結婚ノすゝめ








…と、固く決意し、それなら、今日は早く帰って田宮さんとの時間をなるべく作らなければと思い。


「今日はやる気が凄いわね!」


依田さんが若干苦笑いするくらいに懸命に働いて会社を後にする。


もしかしたら…今朝の女の人とまだ一緒に居るかもしれない。
でも、そういうことじゃない。私は私で頑張れば良い話。だって…契約上とはいえ、今は私が田宮凪斗の妻であり、一番近い所で頑張れるんだから、それを無駄にしてはいけないよね。


そう意気込んで帰ったけれど。


「美花、おかえりなさい。」


綺麗に微笑んだ田宮さんは、柔らかい笑みで私を迎え、その丸めの大きな手をポンと私の頭に乗せると、そのまま顔を近づけふわりと唇同士を軽くつける。

目を見開き、瞬きをした私に更に目を細めて、頭の上に置いていた手を後頭部に移動させると、少し強く引き寄せて今度ははむっと啄むようなキスを何度か繰り返した。


「お風呂沸いてるよ。入ってくれば?その間に夕飯の支度しとくから。」
「は、はい…あの…あ、ありがとう…ございま…す…」
「いーえ。朝も言ったけど俺は今日は在宅で仕事だったし」


それにほら、とおでこ同士をつけると鼻をすり寄せる田宮さん。


「あらかじめやっといちゃえば、美花とゆっくり過ごす時間が多くなるから。」
「っ…」
「今日も俺の部屋で過ごしてくれる?」
「そ、それは…」


…おかしい。
これじゃあ、私が口説かれている感じになっている気がする。

気後れしてから、はたと思った。

いや、待って。
田宮凪斗だよ?世界の100人に選べるほどの天才で、女性に引くて数多…。

私みたいな凡人が考えている「口説く」という行為は田宮さんの思考の中では、日常茶飯事なのかもしれない。


じゃあ…どうすれば、口説くことになるのだろうか…というか、私、口説くとか息巻いているけれど、そんな口説きのテクニックを知っているほど、器用に恋愛したことなんてないじゃない。


ピカピカに磨かれたお風呂に身を沈めながら、「うーん」と思わず唸ったら、少しその声が響いた。


…掃除も完璧。食事もほっぺたが落ちるほど美味しいものを作れる。洗濯物だって、自分の分はアイロンまでこなしているし。
日常生活一人で生活していて困ることなんて一つもない。
むしろ、相手が自分のテリトリーに入ってくることの方が自分の思い通りにならずに煩わしいと思うかもしれない。

そんな人が…今回の私みたいに上辺ではなく、パートナーを心底好きになり欲しがるって、どういう状況なんだろうか。

ふうと思わずため息を吐いたら、お湯の水面が少し揺れた。


…この5ヶ月あまり、田宮さんは私といて、煩わしいとかそんな顔も雰囲気も出したことはない。
たとえ、私に出ていって貰ったら困ると思っていたとしても、人間、どんなに取り繕ったって、長い時間一緒に居るのが嫌だと感じれば表情や会話の端々に出てしまう物なのではないかな…と思う。
ということは…少なくとも生活上のストレスは、それほど感じていないということなのかな。

だったらやっぱり私は、田宮さんに振り向いて貰えるように頑張らないといけないんだけれど…。

口説くと言っても、田宮さんがどんな女性が好みなのかも知らないしな。
そういえば、趣味の話とか、食べ物の好き嫌いとかお互いの色々な話はしてきたけれど、いわゆる色恋沙汰の好意う女性が好きとかそういう話を一切したことがなかったかもしれない。


「……よし。」

つぶやいた言葉が、少しあたりにまた響き、それと同時に立ち上がる。


まずは、情報収集だ。
敵を知れば自ずと攻略方法も見えてくるはず。

気合いを入れて、お肌を整え、ドライヤーもかけて髪をサラサラにしてから戻ったリビング。



「美花、グッドタイミング。今、夕飯出し終わるよ」


シチューの良い匂いが充満していて、テーブルの上にはサラダとフランスパンの切った物が置いてある。

…本当に作ってくれたんだ、シチュー。


「あ、あの…手伝います。」


慌てて、キッチンへ入っていき、田宮さんに背中を向けて食器棚からお皿を取ろうとしたら、ふわりと背中から包まれる。


「美花…」


耳に少しその唇が触れて、そこが熱を持ち、鼓動は早く強くなる。


「…今日の牛タンシチューは結構自信作かも。」
「そ、そうなんですね…た、楽しみ…で、す…。」
「そ?」

だ、だからさ…これだと私がじゃなくて、田宮さんが私を口説いている構図なんだって…。
いや、でもじゃあ実際私がこれを反対にやってみろと言われてもできないけれど。

なんとか自分のペースに持っていかないと…目的の情報収集ができない。


そこで、ハタと思ったこと。


今日は、あの朝に会った女の人と一緒に居たんじゃないのかな。それなのに…私のために牛タンシチューを煮込んでくれたってこと?
それとも…その人と一緒に作ったものを私に出している…とか?

キュッと胸が締め付けられ、複雑な気持ちになったけれど。
どちらにしても、田宮さんは、少なくとも私の存在を丁重に扱ってくれているということになる。


「た、田宮さん…」
「ん?」
「あの…ありがとうございます。」
「いーえ。美花の為だから。礼には及びません。」


その代わり、と私を腕の中で自分の方へ向けると、腰から抱き寄せておでこ同士をコツンとつけた。


「今日も、こっからの時間は俺と一緒に過ごしてくれる?」
「…っ、は、はい…」


私の辿々しい返事に、田宮さんがくふふと微笑みふわりとキスをする。


「じゃあ…冷めないうちに食べよっか。」
「は、はい…」
「何?もしかして、離れ難いって思てくれてんの?」
「そ、そんなことは…な…んんっ」


返事が終わる前に腰をさらに引き寄せられ、今度は少し乱暴に口を塞がれる。
一度離れても…また。角度を変えて何度も何度も強引なキスが降ってきて、思わずぎゅっと田宮さんのシャツを握りしめたら、やっと離れた湿り気を帯びた唇同士。


「『離れ難い』って言ってよ、美花。」


「ね?」と鼻をすり寄せられて、思わず目をぎゅっと瞑る。そしたら今度は瞼に田宮さんの柔らかい唇が触れ、そこから、顔中にチュッチュっと音を立てて、キスを始める田宮さん。


「た、田宮さん…待っ…」
「だって、美花が可愛いから。俺は素直に衝動に従っているまで。」


困り顔の私とは反対に楽しそうに優しく笑い、鼻をすり寄せる。


「…思ってくれた?『離れ難い』って。」
「そ、それは…。」


そんなの、ずっと思ってる。
田宮さんとずっと一緒に居て、こうやって腕の中で幸せを感じたいって…。
でも、それは気持ちが重なっているからこそのものであって、今…じゃない。

大体…田宮さんは感覚が私とは違い過ぎるんだよ。育ってきた環境や身を置いていた環境が全然違うから仕方ないとは思うけど。

なんとなく、ムッとした感情。

でも、だったら、私は私の感覚に従うまでだ。

そんな風に開き直るのはどうなの?と思うところもあるけれど、仕方ない。
だって、わからないものはわからないもの『田宮凪斗の口説き方』なんて。


鼻先をすり寄せている田宮さんを上目遣いに見て、口を尖らせて見せる。


「…田宮さん。」
「ん?」
「私、お腹が空いてこれ以上牛タンを待てません。」


私の答えに一瞬目を見開いた田宮さんは、クッと上機嫌に私の尖った唇に自分のを少しくっつけた。


「なら、俺も作った甲斐があります。」


私の頭をポンと撫でてから、離れてお皿を食器棚から取り出す。


「美花が、忘れられない味になっていると良いけど」


そう言いながら、お鍋の蓋を開けてお皿にシチューをよそり始めた。


その姿にホッと息をついた…のは良いけれど。

そこで冷静になり、後悔が襲ってくる。

私…田宮さんに振り向いてもらえるようにしたいんだよね。
それなのに……結果的に色気より食い気が優先。

選択肢としては、一番やっちゃいけないパターンを選んでしまったのでは。

いや、何よ『田宮凪斗の口説き方なんてわからないんだもん』て。
いい大人がスキンシップされて、混乱して食い気に走るって…。

待って?もしかして、私って結構枯れてる?
自覚がなかっただけってこと?


「美花?」
「は、はい…食べましょう!」


テーブルにシチューを運んでくれた田宮さんに呼ばれ、慌ててついた食卓。
目の前に置かれた牛タンシチューは艶を持ちふわふわといい匂いの湯気を舞い上がらせている。
一口食べたら、深みのある塩加減に甘さがあり少しの苦味。ホロリと口の中で崩れる牛タン。その美味しさに思わず目を見開いた。


「美味し、い…!」
「おっ!やった、良かった!」


パンもね、ヴィレッジのパン屋で一番合いそうなの選んで来たんだよ。なんて、さらりと話しているけれど…。
今日、田宮さんだって仕事だったんだよね。自宅とはいえ。しかも…彼女らしき人も訪ねてきていたし……。

いや、その人と買いに行ったのかも知れないけどさ、さっきも思ったように。


ともあれ、美味しいシチューに罪はない。むしろどんな状況でも私のことを考えてくれているんだから、それは嬉しいことだよね。
何となく、また複雑な気持ちになり、鼻の奥がツンとした。

ああ…どんどん、よく深くなるな、私。
私だけに愛情が向いて欲しいって…思ってしまう。

どうしたらいいんだろう。
口説き方もわからない、けれど振り向いて欲しい。


…結局、その日も田宮さんと離れがたくて…ずっと一緒に居たくて、求められるがまま、彼の腕の中で眠りについた。