「ふたりで何話してたのー?」

 鈴の転がるような声が、暗闇に光を照らす。その瞬間、奥深くへと引き込まれそうになっていた僕の視界はパッと明るくなった。

「あー、進路の話だよ。お前らは決めてんの?」

 小さく安堵の息を吐き出した僕は、そっと顔をあげる。そこにはボウと咲果がふたりで話す姿があった。ほっとする自分に、思わず苦笑いしてしまいそうになる。気付かないうちに、ずいぶんと彼女に救われているのかもしれない。

 僕が彼女に歌を通して謝ってから、僕らはほぼ毎日のように夜の川沿いの公園で時間を過ごすようになった。不思議なことに雨の夜は一度もない。咲果が僕に歌ってと言ったのはあの一度だけで、それ以降は僕がギターを弾いて咲果が歌うということが続いている。
 観客は咲果が〝マル〟と名付けたまんまるの猫だけ。それでも以前と異なるのは、ただ演奏するだけでなく、ふたりで曲を作り始めたということだ。僕がメロディを考えて、ふたりで歌詞を綴る。それはまるで、自分で小説や漫画を書いたことはないけれど、ひとつの物語を作ることと似ているんじゃないかと僕は思った。

「主人公はどんな子にする?」
「心に傷を負っているかもしれないよね。自分の過去に後悔しているとか」
「それでね、一度は落ちるとこまで落ちちゃうんだけど、ある出来事で光を見つけるの」
「ねえ、季節は夏がいいなぁ。夏ってすごく、前向きになれるパワーがあったりするじゃない?」
「ねえねえ、お祭りのシーンもいいんじゃないかな? あの雰囲気、わたし大好きなんだよね。たこ焼き、わたあめ、金魚すくい! そういう言葉全部入れて!」
「初恋の歌、作ってほしいなぁ! 流れ星と初恋っていうタイトルとかどう?」

 咲果はこんな感じでいろんな場面やアイデアを出してくれて、僕がそれを歌詞に落とし込む。メロディに綺麗に乗る言葉がどれか、同じ意味でもどちらの響きが雰囲気にぴったりくるか、僕たちはふたりで話しながら曲を作る。
 お互いに翌晩までに新たなアイデアや歌詞のサンプルみたいなものを書いてきたりしているからか着々と作業は進み、一週間ちょっとで僕たちはすでに二曲も完成させていた。

 曲を作る人たちが、どんな方法でそれを生み出しているかを僕は知らない。それでも僕たちは僕たちなりの方法で、ただひたすらに楽しいことを追求するかのように音楽で遊んでいたのだ。少なくともその間、過去の自分が出てくるようなことはなかった。

 そんな僕と咲果だけど、お互いに進路の話題を出したことは一度もない。黒板を背にしてボウとやりとりをしている咲果にちらりと目をやるも、そこから彼女の心境を読み取ることはエスパーでもない僕には不可能だった。

「ちなみにさぁ……倉田はどこ狙ってんの?」
「都内私立」

 いつの間にか現れていた倉田にさりげなく探りを入れるボウ。咲果はそんなふたりを微笑ましく見守っている。そこで、彼女が僕の視線に気付いた。

「いっくんも、やっぱり東京?」

 彼女は、僕がまだ東京に未練があると思っているのかもしれない。
 こちらへ来た当初は、何もないこの場所が好きになれなかった。退屈で空っぽな場所だとそう思っていた。だけど本当は、自分自身が空っぽだったからそう感じていただけだったのだと、今ならばわかる。

「いや、特に場所がどうっていうのはないかな。咲果はどうすんの?」

 その証拠に、投げやりな気持ちは以前と比べるとだいぶ薄くなってきている。どうでもいい、なんでもいい、というのは今の僕には当てはまらないと客観的に見ても思う。だからといって、何かやりたいことがあるとか、将来どうなりたいという情熱のようなものはない。きっとこのまま適当な大学に進んで、適当に受かった企業で働くサラリーマンにでもなるのだろう。

 ずっとこれまで、サッカー選手になることだけを夢見てきた。万が一選手になれなくても、サッカーのコーチだとかトレーナーだとかクラブチームのスタッフだとか、サッカーに関わる仕事に必ず就くのだとそう思い込んできた。ところがいざ怪我をしてみれば、選手以外でサッカーに関わる意思など自分にはなかったと気付いてしまったのだ。

 流れるように、流れていく。そこに身を任せるくらいしか、夢を失った僕にできることはない。

「わたしは……」

 普段、咲果は物事をすぱっと言う方だ。思ったことが口から飛び出るタイプ、と言ってもいいかもしれない。だけどたまに、こんな風にずいぶんと長い不思議な沈黙を作るときがある。そしてその後は、だいたいへらっと誤魔化すように笑う。

「先のことなんて、考えられないや」

 やっぱり咲果は今日も笑った。だけどその笑顔は、いつものそれとは少し違う。きっと彼女の本心から発された言葉なのだろうと僕は思った。それと同時に小さく胸を撫で下ろす。自分だけじゃない、彼女だってまだ先のことはわからないのだ。

 高校二年生。クラスメイトのほとんどが、明確な進路が決まってはいないものの進学を希望している。春が来れば受験生と呼ばれる立場になるのは避けようのない事実だ。だけど実際の受験は、まだ一年も先。今から将来のことを焦って考える必要はない。

「だよな、まだまだ時間はあるし」

 カタチだけの志望校のアンケート。僕はそれを乱雑に鞄に押し込んだ。その行動を後悔することになるとは、思いもしなかったけれど。