…次の日の早朝。
田宮さんがまだ起きない時間にそっとヴィレッジを出る。
そこから数分でたどり着く最寄駅は、まだ始発に近い時間だからだろうか。人はまばらで静かな時間の流れだった。
ホームについた電車に乗り込み、ドアの前に立つ。流れゆく景色に目を移した。
『凪斗は私を大切に想っていて、私を守るために妻を利用しているってこと。』
…田宮さんは一貫して言っていた。『女性関係のために妻が必要』だと。
前川さんが言っていたことと一致する。
『私を通さなかったこと、後悔すると思いますよ』
そう言えば、前川さんはそんなふうに言っていたけれど…どういうことなんだろうか。
田宮さんが、通さなかった私を怒るってこと?けれど、田宮さん本人も会わなかったわけだしな…。
答えの出ない疑問に、ふうと思わずため息。
答えが出ないのじゃなく、答えを聞きたくないだけ、なんだよね。
田宮さんに前川さんが再訪したことを告げれば、少なからず前川さんが田宮さんにとってどういう存在なのか私は知ることになる。
それが怖い。「大切な恋人だ」と言われるのが。
けれど、聞かなければならないことだとも理解している。
知らないままならば良かったのかもしれないけれど、出会ってしまった以上…そして、お返事をすると言ってしまった以上、田宮さんにはきちんとその事実をお話しし、お聞きしなければならない。
それが、『契約妻』の役目だって思うから。
…と、考えてはいるけれどどうも踏ん切りがつかず。
「まあ、美花!どうしたの!」
「うん…ちょっと…た、ただいま…」
悩みに悩んで、これでは仕事は無理だと思い、事務作業中心で予定が入っていなかった今日なら休めると思い、急で申し訳なかったけれど、有休を取らせていただいて。実家に帰ってきてしまった。
「実家に帰る」なんて田宮さんにまた言ったら、また必死で反対するに決まっているから。
だからこそ、早朝に出て『今日は早出なので』と田宮さんにはメッセージを打っておいた。
当日に急遽休みの連絡をしたにも関わらず。
バディの依田さんは、「たまにはがっつり休まないと!今日は事務作業だからノープロブレムよ!」と言ってくれ、課長は「有休を減らすなんて、社員の鏡だな!偉いぞ!つか、お前は働きすぎだからな!」なんて笑っていた。
良かった…うちがホワイト企業で。というか、スタッフ揃いも揃って良い人ばかりで。
「ごめんね、突然帰ってきちゃって。」
「何言ってるの。ここはあなたの家でもあるんだから。帰ってきて謝るなんておかしいわよ。」
穏やかに笑って迎えてくれたお母さんとは対照的に、あからさまに心配の色を顔に出しているお父さん。
「まさか、田宮さんに愛想つかされたのか?!」
「お父さんたら…心配しているのはわかるけど、ストレートに言い過ぎよ?」
…お母さんもストレートに言ってるのと同じだよね、それじゃあ。
まあ…でもね。この際、愛想つかれた方がまだ良かったかもしれない。お前じゃ役不足だーって三行半を突きつけられてね。
「大丈夫だよ」って笑って見せたけれど、お父さんとお母さんには私が無理して笑っているってわかったみたいで。
「…無理することはないんだぞ?借金のことは…真崎先生がなんとかしてくれたからな。真崎先生への弁護料も込みの請求で支払いは無くなったんだよ。全て。」
真崎先生…そこまで配慮して借金の整理をしてくださっていたんだ。本当に優秀な弁護士なんだな…。
改めて、真崎先生に尊敬念を抱いていたら、「ごめんください」と店先に誰かが訪れた。
この声…武利?
目を少し瞬かせて、店の方を見た私に、お父さんが少し苦笑いを返してから立ち上がる。
「最近…ほら、美花があの不動産屋のせがれと結婚だのなんだので揉めた日あたりからかな。よく来るんだよ。『何か俺にできることありますか?』って。」
そうだったんだ……。
思わず店に居るであろう武利の方を見た。
「借金のことが本当に心苦しいんだろうな。俺たちも、借金のことは武利君のせいではないし、八ちゃんのことも恨んでないと話しているんだが。」
「武利君にとっては、それじゃあ済まないんでしょうね。美花のこともあるし。」
…確かに、借金のせいで、身売り同然のようなめに合わされそうにはなったけれど。
不意に、田宮さんを連れてきたあの日の武利の表情を思い出す。
『俺が借金返せたら良かったのにな』
泣きそうな顔で笑ってたな…。
少し俯いた私の肩をポンと軽く叩いたお母さんはまた穏やかに笑う。
「ちょうどいいわ、美花。久しぶりに二人で話でもしてきたら?美花からも武利君に、『もう大丈夫だ』って言ってあげたら、少しは気が晴れるかもしれないでしょ。」
そう…だね。
私が幸せな結婚をすれば、武利の心も浮くかと思っていたけれど、言葉できちんと伝えた方が良いのかもしれない。
お父さんの後ろから、店に降りて行って、顔を出すと、武利が「あ、美花!」と笑顔を見せた。
「帰って来てたんだな。」
「うん。武利、元気だった?」
「ああ、まあ…な。」
「ほら、美花。せっかく仕事休みとって帰って来たんだ。少し武利君と話して来たらどうだ?」
お父さんが、私の背中をポンと叩いた。
それに、笑顔でこくんとうなづく。
少しは…私と話すことで気が晴れるといいな、武利が。
お店を出て、閑散としている商店街の中を二人でゆっくりと歩き出した。
今は皆出て行ってしまってうち以外のお店はシャッターが下ろされ、人通りもほとんどない。
「すっかり変わってちまったよな…」
「そうだね…前は、歩くたびに色んな人と話してたのにね。ほら、あそこのお肉屋さんのおかみさんとか。」
「ああ!な。学校帰り必ずって言って良いほどコロッケ買い食いしてたよな。」
「ね、武利はさ、毎回カレーコロッケにするかオリジナルにするか悩んでさ。」
「結局両方食うってね。」
二人で昔を思い出して笑い合う。
懐かしい空気が今の私にはすごく嬉しく思えた。
…ここの所、色々とあり過ぎて、思い出を振り返るなんてこともなく、一生懸命に頑張るだけの生活だった気がする。
「武利…ありがとうね。武利と話して、久しぶりにこうやってのんびり一息つけた気がする。」
ちょうど魚屋の前で、足を止めた私に武利も足を止め、私を見た。
「私、武利が幼馴染で…武利がずっと一緒に居てくれて本当に良かったって思ってるよ。」
笑顔の消えた武利の、切長の目の奥で、瞳が揺れているのがわかる。
「やっぱり…あの不動産屋が押しかけていた日々は大変だった。だから武利のお父さんが借金を作ってしまって、それをうちが払わなければいけなくなったって、武利が責任を感じてくれているのはわかるよ。
でもさ。武利はこうやって気にかけてくれて…ううん、こういう事が起こるずっと前から私に何かあると必ず気にかけてくれて、時には助けてくれてたでしょ?だから、もうあまり自分を責めないで欲しいなって。」
不意に風が横から吹いてきて、頬に毛先があたる。それを私が直す前に武利の指先が私の頬に触れ、毛先を元に戻した。
「…久しぶりに少し寄ってく?今ならゆっくり話もできそうだし。
まあ…親二人ともいなくなって何もないけど。」
弧を描く武利の唇とは裏腹に、その目は寂しさを宿している気がして、私まで寂しさが伝わってくる。
長い年月一緒に居たからこその感覚だよね…これも。
「そうだね」と私も笑顔を返して、閉まっているシャッター横の戸口から促されて中へと入った。



