いつかのエチュード

エチュード。練習曲にすぎない。
でも、私にとって特別なもの。
思い出す音のきらめき。広がってゆく光の粒と一瞬のはかなさ、切ない感じ。手を伸ばしたところでもう届かないところに行ってるかもしれない。他の誰かにとって特別でなくても、自分には特別で、大切なもの。


お疲れ様と金色の液体の入ったグラスを傾けた和樹は少しだけ意味ありげに笑って、マスターやウェイターの女の子に聞こえない程度の声で言った。
「ま、人生に無駄なことなんてないから」
そして彼はいつものオリーブの実を口に入れて、ペッと種を皿に吐き出した。
言いたいことはそれですべてわかってしまった。ようは、澤田先生とデートした時間も無駄ではないと言いたいのだ。そして一瞬だけ恥ずかしくなって、頬が赤らんだことがわからないように夏海はうつむいた。

しかし和樹らしいのは、そのあとは一切その話をしなかったことだ。
あとは相変わらず面倒な指導教員や先日学会で発表された論文のこと、曽根が彼女とヨリを戻した話などをして、一通り食べてお腹を満たして、店を出た。終電は混むから嫌いだという彼が帰るなら、少し余裕のあるこの時間帯だろう。

もしかしたらまた目白のお兄さんのマンションに行くかもしれない。
そのとき夏海の脳裏には瑛子の柔らかな微笑みとキラキラと光る音の粒が浮かんできて、胸がきゅっと締め付けられた。
なんて切ないことだろう。焦がれ、求め続けるだけの人生だとしたら。それでも後悔していないと言われたら。
私にはとうてい真似することはできない。
仕方ないとあきらめて手放すほうが、はるかに楽だ。
今までだってそうやって、いつか遠いところに放り投げたものはたくさんある。そしてこれからも、そういうことはすると思う。それが必要なときもあるはずだ。

いずれにせよ駅でこのまま見送ろうかなとも思いながら、地下鉄のホームで夏海は言った。
「明日は休みだし、もう少し飲まない?」
まだこの夜を終わらせてしまいたくなくて、ここから数駅の夏海のマンションに誘った。

それは初めてではなかったが、二人きり、というのは初めてだった。たいてい曽根とか、他の同級生とか、誰かがいた。でも和樹と二人きりになっても変なことにはならないと思っていた。何か今までと違うことをしてしまえば、今までの関係が変わってしまう。

だからただ話の続きを、この楽しい夜の続きを一緒に分かち合いたいだけ。その気持ちを二人ともが持っていて、夏海の自宅に持ち込むだけの話、そう思っていた。確認はしなかったが、和樹もきっと同じだっただろう。

「よし、付き合ってやろう」と、きれいな東京の夜を背景に彼も笑った。
彼の切ない横顔よりもこの少年のような笑顔のほうが間違いなく好きだと、そのとき夏海は確かに思った。


少し散らかったままの室内に和樹を入れて、慌ててテーブルの上の朝食の残骸を流し台に放り込んで、さっと拭いて、書籍は重ねて部屋の端に追いやる。
テーブルの上にコンビニで買ったウィスキーと炭酸水、それからロックアイスに、ナッツとチーズと、ちょうど目についた友人からのお土産のクッキーなんて盛り付けて乾杯した。

なんてお手軽で楽しい夜だろう。気心許せる相手との時間には夜景も高級なディナーもいらなかった。会席料理や老舗ホテルのバーやレストランとは違うけど、いいじゃない、こんな夜があっても、と思う。

話は尽きなかった。このまま永遠にそうしていられそうだった。