結婚ノすゝめ







…朝…かな…。

重い瞼をゆっくりと開いた。

遮光カーテンの隙間から入り込んでくる光の筋によって、部屋が少しだけ明るくなっているのがわかる。
おでこに暖かさを感じてでも、あまり体を動かせなくて、視線だけをあげた先には、くうくうと寝息を立てている田宮さん。


その左腕が私の首あたりに差し込まれ、右腕は私の体を覆って抱き寄せている。

私が少し動いたことで、くっついていたおでこが外れて、「う…ん…」と少し声を出した田宮さんは、より私を抱き寄せて今度は鼻をすり寄せた。

途端、目頭が熱くなる。


…わかってる。
私がただ、勝手に田宮さんに惹かれ、傷付いているだけ。


唇をギュッと結んでも、視界がぼやけて涙が流れ落ちた。

それがわかったからだろうか、それともスンと鼻を啜ったことで起きたのだろうか。田宮さんが、また少し私を抱き寄せ、おでこ同士がくっついた。


「…美花?」


起き抜けの掠れ声は甘さを添えて、今の私には余計に辛く感じる。


…それでも。
私は田宮さんと居たいと思っている。
その位…田宮さんが好きになってしまったんだ。


少し短くフッと息を吐くと、もう一度口をむすんだ。


「…なんでもありません。」


そう言った私に「そ?」と鼻先にキスをする唇は、綺麗な弧を描いて、穏やかな笑顔。
私もそれに応える様に、笑顔を頑張って作った。


…ごめんなさい、田宮さん。契約を破って。
でも、ちゃんと割り切った関係を表面上は続けるから。
今だけ…甘えさせてください。


そっとその背中に腕を回して、田宮さんを引き寄せる。それに呼応して、田宮さんの顔がより近づいてきて唇同士が触れ合った。
一度離れると、今度は、深いキスに変わる。
息苦しさを纏ったキスは、頭の中を麻痺させるには十分で。
ただ、ただ、その甘さに酔いしれた。


大丈夫…この時が終われば、また表面上の関係に戻れば良い。
そう、接すれば良いだけのことだから……。




そこからしばらく、穏やかに微笑みながら鼻をすり寄せキスを繰り返していた田宮さんが、最後にチュッと軽く唇同士を触れさせるとおでこをつけた。


「…美花、そろそろ支度する?」
「は…い…。」


この瞬間(とき)に後ろ髪引かれてしまう自分にまた落胆し目頭が少し熱くなったら、瞼に田宮さんの唇がふわりと触れた。


「今日は早く帰れそう?」


不意に感じた違和感。
今まで、一度も私の帰宅について田宮さんが聞いてくることはなかった。

昨日の今日だから私が家出するのを心配してのことだと思うけれど…。


「そうですね…おそらくは…」


少し上目遣いに田宮さんを見ると、変わらずそのトロンとした二重を少し細めて柔らかい笑顔。


「俺は今日はここで仕事だけだから。美花の好きな牛タンシチューでも煮込んどこうかなと思ってさ。」
「で、でも…手間暇かかりますよね。牛タンは。いくらリモートワークとはいえ…」
「平気だって。俺も今日は牛タンの気分なんだよ。」


優しい…な…相変わらず。

思わずまた、涙が込み上げてきてグッと少し顔に力が入る、それを隠す様に、目線を外して瞼を少し伏せた。


「ありがとう…ございます。嬉しいです。」
「いーえ。今の俺は、美花が逃げないように必死ですから。」
「に、逃げません…。」
「そ?」
「…牛タンシチューを食べたいので。」


私の言葉に、田宮さんはくふふと笑い再び鼻をすり寄せる、そのまま唇を掬い取る様にキスを落とす。
その甘さ纏う柔らかい心地に苦しさが入り混じった。




…結局そこからまた数分、キスを繰り返しそれでも後ろ髪引かれながら田宮さんの腕の中から出た。
急いで朝の支度を終えてリビングに行くと、田宮さんが、キッチンに立って朝食の準備をしてくれていた。


「美花、卵はスクランブエッグが良い?それとも半熟卵?」
「あ、あの…私がやりますから…」
「何言ってんだよ。出かけるには支度があるんだから、家に居る方がやれば効率がいいでしょ。」


「それにさ」とキッチンの入り口で立っていた私の所まで来た田宮さんは、そのまま私の体をふわりと包み込み、耳元にその顔を近づけた。


「…昨日の夜は結構無理させたかなって。」
「っ!そ、それは…」


思わず顔が上気した私をふっと笑う田宮さんの吐息が、耳をくすぐる。


「だって、美花、可愛いんだもん。寧ろあれくらいで留めた俺は偉いと思う。」


…「だもん」て。
ああ…朝からなんて甘いセリフを。


これ…ずっと続くのかな。一緒に暮らしている限り。
というか、田宮さんは…これが女性に対して通常運転なんだろうか。


『すみません、うちの所長が。もうすぐ弁護士が来ますので、もう少しだけご辛抱いただければ』
『田宮さん…また…』


私を最初に見た時の中田さんと真崎先生の反応が脳裏を過った。


…うん、通常運転だ。
でもなあ…気がある相手にとっては、この上なく酷な話だよね。

田宮さんへの気持ちに気づいてしまった今となっては、そう思う。
というか、田宮さんももしかしたら、相手に酷なことをしていると気がついたのかな。

これだけ見た目も良くて、尚且つ優しい人、人当たりが良い人なら、女性が惹かれ寄ってくるのは当たり前の話で。
「割り切った関係で良い」と言って近づき、「いつか好きになってもらえれば」と思う女性もいるはず。けれど田宮さんはその好意に応えることはできない。
だからこそ…恋愛に全く興味のなくなっていた私を結婚相手に選んだ。
私なら…田宮さんの言う、『割り切った関係』ができると思ったってこと…なのかな。


部屋を後にして、レジデンスのエレベーターに乗り込む。

思わず、ふうと深いため息を吐いた。


…これから、私はこの環境に耐えていけるのだろうか。


何となく、後ろ暗い気持ちでエレベーターを降り、レジデンスの外へと出る。
ヒュウっと横から冷たい風が吹いて、少しコートを揺らし思わずきゅっと身を固くした。

見上げた空は、私の心とは裏腹に、雲ひとつない伸びやかな青空。
澄んだ空気に思わずほうっと息を深く吐き出した。


…いや、悩んでいても仕方がない。時間は待ってくれないんだから。


そう思い、会社に行くべく、足を進めようとしたその時だった。


「あの…。」


柔らかく丸みがあると表現したら良いだろうか。
遠慮がちにかけられた声に振り向くと、その声にぴったりな雰囲気の、柔らかな雰囲気を持つ女性が少し小首を傾げながら私に遠慮がちに会釈した。


肩までの黒髪が艶をもち、毛先がふわりと少しウェーブしていて、眉下の前髪が、くっきり二重の丸い目を強調して、全体的に可愛らしいイメージを醸し出している。

皺ひとつない、薄手のコートから覗く、滑らかそうな生地のブラウスワンピースの裾が膝下で少し揺れて、シンプルな装いながら品がとても良い雰囲気。

その雰囲気に何となく、気が緩んだのだろうか。


「ヴィレッジに…お住まいの方…ですか?今、出てきたのでそうかな…って…。」
「え、ええ…まあ…」


答えた私に、少し目を細め綺麗な笑顔を見せたその人。


「そうですか。実は、ここに私の恋人が住んでいまして。つい数ヶ月前にここに引越しをしてきたのですが、どのように手続きをすれば会うことができるのか…初めて来たもので…」


確かに、ここはセキュリティが世界一と言われるだけあって、外部から来る人間にとっては、手順がわからないかもしれない。
彼氏の方、きちんと教えてあげれば良いのに…もしくは迎えに出てくるとか。


なんて、下世話なことを考えながら、「コンシェルジュの方にまずはお話を」と説明。
少し余裕を持って出てきたから、まだ時間は大丈夫だし、フロントまでご案内しようと、一緒にコンシェルジュのところまでいき、事情を説明すると、コンシェルジュの方が所作よく、会釈し「お約束はされていらっしゃいますか?」と対応に入ってくれる。


これで大丈夫かな…


「私はこれで」と離れたら聞こえてきた名前。


「約束…はしていないけれど、私の名前を言って貰えれば大丈夫です。
入居しているのは、田宮凪斗です」



…え?
思わず振り向くと、その人は、嬉しそうに穏やかな笑みを浮かべ、コンシェルジュの対応を待つ。
コンシェルジュは、変わらずにこやかに少し頷くと


「さようですか。では、少しのお時間をいただきますので、あちらへおかけになりお待ちください」


そう言って、別のコンシェルジュがラウンジへとご案内している。


その人のピンヒールのコツコツという軽やかな音が少し響いてそのふわりと揺れる黒髪とスッと伸びた背中に、どことなく感じた不安と悲しさ。


…分かってはいるけれど。
お互い、表面上の夫婦で、プライベートには干渉しないという契約だから。

でも…な…。


『ここは、俺と美花、二人だけの空間にしたいってだけ。』


…嬉しかった。
例えそれが、私を離さないための上辺の口上でも。


だから…できれば、その一部をこうやって垣間見ることもしたくなかった…な。
特に…田宮さんを好きになってしまった今は。


キュッと唇を一度噛み締めると、短く息を吐き出して、再びレジデンスを出た。
踏み出した足は自分でも驚くほど重たくて、辛さが纏う。

それでも何とか歩を進め、ビレッジ入り口手前まで来た時にエステサロンがあるオフィスタワーが目に入り、ふと足を止めた。


榊さん…そう言えばおっしゃっていたな。
田宮凪斗を求める女性は引くて数多だと。
彼女もそのうちの一人なのだろうか。それとも、本当に彼女で…けれどわけがあって結婚ができないから私を隠れ蓑に考えた…とか。

思考が悪い方へと言ってしまって、鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなってしまう。
慌てて息を深く吐いたら、脳裏に浮かんだ榊さんの穏やかな笑顔と言葉。


『…私が保証してあげる。貴方は、凪斗にぴったりな嫁になるわ。』


まあ、最初から田宮さんの『条件』にはピッタリだったわけだけれど。榊さんのこの一言は私にはとても大きかった。
ここ数ヶ月の間、榊さんに接していて、いかにストイックに美を追求しているかということがよく分かっていたから。


キュッと、再び口を結び、今度は顔をあげて、目をまっすぐに前へと向け、歩き出す。



…きっと、少し前の私であれば、選択肢は二つだった。

このまま自分の想いを隠して、我慢して生活を続けるか、想いを打ち明けて玉砕し契約破棄を申し渡されるか。


けれど今は違う。
両親が借金を背負わされて、ボンボンと結婚させられそうになり、襲われそうになって…田宮凪斗に『綺麗だ』と言わせるべく美を向上させる。
そんなイレギュラーが満載の数ヶ月は、私の背筋を伸ばし、前を向かせる強さを身につけさせるには十分で。

…無謀な選択だということは分かっている。でも、このまま諦めるのは違う。
玉砕するなら、もっと努力した後でもいい。


”田宮さんを振り向かせる”努力を。