの姿がなかった。

 焦燥しながら、辺りを回す。彼女はぼーと海と海の方へ歩いていた。

 足首が波打ち際に浸かったところで、彼女を引き止める。

「海入る前に、少し休もう。今泳ぐと絶対バテるから」

 彼女の腕を引いて、自分の不注意を悔悛する。

 これじゃあ、龍也のことをとやかく言えないな。気付くのがあと少し遅かったら、見つからなかったかもしれない。

 レジャーシートまで連れて行き、座るよう促す。僕も隣に座る。

「…」

 気まずいな…

 夏休み中は会っていなかった。海へ行く計画を立てるときは龍也もいた。休み前の放課後や休憩時間は、生徒会が多忙で時間がなかった。

 彼女を名前呼びするようになってから、2人きりになるのは初めだ。

 滑舌の良い人なら、女性と2人きりのとき何て話しかけるのだろう?そもそも、以前だったらどんな会話をしていたっけ?

「海、綺麗だね」

 沈黙を破ったのは意識の中心にいた暦さんだった。

「あー、うん。そうだね」

 纏まていない言葉は格好がつかなくて、情けない。

 体裁を保とうと、「海好き?」なんて問いかけた。

「それなりに好きかな」

「そう」

「でも、また忘れちゃうんだよね」

 遠くの海を見つめながら、憂いた目をする。

「今日、ここに来た理由も忘れちゃった。歩くんの他にもう1人いたことは覚えてるけど、誰だったかわからないや」

 暦さんは自嘲的な笑みを浮かべたが、「なんってね。せっかく海きたし、入ろうよ」と今度は僕が腕を引かれた。

 僕は些か彼女が思い悩んでいる様子がないことを疑問に思っていた。そもそも、親がお金持ちのお嬢さまで記憶障害者という、2つの大きなものを抱え込んでいる人間が柔和な性格となったのかなぞだ。しかし一瞬、彼女が自分の障害で多くの物事を忘れてしまうことに苦悩している姿が垣間見えた。

 やっぱり、辛くないわけがないんだ。性格上、それが表に見えないだけで、内心は痛哭している。

「ごめん」

 今、彼女が苦悶しているのは自分の発言が発端だ。しかも、僕は彼女の前でしゃべる言葉を配慮せずにいた。これまでにも知らずに傷つけていたかもしれない。

 しかし、彼女は「何を謝っているの?」と問いかけた。

 その表情にはさっきの自己憐憫さはなく、いつもの屈託のない笑顔があった。

 いつものように『海が好き』と質問した物事自体を忘れてしまったのだろう。

 僕は暦さんからたくさんのものをもらっている。一緒に勉強をして、家の書庫を使わせてもらい、誰かを愛する感情を教えてくれた。いつか、感謝を伝えたい。

 だが、謝ったことが伝わっていないという事実に、お礼すらも伝わらないことを突きつけられた。

 記憶障害を1番辛く感じているのは本人たちなのに、僕まで悲しくなってくる。

 今更だ。こんなことは何度かあったのに、気づくのが遅い。

 僕は暦さんに何もしてあげられない無力な自分を恥じる。

「波打ち際って気持ちいいね」

 2人ともいつの間にか、足首が海に浸かっていた。暦さんは波打つ海水を気持ち良さげに堪能している。

 でも、僕は波が行き交う反動で砂に沈む足首ごと、自分の気持ちの沈んでいく感覚に陥っていた。

「この波の音。覚えていたいなー」

 彼女が自ずと呟いた言葉に僕は小さいときの出来事を思い出した。

 まだ幼稚園に通っていた頃、父親と探した波の音の思い出。

「貝殻探さない?」

 もう勢いだけでしゃべっている。あのとき、自分が探した波の音を。今でも残っている波の音の思い出を。彼女にも残してあげたい。

 彼女は突然大声を出した僕に驚いていたが、少しすると破顔して頷いた。