哀愁の彼方に

魔と辛さに耐えて高等学校卒業のために勉強をしたのである。
 こんな彼が唯一、心を許せる相手は、三つ年上で下働きの「節」であった。下女の節は、
十九歳になったばかりで、「華も十八、番茶も出ばな」というくらいの魅力的な女性であっ
た。彼女は、十九歳になったばかりなのに二十二、三に見えた。市松は、節を好いていた
し、心を許せる女性であった。彼は、節から感じることができる優しさから、実の姉、い
やそれ以上の母親のような思いを感じていたのである。それには、節もまた、市松と同じ
ような境遇で、能勢の山奥から山北屋へ奉公に来ているという同類の思いからがそうさせ
ていた。ただ、市松と異なることは、節は、市松よりもさらに厳しい試練を潜って、この
山北屋へ奉公に来ているという事情があった。それを物語るかのように節は、まともに学
校へ行くことすらできない境遇であったのである。節の家庭では、子供の労働力は、とて
も重要な働き手であった、それゆえに文字を書くこともできないし、文字を読むことも出
来なかった。しかし、すこぶる聡明な知能の持ち主であった。そのうえに節は、とても美
人であり女性として魅力的であった。節に思いを寄せる者は、市松だけではなく、他の男
どもにもあったのである。。しかしその思いは、市松の思いとは大きく異なっていたのであ
る。それは、性の対象としての思いであり、市松の純真なそれとは違っていた。丁稚頭の
北川繁造も、その異なった思いを持つ一人であった。繁造の他に、番頭の達吉、主人の重
一でさえ節に不純な思いを持っていた。それは、女と男の関係による思いというようなも
のではなく、男のエゴで一方的なものであった。そのための布石か、ことあるごとに節に
対して、気を引こうとしていたのである。節には、そのような下心を十分に理解できてい
た。しかし彼女は、そのようなことに目もくれず、相手にもせず、早朝から夜遅くまで、
よく働いた。彼女は、市松が夜中まで勉強をしていることを知っていたのである。そのた
めにいつも、主人や他の奉公人に内緒で、残り物で握った握り飯を市松に夜食と言って食
べさせてくれた。また時々節は、甘い物が、頭の勉強にいいと言うので、黒砂糖の塊を食
べさせてっもくれた。市松にとって、甘いお菓子など食べたこともなかったために、その