翳踏み【完】


耳元に囁かれて、言葉を失った。そのまま顔をあげさせられて、楽間くんの真剣そうな瞳と、視線がぶつかった。まるでキスをする少し前の顔みたいに真剣だから、少しも動けなくなった。

真っ直ぐに絡む視線の先で、楽間くんがふっと笑う。まるで可笑しなものを見たような笑顔だった。


「お前が聞いたって言う罰ゲームの話、あれ、勘違いだから。まあ、見てれば分かる」

「楽間、そいつから手ぇ離せ」


まるで地を這うような低い声だった。驚いたのは、その声を出しているのが、先輩だと直感したからだ。振り向くこともできずに楽間くんの胸にまた顔をぶつけて、後方からコンクリートを軽快に踏みつける音が迫っているのを聞いた。

楽間くんは何も言わずに笑っている気配がしていた。先輩がとても怒っているらしいのに、彼は挑発でもするかのようだ。


「いやだって言ったら何なんすか」


馬鹿にするように笑った楽間くんが私を抱きしめる手を強めた。その手で私の腰を軽く撫でた時、恐ろしく強い力で腕を引かれた。声をあげる間もなく何かに捕われて、私の意識とは関係なく、体が持ち上がる。

強く引かれるから、勝手に右足と左足が動いて、あ、と声を発した時には後ろに頬をおさえる格好をしている楽間くんがいた。目が合うと、笑われて、意味が解らぬままに遠ざかって行く。

私の手を強く握りしめているのは、良く知った匂いだ。

恐る恐る顔をあげて、その先に怖いくらいに冷たい目をした先輩がいた。