秋も深まって紅葉シーズンに入った。都内の庭園やホテルでも紅葉のライトアップイベントが催されていた。あまり賑やかなのは好きじゃないと思いつつ、暗闇の中で紅葉と灯りが浮かんでいるのをただ遠くから眺めるのはそれほど悪くない。
澤田先生と食事をするのはもう数回目だった。仕事帰りに突如誘われることもあったし、来週と約束されることもあった。そのときどきで行くお店や食べるものも違うのだが、事前に予約されるとなると夏海も考えてしまう。
待ち合わせの場所が赤坂の老舗ホテルの高層階とあらば、なおのこと。
フレンチレストランで二人でシャンパンを傾けて乾杯をした。
この状況に対してはなんとなくきちんとした格好、いわゆるドレスコードは意識したほうがいいなと思って、夏海は堅苦しいと思いながらワンピースを着てパンプスを履いていた。完璧にフォーマルというものでもないが、夏海にとっては十分に‘きちんとした’格好だった。
あまりに似合わないなとは自分でもわかっていたがTPOに合わせたファッションをすることは大人として大切なことだ。仕事中に白衣を着るように、気心知れた友人と飲みに行くときにラフなシャツを羽織るように。
そして今夜は‘きちんとした自分が求められていると思ったのだ。
そういう状況を理解できないほど幼くはない。
二人で食事をするときの会話は、専門的なことが多い。いかにも上司と部下、という感じだ。彼が過去にどんな恋愛をしていたとか、どんな人を好きになってきたかとか、そういうことは聞いたことがなかった。
聞けば教えてくれるのかもしれないが、つい、専門職としての質問と回答が飛び交う。逆もしかりで、夏海に対して彼が恋人の存在の有無を確認するようなこともなかった。いないということが言わなくてもわかってしまうのかもしれないが。
やがてメインディッシュにあわせて赤ワインを注がれた頃、少しずつ二人の間は和やかな雰囲気になっていた。
澤田先生は確認するように今後の進路について聞く。夏海はたぶんとかおそらくなんて曖昧な言葉をつけながら返しつつ、静かに料理を口に入れた。
高層階から見る東京の夜景はなんて切なくてか細いのだろう、と思いながら。自宅マンションから見える小さな星でさえたくましく見える。
それか、また違う誰かと見たら、違う景色に見えただろうかなどとも。
メインディッシュを少し味わって、澤田先生は言った。
学会のことや論文のことと同じトーンで。職場で見せる表情と同じままで。
後輩に見せる穏やかな微笑みで。
「僕はいずれ父親の病院を継ぐ予定だからね、同じ産婦人科医の子がいいなと思ってたんだ。安藤さんは真面目だし、一生懸命仕事もしてくれそうだしね。しかも地元に帰らなきゃとかそういう縛りもないだろう?ぴったりだと思ったんだ」
だから結婚を考えてお付き合いして欲しい、と言われて、とたんに目の前の景色は色彩を失い、料理は味気なくなる。
普通なら、逆になるはずだ。世界が鮮やかに色づいて、何もかもが喜びに感じられるんじゃないだろうか。
夏海は、「はあ」とため息にも似た返事をした。
そうか、この人は、産婦人科医になる女性だったら、私じゃなくてもいいんだ。
目の前の男の整ったシャツも、丁寧にナイフとフォークを使う仕草もすべて嫌になる。でも、ほんのちょっと優しくされて、甘い言葉をかけられて勘違いした自分はもっと嫌になった。最悪だ。ばかばかしい。この人が本当に自分を好きでなかったように、自分もまた、目の前の男を少しもいいと思っていないことに気づいた。味気ない料理を無理やり口の中に押し込んで、渋いだけでおいしくないワインで流し込む。それでも店を出るまでは笑顔でいた。
反省の証として。
それから一週間ほどしたころだった。外来の診療時間はとっくに過ぎてあたりもう真っ暗で、院内は静かだった。
更衣室を出て帰ろうとしたとき、ふと呼び止められた。
澤田先生だった。待ち伏せじゃないよ、と言い訳のように呟いて、ぼんやりと明るいエレベーターホールにいた。
「返事がなかったけど、来週か再来週、秋の会席料理でもどうかな。」
そう、そうなのだ。
そのあと彼から再び食事の誘いの連絡があったのだが、忙しさを言い訳に返事をしていなかった。
いろんなことをごまかすように、夏海は苦笑いしつつ言う。
「ええ、でも、最近忙しくて」
「食事の時間くらい作れるでしょう」
「でもまあ、ちょっと、難しくて」
「じゃあ来月に入ったら」
「ええと、そう、ですね」
少しも乗り気ではなかったし、目の前から消えて欲しいと思っていたのに、どうしてはっきり言えないんだろう。夏海は精一杯困った顔をしていた。
そのときだった。
「見苦しいなあ」
夏海は驚いて声がするほうを見ると、廊下の端に和樹が立っていた。いつからそこにいたのだろうと夏海が目を丸くして見ると和樹は澤田先生に向かって言った。
「断られていることに気づかないなんて、見苦しいですよ。澤田先生」
和樹は上司に見せる丁寧な微笑みで、少しくたびれた白衣を身にまとって、でも背筋はしゃんと伸ばして、堂々とそこに立っていた。
その存在に気づいた澤田先生は、何を言ってるんだ、と明らかに動揺して言った。
「予定を聞いていただけじゃないか。それに、盗み聞きなんて品のないことを」
「だったらこんなところで話すべきことではないのでは?連絡を無視されたとかでもない限りは」
事情をすべてわかっているかのように和樹は言った。いつもの少年のような笑顔とは違う、上司に見せる丁寧な微笑みで、涼しい横顔で。それ以上を言えなくなった澤田先生は和樹を一瞬強く睨みつけて、失礼する、と去って行った。
その足音が聞こえなくなったとき、ようやく夏海は和樹の顔を見た。
「はっきり言えばいいのに」
ふん、と鼻をならして和樹が言った。
「和樹ははっきり言いすぎよ」
「そう?言わなきゃわからないよ。ああいうタイプは。しかしなんでまたあんなのと関わるかなあ」
あいつ、男には厳しいって有名なんだぜーと、飽きれたように和樹に言われて、夏海はカッと顔に熱が集中するのを感じた。恥ずかしいと思ったのだ。
「たまたま誘われただけなの。希望の進路の先輩でもあったし、聞いてみたいこともたくさんあったし」
言い訳のように夏海はしどろもどろに言うと、和樹は、まあいいけどと呟いた。
「5分待っててくれない?着替えてくるから。飲みに行こう。会席料理じゃないけど。いつものオリーブとビールでも」
和樹はいつものように笑った。その先に、なじみのあるカウンターやマスターの笑顔が浮かんで、緊張の糸が解けた気がした。
素の自分に戻る感じがして、夏海はふっと力を抜いて笑って言った。
「うん、ロビーで待ってる」
そういって、軽い足取りでエレベーターに乗り込んで1階のボタンを押した。
一人きりになって口紅を塗りなおして香水をつけなおして……なんてことはしないけど、手持ちの鏡で顔色だけ確認する。更衣室で見た顔よりずっといい顔をしていると思った。



