失った物ならば、数えきれない程あった気がする。

けれど、月の綺麗な夜、明りを灯さない海で本当に失った物。 この日、智樹さんは智樹さん自身を失った。

この愛を、神様はきっと許してくれない。



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病院に運ばれて、数日昏睡状態を彷徨っていた智樹さんが目を覚ました時。
彼は、自分の生きて来た人生の大半の記憶を失ってしまった。
まるで幸せだった頃の記憶だけを刻みつけたまま、智樹さんの時間は止まってしまったのだ。

智樹さんは大量の薬を所持していた。その全ては精神科から貰ってきたものだった。

睡眠薬、抗うつ剤、向精神薬 様々な強い薬を処方されていた。 私を傷つけたのと同じだけ、智樹さんも自らを傷つけていた。


医師は言った。

通常の範囲を超えた極度のストレス。 心が壊れてしまった。 壊れた心はそう簡単に戻らない。と。

思い出したくない事を、心の中に全て閉じ込めてしまった。
記憶を失った智樹さんは、ただ一つだけ。私を妹だという事実だけを覚えていた。


全ての出来事をあの美しく妖しい水槽館に閉じ込めたまま、季節はまた一つ通り過ぎて行った。