とか言ってる場合じゃない。
気がつけば、田宮さんの口上に乗せられ、1週間丸々田宮さんのベットで寝てるんですけど!
もしかして…田宮さんの魔の手から逃れ、田宮さんを自分のペースで口説くって…ものすごく難しいことなのでは。
翌日、会社の帰りにヴィレッジのスーパーで少し買い物をしてから向かったレジデンス。
辿り着く前に見上げた空は、薄暗く雲が動くのが見える。
晴れ渡らない空に何となく自分の気持ちが重なっているように見えて、ふうと少し息を吐き出した。
「…帰ろ。」
再びレジデンスに向かって歩き出し、入り口までくると、見覚えのある人の姿。
あ…あの人…
『私の恋人がこのレジデンスに住んでいて』
『田宮凪斗です』
以前お会いした時と同じトレンチコートを着て、ピンヒールを履いている。
私に気がついたその人は、ニコッと笑顔を見せて近づいてきた。
「こんばんは!先日お会いした方ですよね!」
懐っこい人…だな。
右頬にエクボがぽこんとできて、可愛らしい顔立ちに雰囲気がぴったりな気がする。
「ど、どうも…こんばんは…。」
「先日は親切にありがとうございました。」
「い、いえ…」
もしかして、これはバッティングというやつなのでは。
田宮さん、私がまだ帰ってこないと思って、一緒に過ごしていたとか?
そんな考えが過ったけれど、その人は急に寂しそうな顔に変わる。
「でも…せっかくご親切にしていただいたのに、会いたい人には会えませんでした。」
…え?
会って…ない?
「でも、諦めきれなくて、ここまで来てしまったんですけど、コンシェルジュさんに話した所でこの前と結果は同じかなと思って、困っていたところでした。」
もしかして…これは、一緒に中に入れて欲しい的な…感じだろうか。
けれど、いくら見た目がとても品が良いからとはいえ、知らない人を中に入れるわけには…私、一度前科があるし。あの時は、まさき先生も一緒だったけれど。
「あの…失礼ですが、田宮凪斗さんと恋人とこの前はおっしゃっていましたが…」
「そうです。私、田宮凪斗の恋人です。前川亜由美と言います。」
キッパリと曇りなき目。
嘘をついていると言った感じでもないかな…。ということは、本当に彼女なんだろうか。
どう…しよう…。
きちんとお話しすべきかな、私は田宮凪斗の妻だと。
躊躇して、顔を曇らせた私を少し覗き込むその人。
「あの…まさかと思いますが、あなたが『美花』さん?」
ドキッと心音が大きく跳ねた。
私が目を見開いたことで、自分の考えが当たっていたとわかったのだろう、前川さんは、「そう…なんですね。」と少し俯き加減にまつ毛を揺らす。
「なんか…ちょっとイメージと違ったな…」
…何だろう。
微笑みはそのままだけど、何となく冷めた空気が漂っている感じがする。
「凪斗に合わせて頂けませんか?」
私が妻だとわかっても、会いたがる。どう言う…事なのだろうか?
私は表向きの妻なのだから、ダメと言う権利は無いけれど…田宮さんが合わなかったのなら安易に「どうぞ」とは言えない。
「申し訳ありません。凪斗さんにお話してみないといけませんので、後日改めてご連絡でもよろしいでしょうか。」
なるべく丁寧にお断りをしたつもりだったけれど、その人は不思議そうに小首を傾げる。
「…あなた、奥さんなのですよね。どうして、『恋人だ』と言っている私に嫌悪感を示して『お帰りください』とはっきり言わないの?」
真顔で小首を傾げる前川さんの少し薄めの透き通った瞳に見透かされた気がして、どきんと心音が跳ねた。
…だめだ。ここで動揺してしまっては田宮さんに迷惑がかかってしまう。
いくら、田宮さんを好きになり、振り向いて欲しいと思っていたとしても、そもそもの契約を忘れてはいけない。
私は…“女避け”の為に選ばれた“表向きの妻”なんだから。
そう改めて思い、目頭が熱くなる。
情けないよな…自分に釘を刺して傷つくとか。
グッと一度唇を結び、それから目線をまっすぐに前川さんに向けた。
「…今の時点であなたが何者なのか、本当にお話しされていることが正しいのか、あなたの言葉だけの情報しか今の私にはありません。それなのに安易に自己判断をするのは危険だと思っているだけです。この時点であなたの話を全て鵜呑みにして嫌悪することが正しいかどうかは、わかりかねます。」
そう言った私に、今度は1度目を見開き、それからフッと表情を緩める。
「…さすが、田宮凪斗の妻になれただけのことはあるね。危機管理がしっかりしてる。
まあ…でもね。その程度なら私だってできること。凪斗のことだから、リスク分散をしたかったのだろうけど。」
リスク…分散?
今度は私が小首を傾げると、前川さんは、意味ありげにクスリと笑う。
「…その辺、聞いてないの?まあ…私も本人に聞いたわけじゃないけれど。要は、妻には妻の役割に専念してもらって、恋人は恋人で妻を隠れ蓑にして、大切にできる環境を作るってことだよ。
凪斗と結婚したならそのくらいのこと、気がついてないと。やっぱり…リスク分散はできなくても、私が妻になった方が良かったんじゃないかなあ。恋人と妻の役割、両方とも私だったらうまくこなせたのに。」
前川さんが私に一歩近づくと、そのヒールの音がカツン…と少し周囲に響いた。
「…どちらにしても、凪斗は私を大切に想っていて、私を守るために妻を利用しているってこと。」
…辻褄は合う。
世界の100人に選ばれるほどの人だもの。当然隣に立つパートナーは世間の目に晒され、辛辣な言葉をかけられたり危険な目に遭うこともあるかもしれない。だったら、妻という表向きのパートナーで世間の目を欺き、本当に大事な恋人を守るということがあってもおかしくはないのかも。
田宮さんは…最初からそのつもりで私を選んだ…。
ギュッとまた気持ちが苦しくなり、吐き出す息が少し震えた。
「…とにかく、今日はお引き取りください。
あなたの言うことが事実だとしても、凪斗さんが今、あなたに会わなかった以上、私が勝手にお通しすることはできません。」
そう言った私に、前川さんは「頑固だなあ」と口を少し尖らせる。
「わかりました。とりあえず今日は帰ります。けれど、私を追い返した事がいかに愚かか、すぐにわかると思いますよ。」
「では」と微笑み所作よくお辞儀をして、去っていく前川さんのヒールの音がまた少し、周囲に響く。
ふわりと左右に少し揺れるその後髪を見守り、その姿が見えなくなってから、レジデンスの中へと足を向け、ふうと盛大にため息をついた。
…田宮さんに話をした方がいいよね。前川さんとも約束しちゃったし。『後日連絡をする』って。
コンシェルジュさんに見送られ乗り込んだエレベーターの中で再びため息。
“妻を隠れ蓑にして恋人を守る”…か。
いまいちしっくりこないのは、私が田宮さんを好きだから現実を認められないからだろうか。
それとも…
『美花。迎えに来たよ』
不意に、ミニクーパーで早朝から迎えに来てくれた田宮さんを思い出す。
ずっと…出会った時から、田宮さんが私を丁重に扱って決して無碍にすることがなかったからだろうか。
いくら大切な恋人を守るための隠れ蓑という貴重な存在だったとしても、ここまで大切にしてくれるのだろうか。
「あ、美花おかえり。今日の夕飯は美香が作り置きしておいてくれたマッシュルームのシャンピニオンソースで食べられるように、鯛のポワレにしてみたよ。」
リビングに入っていくと、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「田宮さん…今日も在宅だったんですね。」
「最近はね、ちょっと落ち着いてきて制作に没頭できるスケジュールだから在宅でも大丈夫なんだよ」
そう言いながら、私のところまで歩いてくるとニコッと微笑み私をその腕でぎゅうっと包み込む。
「…在宅ワークだと、美花と会える時間が長くなるから、俺にとっては更にお得でしょ。」
耳元でそう囁かれて、キュッと気持ちが掴まれる。
…これが全て、恋人を守るための”演技”なの?
どうしても…私にはそう思えない。
感情が態度に出てしまったのだと思う。
無意識にあげた両手が田宮さんのシャツをギュッと掴んだ。
それに呼応して、くふふと柔らかく笑う田宮さんは、より私を抱き寄せる。
「美花、どうしよっか。俺、夕飯すっ飛ばして、部屋に連れ込みたくなったんだけど。」
…いつもなら。
慌てて誤魔化して、体を離していたと思うけれど。
今日は離れたくないって…このままもっとくっついていたいって気持ちが勝ってしまう。
“隠れ蓑”ではなく、”橘美花”を求めてくれているって…どうしても思いたい。
それはいっときの夢なのだけれど。
「美花…」
「っ…」
…結局、前川さんの話はできず、そのまままた、田宮さんの腕の中で意識を手放した。



