その夜はそれぞれの近況報告と、夏海の愚痴と、彼女に振られたという曽根を励ますという名目でおなじみのメンバーで駅前のバルに集まった。
話を聞く限り、曽根の彼女もなかなか気が強いようだが、彼の行いも決していいものではないように思えた。
「お互いにもうちょっと思いやりを持つべきじゃない?なんだか聞いているとお互いに、自分が自分がって感じ。」
「そういうのを相性が悪いっていうんだ」
和樹の言葉に夏海は、ズバリきついことをはっきり言ったな、と横目でわずかににらんだ。
「だってよー、俺だって俺の事情があるわけだし、忙しいってことわかってて付き合ってくれてると思ってたからさあ。でもひどいんだ。最後に彼女が吐き捨てたセリフが、あんたなんて医者じゃなかったら興味なかった、だぜ。最低。性格見えたよ」
「それは、勢いで言われただけでも傷つくわね」
「だろう?女目線から見てもそうだろ?俺だけじゃないんだ悪いのは」
「だから、別れて正解なんだよ。しばらく独り身で仕事に励んでみたら」
「ったく、余裕でいいいよなあ、もてる男は。和樹は順調だもんな。今までもこれからも」
曽根の言う通りだと思う。和樹の実家は都内でも人気の住宅街にある病院で、信頼も厚く、経営も順調だから裕福で、お兄さんももちろん家族はみんな立派な仕事をしていて、本人も同じように確実にキャリアを積んでいる。上司からの評価も同僚からの人気も高い。恵まれたルックスも、同性からみてもうらやましいに違いない。
「うらやましいよ、背も高いし。俺なんてモテるために必死に勉強して医者になったんだぞ」
「そんな考えでいるからうまくいかないのよ。」
曽根の言葉に呆れたように夏海が言った。
「だってよ、身長も顔も普通ってなったら、せいぜいいい仕事ついて稼ぐしかないだろ。そのための努力を評価して欲しいよ」
曽根が悔しそうに言ってビールを口に入れた。曽根はもちろん、みんなもう何時間も飲み続けていていい感じに酔っぱらっていた。いいよなあ和樹は、と曽根は飲み干したジョッキをテーブルに置くと、若干うらめしそうな顔つきで和樹に言った。
「手に入らなかったものなんてないだろう」
夏海は和樹が何を言うのかを、なぜか胸がざわめくような気持ちでじっと待った。自分一人だけがなぜ緊張しているのだろうと思いながら、ゴクリとつばを飲み込む。曽根は好奇心に満ちた顔で和樹の顔を覗き込んでいた。
手に入らなかったもの。どんなに手を伸ばしても、いつかを待ち望んでも、決して手にすることはできない永遠に奪われたもの。自分にはいっぱいあった。
行きたかった場所、やりたかったこと、欲しいと思ったもの、また会いたいと思った人。
考えただけで心はざわめく。どんなに努力して切望しても手に入らないなんて苦行のほかない。生き地獄だ。それでも私たちはなんとかやっていくしかない。いつかの瞬間を焦がれつつ。
そんな周囲の様子などどうでもいいと言うように和樹は独り言をつぶやくように、ほんの一言だけ言った。
「瑛子」
一人の女性の名前はまるで愛の言葉が囁かれるように、甘く響いた。
曽根は何のことかわからないと言った様子で首を傾げる。でもその瞬間、夏海はあらゆることに納得した。ああ、好きだったんだ、と思った。今でも大切に思っているんだ、と。どうすることもできないまま想い続けているんだ、と、わかってしまった。
そして和樹は手に持ったビールグラスを口につけた。そんな顔しないで、と言いたかった。いつもみたいにふざけて、冗談を言って、無邪気に笑って欲しかった。
その横顔は、もう何年も前から見てきたもので、幾度となくみてきたもののはずなのに、知らない誰かに見えるほど、遠くに感じた。
いくら手を伸ばしても、手の届かないところにあるもの。
いつだったか、和樹は夏海にそう言った。それを夏海はとてもよくわかってしまった。
そしてそんな切ない横顔を見せられることが、自分の胸にこれほど刺さってしまうということも。
いつか手に入れたい、と思っているのだろうか。いつかを夢見て、生きているのだろうか。私がとっくに手放したはずの『黒鍵のエチュード』を、ずっと求めているのだろうか。ずっとずっと、焦がれ続けてゆくのだろうか。
自分のことじゃないのに、どうしてこんなに胸が痛くて、悲しくなるのだろう。
その日の帰り道は、楽しいお酒の後のはずなのに、空は真っ暗だった。



