「まあ、いいじゃん、あのお兄さんのことは」
千稲ちゃんが凍った空気をいとも簡単に溶かし、その温かさを、頼もしく思う。
遥斗はさっきの橘くんの態度に落ち込んでいるのか、下を向いている。
……あれは、遥斗でもどうにもできなかったと思うよ。
「それより、天藍ちゃん勉強してたんだ」
私の手元を見て、千稲ちゃんが言った。
気づけば教科書は生温かく湿っていた。
「あ……勉強、しようと思ったんたけど、さっぱり分からなくて、ほとんどしてないんだ」
おどけたように肩をすくめ、橘くんの言葉が脳裏をよぎった。
……演技下手くそ過ぎ、か。
今の動きもぎこちなかったのかな。
そんなことを思いつつ、その紙袋を窓際に置いた。
「千稲ちゃんは今日、編み込みなんだね。似合ってるよ」
千稲ちゃんは、へへっ、と照れたように微笑み、遥斗の腕に抱きつく。
「はるくんのために頑張ったの」
するとずっと下を向いていた遥斗は、照れたのか、驚いたのか、少し焦った様子で「離れろよ」と千稲ちゃんに囁いた。
……口の動きで分かってしまった。
千稲ちゃんが傷つくのではないか、と内心ハラハラしていたが、「あ、ごめん」と少し目を開きつつ離れたので、ほっとする。
顔を上げた遥斗は、僅かに頬を赤らめていて、小さな唇を尖らせてポソリと言った。
「何もしなくても、千稲は可愛いのに」
「はるくんだって、何もしなくてもカッコいいよ!」
このラブラブっぷりに、最近の小学生ではこれが普通なのか、と私が一番真っ赤になる。
「天藍姉、高校って楽しい?」
遥斗が赤く染まった頬を誤魔化すように早口で聞いた。
きっと、本気で聞いた訳ではないのだろう、なんとなく、そわそわしている。
……確かに、あのままイチャイチャされても、反応に困っていた。
少しばかりほっ、としながら質問の内容が水を含んだ服を着ているように重く纏わりついた。
「……楽しい、よ」
やっとの思いで突き出た声は固く、掠れていた。
私はそれに気付かないふりをして続けた。
「友達も沢山できるし、」
嘘。
「部活も全力で取り組めるし、」
嘘。
「授業も楽しくて、良い先生ばっかりで」
嘘。
「楽しい、よ?」
嘘。
全部、作り話のおとぎ話。
そうして塞いでおかないと、波に呑まれて吐き出してしまう。
将来に不安を持って欲しくない。
「へえ、楽しみだね」
「千稲も早く高校生になりたいな〜!」
キラキラと輝き始めた二人はあれやこれや妄想を膨らませている。
それで、いい。
知らないほうがいい、現実を。



