『あなた鏡を見たことないの?』


 えっ?


『いいから』


彼女は洗面台の鏡を指差す。


僕は立ち上がると洗面台の鏡に近づいた。


薄暗い部屋の中、
鏡の中の人影がこちらを見つめる。


暗闇に目が慣れぬまま鏡に近づくと、
鏡の中から見知らぬ女性が、
こちらを伺うように覗き込んでいた。


僕は恐怖で飛び退き、
狭い個室の壁面にしたたかに背中を打ち付け、
その場に座り込んでいた。


鏡の国の幽霊?


いやそもそも僕は記憶を失くしてるのに、
なぜ自分を男だと思っている。


確かに声は低くく男のものだ。


だが僕はそもそも自分の姿を見ていない。


僕は再び恐る恐る鏡に近づくと、
鏡の中の女性も怯えるように鏡に近づき、
こちらを探るように伺い見ていた。



鏡の中のブロンドの女性。


鏡の中のアリス。


これが僕なのか?


主観と客観の裂け目から、
彼女(じぶん)が自分を見つめていた。



どこからか少女がつぶやく。


『私は記憶を整理する時、
 鏡を見つめ暗示をかける。

 それは自分にとっての、
 シンギュラリティーなのだと』



数奇な運命を映した鏡の中の美少女(アリス)
手を伸ばす。


鏡の中の彼女も同じように、
こちらに手を伸ばしていた。


二律背反(アンチノミー)にわかたれた世界。


鏡を(へだ)て僕の手と彼女の手が重なったその瞬間、
まるで世界の境界線が壊れたように、
鏡面反転していた。


イマジナリーラインを越え、
まるで現世(うつしよ)幽世(かくりよ)が入れ代わるみたいに、
自分が反転して鏡の中の自分と入れ代わる(よう)な、
奇妙な錯覚(めまい)と浮遊感。


永劫回帰(えいごうかいき)無限円環(むげんえんかん)の中に囚われたような、
錯覚(さっかく)を覚えていた。



ある種の強迫観念(パラノイア)がそう見せているのか、
入れ替わった鏡の中のアリスが、
(かす)かに笑んだように感じた。



ある種の親和性を溶かして、
写真のネガのように白と黒が入れ変わった世界。


鏡の中の自分(アリス)は、
どこまでも女性の顔でこちらを見つめ、
僕に存在証明のパラドックスを突きつけていた。



消えていた室内の電灯が点滅を初め、
鏡の中の何か(アリス)を幻の(ごと)く明滅させていた。