哀愁の彼方に

程、起き上がれなった。二日目の朝が来て、主人の重一が、寝ている市松を蹴飛ばした。
「早く、商いへ行け!この穀潰しめが!」
と荒々しく怒鳴って、市松が寝ている部屋を出て行った。
 彼は、ふらふらとする身体を起こし、足首の痛みをこらえ、足をひきずりながら商いの
準備をして、いつものように自転車で出かけて行った。鍋や釜などの金物は、それほど売
れる品物でもなかった。彼は、先日に大当たりに売れた地域よりさらに遠い地域へと足を
向けた。今日、足を向ける地域ならば、その日のうちに帰れないことぐらい容易に想像が
ついた。主人の重一は、そのことを市松から聞くと、満足な思いを感じていた。大飯を食
らう市松が夜には、どこか雨露の忍べるところでしのげば、その分、飯の量も助かると思
っていたのである。その夜の市松は、やはり帰れなかった。彼は、売上も少なかったので、
お堂の中で眠った。ひもじい思いを除けばそれは、御殿であった。小さな電球があり、誰
からも干渉されることなく、勉強のために本を読める喜びがあった。ひもじさも、行商先
でお客様から貰った蒸し芋を食べると、それはたいそうなご馳走に思えるのである。見も
知らないお客様から、頂いたその気持ちに感謝すればするほど、それは最高のご馳走であ
った。
 市松は、仕事の苦しさには慣れていたが、同じ年恰好の若者が、学校へ行き、たらふく
飯を食べていられることを羨ましく思った。丁稚頭の繁造は、市松を馬鹿にしていた。も
ちろん主人の重一は、使用人すべてを馬鹿にしていた。丁稚の身分で、本を読んだり上級
学校へ入るための勉強をしている市松など、できもしないことの空想をしている、阿呆な
男としか映らなかったのである。節以外の丁稚たちも、同じように市松を軽蔑していた。
一つには市松には、そのようなことができるという、妬みがあったからだ。そのために時
には、彼の本を取り上げたり、隠したりしてからかった。そんな時市松は、黙って唇を噛
んで、じっと下を向いていた。ときには涙が、ポトリと落ちることもあった。しかし節だ
けは、どんな時でも、変わりなく陰に日向になり彼を可愛がってくれた。
「市どんて、ほんまに感心やな!こんなに疲れていても勉強するし、うち、なんか、本を
読みとうても、すぐに眠むとうなる」