走りすぎか、橘琥珀を失ったことの恐怖か、激しい動悸が私を飲み込もうとする。

橘家の日本庭園の砂利を踏み、散らしながらドアの前で呼吸を整えた。

そして何を思ったか、引き戸に手をかけると、カラカラと懐かしい音が響く。

「……あいてる」

玄関を見ると、男物の運動靴が、一足、ポツンと寂しげにあった。

これは、まさか……?

私はそこへ足を踏み入れた。

でもやっぱり、進むのを体が拒否していて。

これ以上、進まなければ彼は生きているんじゃないかと夢想することができて、傷つかずに済む。

でも、入ってしまえば事実を突きつけられてしまって、立ち直れないと思う。
 
また、ふっと彼の笑顔が浮かんできて進もうとする足にブレーキをかける。

嫌よ。

彼が、恩人の、想い人の、大切な彼がいなくなるなんて――。

私が動けず固まっていると、突然、線香の香りが鼻を掠めた。

煙の、甘いようで、落ち着くあの匂い。

なぜだか鼓動を速める程の懐かしさに襲われて、いくら動かそうと試みていても駄目だった足が、嘘のように軽やかに回り始めた。

この廊下、部屋の配置、匂い、音。

泣いてしまいそうな程、懐かしい。

そして……何度も通った、涙も、笑顔も、沢山零した部屋。

私は、恐る恐る襖をスライドさせた。






「……待ってたよ」





橘琥珀に似た質の良い髪をさらりとゆらし、マシュマロのように柔らかく微笑んだ彼は、いつになく寂しげだった。

宝石のように大きな瞳が濡れている。

「流石、というべきでしょうか」

「ありがとう。天藍ちゃんがどうするかなんて、明日の天気よりも読み易いよ。例え十数年離れてたとしても、僕の妹、なんだから」

「妹……」

「ふふっ、違和感だったかな」

畳の座布団上で正座していた瑠璃さんはちょっと笑うと、机を挟んで向かい側に私が座るように合図した。

私は大人しく従い、何度もノートを広げたそれを掌で撫でる。

感傷に浸り、それが抜けないまま顔を上げると橘くんが悲しげに微笑んでいた。

声を出しそうになってから、瑠璃さんだと認識する。

泣いてしまいそうだった。

「……橘くんが亡くなったって、本当ですか」



「本当、だよ」


微かな希望さえ、打ち砕かれた。


「どうして黙ってたんですかっ」


怒りたい訳じゃない。

寂しくて、悲しくて、辛いだけ。