「おう……それで?」
「……思った通り過ぎて面白くないですね」

見上げているリアンは何のことかときょとんとしているし、その向かい側に座っているコンラッドは、心底つまらなさそうに、これ見よがしにため息を吐いた。

「お前の楽しみのために生きてる訳じゃないならな……で?」
「何がですか?」

睨んだつもりはなかったが、リアンの隣に座っていたエドウィンがびくりと肩を震わせた。椅子ごと離れようとして、がたりと音を立てる。

「もう日が暮れるような時間だぞ」
「……そうですね……それが何か?」
「……お前わざとだろ?」
「はい、もちろん。帰って来られるのを待っていましたよ」
「……だろうな」
「もっと面白いかなと思ったんですけどね」
「ご期待に添えず悪かったな」
「いやまぁ……私の見込違いだったので」

そこは仕様がないですとこぼしながら、コンラッドはリアンの手を取った。

「今日はこのくらいにしましょうか」
「……はい」
「おい」
「何ですか?」
「いちいち聞くな……手を離せ」

本の上に乗ったリアンの手を避けて、今まで見ていた本を閉じようとしていただけだった。わざと、ゆっくりと、アドニスに見せつけるように。

手を握る必要も、本を閉じる必要もあるわけでもないのに。

お互いに解っているから、アドニスは必要以上に苛ついた顔をして、コンラッドはにやにやと笑っている。

ふたりの間の空気に耐えられず、がたがたと席を立って、エドウィンは失礼しますと直立した。

「あれ? エド帰るの? ご飯は?」
「う?! うんんんん! いいよ俺! 団長帰ってきたからいいよ、俺!!」
「帰ってきたら食べないの?」
「食べるけど! 食堂行くから大丈夫!! じゃあね!」
「え……いいな、食堂……」
「……まだ駄目だ」
「……ちぇ」
「お前も帰れ」
「……はいはい」
「ええ? コンラッドさんも食堂?」
「そうですね」
「一緒に食べようって言ったのに」
「また今度にしましょう」
「……食堂……」
「だから駄目だって言ってるだろ」
「だって……」
「シャロルがもう用意してるだろ」
「ううん……そっか、そうだね。あ! じゃあ、みんなの分も用意があるよ! やっぱり一緒に食べよう!」
「こいつらのは要らないって言っといた」
「ええええええ?」

横暴だと卓をどんどんと叩いているリアンのおでこを指で弾く。

「俺だけでがまんしとけ」
「ああ! それは面白いですね!」
「……は?」
「いやぁ。いいもの見ました、行くよエド」
「は! はい! 失礼します! じゃあね、リアン。また明日」
「……うん、また明日ね」

ご機嫌な様子なコンラッドと、緊張した面持ちのエドウィンが部屋を出ていく。

その場でふたりを見送ったあと、アドニスは今までコンラッドが座っていた椅子に腰掛けた。

「……で?」
「でって?」
「何してたんだ今日は」
「あ……うん、本読んでて」

手元にある本をくるりとアドニスの見やすい方向に回して、軽く差し出した。
確かめなくても、これまでリアンがずっと読んでいた国の歴史書なのは分かっていた。

「分からないところがあったから、コンラッドさんに聞いた」
「そうか……で?」
「そしたら歴史の勉強が始まって」
「うん……でなんでエドが?」
「コンラッドさんの手伝いしてて、じゃあ一緒に勉強しようってなって……え? なんで機嫌が悪いの?」
「お前、この部屋でだぞ」
「だってまだ外に出たらダメって」
「いや、そうだけど」
「……コンラッドさんとふたりきりより良いと思うけど」
「……そうだけど」
「注意がわたしばっかりじゃなくて、エドにも分散されるし」
「……あ、そっちの意味か。本当に勉強してたんだな」
「けっこう面白かった……コンラッドさん何でもよく知ってるね」
「あいつ元々 王城の文官志望だったしな」
「へぇ……シャロルさんもエドがいた方が良いって……アドニスの部屋でふたりきりは良くないからって」
「……なんだ分かってんのかよ」
「でなんで機嫌が悪いの?」
「……なんでだ?」
「いやこっちが聞きたい」
「…………楽しそう……だったから?」
「ああ……アドニス楽しくなかったの?」
「おう……それだ……それだわ」
「あの人……えっと……マブルーク様? 今度は何?」
「……脱走した」
「はは! 脱走? 捕まった?」
「捕まえた……めんどくせぇ」


まる二日は寝台の上で過ごしたが、それからリアンは部屋の中だけで大人しくしていた。
それも三日目、もうそろそろ飽きてきているのは分かるが、まだ顔色は良くない。

ここでふらふら外を出歩いてまた寝台に逆戻りもしたくはない。

アドニスやシャロルに迷惑をかけていると思い込んでいるから、リアンも部屋で大人しく過ごしていた。


向かい側に手を伸ばし、リアンの額と頬、首元をするりと撫でる。

「熱なんか無いってば」
「……うん……だな」

両頬を鷲掴んでむにむにと揉む。

「……はぁ……やわらけぇ……和むわぁ」
「……おつかれさま」
「……ホントそれ」
「でもやめて!」

ぐいと避けられたアドニスの手は宙を彷徨って自分の頬にたどり着いた。

「うーん……でも俺のはいまいちこう……足りないしな」
「何が?」
「瑞々しさ?」
「ああ……おっさんだから」
「おっさんだからか?……そうか?」

どれどれとリアンもアドニスの頬を摘んで引っ張っていると、シャロルが夕食を運んで部屋に入ってくる。

部屋に入ってふたりを見るなり、シャロルはなぜ私を摘まないのかと怒り出す。それならとふたりして摘もうとすると、アドニスだけが更に怒られた。




「アドニス……」
「んー……なんだぁ?」
「あれどうしたの?」
「うん? あれ……?」

夕食の後、寝台の上でうつ伏せになって本を読んでいたリアンは、横向きに少し丸まってアドニスを見た。

少し離れた卓でアドニスは残りの仕事を片付けている。
といっても書類に目を通して署名するだけ。
書き物程度の仕事なら、ここ最近は執務室ではなく、リアンの部屋でこなしている。
その為にわざわざ別の場所から卓と椅子を運んできた。

そのおかげでコンラッド先生による歴史の授業がされたのは計算外だった。

「……ヘイグ デンホルム」
「ああ……コンラッドから聞かなかったか? エドからも?」
「だって……聞きにくいよ」
「まあそうだな」

ちょっと待てと持っていた紙に目を通し、ささと署名をして右側の紙の束の上に置くと、ペンを置いて、そのまま両手は頭の後ろに回された。
息を吐き出したついでにずるずると座る姿勢が悪くなる。

「ヘイグはあの日のうちに砦から出したぞ」
「……それだけ?」
「いいや……まぁ事が事なだけに、騎士になる道は無くなった」
「そうか……」
「でもって竜狩りにもなれない」
「え?」
「あちこちコンラッドが手を回した……まぁ俺も許可した」
「え……じゃあどうなるの?」
「知るか……自分でどうにかしろって話だろ……それだけのことをしたんだ」
「でも今までやってきたのに……」
「おい、そりゃ俺の言うことだ。しょうもない見栄だか、なけなしの矜持だか何だかの為に、今までを溝に捨てたのはあいつだぞ」
「うん……そうだね」
「ぼこぼこにされずに五体満足で放り出してもらえたんだ……感謝されてもおかしくないぞ」
「……うん」
「……でなんでお前がしょんぼりすんだよ」
「……してないもん!」
「そうか?」
「一発殴ってやりたかった!」
「はは! だな……お前にもその権利はある……まぁ主人のコンラッドが立てなくなるまで殴ってるからな……がまんしとけ」
「殴ってないでしょ」
「身体はな……あいつもう国の仕事どころかまともな職すら難しいぞ」
「わぁ……コンラッドさん怒らせないようにしよう」
「お、賢いぞ」

立ち上がってリアンの横に腰掛けると、犬にするようにわしゃわしゃと頭を撫でた。

楽しそうだったので遠慮なしに撫で回していたら、ふうふうと息が荒くなっていたので、アドニスはおっとと手を引っ込めた。

「あぶね……調子に乗ってまた怒られるとこだった」
「いやもう大丈夫だったら」
「いやいや……油断するな?」
「明日は食堂……」
「味薄いもんな……お前専用」
「もう飽きた……」
「明日の具合だな……」
「ほんと? 絶対?!」
「んーまぁ、明日な。ほれ、もう寝ろ」
「……アドニスは? ねぇ、もう寝よう?」
「うわぁ……お前」
「え、なに?」
「それお前、他所で言うなよ」
「なに、どこでいつ言うの?」
「別のとこで他の男に言うなよ」
「は? 言う時なんて無いですけど?」
「気持ち悪……」
「は?!」
「女出してくんなよ」
「はぁ?! 出してないし!! 勝手にそう思ったのアドニスでしょ?!」
「おお?! そうか?……そうか」
「いいからもう寝るよ!」
「おぉ……じゃあまぁ……はい」

いつでも寝られる準備はしてあったので、灯りを消して室内着を脱げば万端整う。

アドニスはささっとリアンの横に滑り込んで、いつものように抱え込んだ。

リアンはしばらくもごもごと動いて、落ち着ける体勢になると体から力を抜いて、息を軽く吐き出す。
そこを見計らってゆっくりと背中を撫でた。

朝は遅めだし、一日中部屋に籠もりっぱなしなので、リアンはなかなか寝付けない。
いつまでも変わらない呼吸の間隔に、アドニスは心中でううんと唸る。

今まで気が失せたように眠ったり、少し揺すった程度では起きないくらい眠りが深かったのは、多分、本当に限界がきて保たなかったからだろう。

そこに思い至ってアドニスは口の中の苦いものを飲み込んだ。

改めて、リアンが遠く故郷を離れて、たったひとり、全く違う環境に放り出されていることを考える。

自分がリアンと同じ年の頃にどうだったか。

十年ほど前。竜騎士を志し、ちょうど今のエドウィンのように何をするにも懸命に取り組んでいた。

「……んんん?…………ああ?」
「んー? なに、アドニス」
「いや……気にするな、寝ろ。おやすみ」
「んー……おやすみ」

まだあちこちで紛争の名残があり、上官や国や、大人のやり方が気に食わなくて、腹が立って、そんな中で一度 死にかけた。

死んでも構わないと自棄になった。

十年と少し前。

小さなリアンと出会った。

しばらくコートニィの家で面倒を見てもらい、仕事を手伝ったり、ディディエたちと悪さをして、普通の少年のような生活をした。

夜はこうして並んで寝ていたのを思い出す。

始めはディディエと寝るのに、リアンは途中で目を覚まして、リアンの部屋を使っていたアドニスの横に潜り込んできていた。




時を経てもやっていることの変わらなさに、アドニスは笑いを噛み殺す。

救ったり救われたり。

頼ったり頼られたり。

心の糧にしたりされたり……。

ふたりの大きさが変わっただけで、やっていることは変わらない。


腕の中をのぞくと、リアンは寝入ったらしく、規則正しく小さな呼吸を繰り返している。

頭の天辺に口付けて、今まさに自分で思わずやってしまったことにううんとまた心中で唸る。



年も経ている、身体の大きさも変わった。
変わらないふたりの関係は、どうだろうか。

周りがどう見ているのかは知っている。
そこはあえて否定しないし、その方がリアンを護るにも有効だ。

話し合いこそしてはいないが、リアンも理解してそこに便乗している。

なんならこのまま、それこそ婚約者のフリを続けてくれれば、周囲からも無理に妻を持てと勧められなくて済む。

今回中央に呼び出されたのだって、あれはどう考えても嫁を選べという場だった。
ふらふらと躱して逃げてきたが、その分また呼び出されることもあるかもしれない、というか確実にまたある。

このまま本当にリアンを婚約者にしてしまえば。

リアンはなんと言うだろう。

別にいいよと軽く言いそうで、それはそれで自分を安売りするなと腹が立ちそうだ。

もっと年の近い、それこそエドのように真面目で誠実そうな、お似合いの相手が、リアンが恋をする男が現れるかもしれない。

その時は全力でニセ婚約者だったと説明しよう。
リアンが傷物だと勘違いされるのだけは避けなくては。
リアンの恋心まで傷付けてしまう。

……はぁ?

リアンが恋?!

いや、駄目だろ。
しょうもない男にはやれない。
ディディエの前に俺がふるいにかけて落としてやる。

ああでも。
リアンが好きになった男なら、それはそれなりの相手なんだろうか。

え、何考えてんの? すごい保護者、めちゃくちゃ兄貴だろ。あれこれ父親の感覚?!

………………ちょっと保留しよう。








ごろりと寝相が反対側に向いたリアンと、少しだけ空いた隙間に、冷たい空気が入り込む。



アドニスはその隙間を埋めるように抱き寄せて、リアンで暖をとる。

面倒な考えはまた今度と思っても、堂々巡りする思考にうんざりしながら、アドニスはうつらうつらと夜を明かした。