自分の人生の中に〝転校〟というワードが関係する日が来るなんて、想像もしていなかった。僕らが住んでいたマンションは両親が結婚して少し経った頃に購入したマイホームだったし、父親の仕事は東京にしか会社がないため転勤とは無縁。母親は吉祥寺の街がとにかく好きで、あの場所に住んでいること自体をステイタスだと思っている節があった。だからこそ、引っ越しをする理由など僕たち家族にはひとつもないはずだったのだ。

 それがどういうことだろうか。こんなにも不便な田舎町で、僕らは新生活をスタートすることになった。住み慣れた家も、通い慣れた商店街も、慣れ親しんだ交友関係も手放して、山に囲まれた自然だけが豊かなこの場所へやってきたのだ。
 その一連の流れの中で、僕の意見が採用されることは一度もなかった。ある夜突然、「来週末に引っ越す」と親から告げられ、有無を言わさぬ状態で空っぽの自宅を後にした。

 高校生って、本当に不便だ。年齢としては一人暮らしをすることも可能だろうが、貯金もなく、自立しているような友人もいないただの高校生の僕には、不機嫌な顔をしつつも両親についていくことしか選択肢はなかったのだ。



 コンコン、と職員室のドアをノックする。転校初日、色々と渡すものがあるから放課後に来るように担任から言われていたのだ。ゆっくりと引き戸を開けても、教師たちはそれぞれの机に向き合っていて誰も顔を上げたりしない。
 担任はどこだっけ。っていうか、担任の顔もはっきりと覚えていないんだけど。

「あら、誰先生に用事? クラスと名前は?」

 ドアの前を通りかかった女性教師にそう聞かれ、僕はボソボソと自分の名前を口にした。ところが、小さくて聞こえなかったのか「え?」とその教師は首を傾げる。その声で気付いたのだろう。ドアのすぐそばにいた男性教師が顔をあげてこちらを振り向いた。

「おー転校生。お前、声ちっさいなぁ」

 担任は、ゆるそうな男性教師だ。こちらは呼ばれたから来ているのであって、ドアを開けたところで大声で名乗る必要性はどこにあるのか。大体、自分の名前を堂々とアピールしながら職員室に報告に行くような嬉々とする出来事が、この学校生活にあるとは思えない。
 なんて言えば、理屈っぽいだとか言われるのは目に見えているので、「はぁ、すんません」と適当に返しておいた。

「どうだ? 初日は」
「はぁ、まあそれなりに」
「覇気もないなぁ」
「はあ」
「まあクラスはみんな気のいいやつらばかりだから、すぐに慣れるだろ」

 そうか、担任は僕の「別に」発言を知らないのだ。
 残念ながらあなたのクラスではすでに、転校生が孤立してますよ。みんな仲良し二年二組、なんていうのを目指しているのかもしれないですけど、まあ無理ですね。とは言えないので曖昧に返事を濁し、書類だけ受け取って職員室を後にした。ちなみにここでは退出の際にも大声で「失礼しました!」と言わなければならないらしい。

 僕はもちろん言わずに出てきた。咎められたら、転校生だから知りませんでしたってことで免除してもらえばいい。



 帰り道、耳につっこんだイヤホンの音量を最大まで引き上げて、やつあたりするようにペダルを漕いだ。グングンと前へ進む車輪と、それを越す勢いで僕の横を走り抜ける車たち。
 転校初日、とりあえずは無事に一日を終えられた。おせっかいなクラスメイトたちを遠ざけることができたし、今日は「別に」と「初対面でお前呼びされる筋合いはないけど」という二言以外は発さずに済んだ。
 ちなみに自己紹介も黒板に黙って〝朔田(さくた)(いつき)〟とだけ書き、一礼して終えた。そもそもその時点で、話しかけないでほしいんだろうなと察してくれても良さそうなものだ。

 下り坂の多い家までの道を、朝の記憶を辿りながら自転車を走らせる。しかし記憶力なんていい加減なものだ。どう考えても朝は通らなかった田んぼ道を、僕は走っていた。

「だから田舎は嫌なんだよ」

 自分の記憶力を棚に上げ、僕はあぜ道に悪態を投げる。と、斜め前で軽トラックが溝にはまっているのが見えた。おじいさんが運転席でアクセルを踏んでいるようだが、左後ろのタイヤがギュルルルルと泥を跳ね上げながら空回りするだけ。こういう光景も、田舎では日常茶飯事なのだろうか。周囲に散らばる泥を一瞥した僕は、そのまま軽トラックの脇を通過する。

 ──きっとこういった状況も慣れているだろうし。別に僕が何かしなくたって、あのおじいさんがどうにかするだろうし。いくら田舎の老人でも携帯くらいは持ってるよな。いざとなればそれで助けを呼ぶことだってできるだろうし。

「……ああ、くそっ」

 二十メートルほど自転車を走らせた僕はそこでキキッと急ブレーキを踏み、ぐりんと自転車のハンドルを百八十度回転させた。

 たった一日しか足を通していない制服のズボンと真新しいスニーカーをどろどろに汚し、予定時刻よりもかなり遅れて帰宅した僕のことを、母親が鬼の形相で出迎えたのは言うまでもない。