「アロニー!」
「アドニス……」
「アードー……アロニス!」
「ふは! もうアロニスで良いわ。リアンリアン」
「リアリア! だーめ!」
「はは! じゃあリアンもちゃんと呼べよ。ほら、言ってみろ。アードーニース」
「アードーニー……ス!」
「お! 上手いぞ、もう一回」
「アードーニー……ス!」

どうだと自慢げな表情で両手を差し伸べられて、アドニスは自然にリアンを抱き上げる。
小さなリアンが可愛くて仕様がない。

「チーター! こいいの!」
「ん? チタがなんだ?」
「こい……の!」

厩舎の方を指差して、アドニスの服を引っ張る。

「チタの所に行きたいのか?」
「はい!」

もうこのまま騎士なんて辞めてしまって、チタのことは、初めて出会った場所か、この地の森か、いずれにしても元にいた世界に戻してやろうと考えている。

あんまり会うとその決意が揺らぎそうで、なるべくチタの居る厩舎には近寄らないようにしていた。

「リアン……厩舎には……」
「チータ……アロニーこい……いの!」

びしびし首を叩かれて、リアンの言葉はきちんと汲めなかったが気持ちは充分に通じた。

「分かった分かった……チタと会えばいいんだな?」
「……はい!」



厩舎の奥、隅の方でチタは丸くなって目を閉じていた。

怪我は順調に回復しているが、毒抜きがなかなか進まない。
そもそも対翼竜用に作られた毒だ。
人と比べるとその分解の速度はゆっくりと這い進むようだった。

「……チータ」
「リアンあんまり近付くな」

チタは進んで人を近付けたがらない。
慣れている筈のアドニスの家族ですら、機嫌の悪い時には唸り声をあげて遠避けようとする。

もし虫の居所が悪ければ、小さなリアンならひと飲みにされてしまいそうだ。

リアンはひとつも怖がる様子もなく、チタに手を伸ばす。

ぐいぐいと突っ張ってアドニスの腕から下に飛び降りると、隙間からするっと柵の内側に入り込んだ。

「おい、危ないぞリアン!」
「いーの!」
「良いって、おい」

ぴたぴたと鼻先を叩くと、チタはゆっくりと目を開けた。

「おい、チタ大人しくしろよ」

手のひらを前に突き出して合図を送ると、チタはぐるると小さく喉の奥で鳴いた。
ひどくゆっくりと瞬きをする。

「チータ……」

おでこをぐりぐりと擦り付けるリアンに、目線だけを寄越して、怠そうに頭を傾けると、同じように擦り付ける仕草をする。

「おぉ……よしよしいいこ」
「リアン、もうこっちにおいで」
「アロニー……」
「なんだ?」
「とぼう」
「……飛ぼう?」
「チータ……とぶの……もっと!」
「……リアン」
「アロニーと」

もう何も言葉が返せない。
溢れてくる涙を止めようと手で覆っても、一向に止められない。
堪えようと引き結んだ口からは、息の塊が飛び出てくる。

「……チータもっととぶの! アロニーも!」

ゆったりとした鳥の声でチタが鳴く。
そうだとリアンの言葉に賛同しているように、アドニスは感じた。

膝から力が抜けて、とうとう踏ん張りが効かず、地面に膝を突いた。

「チタ……まだ飛べるのか……俺を……乗せて」

くるくると返事が聞こえるが、アドニスの目は涙が邪魔をして、しっかりチタの姿を見ることができない。

「チータ……アロニーだぁいすき」
「俺は……お前を、放り出そうとしたのに……」

穴の空いた翼で、諦めて手を離したアドニスを、毒に蝕まれながらも、遠く安全な場所まで運んだ。

顔も上げられず、蹲ったアドニスの頭に、小さな手がぽんぽんと跳ねる。

「おぉ……よしよしいいこ」

泣くなんてあの場では許されなかった。
弱音や愚痴すら言う暇がなかった。

退路は完全に無く、死ねと前に送り出される。

自棄になって、大事にしていた相棒も、自分の命も無責任に手放そうとした。

落ちていった気の良い兵士の父親は大丈夫だろうか。
あのムカつく同期には婚約者がいたのではなかったか。

紛争が収まる日を心から願って、今か今かと帰りを待っているのではないだろうか。

容易く捨てようとした自分の命にも、同じように待っている人たちの想いが乗っているのだと、この時やっとアドニスは気が付いた。

あの場所でそんな生温い考えを持つことは無理だった。

でも今はそれを考えられる。
それが許される場所にいる。
生きている。
アドニスはこの間のリアンに負けない声を上げて泣いた。
その間ずっとリアンはアドニスの頭をよしよしと撫でていた。
チタもゆっくりと小さく鳥の声で鳴いていた。






「おい、さっきまでの勢いはどこに行ったんだ?」

さっと身を翻してリアンを庇うと、アドニスの頭に石の礫が命中した。



アドニスが家の近辺を、萎えた体を元に戻すため、散策がてら歩いていると、うるさく響く声に気が付いた。
何事かとそちらの方に近付くにつれて、行われていることが見えて、首筋の毛が残らず逆立つ。

倍ほど年嵩であろう少年たちが、数人でリアンひとりを囲み、揶揄っては意地悪く笑っていた。

あちこち小突かれて、それでも涙を堪えて耐えているのを見て、アドニスはぐらりと頭を揺すられた気分になる。
怒りを覚える前に、ディディエにはこう見えていたのかと思うと自分が許せない。
あの場でよく殴り殺されなかったのだと、ディディエの強靭な忍耐に感謝したくなるほど、アドニスには衝撃だった。

ゆっくりと息を吸って吐き出し、怒りも焦りも押し殺して、リアンと少年たちの間に割って入る。

散れとひとこと言って、リアンを片腕に抱き上げた。
片方にはリアン。もう片方の腕には添え木が当てられて首から布で吊り下がっている。

両手が塞がっていることと数を頼みに、少年たちは尚リアンを揶揄ってやれと、甘く値踏みした。

口を閉じろと言ったアドニスの忠告を聞かず、汚い言葉を垂れ流す少年たちに、手は出せない代わりに足を出した。

身を沈め、片方を長く前に出し、ぐるりと回転しながら少年たちの足元を薙いで掬う。


その場で転んだ少年たちが近くにある石を掴んで立ち上がる。
もうすでにリアンの方ではなく、アドニスに恨みがましい視線を向けていた。

飛んでくる石の礫をリアンを庇いながら、避けられるものは身を躱した。

アドニスのこめかみから滴る血を見たリアンは、とうとう大きな泣き声を上げた。

それを聞いた少年たちはにわかに挙動がおかしくなる。

飛ぶような速さでディディエがやって来るのは、もうすでにその身を以て知っているらしい。
しきりにあちこちに頭を巡らせている。

遠くから薄っすらと声が聞こえると、少年たちは声が聞こえた反対方向に、一目散に走り出した。

この早い決断と、敗走の時機は見事なのに、何故それ以前にこの状態に陥らないようにしないのか、アドニスは頭を傾げた。

少年たちが逃げたと見るや、リアンは鼻をぐずぐず言わせながら、泣くのをやめようとしている。

「リアン……大きい声が出たな。すごいぞ、家からずいぶん遠いのに、ディディエが来た」

すごいすごいと褒めると、リアンは涙に濡れた頬を持ち上げ、はにかんで笑う。

小さな両手はアドニスの頬を包むように挟んだ。

「アロニー……いたいね」
「このくらい平気だよ」
「アドニス! おい、どうしたんだ、大丈夫か?」
「……大丈夫だ、心配無い」
「血が……」
「すぐ止まる。気にするな」
「……いやいや、なに格好付けてんの?」
「別にそんなんじゃない!」
「ちびっこ軍団にやられたのか」
「あいつら何だよ、性質が悪いな」
「一回びしっと締めとかないと、どんどん酷くなりそうだな」
「表現が物騒だな」
「いやいや、リアンの前だから表現は控え気味だろ」
「……言葉は控えてても、考えは控えてないぞ、ちっとも」
「わぁ! お前に忠告されるとか、びっくり! どの口が言ってんの?」
「……お前 牛乳で忘れたんじゃないのか」
「忘れるかよ! 俺が老衰で大往生する前に孫子の代まで語り継いでやるよ」
「なにその無駄に深い執念……怖いわ」
「それだけリアンがかわいいってことだよ。なー? リアン……お兄ちゃん好き?」
「ディーディーだぁいすき!」
「俺も大好き! こっち来いリアン」

ディディエが喜びを垂れ流しながら両腕を差し出しても、リアンはアドニスから離れようとしなかった。

「何でだリアン! ほら、こっちおいで」
「うぅ……や!」
「リアン……嘘だろ……そんなにアドニスが良いのか」
「アロニーいたいいたいの!」
「おう! だから兄ちゃんが抱っこしてやるって! アドニス大変だろ?」
「いや、俺は別に……」
「おいそこは流れを読んで場を譲れよ!」
「リアン帰ったら一緒に牛乳飲むぞ」
「はい! アロニー……のんのんのん」
「のんのんのん?」
「……たくさん飲めってこと」
「ああ……ありがとうリアン」
「うふふー」
「……リアン俺のこと好き?」
「アロニーだぁいすき!」
「俺も好き」
「いーーや!! いいや、許さんぞ!! 認めん!!」
「……何だよ、そういう立場なのか?」
「親父に報告だ!」
「あ……それはごめんなさい、許してください」
「とーたんだぁいすき!」

リアンの愛らしさに破顔したふたりは、ふわふわと漂う雲の上にいるような心地で家に向かった。




チタが徐々に回復していく中、アドニスは竜狩りの仕事をディディエに付いて手伝う。

流石にディディエと同じように狩りに連れて出てはもらえなかったが、その時はリアンに付きっきりになっていた。

目を離すと何を仕出かすのか気が気でない。

そこに居たと思ったのに、とんでもない方向から現れる。
さっきまで楽しそうに笑っていたはずなのに、急に静かになったと振り返ったら丸くなって寝ている。

なんとも気ままに生きる小動物のようで、見ていて飽きない。

夜には知らないうち、いつの間にか布団に潜り込んでくるところも、仔猫か仔犬のようだった。



何の憂いもなく安らかに眠っている顔を見ながら思い馳せる。

こんな安らぎを根こそぎ奪っていく馬鹿げた争いなんて、この世界から無くなればいい。
せめてこの国から。
それが叶わないなら、この子の周りから。

リアンのような小さな子を、どうすれば泣かさずに済むのか。

煙たい焼け野原ではなく、屋根のある、温かい寝床で、どうすれば誰もが安心して眠れるのか。

自分に何が出来るのか。


きっと立場や経験上、全部を捨てて一から始めるよりは、全てを生かした方がより早く目的地に到着する。

これまでの様に自分の心を押し殺して、気持ちを閉じ込めても、そんなザマでは誰にも手が届かないままだ。

落ちていく人や、飛ぶのを諦めた竜たちをただ見るのはもうたくさんだ。



実家の力を全部使って、中央に紛れ込む。
そこであの時に起こった全容を把握してやる。

先ずはそこから。

この国をより良く変えるなんてことは、王の仕事だ、自分がしゃしゃり出ても邪魔なだけだろう。

大それた望みは最も忌避すべき争いを連れてくる。

とにかく自分の周囲、手の届く範囲のものは何が何でも取り零すことがないように。

自分を強くせねばならない。


アドニスは小さな寝息を立てている、リアンのふわふわと波打った髪の毛を手の中で弄ぶ。


この稚い子を守る力を得るために、少々打たれても折れたりしない頑丈な心と身体が必要だと結論を出した。







まさか数年の後に、この大陸一の魔術師に気に入られ、まさか十年以上経った後に、目の前の小さな女の子を妻にしてしまうなど。


この時のアドニスに、噛み合って動き出した小さな歯車の存在を。

気付けることなんてひとつもなかった。










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どうかこのまま、もう一度。

一話目に戻っていただきまして、一話目だけ。
それも後半だけでいいので、どうぞ。

ふたりの再会のシーンをば。

もう一度読んで頂いければ、たいへんに本望でございます……。




ぜひ。