土曜日の夜、月の綺麗な深夜、若い男女がマンションの一室で二人きりでお酒を飲んでいる。
仕事の話を止められない自分たちに、結局真面目で、仕事で繋がっている人間なんだなと思う。それは決して悪いことではない。同じ分野で切磋琢磨する仲間との友情はきっと長い人生で宝物になる。
「和樹、本当に内科に行くの?手先も器用なのに」
実際のところ、夏海が同僚として見ていて、彼は本当に上手にいろんなことをこなす。
それは人間関係とか目に見えないものだけでなく、技術的なことについてもそうだった。それは手先を使う外科、あるいは皮膚科や眼科などの専門医の分野でもきっと活躍できると勝手ながら思えるほどだった。
「俺はね、難しい手術してたまに大きく感謝されるより、毎日ちょこちょこありがとうって言われるほうが合ってる。そのほうがたぶん続けられる。それに結局、町医者なんて何でもできなきゃだしね」
手に持ったウイスキーを喉に通して和樹はきれいな横顔を見せた。
そして飲みつくしたグラスに手酌でウイスキーを足そうとしたので、あわてて夏海はボトルを奪って彼のグラスに注いだ。サンキュー、と彼は笑ってグラスの氷をいい音で鳴らした。
その様子を見ながらやっぱり彼はいずれ実家を継ぐつもりなのかなと思って夏海は言う。
「実家が病院っていうのも魅力的なようで大変なのかもしれないわね」
歩く道筋がはっきりしているのは迷わなくて済む。しかし道を間違うことはできないから、もちろん面倒なことのようにも思えた。
そのとき夏海は自分の家のサラリーマンの父と専業主婦の母のことを思い出して、勝手ながらも肩の荷が下りる。例えば医師免許を使わないで普通の企業に就職したって両親はきっと、いや、間違いなく何も言わない。そのことの気楽さよ。そして、寂しさよ。ここまでなんとかやってきた自分のことを思うと、どうすることが正しいのかはいまだにわからない。
でも道筋がすでに決まっている和樹は大変だな、と思っていると、平然と彼は言った。
「うちは別に医者になれって家じゃないし、好きなことしていいって言われてたんだ」
「そうなの?」
琥珀色の液体から、急遽、夏海は顔を和樹に向けた。
実家が病院で、代々医者となったら、医者になるのが当然というように育てられてきたのかと思った。
意外だわ、と今更ながら夏海が言うと和樹はいつもと変わらないトーンで言った。
「うん、だから俺、早稲田の理工とかも受けてたし。行ってもいいかなって思ってた。でもなんとなく、かな。医学部も受かって、兄貴とまた一緒か、とは思ったけど。兄貴と一緒が嫌だから違う学部っていうのもおかしな話かなとか」
「それもなんだかひねくれたような話ね。裏返しの裏返し、みたいな」
「思春期だったんじゃない」
ふざけたように和樹が笑った。グラスを持つ傾けた手首とか、わずかに俯いて微笑む横顔とか、誰もが持っているものばかりのはずなのに、本当に絵になっていた。それは和樹だからだと思う。絶世の美男子とか、絵に描いたような好青年ではなくても、和樹だから、いい光景なのだ。
いい意味での適当さと雑さ、気軽な距離。そう思って夏海はまた少し重くなった瞼でその姿を眺める。これが特別ということなのだろうか、なんて思っていると、和樹もまた少し眠そうになりながら、夏海を見て言った。
「でもさ、医学って、おもしろいじゃん。話聞いて、推理して、探偵みたいな気分になるときもあるし、理屈が通らない意外なこともたくさんある。退屈しない。それに、臨床の現場にいると、ちょっとは人の役に立ててるのかなって思えることが直に感じられる。それってモチベーションが上がるんだ。もちろん面倒なことも多いけど」
そういって、彼は夢や希望に満ち溢れた少年のように笑った。何を選んでも許された家だと彼は言うけど、多少のプレッシャーはあったのではないだろうか、と夏海は勝手に想像する。
実家の大きな病院も、生まれた時から身近にあった白衣も消毒薬のにおいも、先に医者になったお兄さんの存在も、なにもかも。もしかしたら、だけど。それが幸せなのか不幸なのかは、誰にもわからない。
でもいつか、彼の背負っている見えない大きな荷物がなくなって、本当に気楽に好きなように楽しく、彼のやりたいことがどんどんできるといいなと、勝手に祈った。仕事のことでもプライベートのことでも、なんでも。
そのとき私は、彼がいつまでも幸せでありますように、なんてとても清らかな心で思った。
「なんか、ありがとう。私、和樹と同じ学校で学べてよかった。和樹の存在が励みになってる。」
くじけそうなときも多いけど、と夏海が付け足してちょっとだけ苦笑いをしつつ琥珀色の液体が入ったグラスを傾けると、和樹もまた乾杯、とグラスを軽く傾けて言った。
「俺は、夏海、特別だよ。変な男に騙されんなって思う。あんなクソ男にはもったいないくらい、いい女だと思ってる。」
思いがけない言葉に、思わず口もとに運んだグラスを持つ夏海の手はそのまま止まる。クソ男というのが澤田先生だというのは申し訳ないながらにもすぐにわかった。時刻は午前三時半を回っている。お酒の力もあわさってとろんとしていた瞼が力強く開く。いい女、なんて言われたのはこれまでの人生で初めてだった。
「それってどういう意味」
驚いて目を丸くしたまま夏海は聞いた。和樹は同じトーンで、先ほどと変わらない様子で言う。
「そのまんまだよ。いいの、夏海はそのまんまで。突き進め。今の大学病院が嫌になっても、産婦人科医が嫌になっても、道はいくらでもある。医者の仕事だけが人生じゃないし、俺は何があっても夏海の味方だ」
和樹の声を、今更ながら、とてもいい声だと思った。録音しておけばよかったと思うほどに、その言葉を何度も聴きたいと思った。夏海は心が震える感じを味わう。
「ねえ、それってけっこう、愛じゃない?瑛子さんとは違うかもしれないけど」
どきどきしながらウイスキー片手に聞いた。もう、二人ともかなり飲んでしまっているし、証人は誰もいないけど、無駄じゃない気がする。無駄なことなんてないって、さっき言ったでしょう。それを教えてくれたのは、あなたでしょう。言葉で伝えて欲しいと思った。
和樹は若干めんどくさそうに、残っていたウイスキーをぐっと流し込んで、今にも寝そうになりながら言った。
「夏海は瑛子とは違うよ。違う人間だもん。瑛子は瑛子で幸せならいいって思うし、夏海は夏海で大切なんだ」
何を今さら、と言って、和樹はそのままソファに横になった。もう寝るよ、と言うと、そのあとすぐに寝息が聞こえてきた。
その穏やかで規則正しい呼吸を聞きながら夏海は1人きりでこの夜に残されてしまう。もっと話したい気持ちもないわけではなかったが、寂しくなかった。これからもそばにいてくれる気がしたから。
安心して夏海もまた横になる。あまり眠れないかもしれないなと思いながら、少しでも寝て休めればいいなと思った。やりたいことはたくさんあって、時間はいくらあっても足りないのだ。仕事だって、恋愛だって結婚だって、まだまだ何も達成していない。
それでも、何があっても味方と言ってもらっただけで、こんなにいろんなことを大丈夫と思えるなんて。和樹だからかな。違うかな、どうだろう。でも、もしかしたら。たぶん。
やがて朝の強い日差しがゆっくりとカーテンの隙間から差し込んできた。
窓の隙間から見える世界は輝いている。もう二度とない朝の光を受けて全力できらめく。
背の高い和樹はソファから大きく足をはみ出させて気持ちよさそうに眠っている。彼が目を覚ましたら、遅い朝食でも誘ってみよう。駅前のカフェのモーニングセットは、おいしいコーヒーがおかわりできて、とても居心地がいい。それから、もしよければ公園まで散歩でもできたらいいなと思う。いつか、そういうことをしてみたいと思っていた。天気のいい日に特別な誰かと並んで歩くようなこと。
ちょうどこの時期の公園は紅葉がきれいで、木漏れ日はキラキラしていてとてもきれいなのだ。まるでいつか聞いたピアノの音色のように。
いつになく素直な寝顔を見せる少年のような男が、自分にとって特別な気がし始めた、美しく、まぶしい朝だった。



