忙しなく鼓膜を揺さぶるセミの声が、僕の嫌いな季節が来たことを思い知らせる。

東京の夏は想像を遥かに超えて熱く、コンクリートから跳ね返る熱気でまるでオーブンの中に放り込まれたかのような気分になる。

平均36度という拷問としか思えない気温の中、さらに人混みに揉まれているこの状況から察するに、無意識の間に何かバチの当たるような事でもしでかしただろうかと記憶を巡らせる。

だから、今日は室内デートにしようと言ったのだ。
水族館、夜景の見えるレストラン、クーラーの効く場所ならどこでもいい。
雪国育ちの僕には何年経っても東京の夏は地獄だ。

綾那と「付き合って3年記念日には遊園地に行こう」と約束をした後に今更ぐちぐち言う気はないが、
平日にフレックス休暇を取って来たというのに土日と変わらないではないか。いいや土日はもっと混むのか。まぁいい。あと数時間の辛抱だ。

「メイク直してくるね」
正直あまり僕は分からないけれど、汗で化粧が崩れたとの事だ。
綺麗に揃った白い歯を惜しむことなく見せる彼女はそう言って小走りで茂みの奥にある御手洗いに消えて行った。

僕は自動販売機で500mlの飲料水を買い、乾き切った喉に一気に流し込む。
限界まで上がった体温がジェットコースターのように一気に下がっていくような気がした。

日陰にベンチを見つけ、棒のようになった脚を曲げ腰を下ろすと、ジーンズの右ポケットが不自然に角張っているのが余計に目立つ。

そっと手を伸ばし親指の腹で撫でてみる。
5cm程の小さなピンクの箱の中には3ヶ月分の給料で買った、彼女への大切なプレゼント。

夜景を見ながら観覧車の中でプロポーズ、女性はそういうのが好きらしい。
大丈夫。何度もイメージトレーニングはして来た。

そう思った時、ふとベンチの側にひっそりと咲く花が目に入った。
地面に向かって逆に咲く薄ピンクのそれは、凛々しく、可憐で、でもどこか儚くて、触れたら直ぐに落ちてしまいそうなか弱さを纏い、
薄暗い草道の中で静かに風に揺れていた。

僕はこの花をよく知ってる。この花をよく知ってる人を知ってる、と言った方が表現が正しいかもしれない。

「綺麗だよね、ダチュラ。でも食べると幻覚・幻聴・興奮、覚醒剤に近い症状を引き起こす超怖い花だよ。花言葉はね…」

そう教えてくれた彼女は今どこで何をしているのだろうか?

「どうかしたの?」
綾那の声で我に返った。
「何でもないよ」「どうもしないよ」と言うのは何だか嘘をついているような気がして、おかえり、とだけ言い重い腰を上げる。

これから求婚をするという時に、別の女性が頭を過った事を後ろめたく感じ、それを隠すよう優しく微笑んだ。
後から考えれば、そのバチが当たったのかもしれない。