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「葵、葵……葵?」


少しずつ大きく聞こえてきた須和の声に、葵はハッとする。

「柾さん」

「どうした? 包丁持ったままぼんやりして」

須和はキッチンに立つ葵の後ろに回ると、腕を回してそっと包丁を抜き取った。

「ごめんなさい。色々考え事をしてたから」

「考え事……? もしかしてシンガポール(・・・・・)のこと?」

「ううん、違う」

シンガポール出店の返事はまだしていない。
以前葵が「一応保留にしたい」と須和に言うと、
少し寂しそうに笑って「そう伝えておくね」と言った。

葵が力なく笑うと、須和は後ろからギュッと優しく包み込んだ。

「また葵、一人で抱え込もうとしてる。何かあったんでしょ。僕に話して、ね、お願い」

「ん……っ」

須和は葵の首筋に顔を埋め、甘えるような仕草をしてくる。

「柾さん」

まただ、と葵は思う。

(柾さんと離れたくない。こんなに好きなのに)

本当は分かっている。自分は和菓子を頑張りたいのだ。一人前になりたい。
柾さんと釣り合いたい。

そして『天馬堂』をこのまま終わらせたくない。それは、母がどうとか、父がどうとかではなく。
自分自身が天馬堂が好きだったから。

(何もない私には、本当はあのシンガポールの出店しか残されていない)

初めから分かり切ったことだった。

けれど、離れたくないのだ。
この男からーー。