いつかのエチュード

大学病院の最寄り駅から三分程のところにあるソレイユというビストロは、フランス各地のワインが豊富に取り揃えられている魅力的な店だ。
小洒落た雰囲気だがほどよく活気もあってドレスコードもないので気軽に行ける。それこそ仕事帰りのカジュアルな恰好でも大丈夫だ。
パテが特においしい。ジビエ目当てに訪れる人も多いらしい。

「疲れているところ悪いね」
「いえ」
そんなやり取りをしながら、夏海は澤田先生と一杯目のシャンパンの細いグラスを傾けた。
土曜日の夜に二人が一緒に食事をしているのは、仕事帰りだからだ。ちょうど帰る時間が同じくらいで、これまでも何度か今度食事でもという話があったし、夏海としても専門職として聞きたいことはあった。

異性として近づきたい、というほどの感情は、まだ、なかった。でも悪い気もしていなかったのは、本当だ。彼が意外と、他の同期の女の子たちに声をかけていなかったからだ。三十代前半。十分、恋愛対象になりうる。心のよりどころになってくれたらいいなと思う気持ちが、ないとは言い切れない。

「産婦人科に進むつもりなんだよね?」
前菜が目の前に置かれて、彼はあたりまえのように仕事の話を始める。夏海は希望としては、と控えめに返事をしながらマリネを口に入れた。酸味の強い味わいが疲れた体にいい刺激になる。

「一応、そのつもりです」
口に入れた野菜と魚介を十分に咀嚼しつつ、考えつつ、夏海は返事をした。仕事に対する不安は十分に伝わっていたと思う。
それを知ってなのか、彼は言った。
「大丈夫だよ。大変だけどやりがいのある仕事だし。僕もできることがあれば力になるよ」
それは他の誰からも幾度となく言われた言葉だった。そのため、心にあまり響くものではなかったが、決して悪いものでもない。目の前の男性はきちんとジャケットを着こなして、髪型も整っていて、笑顔も丁寧だった。大人、と夏海はまた思った。

そんな彼の顔を見ながら感謝と迷いと不安とが入り混じった顔をして夏海はシャンパンで喉を潤した。正直なところ、これが他のスパークリングワイン、例えばいつも和樹や曽根と分かち合うスペインバルで飲むカヴァと比べて高価である、なんてことは言われなければわからない。

そして今の会話だって、職場で済む話ではあった。たったそれだけの会話を、わざわざシャンパンと魚介のマリネを並べてするところに、今この時間が特別に用意されたものなのかと思ってしまう。

和樹も、瑛子さんとこんなふうに過ごしたのだろうか。何気ない会話を、家でできる話をこの場所で、二人だけで、シャンパンで流したのだろうか。


駅前でタクシーを拾ってもらって、たった数駅の道のりを送ってもらう。回り道であるはずなのにマンションの前まできちんとタクシーを止めて見届けてくれるあたりに、彼のパーフェクトな一面を見た気がした。

澤田先生はスマートだ。きっと失敗なんかしたことない。迷いも間違いもなく、まっすぐにこの道を進んでいる人なのだろう。
果たしてそれは、安心できる場所、なのだろうか。

まだ日付が変わらないし、と思って、夏海はウィスキーをグラスに注いだ。たまにこうして一人の夜に静かに家で飲むのも好きだ。
不摂生、飲みすぎ、そんな単語が頭に浮かんできたが、一人きりの夜にほんのり甘いバーボンの香りはこの心に寄り添ってくれる気がした。
そしてそんな自分に対して、大人、と思った。それは澤田先生に対して思うこととは違う意味で。

窓を開けて夜空を眺めた。夜中になると、街の灯りは落ち着くので少しは星が見える。やっぱり天然の輝きは美しい。でもそれは自分の努力で手にすることができるものではない。

あの日、目白から帰るとき、二人で夜道を歩いているとき、和樹は言った。
「失敗とか、うまくいかないこと、思ったようにいかないことなんて、みんないくらでもあるよ。」
夏海だけじゃないんだよ、だから大丈夫だよと仕事で躓いた自分を彼は励ましてくれた。
「でもね、私には和樹はなんでも持っていて、全てうまくいってるように見えるのよ」
いいなあと羨ましそうに夏海が言うと、和樹は東京のビルの街並みの向こうにある遠い夜空を見たまま言った。
「あるよ。いくら手を伸ばしても、手の届かないところにあるもの。」
それは彼が知らない誰かに見えるほど、切ない横顔だった。