そこで馬が生活していた、いわば厩である。このような生活の場に尋ねてくる者は、一人
の女の子を除いて殆どなく、ひっそりとしていた。尋ねてくる女の子は、山下元八の末娘
の妙子である。妙子は、市松を好んでいた。彼女は、事あるごとに市松を訪ねて、市松か
らいろんなことを教わっていた。その後必ず彼女は、市松とはしゃいで最後は、腹から笑
って、笑って、笑いがなくなると帰っていくのだった。妙子は、珍しく今日に限って、
いつもと違う言葉を先に発したのである。
「うち、おっちゃん、嫌いや」
「なんでや」
「いつもお酒、臭くてかなわんわ」
「妙ちゃん、これは、おっちゃんの薬や」
「薬?薬って?どこ悪いんや。悪かったら、
はよう、お医者さんに見てもらわんとあかんわ」
「お医者さんにか?・・・・」
市松は、吹きだしそうな笑いをこらえようとして、激しく咳き込んだ。彼は、自分のこと
をこんなに心配してくれる純情な、妙子に笑いをみせまいとして、こらえたのだった。市
松は、心臓と肺を患っていた。心臓は、成人病と言う名で呼ばれているが要は、心臓肥大
であった。肺には、影が認められて、それはおそらく癌であろうと自分で自覚していた。
しかし彼は、正確な検査や診断を好まなかった。理由などなかった。生けるところまで生
きて、その後は、最愛の妻の元へ行きたかっただけである。
こんな彼に、一番なついていたのが、妙子であった。彼は、妙子を自分の孫のように扱っ
た。それは、目の中に入れても痛くないというような可愛さで、妙子の注文には、何でも
答えた。それが市松にとって、幸せを感じるひと時だった。特に妙子が、喜ぶ顔を見ると
き彼は、その嬉しそうな妙子の顔に生前の妻が、喜んだときの顔をダブらせて見えたので
ある。確かに、嬉しそうに微笑む無邪気な顔は、生前の妻の仕草と似ていたんのである。
小春日和のある日、妙子は、市松を訪ねてやって来た。彼は、いつものように焼酎を飲ん
でいた。妙子は、その彼の前に座るのであった。いつもなら、みかん箱を食台にした机の
うえには、焼酎タケノコの煮つけだけなのに今日は、妻の写真が置いてあった。
「おっちゃん、これ誰や?」
「これか?・・・・これは、おっちゃんの
一番、大切な人や」
「おっちゃんのお嫁さんか?」
「そうや」
「おかしいな?・・・・」
「何でや?」