「……リアン。ここに座りなさい」
「え? 説教?」
「……違う……ほら」

窓辺にある小さな卓をこんこんと叩いて、アドニスは先に席に着いた。


窓の外は濃紺。
それよりも濃い雲がひとすじ、ふたすじと長く伸びていた。
山々の白銀の照り返しと、空を飾るように細かな光の粒が散らばって見えている。


夕食中は勧められても酒は飲まず、その後いつも流れるように始まる、夜の食堂という名の飲み会も素気無く断る。
リアンとアドニスはにやにやした顔に見送られながら部屋に戻っていた。

「……お茶飲む? 淹れようか?」
「……いいから座れ」
「わたしお茶飲みたいなぁ……」
「リアン?」
「やだ!」
「何がだ」
「説教だ!」
「違うって言ってんだろ」

納得いかない不審そうな顔で、リアンはゆっくりと向かい側の空いた席に座った。
アドニスは見届けて満足そうにひとつ頷く。

「よし…………で?」
「で?」
「『終わったら話す』んだったよな?」
「あ……と。あー……っと……アドニスは何が知りたいの?」
「何を悩んでいたんだ」
「う……ん」
「何に迷っていたんだ」
「それ……は」
「俺の所為でお前の……その、なんだ、迷いを変えたのか?」
「別にアドニスのせいとかではなくて」
「なんだ……」
「そんなに悪くないって」
「何がだ」
「ふたつ、あって。選べることがね……」

丸い卓の上に、リアンは自分の両手を乗せる。軽く握った手の中には、ふわりと柔らかいものが入っているように見えた。

「どっちも、良いとこと、悪いとこがあって。それで、どうしようかなってね」
「具体的に言ってみろ」
「それは言っちゃいけないの」
「口止めされてるのか?」
「……『失するを知る者は、少ない方が良い』って」
「失するを知るって……選ばなかった方のことか?」
「うん……無くなった先の話は、あんまり考えない方がいい……っていう話をお館様からたくさん説明されたけど、難しくてよく分からなかった」
「……おう……じゃあ、まあ。失した方はいいわ……お前が選んだのは何だ」
「ああ、えっと」

卓の上にあった片方が自分の首元にいき、リアンは小さな乳白色の珠を掴んだ。

「……こうやって、アドニスとおしゃべりできる方」
「お!……まえ……うん……そうか」
「うん」
「……リアンさんお茶淹れてきてくれる?」
「いいよ」

リアンが席を立って部屋の隅へ向かう後ろ姿を見ながら、アドニスはぐってりと椅子の背凭れに体重を乗せる。
片手で顔をぐいと拭った。
顔も手もからから。汗はひとつも出ていないのに、そうすることで心を落ち着ける。

「お前ほんと、時々……」
「んー? なーにー?」
「ものすごいかわいいな!!」
「うーん……簡単にごまかせて便利だよねぇ」
「……誤魔化されたわ〜」
「でしょう」

ふふんと得意げに笑いながら、リアンはお茶の用意をしている。

自分の中にあった憂いも疑念も、呆気ないほどに消えている。心の中を隅から隅まで見渡して、まあいいかとアドニスはあっさりと探すのをやめた。

今でなくてもいい。
いつか話せる時がくれば、その時に今日の日の話をすればいい。
リアンが選んだのは『こうやっておしゃべりできる方』だったのだから。

立ち上がって少し歩き、部屋の真ん中で両腕を少し広げる。

「リアン!」
「なんだ!」

来いと言うと、呼ばれた犬のように駆けてきて、体当たりでリアンは抱き付いてきた。
ぎゅうと抱きしめて、頭の上に顎を乗せる。

「……おかえり」
「…………ただいま!」

頭の天辺に口付けを落とすと、胸元からえへへと声が上がってくる。

今度は邪魔が入らないようにと願いながら、迷うことなく、今度こそ心のままに従った。

リアンは何とも言えない顔で口元に手を当てた。

「…………むにゅっとした」
「…………情緒……」





薄水色の空には雲が無い。
少し湿り気のある冷たい風が吹いていたが、陽の光は白く輝き、日向は少し暖かい。

リアンは塔の石塀に寄りかかってアドニスに手を振る。

シイと単騎での訓練に励んでいた。
塔を飛び立ち、少し周辺を旋回してまた塔に降り立つことを繰り返す。
アドニスとシイの癖を擦り合わせて間を計るという地道なものだ。

本格的な訓練は鞍と装具が出来上がってからなので、遠乗りはまだおあずけの状態。

リアンの横ではチタが不満そうにぐるると喉を鳴らしている。
空を行く姿を目で追い、尾の先をぴたぴたと石畳に打ち付けていた。

「チタも一緒に行けば良いのに」

首元に抱き付いてぐりぐりとおでこを擦り付けると、いいのと言って同じように口先をぐりぐりと押し付けてきた。


おおいと響くような声が聞こえて、リアンは返事をして階下にある厩舎を覗く。

「ザックさん」
「おうリアン……団長は?」
「シイの訓練中」
「そうか」

高楼まで上がってくると、駆ける我が長を空の中から探しだす。

「おお、なんだありゃ……早えーなぁ」

ザカリーはアドニスと目が合うと、軽く手を上げて戻って来いと合図を送った。

塔に降り立つ、気分上々、上機嫌のアドニスに、ザカリーは苦笑いを返す。

「邪魔して悪いな」
「なぁ、すんげー早いの。見てた?!」
「……うんうん、そうね」
「羨ましいだろう!」
「うわ、なにこいつもう。ウゼぇわぁ」

ザカリーは胸元にしまってあった、くしゃくしゃの紙を取り出して突き出した。
くしゃりとしているのは雑に扱ったからではなく、受け取るまでは動物を模っていたから。

それが魔術で送られてきた手紙だと示している。

ザカリーの芳しくない顔色を見て、アドニスは少し眉をひそめた。
指を引っ掛けて襟巻きを引き下げ、フードを脱ぐ。

「……なんだよ」
「グラスローダ侯がお見えだとよ」
「……来たか……まぁ、来るわな」
「俺ん家でメーヴが相手してる」

メーヴリルはザカリーの妻。麓の町にある屋敷で暮らしている。受け取った手紙には、侯が屋敷にお見えになったこと、騎士団長との面会を求めていることが端的に書かれていた。

「ついでだからこのまま行ってこいよ」
「うーん……だな。そうする」

放るようにして手紙を返すと、アドニスは階下に降りてすぐに鞍を抱えて戻ってきた。

チタに手早く装備し、何の準備もなくそのまま塔を飛び立つ。

ザカリーとリアンは手を振って見送った。

「こう、って誰のこと?」
「……あー。侯爵様だな」
「侯爵様……」
「おう……団長の義理の兄にあたる」
「お兄さま!」
「俺の嫁さんが、団長の姉様と友達で、その旦那がわざわざ来たんだなぁ」
「お姉さま!」
「……初耳って顔してるな」
「初耳」
「おいおい、そういう話してねぇの?」
「してねぇの」
「……しとけよー? 大事だぞー?」
「うーん、そっか。わかった!」
「……軽いな」
「重いの?」
「どうだろうな」
「アドニスに何の用事?」
「……俺に聞かずに団長に聞け? な?」
「はーい」
「……軽いな」




一刻もしないうちにアドニスは砦に戻ってきた。

厩舎で竜たちの世話をしていたリアンを見つけると、素早く歩み寄って、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。

「うわ! 冷たい、アドニス! はなして!」
「やなこったー離すかぁー……」

頭や肩に粉砂糖のように降りかかった粒を、リアンはぱたぱたとはたき落としていく。
擦り合わせて温めてから、手のひらをアドニスの目と眉毛のあたりに押し付けた。

「早かったねぇ、帰ってくるの」
「話すことなんてほとんど無いからな」
「ふーん」

腕の中でもごもご動いて方向を変えて、リアンはその中から出ていこうとする。

「おい、何だよ」
「だってチタを拭いてあげないと」

厩舎の中は外と比べれば暖かいが、濡れたままでいては体から熱がどんどんと奪われていく。放っておくと外皮も痛めやすい。
基本中の基本の世話をしようとしているのに、何だも何も無い。

歩こうとするとそのまま持ち上げられ、足は宙をかく。
じたばた暴れようがアドニスは解放する気は無い。

一向に大人しくなる気配がないリアンを見下ろして、アドニスは口の中で小さく舌打ちをした。

「エド!!」
「はいっ!!」

見て見ぬ振りをしながら気配を消していたつもりのエドウィンは、陰に隠れたような場所でびくりと肩を揺らす。

「……あと頼むぞ」
「了解です!」
「あ! ちょっとアドニス!!」
「うるせぇ」

リアンは肩に担がれるようにして運ばれていきながら、遠く離れていくエドウィンにごめんねと声を張った。

エドウィンは拳を握って前にかざし、頑張っての気持ちを込めて、リアンに深く頷く。


無言で歩くアドニスを振り返り、肩が当たって腹が苦しいし痛いしで、リアンは体勢を変えようと背筋を伸ばした。
両ひじを肩に突いて息を吐く。

「お兄さんと会って来たんでしょ?」
「……そうだな」
「アドニスお姉さんがいたんだねぇ」
「……そうだ」
「何の話だったの?」


部屋に戻り落ち着いてから、リアンはお茶を用意してから窓辺の卓に並べた。
先に座って待っていると、観念したような様子でのろのろとアドニスが向かい側に腰を下ろす。


話は至極簡単だった。
砦の騎士たちがこぞって国の騎士を辞めた件に関して、アドニスの生家まで話が回り、引き留めるよう説得を仰せつかったらしい。


アドニスの実家は国の西よりにあるグラスローダ。

大きな川があり、肥沃で平らな土地が多いので、農耕と牧畜とで成り立っている。実家は広大な領地を誇る主だ。

経営は父に付いてより良く学んだ姉に任せた。そもそも男女の別なく長子が家を継ぐのが、グラスローダの家憲であった。
アドニスは割と早いうちから、騎士として己の身を立てると決めることができた。

似たような家格から婿を取り、姉は数年前に家督を譲られ、領主になった。

アドニスの弟にあたる次男も、学校を出て以来、姉を助けて領地経営に携わっている。

「ほう! 三人姉弟?!」
「や、四人」
「え?」
「もうひとりその下に弟……今は王都で学校に入ってるな」
「へぇ……いくつ?」
「うん? 今年でじゅう……六か?」
「あ! 一緒だ!」
「は?! あ……そうか……そうだな。最後に見た時はまだやっと立てるようになった頃だったから……」

アドニスにはその時の記憶の弟の姿が定着したままだった。

「えぇ? ずっと会ってないの?」
「そうだな……ああ……俺年食ったなぁ」

砦に来るまでは駆け出しの騎士として、終わりかけの紛争にあちこち派遣された。
そしてこの辺境に送られて十年以上。その間にも姉や義兄に会うことは数度あったが、それも王城での夜会で立ち話程度。
縁を切ったつもりも無い。再三顔を見せろと言われていたが、生家はおろか、故郷に立ち寄りもしていない。

「お兄さんは、国の騎士を辞めないでって?」
「まぁ、話はしたって事実を一応は作っとかないとなぁ」
「怒られたんじゃないの?」
「そんな人たちじゃないよ」
「そっか……なら良かった」

引き留めよと王城から話が来たのだとさらりと言って、そんな気はないと返すと、じゃあそう伝えようと軽く頷いた。

この件はこれで終わり。
後はお互いの近況を伝えあうに終始した。
やっと余裕ができた今を機に、一度 故郷に戻ることをアドニスは考え始める。

「リアン……グラスローダ、行ってみる?」
「行ってみる!」
「うん……そうか」
「連れてってくれるの?」
「うん……そうだな、お前が行きたいなら」
「行きたい! アドニスのお家?!」
「おう…………お前どうなんだ?」
「どうって、あ! 体調なら心配しなくて大丈夫だからね!」
「そりゃ安心……じゃなくて」
「なに?」

口を開いて何かを言いかけ、言葉を探して、アドニスの手はひらひらと宙を舞うように動いた。

「お前を何て紹介したらいいんだ」
「『俺の女だ! 触るんじゃねぇ!』って?」
「ぶは!……言い方」
「……普通に友達の妹ですじゃダメなの?」
「友達の妹……」
「新しい部下です、とか」
「おう……それな」

考えてみれば色々リアンの立場を表すことばはあった。
ふむと息を吐いて、アドニスは宙を漂っていた両手を組んで、頭の後ろに回した。




夕食が済んで、本日分の溜まっていた書類を片付けた。

後は眠るだけになった時間で、アドニスは自分の目の前をぽんぽんと叩く。

「リアン、ここに座りなさい」
「……また説教」

寝台に正座してぴしりと背筋を伸ばしている。

「またって何だ、説教じゃないぞ」
「今? もう寝るのに?」
「今だ……明日になる前に話したい」
「やだ!」
「なんだよ」
「やっぱり説教だ!」
「違うつってんだろうが」

座れと叩き方が激しくなったので、リアンは諦めてのろのろとアドニスの対面に、同じ格好で座った。

「仕事の段取りがついたら、グラスローダに行こうと思う。近いうちだ。お前も一緒に連れて行く」
「……うん……はい」
「グラスローダの領主は姉だ。それから両親も健在だ」
「はい……うん?」
「俺の妻になる人だと紹介する」
「…………は?」
「嫌なら紹介の仕方を変えてもいい」
「……アドニス?」
「……どうする?」

リアンは両手で顔を覆うと、そのまま前に伏して、小さな塊になった。

「……耳まで真っ赤だぞ?」
「うるさい!」
「今までみたいに、他の男を遠ざける為じゃない。分かるか?」
「うぅぅぅ…………ん」
「…………まぁいい。出発までゆっくり考えろ」

うずくまったまま、下に埋もれていきそうな頭に口付けを落として、アドニスはさぁ寝るぞと上着を脱いで放り投げ、毛布を引っ張ってその中に滑り入った。

丸まったままのリアンにも丁寧に毛布を掛ける。

「……お前それで寝れるのか?」
「うるさい!」
「寒いから、ほら」
「うーやーだ!!」
「はいはい、いいから」

ぐいぐい身体の向きを変えられて、しばらくは抵抗していたが、諦めたのか急に手足を伸ばした。

そのまま足でアドニスを何度も蹴飛ばす。

「いった! 痛え! なんだよ、やめろこら!」
「アドニスあっちで寝て!」
「なに?!」
「あっちの自分の部屋で寝て!」
「なんでだよ、寒いだろ」
「……じゃあ、わたしがあっちで寝る!」
「いやそういう意味じゃねぇわ。お前が居ないと寒いって言ってんの」
「うーやー!!」
「おーよしよし……ほらな、温いわぁ」
「あっち行って」
「やだね行かないね……なに? 顔真っ赤っかだけど。恥ずかしいの? 今さら?」
「うーるーさーいー!」




ふはと笑い声をあげると、もぎゅもぎゅとリアンを抱きしめて、落ち着いたように息を吐く。



故郷に帰ったらどこに連れて行ってやろうか。

そんなことを考えながらアドニスは目を閉じた。


視界いっぱいに広がる、ゆるくでこぼことした、地の果てまで続く緑の絨毯と、その香りを思い出す。













おまけ

前話より
『リアンのおみやげ』