哀愁の彼方に

に乗ることなどできないのだ。しかしこの日は、違った。その瞬間に雪道で滑りだした自
転車は、止まることを知らなかった。みるみるうちに自転車は、速度を増して行った。市
松は、自転車ともども谷底へ転落してしまった。足首は、みるみるうちに腫れ上がり、激
しく鈍い痛みが、身体のいたるところから感じられた。彼は、うめき声を上げながら、ま
ず自分の胴巻きのあたりを手探りをした。本日の売上金は、大丈夫だった。次に彼は、遠
くへ飛ばされている自転車を探した。自転車は、市松が転げ落ちた場所から5メートルほ
ど離れた場所で倒れていた。彼は、必死になって自転車を谷底から山道へと引っ張り上げ
て、念入りに故障箇所を調べた。自転車のランプが、割れている以外に故障箇所を見つけ
ることはできなかった。市松は、安堵で胸をなでおろしたとたんに、動けないほどの激痛
に襲われた。彼は、雪道を自転車と共に這うようにして帰りつき、節にしがみつき、
「ワーッ」
と大声で泣き崩れた。節は、動転した。彼女は、市松が雪道で自転車ともども谷底へ転落
したことを知り、市松の足首が激しく腫れているのに気づいた。彼女は、幼いころに自分
が、このような腫れを起こしたときに祖母が、してくれたことを思い出した。それは、確
かに腫れあがった箇所を湿布するには最適で、患部によく効いたことを覚えていた。彼女
は、そのとき祖母がしてくれたときと同じように、梅の漬け汁をどんぶり茶碗に取り出し、
その中にうどんの粉を入れて練り合わせた。それを布に塗って市松の足首や腰の辺りに貼
る湿布薬とした。夕食のとき、主人の重一は、その話を聞きいきなり、市松の頬を張り飛
ばした。
「雪道で滑ったくらいがなんや!自転車のランプが、割れとるちゅうやないか!このどア
ホめが!」
と言って、梅の漬け汁とうどんの粉を練り合わせて作った湿布を、彼の足首から剥ぎ取っ
て外へ投げ捨てた。節は、畳に頭をこすりつけて市松のために詫びた。市松も泣き腫らし
た顔を、何度も下げた。重一の妻の純子は、冷たい目をしながら、そしらぬふりをして二
人を見ていたのある。
 市松はその夜、激痛と火のような熱のために、うんうんと呻いていた。声を出さないで
おこうとするのだが、自然に苦しい声が出てしまった。彼は、足首の痛みのために二日間