5
それからの数日間の記憶が曖昧だった。あとから千波が教えてくれたが、三日間ほど、わたしはずっと眠り続けていたそうだ。トイレには一人で行ったけれど、食事はしようとせず、千波と伊織くんが交代で食べさせてくれたらしい。口を全然開かないときもあって、食べさせるのにひどく苦労した聞かされた。
人形のようだった。
千波は泣きながらそう言った。
もう元に戻らないんじゃないかとも。
病院には行かなかった。行こうとするとひどく興奮してしまうので、介助でも何でも食べ物がのどを通る間は、交代で看ようと決めたのだと教えてくれた。当然千波一人ではままならないから、巽くんや両親も来てくれたが、なにしろそのあたりはなにも思い出せなかった。
恐らく、千波の言う通り、人形になっていたのだと思う。人形になればなにも聞かなくて済むし、なにも話さなくていいし、なにより考えなくていい。
失くした記憶を取り戻す努力をせずに済むからだろう。失った記憶を取り戻す行為に、自分でも知らないうちに押しつぶされそうになったのだと思う。
そして数日後、わたしは再び目覚めた。
胸のあたりが重苦しくて目が覚めた。
自分の体の上に突っ伏している千波を目にして激しく動揺した。
きれい好きでおしゃれな千波の髪はフケがあったし、着ていたシャツは汗ばんでいた。しばらく風呂にも入っていないのか、異臭がした。
「千波、千波」
ぐっすりと眠っている千波の背中を揺すると、うーんと唸りながら、はっと目を開けた。
「千波、どうしてこんなとこで寝てるの?」
次の瞬間、じわっと千波の目に涙が浮かんだのが見えた。それからがばっと力任せに抱きしめられた。
「桃花、はっきりしゃべったね。ここがどこだかわかる? わたしが誰だかわかる?」
涙で曇った声に、わたしのほうが驚いた。
「そりゃあ、わかるよ、なんで?」
驚いて言うと、千波は何度もわたしの頭を撫で、この三日間、ほとんど寝たきりだったと言ったのだ。
千波は泣いていた。反対にわたしの頭はすっきりと冴え渡っていた。記憶が戻ったとか、そういう意味じゃなくて、くたびれ切っていた心も体も元通りになった気がしたのだ。
「まあ、よかった」
わたしの体から離れ、千波は指で涙を拭き、勢いをつけて立ち上がった。
「お腹すいてるでしょう。なんか食べる?」
「ううん、大丈夫。それよりも千波、シャワー浴びたほうがいいよ。なんか汗臭いよ」
くんくん、と腕のにおいを千波は嗅いでいる。鼻の頭に皺が寄った。
「そうね、そうかもしれない。じゃ、お風呂入ろう。桃花もあとで入るといいよ。ずっと寝てたから汗かいてるでしょ」
そう言われてみれば、体中、汗でべとついていた。きっと千波に負けず劣らず変なにおいを放っているに違いない。
照れてぺろっと舌を出す。
「そうする。千波のあとに入るわ」
「うんうん」
千波が部屋から出ていくと、そっと床に足をつき、ベッドから立ち上がった。寝たきりだったせいで、頭がぐらぐらと揺れた。
こうなる前になにがあったのか、カスミがかかったように、ぼんやりしている。これも伊織くんが言う病気のせいだ。きっとそうだ。
答えがそこに辿り着くと気持ちが楽になった。
千波と交代でシャワーを浴び、洗濯をしたTシャツに、ウエストがゴムのロングスカートを着た。それからリビングに行き、千波が用意してくれたミルクを飲む。ほどよく温められたミルクは、胃の中にじんわりと広がっていった。
両手でマグカップを包み込んでいるわたしの前で、千波はコーヒーを飲んでいた。
「よかったわ。あのままだったらどうしようかと思ったのよ。今はいつもの桃花ね」
心底ほっとしたのか、千波はうれしそうだ。
「そんなにおかしかった?」
「とてもね。でも、いいのよ。もう過ぎたんだもの」
「ごめんなさい。おかしな病気よね」
「いいのよ、桃花が悪いんじゃないの。病気なんだから。そうだ、伊織にも連絡しなきゃ」
すぐにスマホを手にして、千波は連絡を取る。きっとラインでメッセージを送っているに違いない。
「夜、来るって」
目の前で、千波は嬉しそうに微笑んでいた。
夕飯の支度を千波と二人でしていると、伊織くんが飛び込んできた。手にはやっぱり和菓子の袋を持っている。
「お、元気そうじゃないか」
伊織くんはわたしの顔を見るなり言った。
腰を二つに折る。
「ご心配おかけしました」
「いいのいいの。桃花ちゃんが元気になってくれればな。伝馬のやつによく言っておかないとな」
「伊織!」
千波が首を振る。
一瞬だけ、気まずい雰囲気が漂う。
伝馬って人は忘れたほうがいい。
そこに辿り着くために、きっとおかしくなってしまったのだ。心の奥底に追いやるために、必要な時間だったんだとなんとなく察する。実際目覚めてから、伝馬って人はずっと遠くに行ってしまった気がする。
「伊織も来たし、夕飯だよ。今夜はお好み焼きにしたよ。みんなでわいわいやろう!」
「おー!」と伊織くんと二人で右手を上げる。
その夜の夕飯は確かに楽しかった。久しぶりに楽しい夜だった。
三人でいればそれでいい。こんなに楽しいんだから。これ以上多くを望んじゃいけない。
三人でかわるがわるお好み焼きを焼いた。なぜか伊織くんが焼いたお好み焼きが一番おいしかった。
最後に伊織くんが持ってきてくれた和菓子を食べて、今夜の夕飯は終了。
伊織くんはうれしそうに帰っていった。家に帰ったら飲み直しだと言って手を振りながら。
千波もほっとしたのか、もう寝るわ、と自分の部屋に入っていった。
わたしも今夜は早く休むつもりで自分の部屋に行った。
わたしの部屋からも海が見える。海は街の明かりと船のせいできらきらと水面が光っている。
その光を見ながら、ずっと三人でいられたらいいな、と思った。でもそれは無理なんだ。だって千波と伊織くんはいつか結婚する。新婚家庭にまでもぐりこんではいけない。それにわたしには家族がいる。両親と巽くん。どんな事情と話し合いがあったのかは知らないけれど、きっと家族もわたしの帰りを待っているはずだ。
恐らくは、記憶が戻ってくるのを。
カーテンをぎゅっと握りしめる。
恐れている。記憶を取り戻すのが。本当の自分を知ってしまうのが。
否定する。
楽しい時間だけを考えよう。二人がいればいつだって楽しい。
二人がいれば幸せだ。
そう思い込ませながら、カーテンをひこうとした手が止まった。
マンションの真下、暗がりの中に人が立っている。
どきん、と胸が痛くなる。
あの人だ。海に行こうとしたとき、わたしを待っていた。千波が阻んだあの人だ。
じっとこちらを見上げている。
前ほど胸は痛まない。でも苦しい。
ねえ、あなたは誰なの? そう思うと同時にそっと部屋を抜け出し、玄関のドアを開けて、暗闇に沈む外へ飛び出した。
外の空気はひんやりと冷たく、海が近いせいで少し湿気て重たかった。体に重たい空気をまとわりつかせながら外に出ると、あの人が気がついて、わたしのほうを向いた。
苦しい。
息がしづらい。でも逃げちゃいけない気がしてそこに立っていた。
「明後日、フランスに帰る」
なんの前置きもなしに、突然そう言われた。
フランス。
頭がぼんやりして、なにも考えられなくなった。
「午後の便で。成田から。それだけ言いたくて。せめてそれだけ言いたくて。ここで、待ってた。もしかしたら出てきてくれるかもしれないと思って」
ふわふわの髪を揺らしていた。
「それだけ言いたくて」
苦し気に息を吐き出している。
苦しいの? あなたも苦しいの? なぜ、どうして?
そう問いたいのに、言葉にはならずのどの奥からひゅうっと空っ風が吹くように息が漏れただけだった。
「それだけ言いたかっただけなんだ」
そう言うなりくるりと向きを変え、その人は風のように走り去ってしまった。
暗闇の中に溶け込んでしまってから、わたしはそっと胸に手を当てる。
明後日、成田。フランス。
そんな言葉がぐるぐると頭の中をまわっていた。
翌日から普通の生活に戻った。千波は仕事に行って、わたしは家事をして、動き回る。動いていればなにも考えなくて済むはずなのに、何故か胸の中をフランス、明後日、成田という言葉がぐるぐると回っている。すべてを追い払うようにして、掃除や洗濯をする。
その晩、千波の帰りは遅かった。途中連絡があって、仕事が溜まっているのでかなり遅くなると電話が入った。
わたしは一人で夕飯を済ませ、帰らない千波に諦めをつけて、ベッドにもぐりこんだ。
朝から、正確には昨日から気になっている言葉たちがわたしの心を覆いつくしていてうまく眠れず、何度も寝がえりをうった。
明後日。つまり明日だ。
明日、フランスに帰る。あの人が。
――桃に会いたくて来たんだ
そう言ったあの人が。
布団の端っこをぎゅっと握りしめる。そうしないと胸の苦しさに耐えきれそうにもなかった。
そのうちに千波が帰ってくる音がして、慌てて頭の上まで布団を持ち上げた。
部屋のドアが開く。
「ごめんね、明日はもっと早く帰ってくるからね」
千波の囁く声が聞こえた。寝入っていると信じているわたしに言ったのだ。でもわたしはしっかりと起きていた。
心配してくれている。だからこれ以上、心配かけちゃいけない。
堅くわたしは目をつむった。
翌日は、朝から細かい雨が降っていた。千波はリビングのソファに座って「あー」と残念そうに声を上げた。
「雨の日って仕事に行きたくなくなるのよねえ」
そう言いながら、わたしが淹れたコーヒーをすすり、トーストを齧った。
「忙しいの?」
千波と違って時間に余裕があるわたしは、千波の世話をかいがいしく焼きながらそう尋ねた。
サラダとゆで卵を千波の前に置く。
「ここんとこね。でも昨日みたいに遅くはならないから」
急いで朝食を食べ、千波は慌ただしく出て行った。
わたしにはいつもの家事が待っているだけだ。
洗濯機のスイッチを入れ、掃除機を手に取ったところで体の動きが止まった。
壁に掛けられている時計を見る。まだ八時前だ。
午後の便て何時だろう。
一時? 三時? 五時?
もし一時だったら、今から向かわなければきっと間に合わない。
間に合わない。
はらりと涙が零れてきた。なぜ泣くのか自分でも意味がわからない。
涙は止まらなかった。
掃除機を放り出し、自分の部屋に行くと急いで着替えをし、バッグを持って外に飛び出した。雨が降っているのを忘れていた。かまわない。細かい雨だ。
雨は冷たく降り注ぎ、霧のようにわたしの髪や服に落ちてきて、銀色の粒となってまとわりついた。
かまわず走り続け、千波の職場のマンションの一室に辿り着いたときには、髪からしずくがぼたぼたと落ちていた。
「桃花ちゃん!」
パソコンの前に座っていた伊織くんが驚いて立ち上がる。千波も驚いて口を半開きにしている。
肩で息をついた。乱れた息を整える間もなく、わたしは一息に言い放つ。
「お願い、成田まで連れていって!」
悲鳴にも似た声が部屋中に広がった。
二人は困惑の色合いを浮かべていたけれど、なにも気がつかないふりを装って、懇願し続けた。
成田に連れていって。午後の便に間に合うようにして。
「今、行かなかったら一生後悔すると思う。だから連れていって」
もし一人で成田まで行けるなら、わたしはきっと一人で電車に乗っていたと思う。バスでもいい。でもお金もろくに持ってないし、行き方もわからない。なにより黙って遠い場所まで出かけていって、また二人に迷惑をかけたくない。だから頼んだ。
一生懸命、涙すら浮かべて。
何度もお願いして、伊織くんは根負けした。
「わかった。連れていってやる」
静かにそう言った伊織くんとは対照的に、千波は激しく止めた。
「成田に行ってどうするの。仕事だって溜まってるのよ」
「桃花ちゃんが優先だ。千波は黙って仕事していればいい。おれが送ってくる。今から飛行機を調べるよ」
パソコンの前に座って伊織くんが手を動かしたのはほんの少しの時間だ。いすから立ち上がると支度を始めた伊織くんを見て、反対するのは無駄だと思ったのかもしれない。
千波は大きく息を吐いてから前髪をかきあげる。
「わかった、わたしも行くわ。二人だけじゃ心配」
そう聞いて、わたしはまた涙腺が緩んだ。
成田に行ける。行ってどうしたいのか何をしたいのかはわからない。ただ行かなければならない気がしていた。どうしようもなく心が急いていた。
「車出すよ」
そう言って伊織くんは車のキーを指に引っ掛けた。
車の中ではみんな押し黙っていた。空気が重苦しく感じるほどだ。
千波は納得しきれていないのか、いつもなら後部席に並んで座ってくれるのに、今日は助手席に乗って窓枠に肘をついて外ばかり眺めている。
バックミラーに映る伊織くんの顔はどこか険しい。
そんな二人の後ろでわたしは祈るように両手を組み合わせていた。
成田に行きたい。午後の便に間に合いたい。
その午後の便が何時なのかも知りもしないのに。
車は小雨を切り裂くように高速を走り、成田空港の駐車場に入った。車が停まるとわたしは外に飛び出した。
成田に来て、あの人に会って、それからどうしたいのか自分でもよくわからない。けれど会わずにはいられない。このままでは駄目だと心が叫んでいる。
自動ドアをくぐり、あちこち走り回る。今にも出国しようとしている人達はたくさんいて、大きなスーツケースを引きずっている人もいる。
たくさんの人がいた。なのに、あの人だけが見つからない。
周囲がよく見えるように、エスカレーターで二階にのぼり、柵に摑まって目を凝らす。どこにも見つけられない。
当たり前だ。時間だって知らないのだから。
今にも崩れてしまいそうになる体を柵に寄りかかってなんとか踏ん張る。
「満足?」
後ろからついてきた千波にそう声をかけられた。
振り返らなかった。千波の声が、いつもと違って冷たく響いたからだ。
「もう満足でしょう。成田まで来たんだから」
肩に手をかけられた。
その通りだった。目的はとりあえず達した。でもあの人に会えていない。
二階からありみたいに動く人たちから目が離せない。体も目もそこから動かせなかった。
どきん、と突然胸が鳴った。激しく波打ち始める。
これから出国していく人の中に、光を見た気がした。
頭の中で写真をめくるみたいに様々な場面が浮かんだ。
その中にあの人、伝馬、が、いた。
見つけてしまった。
わかってしまった。
これから今まさにゲートを抜けようとしている伝馬に。
目の奥が熱くなって、みるみる涙が盛り上がってきた。頬に涙が伝うまでそう時間はかからなかった。
「陸、ちゃん……」
つぶやいた一言に、千波が反応した。
「桃花、今、なんて言った?」
「陸ちゃん……」
様々な思いが溢れ始めた。
行かないで。行っちゃいや。一人にしないで。おいていかないで。
――約束。必ず、迎えに来る
あの日、確かにそう言われた。
――だから待ってて
そうだ。そう言われた。
ゲートをくぐらないで。行かないで。
「思い出した」
ぽたぽたと涙を零しながら、つぶやく。
思い出した。
あの日もこうやって遠くから見送った。本当は行ってほしくなかったのに。ずっと一緒にいたかったのに。でもそれがうまく言えなくて。だから迎えに来るって言ったその一言を信じて。
行かないで。一人にしないで。
体が動いていた。床を蹴って階段を駆け下りる。
「陸ちゃん。陸ちゃーん」
思い切りの声で叫ぶ。人をかき分けて、何度も名前を呼ぶ。わたしの声に驚いた人達の視線が集中する。かまわずに走って、呼び続ける。
こんな大勢の人の中で届くはずがない。
でも、彼は気がついてくれた。
後ろを振り返り、駆けているわたしの姿を見つけてくれた。
そうだ。
どんなにたくさんの人がいたって、わたしは見つけられる。
愛しいたった一人の人を。
だって愛してる人は、たった一人しかいない。
十万人の中からだってわたしは見つけ出せる。
「陸ちゃん!」
見つけ出して、そしてわたしは何度も恋をする。
たった一人の愛しい人に。何度も、何度だって。きっと生まれ変わっても、陸ちゃんに恋をする。
「陸ちゃん!」
驚いた顔をしている陸ちゃんの胸の中に飛び込んでいた。
勢いをつけていたから、陸ちゃんの体がぶれた。
「おいていかないで。連れていって。一人にしないで。ずっと陸ちゃんのそばにいる」
しがみついて、一気に放つ。
あの日、言いたかった。でも言えなかった。それがわたしをどんどん追い詰めていった。
「桃、おまえ、記憶が?」
目の前にいる陸ちゃんは戸惑った表情をしている。
「違うの。なんにも思い出せてないの。でも陸ちゃんだけは思い出した。わたし、本当は行ってほしくなかった。あの日、本当はそう言いたかった。でも陸ちゃんの夢を叶えてほしくて。だから迎えに来るって、いつか必ず迎えに来てくれるってそう信じると決めて。でもわたし」
泣きながら、懸命に訴えるわたしを、陸ちゃんは思い切り抱きしめてくれた。
「もういい、なにも言うな。迎えにきた」
抱きしめられながら、陸ちゃんの言葉を聞き続けた。
知っている。この胸のぬくもりを、わたしは確かに知っている。
「桃、一緒に行こう。もう離さない。永遠に一緒にいよう」
熱く囁かれる言葉を泣きながら受け止めた。
過去のわたしがどうであろうともうどうでもいい。陸ちゃんがいてくれればいい。陸ちゃんだけを思い出せればいい。
「陸ちゃん」
顔をあげると、そこに陸ちゃんがいた。細くてすんなりとした指が、頬に零れた涙を拭き取ってくれた。
しばらくそうやってお互いの顔を見つめていた。
それからまた思い出したように、陸ちゃんは強い力で抱きしめてくれた。
「愛してる」
耳元に聞こえた甘やかな声。
ああ、陸ちゃんだ。
二度と離さない。なにがあっても。永遠に。
背中に視線を感じて振り返ると、千波と伊織くんが笑いながら立っていた。
伊織くんは照れくさそうにこほん、と空咳をひとつした。
「あー、ラブシーンはそのくらいにしてだな」
突然恥ずかしくなって陸ちゃんから離れようとした。でもぎゅっと腰に手を回されていて動けない。
「桃花ちゃん。これ」
パスポートとチケットを伊織くんは差し出した。
「もしかしたら思い出すかもしれないと思ってな。一応持ってきた。おれはな、本当はなにもかも思い出してほしかった。だってそうだろう? 桃花ちゃんのいる場所は伝馬のとこしかないからな。だから一応取っておいた。乗らなきゃキャンセルするつもりだった」
差し出されたパスポートと伊織くんの顔を交互に見る。伊織くんは笑っていた。
「伊織くん」
涙がまた溢れてくる。
どこまで、一体どこまでやさしくしてくれるんだろう。こんなわたしの為に。
「桃花、記憶取り戻した?」
不安気に、千波が尋ねた。
「ううん。でも陸ちゃんのことは思い出した。思い出とか細かいのは駄目だけど、陸ちゃんの存在だけ」
「うん、それでいいんだよ。桃花、ついていきな。荷物はあとで送るから。ご両親にはわたしから話しておく」
ほっとしたのか、千波の顔に笑みが浮かぶ。
「びっくりするね、きっと」
泣きながら、笑った。
「いいのよ、それで。わたしはね、伝馬の存在が記憶をなくした桃花を苦しめるんじゃないかってそう思ってたの。実際、桃花はとても苦しんでた。もうそういう姿は見たくないって。だから会わせたくなかった。でも違った。桃花の幸せはやっぱり伝馬がそばにいる。これなんだよ」
「千波……」
「記憶なんかいつか戻るよ。戻らなくてもいいじゃない。伝馬がいればいいんでしょう?」
千波は片目をつぶる。
「うん。そのとおり」
「伝馬、桃花ちゃんを頼んだよ。いつかまた日本に帰って来るんだろう?」
「ああ、今の仕事が終われば帰ってくる。日本で店を開く。今回、その打ち合わせもあって帰ってきたから多分、一年以内には」
「そうか。待ってる。いってこい。桃花ちゃんを連れて」
伊織くんと陸ちゃんは固く握手をした。
「いってくるよ。伊織くん、千波」
チケットを手にしてわたしは真っすぐに二人を見た。
「行ってこい。桃花ちゃん、幸せになるんだぜ」
「もちろん」
「桃花、メールとかできるようになったら送ってね」
ゲートをくぐろうとしていた足が止まる。
「巽くんに結婚するように言っておいてね」
心のどこかで引っかかっていた。心残りがないようにわたしは振り返ってそうつけくわえる。
「任せておいて!」
千波が胸を張って言ってくれたので安心して二人に見送られ、陸ちゃんと二人でゲートをくぐる。
手を握りしめて。
もう二度と離さない。
飛行機の中で、わたしはずっと陸ちゃんの手を握りしめていた。陸ちゃんもずっと離さなかった。
その手のぬくもりが暖かい。
飛行機の中の空気はエアコンが効いていてとても寒かった。空気も乾いていた。途中、陸ちゃんはブランケットをもらったほどだ。でもわたしは寒くはなかった。
陸ちゃんの手を握り、その肩に頭を寄せたり、胸に頬をうずめているだけで充分だった。
久しぶりに、ほんとうに久しぶりにわたしはぐっすり眠った。なんの夢も見なかった。
陸ちゃんがそばにいる。ただその安心感に包まれて眠り続けた。
空港に降り立つと陸ちゃんは大きなスーツケースを持って先に歩き始めた。陸ちゃんには住み慣れた街でもわたしには違う。なにもかもが初めての場所で、迷子にならないように、必死で後を追う。
バスと地下鉄を乗り継いで、そのまま陸ちゃんのアパートに行くのかと思ったら、連れていかれたのはタワーホテルだった。
「ホテル……」
空まで伸びていくホテルと見てぼんやりとつぶやく。
「今夜はここに泊まろう。空港で予約しておいた。アパートは散らかってるし」
照れ臭そうに、陸ちゃんは鼻の頭を掻いた。
「いいのよ。そのくらい気にしないわ」
実際少しくらい汚れてても気にしない。問題は陸ちゃんと一緒というところだから。陸ちゃんといればどんな場所だって、わたしは何も感じないし、きっと見えない。
「今夜だけ。桃とおれの再会を祝して。おれ達はここからすべてを始めるんだ。それにこのホテルからだとパリの街が見渡せる。桃に見せてあげたいんだ」
そう言われると返す言葉が見つからなかった。
陸ちゃんなりに気を使って思いやってくれる。それがうれしかった。
陸ちゃんとチェックインした部屋は、大きなダブルベッドにサイドテーブル、ソファがあった。なにより窓が大きくて広い。確かにパリの街が見渡せる。
「すごーい」
部屋に入るなりわたしは窓ガラスに両手をつけて街を見下ろした。
「すごいだろ。この風景を桃に見せたかった」
後ろからそっと肩を抱かれる。
「もう、どこにもやらない」
耳元で呟かれた、全身がかっと熱くなった。
どこにもいくつもりなんかない。
抱かれながら、陸ちゃんのぬくもりを確かに感じていた。
その日はルームサービスを陸ちゃんが頼んでくれた。外に出るのはわたしが疲れるからというの理由だったけど、運ばれてきた料理を見てびっくりした。
ステーキにサラダ、前菜のマリネ、デザートもついていたし、シャンパンまで並べられた。
「こんなに頼んだら高いわ。わたし……」
料理を見てうつむいてしまった。
もともと千波はあんまりお金を持たせてくれなかった。もちろんカードも持っていない。おまけに着のみ着のままで飛行機に乗ったから財布の中はほぼ空に近い。
情けないやら恥ずかしいやらで、まともに陸ちゃんの顔が見られなかった。
「言ったろ。今日は二人のお祝い。桃と再会できた記念日。金の心配なんかしなくてもいい」
まるでわたしの心を見透かしたように、陸ちゃんは言った。
「でも……」
やっぱりこんなのよくないって思ってしまう。宿泊代だってあるのに、と思わず親指の爪を噛んでしまう。その指を、陸ちゃんはすっと握りしめ、唇から手を離した。
「親指の爪の形が悪くなる。桃にはいつもきれいな爪の形でいてほしい」
かあっと顔が火照る。
かっこよすぎるんですけど。
思わず言いたくなってしまった。元からこんな人だったのかしら。だってわたしが思い出したのは陸ちゃんと離れ離れになったことと、一緒にいたかったというこの二つだけ。
陸ちゃんがどんな人かも思い出せないままついてきてしまった。
これって実は本当はかなり怖くない? でも千波も伊織くんも止めなかったし。
戸惑っているわたしに、陸ちゃんはフォークを握らせた。
「明日からは質素だよ」
そう微笑まれて幾分ほっとした。
今夜は遠慮なく料理をいただくと決めると、猛烈な空腹感に襲われた。
飛行機の中でもあまり食べていなかった。ずっと陸ちゃんの手を握っていたから。
「いただきます」
ぺこりと頭を下げて、ステーキから食べ始めた。久しく食べた記憶がないほど料理はどれもおいしかった。
夕食が済み、陸ちゃんがシャワーを浴びている間、わたしはずっとパリの夜景を見つめていた。
千波と住むマンションから見える海の夜景もきれいだったけど、この街はそれ以上の美しさを持っている。
この街で陸ちゃんがずっと生活をしていたのだと知ると、いとおしくてたまらない気持ちになってくる。
「桃、入る?」
後ろから声がかかった。振り返ると、バスローブを羽織った陸ちゃんが髪からしずくを滴らせて立っている。
バスローブの間から筋肉質の胸が見えてどきりとした。服に隠れている間は見えなかったけど、陸ちゃんはスレンダーで髪が濡れているせいか、やけに色っぽくて目のやり場に困ってしまい、また窓の向こうに目を向けた。
「使っておいで」
返答に困った。でもシャワーを浴びてすっきりしたい気持ちはある。飛行機に何時間も乗って、肌寒かったけど、なんとなく体が汚れているような気がした。そんな体にこれ以上陸ちゃんに触れられたくないなって気持ちもあった。
「あ、うん、じゃあ」
できるだけ陸ちゃんを見ないようにして、距離を取ってシャワールームに飛び込む。
バスタブもあったけど、それにお湯は溜めず、シャワーを頭からかぶった。髪も体も念入りに洗って、脱衣所に出てバスタオルを手に取ってから気がついた。
パジャマがない。
あるのは備え付けのバスローブがあるだけだった。陸ちゃんが着ていたのと同じベージュ色のバスローブがかごの中に入っている。
まさかこれまで着ていた服をそのまま身に着けるもためらわれて、思い切ってバスローブを羽織った。きっちりとひもを締めて、できるだけ胸が見えないように自分の体を抱きしめて、ベッドルームに戻る。
陸ちゃんはソファに座ってルームサービスで頼んだシャンパンの残りを飲んでいた。「おいで」
そう言われて、体を抱きしめたまま陸ちゃんのそばに寄る。
グラスをテーブルに戻した陸ちゃんは静かに立ち上がり、わたしの体を抱き上げた。
お姫様だっこされ、全身が固まった。
恥じらうわたしの気持ちを無視して、ダブルベッドまで運ばれる。
柔らかいシーツはひんやりと冷たかった。
なんの前触れもなく、陸ちゃんの顔が近づいてくる。
「待って」
右手を広げて陸ちゃんの顔の前に突き出した。片手はバスローブがはだけないようにしっかりと押さえている。
この先になにが待っているのか、記憶がなくてもぼんやりわかる。
恥ずかしさに心が爆発しそうだった。
右手は陸ちゃんの顔の前、もう片方はバスローブの前をぎゅっと握りしめて、わたしはうつむいた。顔が熱い。
「あ、あの、わたし、記憶がないの」
必死に訴える。
「わかってる」
涼し気な口調で返されて恥ずかしさが増していく。
「きっ、きっと陸ちゃんとしたんだと思うの」
「何回もした」
頭の上に降ってきた陸ちゃんの声を聞いて、更に羞恥心が増す。
わたしが覚えていないことを陸ちゃんはしっかりと覚えているんだと思うと、どうにも恥ずかしくて仕方ない。
恥ずかしがって身を捩るわたしの上に、陸ちゃんが覆いかぶさってきた。ぺろりと首筋を舐められる。
ぞくっと首から背中が震える。
この舌の感触をわたしは確かに覚えている。でもそれだけだった。ほかはなにも思い出せない。
くっとのどの奥をつぶしたような陸ちゃんの笑い声が聞こえてきた。
堅く目を閉じる。
「記憶がなくなってても桃は変わらない」
もう一度首筋を舐められて、自分でも信じられないくらい甘ったるい声が自分の唇から飛び出した。
「ここ、桃が感じるとこ」
楽し気に笑って言うものだから、恥ずかしさよりも悔しさが沸きだしてきた。
何も覚えていないのを理由にして、陸ちゃんが遊んでいるように感じてしまって、それがなんだか悔しかった。
「それからここも」
陸ちゃんの唇が、首筋から下に落ちていき、堅く握っていたバスローブの中に入り込んできた。
抵抗のつもりで握っていた手は、自分の意志とは無関係にだらりとベッドの上に落ちる。バスローブがはだけて、素肌があらわになったのをエアコンの風で感じた。
陸ちゃんはわたしの背中に手を回しながら、鎖骨から胸へと唇を移動させた。あっという間もなく、乳房から乳頭に移った唇の感触はわたしを陥落させた。
ベッドの上に座っていられなくなり、呆気なく倒れてしまった。
「わ、わたし、初めてみたいなものだから!」
顔を横にそむけて、そう言い切った。
記憶がないのだから初めてだと言ってもいい。なのに唇が体を這っているだけで、全身が泡立つような心地よさを感じた。股間の間からぬるりとした生暖かい液体が零れてくる。
「知ってる。桃のことは全部知ってる。なにも心配しなくていい」
耳元で囁かれる言葉が気持ちよかった。
わたしも知ってる。この唇の感触も、息遣いも。
「なにも心配してなくていい」
胸に顔をうずめた陸ちゃんは、わたしの体のあちらこちらを撫で、そのたびに体が喜びに震えてくる。
ああ、わたしってこんないやらしい人だったんだと思いながら、陸ちゃんの愛撫を受け止める。だらりとベッドに落ちていた手は、いつの間にか陸ちゃんの背中にしがみついていた。
陸ちゃんの手が体を撫で続けたおかげで、バスローブはすでにその意味をなくし、半裸になりながら、わたしは陸ちゃんを受け入れた。
顔をのけぞらせて、悲鳴にも似た声をあげながら、陸ちゃんの名前を何度も呼んだ。
太腿が濡れそぼっている。
恥ずかしいとは思わなかった。いつまでもこうして抱き合っていたかった。
わたしの体は陸ちゃんをちゃんと覚えていた。
それがたまらなくうれしくて、陸ちゃんにしがみつきながら泣いていた。
心地いい。
陸ちゃんの腕の中も。素肌に当たるエアコンの空気も、糊のきいたシーツも。
頭の芯はぼうっとしていた。でも心地よさを全身で感じながら、わたしはうっすらと目をあけて、ホテルの明るい天井を眺めている。
こんな明るい部屋ですべてをさらけ出したのに、不思議と羞恥心はなくなっていた。
「おれが高校に入学した春に」
突然思いついたように、隣にいた陸ちゃんが口を開いた。
「父親が仕事で九州の博多に転勤になった」
もちろん覚えていない話だったから、耳を傾ける。
「母さんは父さんについていくって言ったんだ。おれも来いって言われたけど、おれ、断った。高校で転校はいやだったし、なにより桃がいたから」
布団の中にあったわたしの手を、陸ちゃんはぎゅっと握った。
「両親は二人で博多に行って、おれは一人暮らしになったけど、少しも寂しくなかった。桃がいたから」
そうなんだ、わたしの存在って大きかったのね。
陸ちゃんの胸に頬を寄せる。心臓の音がとくとくと聞こえてきて、本当に近くにいるんだと感じる。
「桃がよくケーキやクッキーを買ってきておれの家で食べたんだ。桃なりのやさしさだったと思う。おいしそうに楽しそうに食べる桃を見てて、パティシエになろうって思ったんだ。桃の幸せな顔がいつも見たかったから。桃、待たせて、ごめんな」
そう言って陸ちゃんはわたしの髪を撫でてくれた。
激しく首を振る。
もうどうでもいいのよ、そんなの。
そう言いたかったのに、のどの奥がつまってしまったみたいになってなにも言えなくなってしまった。かわりに涙がまた零れた。頬を伝って陸ちゃんの胸まで流れる。
「ごめんな」
人差し指で陸ちゃんは涙を拭いてくれた。
いいのよ、本当に、もうどうでもいいの。
知ってる? 気がついてる? わたし今、とても幸せなんだから。
6
陸ちゃんとフランスで一年過ごし、わたし達は帰ってきた。一年ぶりの日本はやたらと暑かった。
成田には、千波と伊織くん、巽くんが迎えに来ていた。巽くんは海にでも行ったばかりなのか、ひどく日に焼けていた。
「桃花、おかえり」
ゲートをくぐると、千波が抱きついてきて、ああ、日本に帰ってきたんだと実感した。フランスでの生活は悪くなかったけれど、やはりみんなと離れているのは少しだけ淋しかった。
伊織くんが運転するワゴン車に乗り、わたしたちはかつて住んでいた街に帰ってきた。そこで陸ちゃんは念願だったお店をオープンする。フランスに滞在している間に、陸ちゃんは何度かこちらに帰っていて、店舗をあらかじめ決めていた。最初は洋菓子を売るだけだけれど、いつかはカフェもやりたいと言っている。そんなときの陸ちゃんの目は、いつもキラキラしている。
ああ、お菓子が本当に好きなんだと実感する。記憶のないわたしは、陸ちゃんをうまくサポートできない。かわりにフランスの店で知り合ったロザリーという人が手伝ってくれる。陸ちゃんが言うには、彼女は優秀なマネージメントをするらしい。
「で、店はいつオープンするんだ?」
ハンドルを握った伊織くんが尋ねた。
「秋には」
助手席に座っていた陸ちゃんは素っ気なく答える。陸ちゃんのおしゃべりはいつも抑揚がなくて、感情がこもっていないように聞こえる。だから損をしてしまうときもあったりする。
「そか。楽しみだなあ。おれ、一番最初に買いにいくよ」
店の話で盛り上がる二人とは別に、わたしと千波は後部席でおしゃべりに花を咲かせる。なにしろ一年も会わなかった。積もる話はたくさんあって尽きない。
わたしがフランスに行ってから、二人は一緒に暮らし始めたと聞いてうれしくなった。入籍はまだだけど近々考えているらしい。
そんな話やらフランスでの話をするものだから二人の口は止まらない。
夕飯を一緒に、と伊織くんは言ったけれど、わたしたちは辞退した。今夜はわたしの家に泊まる。なにしろ突然フランスに行ってしまって、あとは電話でしか両親とやり取りしていない。きっと心配している。
伊織くんはわたしの家までちゃんと送ってくれた。
玄関のドアを開けると、お父さんとお母さんが出迎えてくれた。芽衣ちゃんもいる。芽衣ちゃんは少し恥ずかしそうに近付いてきて、「いつかはごめんなさい。でもちゃんと結婚できたから」と囁いてくれた。
わたしがフランスに行って安心したのか、それから半年と経たずに二人は入籍していた。結婚式はしなかった。わたしは電話で報告を聞いて、お祝いにお金を少しと陸ちゃんの焼き菓子を送っていた。
「もういいのよ」
そう答えると、芽衣ちゃんは心底ほっとしたように頬を緩めた。あのときあんなふうに言って本音はとても後悔してたんだ。なんだか少し気の毒になってしまった。そこまで追い詰めたのはわたしだから。でもすべてがチャラになった。
リビングのテーブルにはわたしが大好きな料理がたくさん並んでいた。
六人でテーブルを囲み、お父さんは上機嫌でビールを飲み、陸ちゃんにも勧めた。
「なあ、伝馬、住むとこが決まるまで、うちでずっと暮らせばいいじゃないか」
「巽の提案はありがたいけど、とりあえずはうちで暮らす。空き家のままだと家が傷むから」
陸ちゃんの家は、ここから車で五分ほど離れた場所にある。陸ちゃんのご両親はまだ博多で仕事をしている。いずれは帰ってくるとは聞いているけど、いつ、という具体的な話は出ていないようだった。なので今は誰も住んでいない。
「おれ、姉ちゃんと暮らすの、けっこう楽しみにしてたんだけどな」
「ありがとう、巽くん。でも陸ちゃんの意見にわたしも添いたいから。ごめんね。それにここには芽衣ちゃんもいるんでしょう。二人の邪魔をしても悪いわ」
仕事の都合もあったのかもしれないけれど、芽衣ちゃんは同居してくれている。アパート代を浮かせて、いずれ自分たちの家を買うつもりだからと巽くんが言っていた。
「いいんだ。姉ちゃんがいいならさ」
少しむくれてしまった巽くんをフォローするみたいにして、芽衣ちゃんが教えてくれた。巽くんは店のマネージャーに昇格したと。
「わあ、すごい」
手を叩いてわたしははしゃぐ。
照れ臭そうに巽くんは頭を掻いた。
「マネージャーって言っても雑用が増えただけでさ」
そんなふうに言いながらもうれしそうだ。
仕事もプライベートもうまくいっている巽くん。きっとわたしがフランスに行って安心したんだろうなあ。
その夜、陸ちゃんは巽くんとお父さんに遅くまで付き合わされた。お酒をたしなまないわたしは早く布団に入ったけれど、陸ちゃんは日付が変わるまで寝かせてもらえなかったらしい。当然翌日に響き、昼近くなって起き出した。
遅い朝食を摂ってから、両親に別れを告げ、陸ちゃんの家にやってきた。しばらく住んでいなかった家には、淀んだ空気が漂っていて、少し埃っぽかった。
すぐにリビングの窓を全開にする。夏の暑い空気に包まれる。
「桃、本当は実家で暮らしたかった?」
後ろから抱きしめられる。胸のあたりに陸ちゃんの腕がきて、わたしはそっとその腕を摑む。
「陸ちゃんがいるところがわたしの住む家だからいいの」
「早く新しい家を探す。ここだといつか父さんたちが帰って来るから」
「慌てなくてもいいのよ。陸ちゃんがいるだけでいいんだから」
そう、今は陸ちゃんがいるだけでいい。それだけで充分だった。
翌日から陸ちゃんは精力的に動き始めた。店のオープンの準備に追われ、合間に二人で暮らすための家を探している。わたしはそんな忙しい陸ちゃんを少しでもサポートする為、せっせと実家に帰ってはお母さんから料理を習った。
記憶を失ってからガスコンロを使ってはいけないと常々言われていたけれど、フランスではそうもいかなかった。かといって料理方法も覚えていなかったから、慣れない土地で三度の食事にはひどく気を使った。陸ちゃんもフォローはしてくれた。でもいつまでも甘えていてはいけない。
フランスですでに人気パティシエとして注目されていた陸ちゃんは、日本に帰ってからも取材に追われた。あまり人前には立ちたくないと陸ちゃんはたびたび零しながら、店の宣伝になるならと引き受けた。
わたしには想像もできないほど忙しい思いをしていると思う。せめて食事くらいなんとかしたかった。
家に帰るたび、わたしは料理を学び、陸ちゃんに披露した。
なにをつくっても陸ちゃんは素直に喜び、誉めてくれた。
やさしく穏やかな時間だった。わたしにとっては。
カレンダーが八月の終わりになるころ、陸ちゃんが新築のマンションを見つけてきた。そこは以前、千波と二人で住んでいたマンションからとても近くて、バルコニーから海が見えた。
ひと目で気に入り、翌週には二人で引っ越した。たいした荷物はなかったけれど、千波と伊織くんが手伝いに来てくれた。
三LDKの間取りは二人には充分だった。大きな家具と家電製品は新しく購入し、すでに運び込んでもらっていたから、わたしたちは身の回りのものだけを持っていけばよく、夕方にはすべて片づいてしまった。
「なんかあっけない引っ越しだったなあ」
リビングの真ん中に立ち、伊織くんはあたりを見回した。
「いろいろ新しく買ったから。二人共お夕飯食べて行って。ピザを頼むから」
シンクでグラスを洗いながら、わたしは首を伸ばした。
「いやー、なんか新婚さんの家に長居するのは、気が引けるなあ」
などと伊織くんは言っていたけど、ちゃっかりソファに座り込んでいる。
「なあ、伝馬。なんでここに決めたんだ?」
向かい側に座った陸ちゃんに、伊織くんは聞いた。
「桃が、海が見えていいって」
「ピンク色のカーテンは?」
「桃が決めた。この色がいいって」
「じゃ、黄色のラグは?」
「桃が……」
「あー、もうええわ。頭痛くなってくる」
額に手を当て、伊織くんは天井に顔を向けた。
くすくすと笑いながら、わたしはみんなにグラスを配り、ローテーブルに缶ビールを置いた。それから電話でピザやサラダを注文する。
こうして四人で集まって話をするのは、フランスから帰ってきてから初めてだった。陸ちゃんは休みなく動きまわっていたし、伊織くんも会社が忙しそうだった。
四人でいると、高校生のころもこんなふうだったのかなと、ぼんやり思う。
ほとんど一方的に伊織くんが話し、陸ちゃんは聞き役だった。
伊織くんは店の話を聞きたがった。陸ちゃんが淡々と答える話からすると、思ったよりも順調に店の準備が整っているし、すでに問い合わせが入り、オープンの日にはホールケーキの予約が入っているらしい。
そのうちにインターフォンが鳴ってピザが届いた。
宴会が始まる。
伊織くんは機嫌を良くし、千波も楽しそうだった。夜十時頃になって帰っていった二人を、エントランスまで見送った。
帰り際、千波にはわたしの手を握った。
「よかったね、桃花。あとは結婚式かな? 入籍もちゃんとしなきゃね」
「ありがとう」
その通りだった。わたしたちはまだ入籍していない。
部屋に戻り、寝る支度をして二人でダブルベッドにもぐりこむ。陸ちゃんは髪を撫でてくれた。
「いろいろ、ちゃんとしなきゃな」
穏やかに言う陸ちゃんの胸に頬をうずめる。正直、形なんてどうでもよかった。陸ちゃんがいるだけでよかった。でもそう言ってくれてうれしかった。
胸に額を押し付ける。
その晩、ぐっすりとわたしは眠った。陸ちゃんに抱かれながら。
新しいマンションに引っ越しても陸ちゃんの忙しさは変わらない。朝早く出て、夜遅くならないと帰ってこない。どんなに夜遅く帰ってきても夕飯を食べずに待っている。必ず食事は二人で摂る。陸ちゃんには内緒にして決めたルールだ。
その夜も陸ちゃんは十時を過ぎて帰宅した。リビングでソファに座ってテレビを見ていたわたしはいつの間にか眠ってしまっていた。ドアが開く音がして、慌てて飛び起きて出迎える。
「寝てたのか?」
「ううん、うとうとしてただけ」
外で一生懸命働いている陸ちゃんに、まさか寝ていたなんて言えない。
「嘘つけ。頬に服の跡がついてる」
ぎゅっと陸ちゃんは頬をつねる。怒ってはいない。心配そうにしているだけ。
「ごめんなさい。お腹すいたでしょ。ご飯の支度はしてあるからね」
今夜は肉じゃがと鮭のムニエルだった。急いでテーブルを整え、陸ちゃんと向き合って食べ始める。
「なあ、桃」
「うん? なあに?」
じゃがいもを頬張る。我ながら会心の出来だ。なんたって講師がいい。
「無理して待ってなくていい。先に寝てていいし、夕飯だって食べていい」
「迷惑?」
箸が止まった。
「いや、桃が無理してるんじゃないかと思って」
「無理してないよ。ぜんぜん。お夕飯だって陸ちゃんと一緒のほうがおいしいもん。陸ちゃんのほうが迷惑?」
「そうじゃない。おれも桃と一緒のほうがいい」
「なら待ってる」
「そうか」
実はけっこう無理をしていた。だから転寝なんかしてしまった。夜遅くまで起きて、朝早く、陸ちゃんよりも先に起きるって、大変だった。でも忙しい陸ちゃんに真実は言えないし、自分に甘えたくない。
夕飯を済ませて陸ちゃんはすぐに寝入った。わたしが後片づけを済ませてベッドに行くと、陸ちゃんは息をしてないで寝ているように見えて怖くなった。
胸が上下しているのを目にして、ほっとする。
目覚まし時計は朝五時にセットした。目覚めたら朝食の支度をして、掃除をして、洗濯もして。
やらなきゃいけない家事は山積みだ。
数日後、わたしは熱を出した。起きると体が怠かったけれど、無理してキッチンに立ち、陸ちゃんが起きるのを待つ。体が重いせいか動きが鈍い。挙句、めまいを起こしてシンクに寄りかかるようにして倒れ、水切り籠にあった皿が落ちて割れてしまい、派手な音をたてた。
「やだ。片付けないと」
シンクの縁に手をかけて、やっとの思いで立ち上がると、驚いた顔をした陸ちゃんが立っていた。
「どうしたんだ?」
割れた皿に目をやっている。
「なんかよろけちゃって。こっちに来ないで。欠片を踏んだらいけないから」
ストップをかけたのに陸ちゃんは平然として近付き、わたしの額に自分の額をくっけた。
「熱があるじゃないか」
ひょいと抱っこされていた。
「寝てなきゃ駄目だ」
「大丈夫。たいした熱じゃないから」
「駄目だ」
有無を言わせず、ベッドまで運ばれて、体温計を口の中に入れられる。
五分待ち、陸ちゃんはまじまじと体温計を見た。
「七度もある」
「七度しかないわ」
「駄目だ。今日はここから動いたら駄目だ」
「でも、ご飯の支度とか、掃除とか」
「掃除なんか一日くらいしなくても平気だ。ご飯は外で買ってくる」
「洗濯だってあるし」
「明日でいい。今日はここから動いたら駄目だ。おれもどこにも行かない」
「えー。それは駄目よう。陸ちゃん、仕事が」
「一日くらい休んだって支障ない」
「陸ちゃん」
押し問答が続く。忙しい陸ちゃんを休ませたくなかったら、大丈夫と何度も言ったのに聞き入れてくれなかった。最後にはわたしが折れるしかなくて、でも仕事にはやっぱり行ってほしくて千波にヘルプの電話をかける羽目になった。
夏らしいブルーのブラウスを着た千波はすぐに飛んできてくれた。入れ替わって陸ちゃんは仕事に出かけて行く。
「まったく、熱って言ったって七度じゃないのよ。熱のうちに入らないわよ」
ベッドの端っこに千波は腰かけた。
「ごめんね」
「伝馬の心配性にも呆れるわ。で、朝はなんか食べた?」
「食べてない」
ずっと陸ちゃんと話していたし、ベッドから出してもらえなかった。
「お粥でもつくろうか?」
やけになっているようにも見えた。無理もない。千波にも仕事があって、休んで来てくれた。
「いいわよ。七度だもん。自分でなんとかする」
起き上がろうとして、千波に押し倒された。
「風邪だろうけどさ、悪化したらわたしが伝馬に文句言われるから起きちゃ駄目」
「はあい」
おとなしく顎の下まで布団を持ち上げる。
「しっかし伝馬に愛されてるねえ」
にたにたと千波は笑う。
「んー、うん」
「ぬけぬけと言ってくれるよ。ま、そうじゃないとこっちも困るけどさ。どっちにしろ今日は寝てればいいよ。桃花のことだから伝馬に付き合って夜遅くまで起きたり、早起きしたりしてたんでしょ」
「ご名答」
「無理しないほうがいいよ。楽にしてさ、生きていけばいいよ」
わたしとしては日々忙しいって、とてもありがたいなと思っていた。忘れた過去を必死になって思い出そうとしなくて済むからだ。
「ま、とにかく寝て。わたしはリビングにいるから。なんかあったら呼んで」
「うん」
千波と陸ちゃんに甘えると決めて、その日はぐっすりと寝た。これまで足りなかった寝不足の分を取り返すように。そのせいか翌日には熱も下がり、すっかり元通りになった。
店のオープンまであと数日だったから、もう倒れるわけにはいかない。
陸ちゃんの足だけは引っ張るまい。なにも手伝えないからこそ、大切だった。
オープン当日は真夏の雲が、空に浮いていた。海もきらきらと光っている。忙しい一日が始まると思うとじっとしてはいられなくなって、手伝いに行きたいとわたしは申し出た。
「駄目だ」
朝一番のコーヒーを飲んでいた陸ちゃんは、いつもと違って激しい口調で一喝した。
「でも、陸ちゃんが一番忙しいときなにもしないなんて。わたし、ここでじっとしているのもなんだか耐え切れなくて」
なにもできないけれど、支えにはなれないけれど、なにか手伝ってあげたい。
「桃は家にいればいい。熱だって出したんだから」
「もう数日も前だわ」
「数日しか経ってない。桃は家にいてほしい。しっかりと家を守ってほしい。おれが安心して過ごせるように」
「それだけでいいの?」
「それが大切なんだ。来て」
陸ちゃんの前に立つ。ソファに座っている陸ちゃんの膝の上にのるように言われ、腰をおろす。
陸ちゃんとの距離が一気に縮まる。
「桃には桃にしかできないことがある。それをちゃんとやってほしい。店は心配しなくてもいい。迷惑をかけないようにおれもがんばるから」
「うん」
額をこつんとぶつけ合う。
納得したようなしないような、微妙な感じではあったけれど、陸ちゃんが言うのもなんとなくわかる。
店に勝手に行ったりすれば、それは陸ちゃんにとって迷惑にしかならない。だからその日もいつもの通り玄関まで見送り、家事に精を出す。掃除やら洗濯やら。
午後にはちょっとだけ遠くまで足を延ばして、大きめのスーパーに行った。普段よりも高めの食材を買って家に帰ると、全身が汗にまみれた。額に浮かんだ汗を手の甲で拭っていると、マンションの前に立っているロザリーに気がついた。
大切な陸ちゃんの仕事のパートナーだ。わたしも何度か会っているのでもちろん顔は知っている。見事なブロンドの髪もブルーの瞳の色も。
もちろん陸ちゃんを間に挟んでしか話したことはない。
陸ちゃんによれば、ロザリーはこのところ店のオープンの為に、二人で走り回っているらしい。オープン初日は忙しいはずなのに、なんでこんなところにいるのだろうかと首を捻った。
「オープンまでのほうが忙しいのよ」
ぼうっと突っ立っていたわたしの気持ちを見透かしたかのように、ロザリーは達者な日本語で言った。
「ああ、そうなんですか。わたし、お店のほうはよくわからないから。あの、せっかくいらしたんですし、お茶でも飲んでいきませんか?」
「そうね。そうするわ」
あっさりとロザリーは家に入ってきた。
エアコンを入れっぱなしのリビングは涼しかった。汗がすうっと引いていく。
ソファをすすめると、ロザリーはためらいも見せずに、すぐに腰かけた。長い足を組む。
「あの、陸ちゃんがいつもお世話になってます」
紅茶を入れたティーカップを差し出して、頭をぺこりとさげた。
「いいのよ。これがわたしの仕事だから」
「それで、今日はお店のほうは?」
「いい感じでスタートを切ったわよ。臨時の手伝いも雇ったからなんの心配もないしね」
ほっとする。
うまくいってよかった。かといって陸ちゃんに直接は聞けない。仕事に首を突っ込むなとまた言われてしまう。
「もう少しして軌道に乗ったらフランスに帰るつもりでいたのよね、わたし」
「ああ、そうなんですか」
「ええ。でもね、ちょっと迷ってるの」
「どうしてですか?」
ロザリーは日本語が上手だった。生活に不自由はしなくても、やはり自分の国は恋しいだろうし、親しい人もフランスにいれば、帰りたくなって当然だと思いながら尋ねた。
「店よりも、リクと離れたくないなあって」
「は?」
ロザリーの唇が片側だけ持ち上がった。意味深な笑みを浮かべている。
「わたしはね、リクがフランスに来たときからサポートしてたの。彼は勘がよかった。パティシエとしての素質はあるなと最初から思って惚れ込んだの。彼の腕にね。だからフランスで大きな賞を取ったとき、今後はわたしに任せてほしいって頼んだの。彼も了承したわ。そしてわたしたちはパートナーになった。これ、どういう意味だかわかる?」
「どういう意味って?」
考え方によってはいろいろな取り方があると思うけれど、わたしは陸ちゃんを信じている。
「プライベートでもっていう意味よ、当然でしょう」
くすっと笑ってしまった。ロザリーは見逃さなかった。
「笑うなんて失礼じゃない」
「ごめんなさい。でも、プライベートって、絶対ないと思ったから」
「どうして?」
「陸ちゃんは、仕事は仕事と切り離す人だから」
でなければ、わたしが手伝うと言ったとき、あんなに拒絶するはずがない。もちろんわたしの体も心配だったんだろうけれど、それだけじゃない。
「仕事とプライベートは別って考えてる人だから。そんな人が仕事に関わりのある人となにかあるわけがないから」
不思議と絶対的な自信があった。その自信が、わたしを支え、こうして対等にロザリーと向かい合わせてくれる。
ロザリーは目を細めてわたしを見ている。
「フランスでなにがあったか知りたくない? いくら腕を見込んでいても異国まで女がついてくると思う?」
「そうですねえ」
しばし考える。
本当のとこはどうなんだろう。実はわたし自身にもあやふやだった。
真っすぐにロザリーを見る。ブルーの瞳がまっすぐにわたしを見つめている。日本人にはない色。それがすべてを見透かしている。なんだか嘘をついてもすぐにばれてしまいそうだ。
「知ってると思うんですけど、わたし、記憶がないんです」
「知ってるわ。リクから聞いてる」
「だからなんにも覚えてない。高校生や大学生だったころのこと。陸ちゃんがフランスに渡ってからも」
そうだ、わたしはなにも覚えていない。思い出せずにいる。それでも陸ちゃんはなにも言わない。
「陸ちゃんがフランスに行ってからわたしがどうしていたのか、きっと陸ちゃんは知りたいと思うの。でも、わたしが覚えていないからもちろん話せない。陸ちゃんは記憶のないわたしを受け入れてくれた。だからわたしも陸ちゃんの過去なんか知らなくていいって思ってるの」
そうだ、と自分で言いながら改めて納得する。大切なのは、過去ではなく、未来につながる今だった。
「わたし、今の陸ちゃんがいればいいの。過去の陸ちゃんもいいけど、大切なのはやっぱり今の陸ちゃんだから。そりゃ、もしフランスでなにかあったとしたら、少し妬けるけど。でも、それも含めて陸ちゃんだから」
胸に手を当てて自分に言い聞かせるように言った。
突然、ロザリーは吹き出した。
「あなたっておもしろい人ね。からかってみようかと思ったけど、それもできないのね。あの堅物なリクが選ぶだけの人だわ。安心して。わたしとリクは仕事上のパートナー。それ以上でもそれ以下でもない。あなたの言う通り。それ以上には見てもらえないの。ちょっとは、期待してたんだけどね」
ぺろりとロザリーは舌を出した。
「もしあなたが、疑うような素振りを見せたら、わたし、邪魔してたかもしれない。でもそんな気もなくなったわ。お茶、ごちそうさま。わたしはまた店に戻らなきゃ」
さっぱりとつきものが取れた顔をして、ロザリーは帰っていった。
一人になって改めて考える。
もしかしてロザリーは宣戦布告に来たつもりだったのかもしれないと。
いつもより早く帰ってきた陸ちゃんは、ケーキの箱を手にぶら下げていた。
「桃のためにつくったんだ。一番最初につくった」
リビングのローテーブルに陸ちゃんは箱をそっと置いた。
「開けてもいい?」
「いいよ」
リボンをほどき、ふたを開けると、水色のケーキが現れた。海を形どっていた。
わたしが好きな海と青い魚が二匹で向き合っている。
「これ、わたしと陸ちゃん?」
「まあな」
空咳を一つして、陸ちゃんは頬を赤く染める。
恥ずかしがり屋で愛情表現があまりうまくない陸ちゃん。変なとこが不器用なんだけど、そこがまた好きだったりする。
「食べるのもったいない」
「桃の為につくったんだから」
「ふふふ、そうね。お夕飯の前に食べるのもなんだから、ご飯にしようか。今日はね、シチューにしたの」
鶏肉をたくさんいれて、野菜もたっぷりなシチューだった。ほかにはサラダ。テーブルにいそいそと並べて、二人で向かい合う。
「お店、どうだった?」
「まあまあ」
スプーンを口に運んで、さりげなく答える。
「売り上げは?」
「まあまあ」
「お客さんて女の人が多いの?」
「まあまあ」
「陸ちゃん」
口に運ぼうとしたスプーンを、テーブルに置き、身を乗り出した。
「全部答えがまあまあなんておかしいでしょ」
わざと拗ねて怒って見せるために、頬を膨らませる。
「でも、まあまあだから」
「ふーん。今日ね、ロザリーが来たよ」
「ロザリーが?」
片側だけ眉を持ち上げる。
「うん、来た」
「なんで?」
「うーん、宣戦布告に来たって感じだった。あの人、陸ちゃんを好きなんだね」
すまして言ってやる。
「それは、ないだろう」
突然、口ごもる。怪しさ満点だ。
「なにか隠してる? 二人でなんか怪しい関係になっちゃった?」
「桃花」
ぴんと張りのある声だった。こんなときの陸ちゃんは少し怒っている証拠だ。わたしは唇を持ち上げて笑う。
「冗談。でも、本当に宣戦布告に来たんだって。だけどわたしに負けたって言ってたよ。ねえ、わたしって強いね」
「強いんじゃなくて鈍いんだ」
「えー、なによ、それ」
「でも、その鈍いとこがいい」
「それ、誉め言葉?」
「ああ」
誉められているなら、良しとしよう。
夕飯のあとで、わたしはケーキにフォークを突き立てようとして、陸ちゃんに止められた。向かいに座っていた陸ちゃんが隣にきて、フォークを奪い取る。真四角のケーキを均等に四つに切り、一つにフォークを刺した。
「あーん」
目の前にケーキが差し出された。
「あーん」
大きく口を開けて一口頬張る。程よい甘さと、ラズベリーの酸っぱさが広がる。
「おいしい」
「だろ。渾身の作品。桃に食べさせたくて。ちなみにこれは非売品。桃のためだけ」
「桃花ケーキだね」
世界中でたった一つのケーキは口の中で甘くとろける。
「もう少しして店が軌道に乗ったら、式をあげよう」
「うん。千波と伊織くんも呼んでもいい?」
「駄目だって言っても呼ぶんだろ」
へへへ、と笑う。だって二人を呼ばないなんてあんまり失礼だから。二人はわたしたちのために一番奔走してくれた。
「海が見えるとこであげたいな」
「どこでも好きに選べばいい。来年の春。春には式をあげよう」
「うん」
陸ちゃんの胸に頬を寄せると、とくんとくんと鼓動が聞こえてきた。不意に涙が溢れてきた。
「桃?」
「幸せだと涙も出るのよ」
そっと陸ちゃんは頭を撫でてくれた。
このままでいい。充分すぎるほど、幸せだったから。ゆるぎない愛情をしっかりと感じた。
翌日、陸ちゃんはいつも通りに仕事に行き、わたしは少しでも陸ちゃんが居心地よく過ごせるように、部屋に飾る花でも買ってこようかとぼんやり考えていた。
家の電話が鳴ったのは、ちょうどお昼ご飯も済んでそろそろ出かけようかなと考えていたときだった。
固定電話にはろくなのがかかってこないと陸ちゃんは嘆くけれど、出ないわけにもいかず受話器を持ち上げると伊織くんの声がした。
「伊織くん? どうしたの?」
なんだかいつもの伊織くんと違って小さな声だったので、なにを言っているのかはっきり聞き取れなかった。
「千波が……」
かろうじて千波の名前が届いて、少し驚いた。
「千波がどうかした?」
「千波が入院した。今、病院にいるんだけど、仕事が溜まってて。悪いけど、桃花ちゃん、来てくれないか?」
「すぐに行く」
緊急事態だ。伊織くんから病院の名前と場所を聞き出して、大急ぎで向かった。マンションからもそう遠くない市内にある病院で、わたしも名前くらいは知っていた。もうすぐ結婚するのだからいつまでも記憶がないのを理由にして、なにもできないままでは困る。
病院に電話をかけて行き方を教えてもらい、電車を乗り継いで、病院に行った。
市内にある個人病院の受付は、昼を少し過ぎていたのに、人だかりができていたし、待合室のいすにはぎっしりと人が座っていた。
寒いくらいにエアコンが効いている病院の中でまっすぐに受付に行き、千波の病室を教えてもらう。
三階にある内科病棟に入院していると知って、受付の脇にあるエレベーターから三階に行く。開かれた扉のすぐ前がナースステーションだった。中ではナース達が忙しそうに動いている。
ナースステーションの目の前にある病室に千波の名前が掲げられていた。
ノックしてから中に入ると背中を丸めて、いすに座っていた伊織くんが振り返った。
「桃花ちゃん、ごめん、急に」
「いいのよ」
後ろ手でドアを閉めて、ベッドに近付いた。寝かされている千波の顔色は透き通るように白い。
「おれがずっといられたらいいんだけど、今、仕事が立て込んでて。千波の親にも連絡してあるからじきに来てくれるとは思うけど、桃花ちゃんのほうが家が近かったから」
悲痛な顔で伊織くんに言われて、千波の両親をよく知らなかったと思い出した。
千波はいつもわたしに気を使ってか、家族の話をしようとはしなかった。伊織くんもだ。だからわたしは二人の家族構成すらよく知らないままだった。
「気にしないで。わたしがついてるわ。伊織くんはお仕事に戻って」
「頼む。過労だって。このところ忙しくて睡眠時間も少なかったから」
わたしがフランスに行ってから、二人は仕事場であるマンションの一室で生活している。仕事場と生活する場所が一緒なら、疲れが取れないのもなんとなくわかる。
「大丈夫、任せておいて」
二本の指で輪っかをつくり、伊織くんを廊下に押しやった。
千波と二人になると、よけい顔色の悪さが気になった。
丸いすを引き寄せて座り、千波の顔をじっと見つめる。
「疲れていたんだね、ゆっくり休んで」
眠り続ける千波に、そっと囁いた。
千波に寄り添いながら、陸ちゃんに連絡しようか少しだけ迷ってやめた。言えばいいように使ったと千波と伊織くんが責められる。これまでずいぶん二人にはお世話になってきた。このくらいで恩返しになるとは思ってはいないが、できることはしてあげたい。
かすかに千波の唇が動き、ゆっくりと目を開ける。ぼうっとしているのか、焦点が定まっていないようで、自分がどこにいるのか、わたしが誰なのかもわかっていないみたいだった。
「千波、大丈夫? わかる?」
布団の端っこに手を置き、わたしは静かに尋ねた。
「うーん」と唸ってから千波は目をこすり、今度はしっかりと見開いた。
「桃花? なんで?」
わたしを認識したみたいで、ほっと息を吐いた。
「仕事中に倒れちゃったみたいよ。それで伊織くんが病院に」
「ああ、そうか」
頭を撫でながら千波は突然体を持ち上げた。
「やりかけの仕事があるの。戻らなきゃ」
そう言って今にもベッドから降りようとする千波を押しとどめる。
「駄目よ。過労なんですって。休んでなきゃ駄目。仕事は伊織くんがちゃんとしてくれるから。ね、だから今は体を休めることだけ考えて。お願い」
「でも」
納得していない千波は困惑の色合いをその顔に浮かべている。
「大丈夫、わたし、ついてるから」
「そんなの、駄目。桃花に迷惑をかけるからなおよくない」
「わたしはいいのよ。千波だってわたしの為にいろいろしてくれたでしょう。だから今度はわたしの番。少しくらい面倒看させてよ」
「桃花……」
千波の目に涙が浮かんでいる。
「なんだかうれしいわ。桃花、本当に元気になったのね」
「わたしは元気よ。これもね、千波のおかげよ。だからお礼はちゃんとしなきゃ。記憶は未だにないけど、ほかはなんともないんだから。だから少し寝てて、休んで、ね」
「うん」
千波は静かにベッドに戻り、わたしは布団を整えた。そのときだった。部屋のドアが開いて、女性が一人入ってきた。病院のスタッフではない。白いブラウスにグレーのフレアスカートという装いだ。
千波にもその人が目に入ったらしい。目を丸くしている。
「お母さん」
千波がそう呼んだので、入ってきた人が千波のお母さんだと知った。
たぶん、記憶をなくす前のわたしはちゃんと知ってたはずだ。
「過労ですって? だからあんな仕事はやめなさいって言ったのに」
少し怒ったように千波のお母さんの口調は尖っていた。
きれいな人だった。肩を超える髪には緩くパーマがかかり、念入りに化粧もしていた。指には小さなピンク色の石がついた指輪をして、シルバーのブレスレットが部屋のあかりできらきら光っている。
こんな人だったんだ、と丸いすに座りながら、わたしはぼんやりと千波のお母さんを眺めていた。
大股にお母さんは千波のベッドに近づくと、その顔を覗き込んだ。
「顔色がだいぶ悪いわ。過労ですって? だからあんな怪しい会社に勤めるのは反対だったのよ」
千波を心配しているのかそうではなのか、よくわからないものの言いように、わたしは混乱してその場から動けずにいた。
「伊織の会社を悪く言わないで。伊織は一生懸命やってる。がんばってるわ」
千波は千波で、反抗するみたいにして語気を荒らげた。
「おまけに高校の同級生の面倒看るとか。いくら仲のいいお友達でも限界っていうのがあるのよ。お金だってあの子の為に使って」
びくん、とわたしは肩を震わせた。
「桃花の前よ、お母さん、口を謹んで」
慌てて千波は制したけれど、後の祭りだ。わたしはすっかり聞いてしまい、委縮してしまってうつむいた。
「ああ、この子よね。うちにも高校生のときに来たわね。忘れてたわ。とにかくあんな会社はすぐに辞めなさい。仕事だからって会社に泊まり込むのもやめなさい」
「わたしは好きでやってるの。お母さんの言いなりにはならない。帰ってよ。文句を言うなら帰って!」
上半身を起こして、千波は枕を叩く。ぶつけられない怒りを枕にぶつけているようだ。
「千波を連れて帰るわ。入院が必要なら家の近くの病院に変えればいいんだから。すぐに支度をするわよ」
「いやよ。わたし、家には帰らない。伊織とずっと働くわ。お母さんにはわからないでしょうけど、それがわたしの夢なの。夢を壊さないで」
「体を悪くしてなにを言ってるの」
「お母さんの言いなりにはならないっ! 帰って」
こんなにも母親を拒絶し、怒りを露わにする千波を前にして、わたしは動揺していた。いつだって千波は明るくて元気で、わたしを励ましてくれた。泣いたりもしたけど、それは全部わたしの為に流した涙だった。
けれど千波だって普通の女の子だ。自分の気持ちだってあるし、考えだって持っている。わたしはそんな千波の気持ちに甘えすぎていたんだと今になって気がついた。
「あ、あの、お母さん」
勇気を振り絞っていすから立ち上がり、わたしは口を開いた。
「あの、伊織くんの会社は変な会社じゃないです。ちゃんとした旅行会社です。ツアーだってたくさんやっててお客さんだってたくさんいて。だから忙しくて疲れちゃっただけなんです。わたしも千波に甘えてばかりいたけど、もう大丈夫なんです」
そう、もう大丈夫。だって陸ちゃんがそばにいてくれるから。
「今まで甘えてばかりでごめんなさい。千波の好きにさせてあげてください。やっとそういう時間が取れるようになったんです」
そうして腰を折った。しばらくの間、そうやっていた。
「勝手にしなさいっ!」
頭の上からそんな声が振ってきて、わたしは腰を伸ばした。お母さんは出口に向かって、来た時と同じように大股に歩いていた。そして一度も振り返らず、部屋を出ていき、わたし達はまた二人きりになった。
静かになった部屋の中で、わたしは茫然と立ち尽くしていた。
うつむいて布団を握りしめていた千波は突然顔をあげ、にっこりと微笑んだ。
「ごめんね、みっともないとこ見せちゃって」
ぺろりと舌を出す仕草は、いつもの千波そのものだ。ちょっと安心する。
ぶるぶるとわたしは首を振る。
「みっともなくなんかないよ。それよりもごめんね、わたし、千波や伊織くんだけじゃなくて、千波の家族にも迷惑かけてたんだね」
申しわけなさでいっぱいになる。
千波に家族がいるのは当たり前だった。それを考えもせず、おんぶにだっこで生きてきた。お母さんが怒るのも無理はない。
「迷惑なんかじゃなかったよ。わたし、桃花と一緒に暮らせて楽しかった。だからお礼を言わなきゃいけない。お母さんは大きな企業に就職させたがってたの。自分もお父さんもみんなそうだから。なのに伊織の会社を相談もなしに手伝い始めちゃって。それで怒ってるの。伊織のこともよく思ってないのよ。桃花はおまけ。もらい事故だと思って気にしないで」
「でも」
よくない気がする。このままじゃ。
「本当、気にしないで。家の問題だから。いつかお母さんもわかってくれると思うの。わたし、信じてる。だってお母さんだもん」
そう言って千波は人差し指をたててにっこりと笑った。
そんなものかもしれない。親子なんだからいつかはわかり合える。だからわたしも笑い返した。
「そうよね、そうだわ。きっとなにもかもうまくいくわよ。それよりも千波が入院している間は毎日、わたし通ってくるから。安心して任せてね」
「いいわよ。伝馬に怒られそう」
「駄目駄目。わたしに通わせてほしいの。千波の為にしてあげたいの。自己満足もあるかもしれないけど」
そっと千波の手を握る。千波の指先は冷たかった。血が通っていないみたいだ。
「じゃあ、甘えちゃおうかな」
首を傾げて、千波はわたしの手を握り返してくれた。
「甘えて甘えて」
顔を近づける。額がくっつきそうになるまで。目を合わせてわたしたちは笑った。
空気がふわっと軽くなるのを感じた。
その日の夜、千波が入院してしばらく病院に通うと陸ちゃんに宣言した。毎日となればやはり黙ってはいられない。反対されるのも覚悟の上だ。
仕事から帰ったばかりの陸ちゃんは、お風呂にも入っていなかったし、夕飯もまだだった。でも大切な話なので先に言ってしまいたかった。
リビングのソファに座った陸ちゃんは、「そうか」とだけ短く返事をした。
「だから家にいる時間が少なくなるから。でも大丈夫、家事はちゃんとする」
坐っている陸ちゃんを後ろから抱きしめる。バニラの甘い匂いがする。さっきまで仕事をしていた証拠だ。
「駄目って言っても行くんだろ」
胸に回したわたしの腕を握る。
「うん、千波の為にしてあげたいの。わたしの為でもあるの」
「いいよ、けど、無理はするな」
「ありがとう陸ちゃん」
抱きしめていた腕に力を込める。
今回ばかりは反対されても行こうと決めいてただけに、お許しが出てうれしかった。陸ちゃんに感謝する。ぎゅっと抱きしめることでわたしは感謝を表現した。陸ちゃんはそれきりなにも言わなかった。
翌日、陸ちゃんを見送ってから、すぐに病院に向かった。途中でデパートに寄って、千波が好きそうな総菜とフルーツ、明るく咲くひまわりの花束を購入してから病室に行くと、大荷物を持ったわたしを見て、千波がぽかんと口を開けてた。
どうやら呆れているらしい千波を脇に置いて、わたしはナースステーションで花瓶を借りてひまわりを活ける。殺風景だった部屋が華やかになる。それから買ってきたお惣菜をテーブルの上に並べた。中華、和食、イタリアンととりあえず一通り買ってきたので、小さなテーブルはすぐにいっぱいになった。
「あのね、桃花。わたしは重病人じゃないのよ。それとお昼はさっき食べたばかり」
面会時間は一時からなので昼ご飯を済ませたあとなのは知っている。それでも買わずにはいられなかった。だって千波にしてあげられることがほかに思い浮かばなかったから。
「病院の食事って物足りないでしょう? 余ったら夜に食べればいいじゃない」
「それにしても多すぎー」
「栄養つけなきゃね。まだまだ足りないくらいよ。でも昨日より顔色がいいわ。安心した」
今日は頬に赤みがさしている。化粧はしていないから、血色がよくなってきた証拠だ。
「それにしても多すぎ。それにもう退院するのよ」
さらりと言われてしまって、わたしは慌てた。
「駄目よ。この際だからゆっくり休んで。そう、せめて一週間くらい。そうしたらのんびりできて心も体も休まるわ。ね、お願い、そうして。その間の面倒はわたしに任せてほしいの。恩返ししたいのよ。こんなときくらい」
顔の前で手を合わせる。本音だ。嘘も偽りもない。
千波は髪の毛を両手でくしゃくしゃと搔きむしる。
「まあ、休みはほしかったからちょうどいいって言えばそうだけど」
「決まり! わたしに任せてね」
千波にしがみつく。お風呂なんて入っていないはずなのに、石鹸の香りがした。千波の為にがんばらなきゃ、と石鹸の香りをかぎながら思った。
お見舞い四日目の帰りだった。毎日、午後の四時には病室を出るとわたしは決めていた。陸ちゃんと約束したとおり家事をきちんとしたかったからだ。
毎日差し入れをしているせいか、千波はここに運ばれてきた日よりもずっと健康的になった気がする。
きっとわたしが記憶を失って入院していたときも、みんなこんなふうに思っていたんだろうなあ、と考えると切なくなってくる。それだけに元気な千波に会えるのはうれしかった。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
今日はフルーツを多めに差し入れした。オレンジやカットスイカ、メロンがテーブルには並んでいる。
「はい、毎日ごくろうさま」
ははーっとふざけて千波は頭をさげる。
ばいばいと手を振って部屋を出て、あがってくるエレベーターを待つ。三階で止まったエレベーターの中から千波のお母さんが降りてきた。
「あ、こんにちは」
数日前のやりとりが頭をかすめて、ほかに言葉が見つからない。
ぺこりと頭をさげても、次になんて言えばいいのか思い浮かばなくて、しばらく向かい合ってしまった。
「毎日、来てくれているんですってね。ありがとう」
千波のお母さんの表情はどこか硬かった。少なくとも笑っていない。やっぱりわたしを快く思っていないんだ。
「あ、いえ。千波にはお世話になったのでこのくらいはしないと」
「そう、あなた、少し時間あるかしら?」
出し抜けに言われて、どうしようかと迷ってしまった。
ここからマンションまでは三十分はかかる。帰りに夕飯の買い物をするつもりだった。それから夕飯の支度を始めないと、陸ちゃんの帰宅時間に間に合わない。
唇に指を当てて、考えてしまった。でもそれは一瞬だった。
「大丈夫です」
そう答えた。ちゃんと理由を説明すればいい。陸ちゃんは怒ったりしないはずだ。それに千波のお母さんと千波がこのままでいいはずはないし、わたし自身も気になっていた。
「じゃ、コーヒーでも飲みましょうか。ごちそうするわ。誘ったんだから。病院の前に喫茶店があるからそこにしましょう」
降りてきたエレベーターにお母さんは乗り、わたしも後に続いた。
病院の前にある喫茶店は個人経営の小さな喫茶店だった。テーブル席が四つ、あとはカウンターだ。客はカウンターに一人いるだけで、お母さんは一番奥にあるテーブルに腰を押し付けた。
八十年代のアイドルの歌が流れていた。店の中もなんとなくレトロな雰囲気でドアにはカウベルがあり、棚には毛糸でできた犬のぬいぐるみがいくつも飾られていた。
やってきたウエイトレスはかなり年配の女性で、Tシャツにジーンズというラフな格好の上に赤いチェックのエプロンをつけていた。気取らない店なのだろう。
「アイスコーヒーを。あなたは?」
プラスチックに挟まれたメニューを差し出されたが、読みもせずに同じものでと答えた。
「じゃ、アイスコーヒーを二つで」
オーダーを聞き終えた店員は頭を軽くさげると、水が入ったグラスを二つ置いてカウンターの奥へと消えていく。
「千波から一応毎日メールが来るのよね。家を出るときにそういう約束をしたから」
窓の外に目をやってお母さんは言った。
「あなたと暮らしているときは、毎日あなたの様子。入院してからも毎日あなたが見舞いに来てる、差し入れの中身まで書いてあるのよ。ありがとう」
怒っているのか感謝されているのかわからない。微妙な表情だった。
「とんでもない。わたしは恩返ししているんです」
顔の前で両手を振る。
一週間では足りないくらいに、千波には感謝している。
「昔からねえ、言い出したら聞かない子だったのよ。勤めを始めたときもそう。あなたと暮らすときもそう。全部自分で決めてしまってから報告だけをするの。だから仕方ないって諦めて好きなようにさせてきたの。でも今回入院するほど疲れているって知って、やっぱり家に帰ってきてもらおう、仕事も辞めてもらおうと思ったわ」
そこにアイスコーヒーが二つ運ばれてきた。
ストローを突き刺し、わたしはグラスの中身をくるくるとかきまぜたが、お母さんは見向きもしなかった。
「でもやっぱり駄目。仕事は辞めたくないんですって」
そこで初めてくすりとお母さんは笑った。楽しそうにその顔が見えた。笑うと千波になんだか似ている気がする。
「気の強い子だからね、貫きたいんでしょう。もうほんとお手上げ」
両方の肩をすくめている。
「だから説得はやめにしたの。それを今日言いにきたのよ」
「じゃあ、千波を許してくれるんですか」
ぱっとストローから指を離す。
「許すもなにも本人が聞き入れないんだもの。どうしようもないわよね。あなたから千波にそう伝えてくれる? わたしだと遠慮もなくなってまた言い合いになっても困るから」
「駄目だと思います」
姿勢を正し、わたしは膝の上に両手を置く。
「それじゃ、駄目だと思うんです」
「どうして?」
「わたし、記憶がないから、だから人の言葉の大切さっていうのをよく知ってます。本人から聞いた言葉しか信じられないんです。でもそれでいいって思ってます。ずっとそうやって生きてきました。記憶がなくなってから。だからお母さんの気持ちは、お母さんがちゃんと言わないとうまく伝わらないと思います」
言い過ぎかも、生意気と思われるかもしれないと思いながら、それでもわたしは最後まで言い切った。
八十年代のアイドルは片思いの切ない恋心を歌っている。伝えたいのに伝えられない。そんな内容だった。伝えられないんじゃない。伝えようとしないのがいけないんだ。
「そうか、そうね」
伏し目がちになってお母さんはアイスコーヒーにミルクを落とし、ストローで氷をつついた。
「その通りかもしれない。ありがとう」
そう言って微笑んだお母さんは、やっぱり千波とよく似ていた。
予定通り一週間で千波は退院した。伊織くんはもちろんわたしも陸ちゃんも一緒に迎えに行って、帰りは横浜の中華街に寄ってランチをした。
休みを取った千波は、これまで以上に元気になって、一番笑っていた。
円卓を囲みながら笑う千波を目にして、あれからお母さんとはどうなったのか知りたかったけれど、それはやっぱり聞かなかった。
言いたければ自分から言うだろう。それよりも今は千波が笑っているほうがうれしい。
「今回は本当に桃花にお世話になったわ。本当にありがとう」
改めて礼を言われた。
「なんにもしてないよ。それにわたしが千波にしてもらったのを考えればまだまだよ。これからもなにかあったらすっ飛んでいくからね」
「頼りにしてますっ」
ふざけて敬礼する千波の笑顔が眩しかった。
三人で笑う中、陸ちゃん一人が笑わなかった。もっとも陸ちゃんは普段から自分の気持ちを表現するのがうまくない人だから、これは自然なのだ。もし本当に心の底から楽しくなければここにはいない。
伊織くんの車でマンションの前まで送ってもらい、二人と別れた。
部屋に戻ってから、わたしは陸ちゃんの為に冷たいお茶を用意して、リビングのテーブルに置いた。
「千波、よかったな」
ぽつんと陸ちゃんがつぶやいた。
「うん、よかった。でもわたしは陸ちゃんがそう思ってくれてたってことの方がうれしい。ありがとう」
「そうか」
グラスに手を伸ばした陸ちゃんは静かにお茶を飲んだ。
「千波も退院したし、これから本気モードで結婚式の準備に入るね」
ふざけて後ろから陸ちゃんを抱きしめる。柔らかい髪の毛が、頬に当たる。
「任せる。桃の好きなようにやればいい」
「でも協力はしてね」
んー、と髪の中に頬をうずめる。
陸ちゃん、大好きな陸ちゃん。少し回り道をしてしまったけれど、いいよね。だってわたしたち回り道ばかりしてきたから。あとほんの少しの回り道くらい、どうってことないよね。
きっとわたし達は大丈夫。
陸ちゃんのぬくもりが、いとおしくてならなかった。
7
千波が退院してひと月後の日曜日、ブライダルフェアにやってきた。もう九月も半ばっていうのに、夏みたいに暑い日だった。
千波と二人で、フェアに参加するために、わたしは港に立っていた。波が太陽の光に反射してきらきらと光っている。
ブライダル雑誌で見た通りの光景に、わたしの胸が躍る。
海の見える場所、できれば青空の下で式をやりたいなと考えていたら、ある程度場所が決まってしまった。
わたしが選んだ式場は、船だった。チャペルは船の先端にある特設の教会でして、披露宴は甲板にテーブルを並べるといったスタイルだ。
青空の下で食べるフランス料理はなかなかおいしい。
ステーキを食べていると、千波に隣で乱暴にナイフとフォークを使っていた。
「普通さ、こういうフェアってカップルで来るのよ。デートを兼ねて!」
吐き捨ててから、千波はステーキを食べる。眉間にしわを寄せて、露骨にむっとしている。
「だってえ、陸ちゃんは仕事で忙しいしさ。そうなると頼みの綱は千波しかいないもん」
「わかるよ。伝馬がこういうの好きじゃないっていうの。仕事でごまかしてるの。でも、まわりを見てよ」
フォークを握って、千波はテーブルをどんっと叩く。
「カップルだらけじゃない」
「ごもっともです」
言われるまでもなく、もちろん気がついていた。受付の段階で、早々に。わたし達のテーブル以外は全部カップルで、楽しそうに会話をしながら食べている。
――桃花に任せるから、好きなように決めていいよ
投げやりにも取れなくはなかったけれど、仕事が忙しいのもわかっていて、それ以上誘えなかった。
「まあ、機嫌なおして。おいしいね。千波だって本当の式でまた食べられるんだからさ」
「ここでやればね」
「やるわよ。わたしはほぼここに決めているの」
雑誌で目にしたときから、気持ちは八割がた決まっていた。絶対に船の上って。青い空の下って。
「ほかも見たほうがいいと思うけどね」
「そりゃ、一応は見るけどさ」
そう言いながら、ここよりもいい会場があるとは、最早思えなくなっていた。
わたしたちは試食の料理を食べ、説明を聞き、ウエディングドレスなんかを試着して、会場をあとにした。
「せっかくだからお茶でもして帰る? 横浜駅近くで」
千波の提案にすぐに乗った。のども乾いていた。駅近くのオープンカフェに入ろうとすると、後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、知らない男の人が立っていた。
「やっぱり桃花じゃねえか。久しぶりだな、元気にしてたか」
下卑た笑いを浮かべて男が近づいてくる。よれよれのシャツに膝に穴の開いたジーンズを穿いた男の人の顔がなんだか怖くて、思わず千波の背中に隠れてしまった。千波は全身をぶるぶると震わせていた。
「あんた、今頃なんの用?」
そう尋ねた千波の声が、強張っていた。なんとなくだけど怒っている。
「おれは桃花に用があるんだよ。おまえじゃねえよ」
男は乱暴に千波を横に押しやり、わたしの腕を引っ張った。乱暴で遠慮のない力の入れ方に、わたしはきゃ、と悲鳴をあげた。
「なんの用ですか?」
タバコの臭いがして、顔をそむけながらわたしは言った。
「なんの用っておまえ、自分の亭主の顔を忘れちまったのかよ。あ、そうか。記憶がないんだって。記憶喪失なんだっけ、おまえ」
え、と目を大きく見開いていた。
今、この人が今言ったセリフを、頭の中で反芻する。
「でもよう、おれは今でもおまえの亭主。旦那。結婚してんだぜ、おれ達はよ。いつになったらこっちに帰ってくるんだよ。おれもいつまでも一人でいるのは淋しいしよ。早く家に帰ってこい」
顎を摑まれ、無理矢理に顔を向けさせられる。
「知りません、わたし。あなたなんか。それにわたしの旦那さまは陸ちゃんです。一緒に暮らしているのも陸ちゃんです」
苦し気に顔を歪めて、必死で言う。
だってわたしが愛しているのは、陸ちゃんだけだ。ほかに誰もいない。だから結婚しようと思っているし、その準備を始めたばかりだ。
「やめてよ」
飛ばされた千波が間に割って入ってくる。
「桃花はあんたなんか忘れたの。もう伝馬と結婚するんだから」
「結婚だってえ」
ひゃーははは、と男はばかみたいに甲高く笑い出した。
「いや、笑えるぜ。重婚する気かよ。まだおれ達は離婚してねえぜ。それを知らないわけじゃないだろ。おまえ、桃花の友達ならよく知ってるだろうが」
「嘘つきやがれ。なあ、桃花。早く帰ってこい。このまま帰ってきてもいいんだぜ」
「知らないわよっ! そんなの」
「やめてっ。桃花におかしな話を吹き込まないで。桃花はもう全部忘れたんだから」
ひゅう、と男は口笛を吹いた。
「まあ、それでもいいけどよ。おれは離婚しねえぜ。離婚しない限り、お前は伝馬と結婚できねえぜ。それをよく考えな。連絡先、渡しておくよ。桃花の出方によっちゃ、離婚も考えてやるよ」
そう言うと男はわたしが持っていたブライダルフェアでもらった資料の袋を奪い、その中からチラシを一枚引き抜くとひどく乱暴な文字で、携帯電話の番号とアドレスを書いた。
「よく考えるんだな」
袋をわたしに投げつけて、男は去っていった。あっという間に人混みに消えていくさまを、わたしは呆然と見送った。
意味がさっぱりわからなかった。ただ黒い渦が心の中で巻き始めている。
「あの人誰。わたしがあの人と結婚してるって本当?」
人混みに消えた後ろ姿を見つめながら、わたしは尋ねた。
「桃花、気にしちゃ駄目。本気にしちゃ駄目。忘れて、今の出来事全部」
早口に千波が言えば言うほど、事実に聞こえてくる。
「わたし、帰る」
千波を置き去りして、わたしはそこから駆け出した。
男の顔は思い出せる。会ったばかりだから。でもそれ以前は、なにもわからない。
わたしは陸ちゃんと結婚できない? あの人と結婚しているから?
いやだ。
激しく拒絶する。
家に帰り着くと、糸が切れたみたいにしゃがみ込み、その拍子に袋からパンフレットが飛び出して、あたりに散らばった。男が残した番号が揺れて見えた。
突然目の前が明るくなって、顔をあげた。陸ちゃんがリビングの入り口に立っている。
「起きてたのか。あかりがついていないから寝てるのかと思った」
窓の外に目をやれば、すっかり暗くなった。
帰ってきてから、ずっとぼうっとしていたから、時間の経過もわからなくなっていた。
「泣いてたのか?」
顔を覗き込まれて、慌てて目のあたりを手の甲で拭う。
「違うのよ。ごめんね、お夕飯の支度、忘れちゃった。すぐするわ」
両手を床に押し当て、立ち上がる。
「いや、いい。本当に泣いてたんじゃなかったのか?」
「違うってば」
「じゃ、千波となんかあった?」
陸ちゃんに隠し事は難しい。けれど真実が言えるはずもない。もしあの人が言ったのがすべて本当だとしたら、きっと陸ちゃんはとても怒って、そしてどこかにいってしまう。
もう陸ちゃんがいない生活なんて考えられない。
「なんにも。ブライダルフェアに行っただけ。千波、怒ってたわ。こういうとこはカップルで来るべきだって。いろいろもらってきたよ。パンフレット。見てみて」
「ああ、あとで」
「あとでじゃ駄目よ。今見てよ」
散らばったパンフレットを拾い集めて、陸ちゃんに渡す。もちろん電話番号が書かれた一枚だけは引き抜いた。
「桃がいいなら、おれはなんでもいい」
「駄目よう。ちゃんと見なきゃ」
陸ちゃんの手を引いて二人でソファに座り、ブライダルフェアがいかに楽しくて、船上で行う式がどれほど素敵だったか、身振り手振りを添えて語る。
「そんなに、気に入ったのか?」
ろくに目を通さず、陸ちゃんは尋ねた。
「そりゃあ、もう」
「なら、ここでいい」
「じゃ、今度、陸ちゃんも一緒に行こうよ」
「まあ、時間があれば」
「あるよう。だから行かなきゃ駄目よ。日取りだって決めなきゃならないんだし」
「まあ、それも桃に任せるから」
「駄目よう。お店の都合だってあるでしょう? いつでもいいってわけにはいかないじゃない。お店に関しては、わたしもわからないし。陸ちゃんじゃないと。だから、行こうね。次の休みに」
一生懸命笑顔をつくる。でもフェアは楽しかった。それは本当だ。問題はそのあとにあった。考えると、気持ちが重くなってくる。考えないようにしなければと思うほど、男の顔がちらついた。
「なあ、桃」
手を取られた。
「指先が冷たい。顔色もよくない。もう寝よう。そのほうがいい。話は明日また聞くから」
「でもね、大切だよ? 結婚式って」
「だから明日ちゃんと聞く」
そのあとはいいも悪いもなかった。
ふわっと抱きかかえられて、問答無用でベッドまで連れていかれた。パジャマに着替えてもいないのに、布団をかけられた。
「きっと外を出歩いて疲れたんだ。だから顔色も悪い。千波にあとで電話して言っておく。あんまり桃花を連れまわさないように」
「駄目よ。千波は付き合ってくれただけなんだから。絶対に駄目」
「わかった。とにかく今日は寝ろ。いいな」
「うん」
布団の上から、陸ちゃんは体を撫でる。
「パンフレットも見ておく」
「うん」
「そんな顔するな。大丈夫だから。なんだって桃のしたいようにすればいい。おれは、桃がよければそれでいい」
「うん」
陸ちゃんはそっと部屋を出て行った。
一人になると、あの男が迫ってきた。
あの人が言っているのが本当なら、陸ちゃんとは結婚できない。
ぎゅっと布団の端っこを握り、いやだ、と激しく心が拒絶する。
いやだ、絶対に陸ちゃんと結婚する。ちゃんと式をあげて、ちゃんと入籍して。
布団の中にいるのに、体がぶるっと震えた。
恐れている。
なにもかも駄目になってしまうのではないかと、そう思わずにはいられない。
やはりきちんと自分で確かめなければと思った。そしてもし、あの人の言うとおりなら、離婚してもらわなければならない。
嘘だと信じているけれど。だってわたしが陸ちゃん以外の人と結婚してたなんて考えられない。
真実を知るためにも、やはり会わなければいけない。
奥歯をぐっと噛みしめた。
翌朝、陸ちゃんが仕事に行くと、すぐにパンフレットに書かれた番号を押した。コールは一回だけ。
「かかってくると思ってたよ」
間延びした声は、昨日のいやらしい顔を思い出させてくれた。気持ちが悪くなり、胃の底が持ち上げられる感覚がした。口元を手のひらで拭う。
「本当なの? 教えて。わたし、本当にあなたと……」
そこから先は言えなかった。口にするもおぞましかった。
「嘘なんかつくかよ。証拠を見せてやるから、役所に行こうぜ」
「役所?」
「戸籍を見ればわかるだろ。そっちまで行ってやるよ。今から一時間後に。駅で待ってる」
一方的に電話が切られて、呆然と虚空を見つめる。
真実か、嘘か。
嘘に決まっている。
慌ただしく身支度を整え、待ち合わせの場所に向かう。昨日よりも幾分涼しい風が吹いている。
平日だというのに、駅の前はさまざまな人達が往来していた。どこに行くつもりなのかせかせかと早歩きの人もいる。その中にあの男が立っていた。
「よう」
突然、肩を抱かれた。
「離してください」
身を捩るが、相手の力は強い。どんなに拒絶しても、指の先が肩に食い込んでしまったかのような感覚に襲われて、離れていかない。
「おまえ、おれの名前も覚えてないの」
「当り前じゃないですか」
「一樹って呼んでくれよ。いつもそう呼んでたんだぜ。ベッドの中でも」
かっと全身が熱くなる。恥ずかしさに貫かれる。
嘘だ、と叫びたかった。けれどのどに蓋をされてしまったみたいで、なにも言えない。口の中も乾ききっている。
「本当に覚えてないんだな。話を聞いた時は半信半疑だったけどな。なるほど、あんたの親も会わせてくれないわけだぜ。納得したよ」
ヤニ臭さに顔をしかめる。今日はさほど暑くないのに、奇妙な汗が浮かんだ。
「早く証拠を見せてください。あなた、嘘ばかり言ってるんでしょう。その証拠をきちんとこの目で確かめないと。だって、わたし……」
陸ちゃんと結婚するから。
「まあ、そう焦るなよ。どっかでお茶でもしてさ」
「結構です」
お茶などのどを通るはずもない。そばにいるのだって、いやでたまらない。
「ふん。強情な女だぜ。相変わらず」
鼻の頭に皺を寄せ、不愉快そうに一樹という男はわたしを見た。
「仕方ねえ。役所に行くか」
駅前に市役所の出張所があり、真っすぐに一樹はそこに入っていった。
必要な書類に記入を済ませ、五分と待たずに職員から渡された戸籍を奪い取り、頭が真っ白になった。
夫、早川一樹。妻、桃花。
指の間から用紙がすり抜けていき、音も立てず床の上に落ちる。
全身がわなわなと震え、立っているのも覚束なくなった。
「嘘、だわ。こんな、ばかな」
「嘘なもんか。見た通りだよ」
「離婚して。今すぐ、離婚届を出してください」
叫んでいた。そうせずにはいられなかった。
悲しみとか、悔しさとか、そんな簡単な言葉では表せないほど、激しく動揺していた。
「まあ、よく相談しよう。話し合わないとな」
「なにを話し合うんですか。離婚届を書けばいいだけです」
必死になって訴える。
陸ちゃんはなんにも知らない。だから結婚しようって言ってくれたに決まっている。陸ちゃんには知られたくない。なにもかもなくなってしまう。
もうなにも失いたくない。
「まあ、ちゃんと相談しないとな。おれ達は夫婦なんだから。近くにいいところがあるんだよ。部屋を借りたんだ」
「部屋って? それよりも早く届けを書いてください」
「用意してあるよ。部屋にな。来れば渡してやるよ。来なきゃ渡さない。おれの署名は記入済み。あとはお前が書けばいいだけになっている」
値踏みされるように、全身を眺められた。
悪寒が走る。
行くしかなかった。行かなければ、離婚はない。離婚ができなければ、陸ちゃんとの結婚もありえない。
仕方なく役所を出て、一樹についていく。
項垂れて歩くわたしの隣に、ぴたりと一樹がついている。一樹は駅前にある建物の中に入って行こうとした。みすぼらしい建物には「ホテル」と毒々しい色合いの看板が掛けられている。
「困ります!」
激しく拒絶する。ホテルの部屋になど連れていかれたら、なにをされるかしれやしない。
「ここに部屋を取ってある。で、部屋に離婚届はある。おれはいいんだぜ。別に今のままでも」
絶望的な気持ちになった。
選択肢はない。
部屋に行って書類を取ってくればいいだけだ。
自分に言い聞かせるが、足が震えていた。
フロントで鍵を受け取った一樹についてエレベーターに乗り、四階にある部屋に行く。
部屋は狭く、タバコのにおいが充満していた。吐きそうになる。思わず口元を押さえた。
「早く、書類をください」
そう言うだけで精一杯だった。
書類をもらって早くここから出ていかなければと、そればかり考えていた。
「まあ、そう慌てるな。お茶でも飲んでさ」
「結構です。それよりも早くください」
今にも倒れてしまいそうだった。足の裏に力を入れて必死に耐える。
耐え続けるわたしを、一樹は面白そうに眺めていた。
タバコの匂いに全身がからめとられるように、わたしはそこから動けずにいた。ねっとりとした視線からも逃げたいのに。
「早く、ください」
もう一度口にすれば、言葉の端々が震えている。
「さて、そうだな」
一歩前に踏み出た一樹はテーブルにあった用紙を取り、指の間に挟む。
「これだろう? ちゃんと署名もしてある」
手を伸ばした。届かない。一樹が遠くに追いやってしまったから。
「渡すのは簡単だけどな。ほしいんだろ」
「当り前じゃないですか」
「なら、これだけ用意しろ」
紙を持っていないもう一つの手をぱっと広げた。
「なんですか?」
「五百万」
背筋がすうっと冷たくなった。
意味を理解したくないからか、頭の芯が痛む。
「簡単だろ? 五百万円と引き換えだ」
「どうして。わたしはお金なんて持っていません」
記憶をなくしてから、わたしは金の管理をしていない。千波と暮らしたときは千波に任せていたし、今は陸ちゃんがやってくれている。必要なものは陸ちゃんに言えば買ってもらえた。カードすら持っていない。持つ必要のない生活をしている。
「おまえが持っていなくても伝馬が持ってるだろう。なにしろ人気パティシエだもんな。よくテレビにも出てるじゃないか。ずいぶん稼いでるらしいな」
「陸ちゃんに言うんですか? あなたから金を要求されたって」
言えるはずがない。こんな男と夫婦だなんて言うくらいなら、死んでしまったほうがマシだ。
「そのへんはさ、ま、好きに考えてくれよ。おれは金さえもらえればいんだから」
「どうしてわたしがあなたにお金を渡さなきゃいけないんですか?」
「そりゃよう、慰謝料だろ。当然じゃないか。結婚してるのに、ほかの男と浮気したんだ。おれは深く傷ついてるんだ」
うんうん、と大きくうなずいている。
冗談じゃない。傷ついているのはわたしのほうだ。過去になにがあったのかは知らないけれど、今、苦しんでいるのはわたし自身で、この人じゃない。
「傷ついてるのは、わたしのほうです」
現に目の前にいる男が悩んだり、傷ついたりしているようには見えない。むしろこの状況を面白がり、楽しんでいる。
「だからよう、おれも傷ついてるの。とにかく金だよ、金。一週間待つよ。それまでに用意してくれ。なんなら取りに行ってもいい。住んでるマンションも知ってる。おれは本気だぜ」
「そんな。来ないでください」
「じゃ、金をなんとかするんだな」
唇を噛む。思い切り。血が滲むほど。
「待つのは、一週間。それ以上は待たないぜ。こっちの要件はそれだけだ。早く帰って伝馬と相談するんだな」
胸のあたりを押され、部屋の外に出されていた。
もう一度中に入って交渉する勇気はない。震えながらマンションに帰ってきた。リビングのソファに寄りかかるように座り込んだ。
千波に相談しようかと考えて、激しく首を振る。千波に言えば、陸ちゃんに伝わってしまう。恐らく巽くんに言っても陸ちゃんにばれてしまう。
どうしようもない泥沼に足を踏み入れた気持ちになっていた。
迷いに迷って、陸ちゃんの店まで行った。海に向かって建つ店は、お客さんで賑わっていた。ロザリーがレジに立っている。店が落ち浮くまで、ロザリーはフランスに戻らず手伝ってくれている。なんにもできないわたしの代わりに。
ロザリーに言ったとしても、結果は同じ。
胸が張り裂けそうに痛む。
あの男から書類をもらわない限り、陸ちゃんとの結婚はない。
思い切って全部話してしまおうか。いや、それは絶対にしたくない。なにがあっても隠し通したい。
店の前をうろついていたから、レジにいたロザリーに気づかれた。
「リクなら奥にいるわよ」
外に出てきたロザリーは親指をたて、奥を示した。
「いえ」
目を伏せる。
「リクに用事でしょう?」
「いえ、急ぎではないから。帰ってからでいいんです。すみません、忙しいのに、お邪魔して」
「いいけど、大丈夫? 顔色がよくないわ」
「ええ、大丈夫です」
ふらつく足取りで帰る途中で、海を見た。
結局一人ではなんにもできないと、どうにも情けなくなってくる。
誰にも頼らず、お金を用意するなんて、はなから無理な相談だった。
「人魚姫はいいなあ」
海にできる白い泡を見つめてつぶやく。
いっそ、海の泡になりたかった。
夕飯の支度の途中で、陸ちゃんが帰ってきた。エレベーターを使わずに、階段を駆けあがってきたのか、息が少し乱れている。シンクの前で菜箸を持ったわたしは動きを止めた。
「まだ、お夕飯できてないんだけど」
「そんなのはいい」
早口に言うと、陸ちゃんは突然、わたしの頭を触ったり、肩や腕に触れたりした。
「なんか怪我とか病気じゃないんだな?」
「は? なんで?」
ぽかんと口を開けてしまった。
「昼間、店に来たって。ロザリーが」
ああ、と納得する。
「それで急いで帰ってきたの? お店は?」
窓の外はまだ明るい。閉店の時間には少し早い。
「ロザリーに任せてきた。本当になんでもないんだな」と言いながら、額を合わせてきた。熱の確認をしているのだ。
「うん。ちょっと近くまで行ったから覗いただけなのよ」
「そか、なら、いい」
ほっとして、陸ちゃんは大きく息を吐いた。
「もう一度、お店に戻る? まだご飯もできてないし」
「いや、いい。久しぶりにのんびりする。このところ桃とあまり話もしてなかった」
「なら、座って待っててよ。お茶を淹れるから。ね」
菜箸を置いて、陸ちゃんの手を引っ張りソファに座らせて両方の肩を揉む。
「毎日お疲れ様」
陸ちゃんの肩は広くて、わたしの手ではうまく揉めない。筋肉もしっかりついていて、固くて指先が入らない。
「いいよ。桃。隣においで」
隣と言いつつ、陸ちゃんはわたしの体を膝の上に抱いた。
「なかなか一緒にいてやれなくてごめんな」
「けっこう楽しくしてますよう。日々、幸せよ」
頬を寄せる。
わたしは幸せだった。充分なほど。
ゆっくり、のんびりとした夜を二人で過ごした。時間をかけて夕飯を食べて、一緒にお風呂に入って、同じ時間にベッドに入った。
疲れているのか、陸ちゃんはすぐに寝息を立て始める。寝顔をじっと見つめる。
「ありがとね、本当、幸せだったから。わたし」
この先を考えると、涙腺が緩んでしまう。涙より先に零れそうになる鼻水をすすりあげる。それから陸ちゃんの頬にかかった髪を指の先ですいた。柔らかな髪だった。
寝顔を見ながら、わたしはひそやかに決心した。
一樹との約束の前日、わたしは身の回りのものをバッグに詰めて、クローゼットの奥に隠した。それからいつもどおり夕飯の支度をしていると、巽くんが遊びにきた。
「これさ、伝馬の店で買ってきた。すげえ混んでた」
「手土産なんていらないのに。なんか用でもあった?」
突然の来訪に驚き、そう尋ねた。
「いやー、伝馬がさ」
リビングのソファに巽くんは腰をおろした。
「うん、陸ちゃんが?」
「なんか姉ちゃんが元気がないみたいだから、顔出してやってほしいって。ほら、伝馬、店が忙しいだろ? だからおれがさ」
「あら、元気ならあるのに」
内心、冷や汗が浮かぶ。いつも通りにふるまってきたつもりだったけど、そんなふうには見えていなかったらしい。陸ちゃんは侮れない。
「そか? ならいいけどさ。伝馬も心配性だよな」
「せっかく来たからお夕飯食べてく? 陸ちゃん、遅くなるかもだけど」
「なんか新婚家庭を邪魔しているみたいだなあ、おれ」
「そんなことないわよ。巽くんが来てくれてうれしいわ」
これは本当。
紅茶を淹れ、巽くんの前に差し出した。姉の家だから遠慮もなく、巽くんはおいしそうに紅茶を飲んだ。
「やっぱパティシエの家だな。いい紅茶だ。おいしいよ」
「普通のリプトンだけど」
「あれ?」
「淹れ方がいいのよ。愛情たっぷりだもん」
「おれにはないだろ。伝馬だけだろ」
「あるよう、巽くんにも」
そう、ちゃんとある。すべての記憶を失っても、巽くんはわたしを姉として受け入れ、認めてくれた。愛情もちゃんとくれた。
わたしは、幸せだった。
陸ちゃんが帰って来るまで、巽くんとたわいのない話をした。巽くんは自分の仕事のことや両親の今の様子を楽しそうに話してくれた。そのうちに陸ちゃんが帰ってきて、三人でテーブルを囲んだ。
「巽、来てくれてありがとうな」
テーブルに着くと、陸ちゃんは缶ビールを開けて巽くんに手渡した。
「いえいえ。お役に立ててよかったです」
おどける巽くんの姿がおかしくて笑ってしまった。巽くんもつられて笑った。その笑いを破るようにインターフォンが鳴る。
「ああ、おれ、出るよ」
やがて強張った陸ちゃんの声が聞こえてきた。
「桃花、早川ってやつが来てるけど」
笑いがぴたりと止まり、息がつまった。
なぜ? どうして?
約束の日は明日だ。
めまいを起こしかけていた。
顔から血の気が引いてひんやりと冷たくなっている。
「桃花、どうした?」
怪訝そうに、陸ちゃんが眉をひそめる。当然だ。わたしの友人関係は広くない。千波と伊織くんだけだった。仕事をしておらず、家で過ごすのが当たり前で、外に行って友達などつくれるはずがない。
立ち尽くすわたしを押しのけて、巽くんが前に出た。
「おれが追い返すよ。姉ちゃんは出なくていい」
低く押し殺した声は、一樹を知っている証拠だ。当たり前だった。巽くんは弟なのだから、わたしがなくした記憶を持っている。
インターフォンで巽くんは怒鳴った。用はないから帰れと罵った。相手はひかなかったらしい。
「桃花、誰?」
陸ちゃんにそう尋ねられても答えられない。
混乱していた。約束の日は明日だったし、本当にここまでやってくるなんて考えてなかった。もし仮にやってきたとしても、わたしは姿を消しているはずだった。クローゼットの中に隠した身の回りの物だけを持って、明日、ここを出ていくつもりだった。陸ちゃんの前から姿を消すつもりだった。
楽しい思い出があれば生きていける。そう思っていた。なのに、あいつは来てしまった。
「ええい、駄目だ。埒が明かないから直接追い返してやる。姉ちゃんは奥にいて」
苛立ちを隠さず、巽くんは言い放つ。
「いえ、わたしが、わたしが言うから」
はっきりと言ってやらなければならない。陸ちゃんとは別れる。だからお金は用意しなかった、と。
玄関まで行く足取りはふらついていた。鍵を開け、一樹がやってくるのを待つ。心配して、陸ちゃんも巽くんもついてきた。三人に出迎えられた一樹は、ひゅうと口笛を吹いた。
「こりゃ、驚いた。伝馬までいたのか。なら、話が早い。なあ、巽、おまえは知ってるよな。おれと桃花が……」
「やめて!」
叫んだ。聞かれたくない、知られたくない一心だった。
大きく息を吸い込み、明日、ここから出ていくからと言おうとした。一樹はそれよりも早く口を開いた。
「この前はホテルで楽しかったなあ、桃花」
目の前が真っ暗になった。
茫然と立ち尽くすわたしを押しのけて、巽くんが前に出た。
「姉ちゃんがおまえとそんなとこに行くわけないだろっ! 姉ちゃん、そうだよな。だってこいつのせいなんだ。なにもかもこいつのせいなんだから!」
「相変わらずお姉さん思いだねえ。だがよ、これは真実なんだよ。で、約束したんだよな。約束の日は明日だったな。用意はできたかい? 高跳びされても困るんでね、それを言いに来たんだ」
見透かされていた。なにもかも。
全身が冷たくなっていく。
「また明日、この時間に来るよ」
言いたいことだけを言い、一樹はドアの向こうに消えた。
あたりが静まり返る。空気が重たくなる。
「桃花」
陸ちゃんが一番最初に口を開いた。
「今の話は?」
陸ちゃんの顔を見る。
答えられない。唇がわなないた。
「ホテルに行ったのか」
行ったんじゃない。連れていかれた、が正解だ。けれど唇は動かなかった。それを答えと受け取ったらしい。陸ちゃんはかっと目を見開き、ぱん、とわたしの頬を打った。
「出かけてくる」
こちらを見ようともせず、陸ちゃんは出かけていき、わたしはその場にへたり込んだ。
「伝馬のやつ、ろくに話も聞かないで行きやがった。姉ちゃん、大丈夫か」
じんじんと痛む頬に手を這わせもしなかった。
「頬よりも、心が痛い」
そう言うだけで精いっぱいだった。
「巽くん、わたし、本当にあの人と結婚してたの」
痛む頬がじんじんと熱を帯び始める。
「うん、だけどさ、それだって、そもそも伝馬が悪いんだぜ。原因をつくったんだよ、伝馬が。それで姉ちゃんは仕方なく」
ああ、と深い闇に落ちていく気がした。
巽くんが知っているのなら、当然、千波も伊織くんも知っているんだ。知っているのに、黙っていた。きっとわたしを思いやってくれたからだろう。
でもどうしてわたしはあんな人と結婚なんかしたんだろう。陸ちゃんを裏切ってまで。
この世の中で一番大切なのは、陸ちゃんのはずなのに。
「姉ちゃん、おれ、伝馬を捜して、よく説明するよ」
「いいのよ」
油断すると涙が零れてしまいそうだ。今回の事件は、言ってみればわたし自身が原因だ。陸ちゃんが怒って当然だった。
「いいのよ。巽くん、こんなわたしにやさしくしてありがと。わたし、それで充分だから」
「なんだよ。別れの挨拶みたいに言うなよ」
「そう、ね」
本当は別れるつもりだった。明日、なにもかも捨てて出ていくはずだった。けれどすべてがばれた今となっては、それすら無理になった。わたしが捨てなくても、陸ちゃんはわたしを捨ててしまう。現に今だって一人で行ってしまった。
「姉ちゃん、伝馬はなんにも知らないんだよ。真実を知って、頭を冷やせば戻って来る」
「そうかな」
とてもそうは思えない。陸ちゃんが手をあげるなんて、一緒に暮らしてから一度だってなかった。フランスにいたときも。やさしくて穏やかで、確かな愛情で包んでくれていた。その人が手をあげたのだから、よほど怒ったのだ。
「おれがあとでちゃんと説明するから。伝馬はさ、ばかじゃないから、きっとわかってくれるよ」
わかってくれたとしても、その先がある。巽くんには秘密にしている現実がある。
「今晩はここにいてやるから、少し休みなよ」
巽くんに支えられて、リビングに戻れば、テーブルには食べかけの夕飯があった。もう食べる気も、片付ける気持ちにもなれなくて、ソファにどすんと腰をおろした。
その場でわたしはまんじりとしない夜を過ごした。巽くんはソファでうとうとしている。
姉思いのやさしいいい子だ。きっとわたしたちは昔から仲のいい姉と弟だったんだ。それをわたしが壊してしまった。
夜中が過ぎて、朝方になるころ、家の電話が鳴った。
慌てて取ると、千波のヒステリックな声が聞こえてきた。
「ちょっとあんた達どうなってんのよ。うちに伝馬が来てるんだけど」
ひどく千波は怒っていた。
電話の音で目を覚ましたのか、巽くんが起き上がってきた。
「とにかく来なさいよ。こっちはいい迷惑だよ。桃花が迎えに来て。タクシー飛ばせばいいんだから、頼むわよ」
千波は電話を切り、わたしは巽くんと目を合わせた。
「千波のとこにいるって」
「伝馬が?」
「うん」
「迎えに行こう」
巽くんと二人で家を出て、表通りまで出て、タクシーを捕まえて乗り込み、千波のマンションに行った。
インターフォンを押して出てきた千波は、両手を腰に当てて、背筋をぴんと伸ばしている。
「まったく、どっかで派手に飲んでたみたいよ。うちでもさんざん飲んでさ。どうせくだらない夫婦喧嘩なんだろうけど、ほどほどにしてほしいよ」
「で、陸ちゃんは?」
「リビングでぶっ倒れて寝てるわよ」
すぐに千波を押しのけて家にあがり、リビングに行くと、背中を丸めて陸ちゃんがソファで寝入っていた。ひどくお酒臭かった。そんな陸ちゃんに、伊織くんが毛布をかけている。
「どこで飲んでたのか知らないけど、車まで運転しちゃってさ。見た? 車の横っつら。どっかでぶつけてきたのよ。派手にへこんでいるんだから。人を轢いてなきゃいいけどさ」
後からリビングに来た千波は呆れていた。
「まあまあ、伝馬だってそうやって飲みたいときがあるんだろ。少し休ませて、目が覚めたら連れて帰ればいい。おれらはぜんぜん気にしてないから」
「ありがとう。伊織くん」
寝ている陸ちゃんの枕元に座る。
陸ちゃんの顔は、たった数時間会わなかっただけなのに、ひどくやつれていた。
飲んで車を運転して、ぶつけた原因はわたしにある。わたしがここまで追い詰めてしまった。
「伊織くんは、一樹って人、知ってる?」
陸ちゃんの顔を眺めながら、ぽつりと言う。
「なんで、今更あんなやつが」
苦々しく千波は吐き出した。
「やっぱり二人共知ってるのね」
「知ってるわよ。でももう桃花とはなんの関係もないわよ」
「あるのよ。あったのよ」
ゆっくりとなにがあったのか、わたしは話し出した。
離婚届けがほしくてホテルの部屋まで行ったというのも、話してしまった。話すと一気に気持ちが楽になった。
落ち着いて冷静になって、ちゃんと相談していればよかった。陸ちゃんはともかく二人には。だって二人はずっとわたしのそばにいたんだから。いつだってわたしの味方だった。
あのときのわたしは本当にどうかしていた。その顛末の結果が、これだ。
「それじゃ、桃花、あのばかに脅されてたの?」
これにはさすがに千波も驚いていた。
「うん」
「最初に相談してくれればすぐに終わったのに。桃花、あんたってばかよ」
そう言って、千波は抱きしめてくれた。
「こんなの桃花と伝馬に対する嫌がらせよ。一樹と結婚した経緯だって、みんな知ってるわ。詳しく知らなかったのは、伝馬だけよ。伝馬はフランスにいたからね。でも桃花が結婚したのは、伝馬も知ってるのよ。桃花がどうして記憶喪失になったのか、その理由を話さなきゃならなかったから」
「わたし、あの人のせいで記憶喪失になったの?」
初耳だった。
伊織くんと千波が困った顔をして見つめ合っている。
「たんなる夫婦喧嘩だったと思うの。詳しくはわたしも知らない。こんなこと今更言っても仕方ないから誰もなにも言わなかったけど、あの一樹って人はね、日常的に、その、桃花に暴力をふるっていたらしいの。あのころ桃花はなにも言わなかったけど、たぶん、そうだったと思う。それである晩、桃花は家を飛び出して事故に遭ったの」
頭の傷に手を這わせる。
「もともとわたしと伊織が勧めた結婚だったのよ。天馬を忘れさせたくて。あんな人だってわかっていたら勧めなかったわ。わたしたち、桃花に天馬を忘れてほしかったの。桃花自身もそう願ったのよ、あのころ」
「どうして? 陸ちゃんがこんなに好きなのに」
過去のわたしを責めても仕方ないけれど、そうせずにはいられなかった。
「あのね桃花、前にも言ったと思うけど、思い出さないほうがいいことはたくさんあるの。一樹との結婚もその一つ。そして天馬と別れようとした理由もその一つ」
「わたし、待てなかったの? もしかして」
迎えにくる。
そう言われた記憶だけはぼんやりとある。
「無理ないわ。天馬がフランスに行ってから五年以上経ってたのよ。しかもほとんどなんの連絡もなく。桃花だけじゃなくてみんなが天馬との縁は終わったんだと思っても仕方がない状態だったのよ」
苦し気に千波は吐き出した。
ばかなわたし。
待ちきれなくてほかの人と結婚しただなんて。
「天馬はね、全部自分の責任だって言ってたの。全部知ってるのよ」
赤い顔をしてソファに横になっている陸ちゃんをちらりと見る。
「陸ちゃん、全部、知ってたの?」
「知ってたわよ。伝馬はね、全部知ってた。知っててあんたを受け入れたのよ。離婚が成立してないのもちゃんと知ってた。ただ、相手の名前と顔を知らなかったのよ。当然でしょう。会ったことがないんだから」
「陸ちゃん……」
全部知っていた。なにもかも知っていた。それなのに惜しみなく愛情を注いでくれた。
寝ている陸ちゃんの頬に手を這わせる。
「その話、本当か?」
ぱちっと目を開いた陸ちゃんに手を握られた。
黙ってうなずく。
「だからホテルに行ったんだな?」
念押しのように尋ねられる。
「うん」
「仕方なくってやつだな。自分でなんとかしようとしての結果か」
ゆっくりと陸ちゃんは上体を持ち上げた。かかっていた毛布がはらりと落ちる。
「うん。だって陸ちゃんに迷惑かけたくなかったから」
「そう、か」
ほっと息を吐き出すみたいにして、陸ちゃんは言った。
「叩いたりして悪かった。痛かったか?」
陸ちゃんに頬を撫でられる。ひんやりと冷たい指先だった。
「ううん、大丈夫」
ぽろりと涙が零れる。
「泣かなくていい。あとはおれに任せておけ」
ぎゅっと力強く抱きしめられる。
この強さに任せておけばいい。
目を閉じ、わたしは包まれる。陸ちゃんのやさしさと愛情に。最初からこうして身も心もゆだねてしまっていればよかった。そうしたらこんな面倒にはならなかった。
「陸ちゃん」
しがみついた。腕に力を込めて。もう二度とこの人を離さないように。
そこからの陸ちゃんの行動は素早かった。一緒についていくと言った巽くんを家に帰し、一人で出かけて行った。
どこでなにをしたのかどうやって離婚届を奪ってきたのか、なにも説明はしなかったけれど、夕方にはちゃんと帰ってきて、署名された用紙をわたしに寄越した。
リビングに広げられた離婚届と陸ちゃんの顔を交互に見る。頬が赤く腫れていた。指を這わせると、熱を帯びていた。
危険な真似をしたのだと、胸が熱くなる。
「殴られちゃった?」
恐る恐る尋ねた。真実を聞くのが怖かった。でも聞かないといけない気がした。
「ちょっとな」
片目をつぶる。
「ごめんなさい。わたしの為に」
「いいんだ」
頬に当てていた指先を摑まれる。その手の甲に傷がついていた。
「陸ちゃんも手を出したの? 傷になってるわ」
「三倍返ししたから」
「待ってて。消毒しなきゃ」
救急箱を取ってきて、赤い傷に消毒薬をつけて、ばんそうこうを貼る。
「本当にごめんなさい」
もう一度謝った。謝っても全部済んでしまっているからなんの意味もないのに、そうせずにはいられなかった。
「いいんだ。桃のほうが痛かっただろ。頬っぺた。ちゃんと話を聞かなくてごめんな」
「少しも。本当よ、少しも痛くなかったの。でもね、心が痛かった。ああ、陸ちゃんを傷つけたんだなって」
そう。あのとき、心が痛かった。頬なんかよりもぜんぜん。
「やっぱり痛かったんだな。桃花」
両手でしっかりとわたしの手を包み込む。
「これからはちゃんと話をしよう。隠し事とかなしにして。なんでも全部。言いにくい話もあるだろうけど、やっぱりそれじゃ、駄目だと思う。おれ、話すのあんまり得意じゃないし、うまく伝えられないかもしれないけど、それでもちゃんと話すから。桃の言葉も、ちゃんと聞くから」
「うん」
ふわっと心が軽くなった。
「話さないとなにも伝わらないから。黙っていてもわかるなんて、そんなの嘘だ」
「うん」
「じゃ、それ、さっさと書いて提出しに行こう。で、半年たって春になったらちゃんと結婚しよう」
「うん」
急いで書類にサインをして、二人で近所の役所に出かけた。離婚届けを二人で出しに行くのもなんだかおかしかった。職員さんも訝しそうにわたしたちを見ていた。実際、わたし達はずっと手をつないでいた。どこからどう見ても仲がよく見えたはずだ。なのに、離婚届け。
笑ってしまった。
提出を終えてから。もちろん、ほっとした意味もある。
「なんだよ、一人で笑って」
「だって役所の人、不思議そうに見てたわ」
「ああ、そうか。そうだったな」
「離婚する夫婦には見えなかったのよ」
「そうだな。桃、なんか食べてから帰るか?」
「うん」
手をつないでわたしたちは横浜まで出た。海が見えるレストランで食事をした。春に待ってる未来を想像しながら。
春になったら、わたしたちは本当に夫婦になれる。それはきっと、長い間わたし自身が求めていた結果なんだろう。
多分、それはもうずっと前から決まっていた。何年も前から。
食事を終えてレストランを出ると、二人で港のあたりを散歩してから帰ってきた。
街の明かりが眩しかった。それ以上に、待っている未来が眩しい。
春になったら、陸ちゃんのお嫁さんになる。今度こそ本当に。
回り道はもうしない。
8
リビングのソファに座った千波は、両手を組んで仰々しくため息をついた。
「わたしさー、他人の家がどうしようとなにをしようと勝手だと思うんだよね、基本。でもさ、ものには限度ってものがあると思うよ、うん」
「そう?」
紅茶を淹れたカップを差し出すと、遠慮もなく、千波は口をつけた。桜を形どったケーキも添える。陸ちゃんが先日から売り出した商品だ。
「あるよ。わかってないのは、多分、桃花だけ!」
一口、紅茶を飲むと、千波は呆れ果てたように、リビングを見回した。
「結婚式の写真だらけじゃないの!」
確かにあちらこちらに結婚式の写真は飾った。ちなみにテーブルには透明なクロスを買って、間に写真を敷き詰めている。テーブルを見れば、否応なく結婚式の写真が目に入る。このテーブルをわたしはとても気に入っていた。
「写真立てだけならいざ知らず、ポスターみたいに引き延ばして飾るなんて」
壁にも貼った。ちなみにブーケはドライフラワーにして、サイドテーブルに飾ってある。
「伝馬、なんにも言わない?」
「別に、なんにも」
実際、なにも言っていない。写真でカレンダーをつくって知り合いに送りつけたりもしたけど、それに関してもなにも言わなかった。
「陸ちゃんはね、なんにも言わないよ。好きなようにすればいいって言ってくれたんだ」
両手を胸の前で組み、うっとりする。
「はいはい。まったくさあ、あんた達みたいなの、バカップルっていうんだよ」
「それ、誉め言葉?」
「違うと思うよ」
「誉め言葉として受け取っておく」
にっこりと笑ってみせる。
「で、新婚旅行どうするの? 行くならうちで申し込んでよ。どこに行きたい?」
「陸ちゃんはイタリアって言ってるよ」
「イタリアでなにするの?」
「サッカー観たいんだって」
「そういえばあいつ、高校生のときからよくスタジアム行ってたわ。で、いつ頃?」
「八月くらいって。そのころになると店も落ち着くだろうからって」
「じゃ、適当にみつくろっておくよ。ほか、行きたいとこある? 桃花はどこに行きたいの?」
「わたしは陸ちゃんがいればもうどこでも」
「はいはい。じゃ、サッカー観戦を中心にしたツアーね。伊織にも聞いておくから」
「よろしくね」
そうなのだ。今日、千波が来た理由は、新婚旅行の相談のためだった。わたしが出向いてもよかったんだけれど、このところなんとなしに調子が悪くて、出歩くのが億劫になっていた。もちろん、陸ちゃんはなにも言っていない。体調が悪いと言えば、ものすごく心配をかけてしまうし、挙句、外出禁止令が出てしまう。
「ところで、桃花。なんか息苦しいの?」
「は? なんで?」
調子は悪いが息苦しくはない。
「なんか、肩で息ついてるから。苦しいのかなと思ったんだよ」
「そんなことないけどなあ」
どちらかと言えば、微熱があって体が怠いだけだった。それに眠気もひどい。
「そう? ならいいけど」
「なんか、微熱がちょっと続いてるのよねえ。あ、陸ちゃんには内緒にしてね。心配するといけないから」
「微熱って?」
持っていたカップをソーサーに戻し、千波はまじまじとわたしの顔を見た。
「桃花、生理きてる?」
「うーん。そういえば、このところ遅れてたかな。でも、わたし、もともと不順だから」
そうなのだ。毎月、ハンコで押したように来ると言う人もいるが、わたしは違った。その月によってまちまちで、一週間くらい遅れるなんてざらだった。別に珍しくもなんともないから、気にもかけなかった。
「やだ。妊娠したんじゃないの?」
「は?」
思わず、自分のお腹に視線をやってしまった。もちろんぺたんこだ。
「そうよ。きっとそうだわ。桃花達みたいなバカップルだもん。毎晩やってるに違いないんだから」
「毎晩て……」
否定できない。頬が熱くなった。
「きっとそうよ。わたし、検査薬買ってきてあげるよ。すぐに検査してみよう。わあ、おもしろそう」
止める間もなく、千波はリビングを飛び出していき、十分ほどして検査薬を買って帰ってきた。
二人で説明書を読み、わたしはトイレに押し込まれた。
記載されたとおりにして、トイレを出ると、そこに千波が待っていた。
「どう?」
持っていた検査薬を千波が覗き込む。すぐに反応はなく、じっと息をつめて二人で見つめ続けていると、徐々に妊娠を示す二重の線が浮かび上がってきた。
「桃花!」
はっきりと腺が見えると、千波に抱きつかれた。
「やったー。もうイタリアどころじゃないよ。妊婦さんだもん」
飛び上がって千波は喜び、わたしは圧倒されてしまった。でもだんだんと妊娠したんだと実感が沸いてきた。
「ちゃんと病院に行って調べたほうがいいよ。今日にでもさ」
千波は泣いていた。泣きながら喜んでくれた。そんな友達がいるのが、なんだかとてもうれしかった。
一人で行けると言ったのに、千波は結局婦人科のクリニックまでついてきた。しかもネットで近所にある腕のいい医者がいるというのまで探し出して。
評判どおりクリニックはひどく混んでいて、診察してもらうまで一時間以上も待たされた。もちろん千波も待っていてくれて、診察が終わって待合室に戻ったわたしを出迎えてくれた。
「どうだった?」
いすから立ち上がった千波は急いで駆け寄ってきた。
「うん。六週だって」
「やったー、桃花」
またもや千波に抱きつかれた。今日一日で何度、抱きつかれたか数えきれない。
「陸ちゃんにはまだ内緒にしてね。わたしがちゃんと言うから。それと伊織くんにもまだ言わないで」
「わかってるって。いやー、伝馬どんな顔するかなあ。なんか楽しみだね」
けらけらと顔を突き合わせてわたしたちは笑った。
陸ちゃんが帰って来るまで一緒にいたいと言った千波を無理矢理追い返して、夕飯の支度をして陸ちゃんを待った。
一人でいてもにやついてしまう。
ソファに座って、時折お腹を眺めてさする。
「陸ちゃんに似た子になってね。ママに似たら駄目よ。陸ちゃんに似るの」
帰ってきてから何度もお腹をさすっては、そう話しかける。きっと聞こえているはずだ。
「陸ちゃんはね、かっこいいし、やさしいから、きっとあなたもそうなるの。陸ちゃんみたいになるの」
何度も何度も話しかける。
幸せってきっとこんな時間をいうんだな、と一人納得していると、夜の九時を過ぎて陸ちゃんが帰ってきた。
「なに、一人でにやついてんだ。しかも独り言言ってた。聞こえてきたぞ」
リビングに入り口に立って、陸ちゃんはじっとわたしを見ている。
唇に手を当てて、必死で笑いをこらえる。
「あのね、陸ちゃん。わたし、イタリアに行くの、やめようと思うの」
「なんで? イタリアじゃないほうがいいのか?」
約束したとおり千波はなにも言っていない。この反応を見れば一目瞭然だ。
「あのね、飛行機に乗ったり、旅行をするのがいやなの」
「飛行機なら何度も乗ってるだろう? 嫌いなはずがない」
「そうなんだけど、いやなの」
「どうして?」
「あのね、実はね」
かなり勿体つけた。一気に言うのが、もったいなかった。
「なんだよ」
「わたしね、赤ちゃん、できたの」
ゆっくりとそう言った。
一瞬、陸ちゃんはぽかんと口を開けた。なにを言われているのか、わからないみたいにばかみたいな顔をして、わたしを眺めている。
「うれしくないの?」
ちょっとだけ不安になってしまった。喜んでいるとは思えなかった。むしろ戸惑っているみたいだった。
「本当に?」
陸ちゃんの瞳がかすかに揺れる。
「うん。だからね、イタリアはやめておこうと思うの。ごめんね、陸ちゃん、試合観たかったんだよね。でもサッカーならいつでも観られるから。なんなら一人で行ってきていいし」
「桃花」
陸ちゃんに抱きしめられた。思い切り。
「いいよ、そんなの。サッカーなんていつでも観られるから。それより桃だ。子供だ。ありがとう、桃」
「お礼を言うのはわたしのほう。ありがとう。記憶も戻らないわたしを愛してくれて」
「記憶なんか戻らなくていい。桃がいてくれればいい」
その晩、わたしたちはこれから生まれてくる子供の名前を考え、どんな子育てをしていこうかと笑いながら話し合った。
「おれ、桃に似た女の子がいい」
布団に入っても話は続いた。
「そう? わたし、陸ちゃんに似た男の子がいい」
「桃に似た女の子。でもって、花の名前をつけよう。桃みたいにかわいくなるように」
「やだやだ。絶対男の子がいい」
ふざけて陸ちゃんの胸を叩く。
幸せって何度感じてもいい。
人間は欲がありすぎる。でもありすぎるくらいでちょうどいいのかもしれない。
こんな日がやってくるなんて思いもしなかった。
記憶をなくして、戸惑ってばかりいたころのわたしに教えてあげたい。
こんなにも幸せになれる日が来るんだよって。
翌日には二人で役所に行って、母子手帳をもらってきた。ピンク色の手帳を手にすると、本当に妊娠したんだなと実感が沸く。
帰りにはさっそくベビー用品を揃えている専門店に寄った。
「赤ん坊の服って小さいな」
陳列された服を、陸ちゃんは触っている。なにか不思議なものを見ているような目つきだ。
「そりゃそうよ。赤ちゃんだもん」
「そうだな」
店をぐるりと一周する。陸ちゃんは早速いろいろ欲しがった。でも性別も不明だと、服も買えない。もちろんわたしは男の子だって信じてるけど、陸ちゃんは女の子だと思ってる。二人の意見もあわないから、なおさらなにも買えずにマンションに帰ってきた。
「なるべくじっとしてて。体、冷やさないようにして」
ソファにわたしを座らせると、陸ちゃんはブランケットを膝にかけてくれた。
「うん」
「あまり遅くならないうちに帰るから」
朝の店のオープンをロザリーに預けていた陸ちゃんは、慌ただしく出ていった。
正直、こんなに喜んでくれるとは想像もしていなかった。
喜びに包まれて、幾日も穏やかな日々を過ごし、ひと月後に、定期検診のためにクリニックを訪れた。待合室は相変わらず混んでいて、やっぱり一時間は軽く待たされて、診察室に入った。
「実はですね、伝馬さん」
まだ若い女医さんは、表情を曇らせておずおずと切り出した。
「はい?」
「先日の診察のときに子宮がん検診をしましたよね」
そういえば診察のついでに一応しておきましょうと言われたのを思い出した。
「はい、しました」
「結果が来まして、陽性です」
「はい?」
意味が分からなくて聞き返していた。
「子宮がんの細胞が見つかったと意味です」
息が止まった。
「これ以上の詳しい検査はここでは無理です。もっと大きな病院へ紹介しますから、そちらで詳しい検査をなさってください」
女医さんは気の毒そうに眼を伏せる。
頬がひんやりと冷たくなった。
「あのう」
口の中がからからに渇いていた。
「あのう、どういう意味なんでしょうか。わたしには、その」
額にどっと汗が浮かんだ気がして、手の甲で拭っていた。
「子宮がんです。初期だとは思いますが、それは検査を進めていかないとわかりません。できるだけ早く大きな病院に行ってください」
額に手のひらを当てて、意味を理解しようと躍起になる。
「あのう、わたしはがんなんですか」
自分の身の上になにか起こったというのか。
「そうです。ですから早くご主人と相談して、大きな病院に……」
そこから先はなにも聞こえなかった。言葉が頭の上を滑っていく。
足元から暗闇が這い上がってきて、全身を包み込もうとしている。異世界に放り投げだされたみたいに、上も下もなくなっていく。
一体なにが起こったというのだろう。
紹介状を持たされて、クリニックをあとにし、海が見える公園にやってきた。ベンチに座り込む。
海から冷たい風が吹いてきた。晴れているので、空も海も澄み渡っている。
ここからだと海も街も全部が見渡せる。巽くんの話だと、わたしも陸ちゃんも小さいころからここに住んでいたという。この海と街を見て育ってきたと教えてくれた。そしてわたしは記憶をなくし、それでも結婚して、妊娠した。この世の中で一番大好きな人の子を身ごもった。
一人でベンチに座っていると、小さな子供を連れた人やベビーカーを押した人ばかりが目についた。
来年の今ごろは、ああしてわたしも子供を連れて歩いているはずだ。陸ちゃんと一緒に。
クリニックの先生はなにも言わなかったけれど、がんになってしまったのだから、もう子供は産めないかもしれない。きっと手術で子宮を取り出して、そして……。
その先は考えられなかった。
悲しすぎる現実に、涙も出ない。というか、現状を受け入れられない。
バッグの中には紹介状がある。
隠し事はしない。なんでも話し合う。そう、約束した。言わなければならない。病院に行くんだと、陸ちゃんも一緒に行かなければならないと。
朝までの幸せが、今は幻にさえ思えている。
頭を抱え込んで、いつまでもそこに座り込んでいた。
体が鉛にみたいに重くてならなかった。
ずいぶんと長い間、座り込んでいたらしい。時間の感覚がまったくなくなっていた。海が暗くなって街のあかりが輝くと、わたしはすくっと立ち上がった。
頭の中が空っぽになった。もうなにも考えられないくらいに。
どこにも寄らずに真っすぐに帰ると、陸ちゃんが待っていた。
「どこに行ってたんだ」
玄関まで出迎えてくれた陸ちゃんの顔は、なんだか青ざめていた。
「なにかあったのか? 今日、検診だったんだろ? なにか言われたのか」
真っすぐに陸ちゃんを見る。
すぐに口を開けなくて、しばらくの間、たたきに立って、じっと陸ちゃんを眺めていた。
陸ちゃんが頬に触れる。
「冷たいな。体、冷え切ってんじゃないのか? 無理したら駄目だろう」
一つ一つの言葉が心に沁みる。促されて家にあがり、リビングに行き、陸ちゃんの隣に座ると、すぐに抱き寄せられて、頭を撫でられた。
「どこにいたんだ。すっかり冷えて」
「あのね、陸ちゃん、今日の検診でね」
「うん?」
「驚かないでね。わたし、子宮がんなんですって。それで今度大きな病院に行ってほしいって。できれば陸ちゃんも一緒にって」
一息に言い放った。そうしなければ言えない気がした。
「わかった」
陸ちゃんは冷静だった。取り乱してはいない。ほっとする。
「おまえ、顔色が悪いぞ。今日は早く寝よう。一緒に寝てやるから」
「ご飯は?」
「いい」
食欲がなかったから、これにはありがたかった。正直、夕飯の支度をする気力もない。すぐにパジャマに着替えてベッドに二人で横になった。
「わたしね、決めたから」
「なにを?」
「今、お腹の中にいる子は絶対に産むって」
「わかった」
「誰がなんて言ってもそうするから」
「わかった」
「反対しないでね」
「わかった」
その晩は会話にならなかった。すべてわたしの一方通行で、陸ちゃんは「わかった」としか言わなかった。
きっと混乱してる。わたしと同じように。
陸ちゃんの腕の中で、わたしは眠る。暖かくて心地いい。
この心地よさは永遠に失いたくない。そして陸ちゃんの子供も産む。産んで育てる。陸ちゃんと二人で。
翌週、街にある大学病院に二人で行き、様々な検査を受けた。検査はなんだかんだと午前中いっぱいかかり、午後になってから結果を聞いた。担当になった医者は、やっぱり女医さんだった。クリニックの先生よりもずっと若かった。
女医さんの口調は淡々としていた。なんの抑揚もなく、感情もなかった。努めて冷静に結果を述べた。
がんは思ったよりも進行していて、子宮を摘出しなければならない。したがって今後二度と妊娠は望めず、早期に手術する必要がある為、今の子供もあきらめなければならない。
そんな内容だった。
一通り説明が終わると、わたしはスカートをぎゅっと握りしめた。全身を固くさせて身動きひとつできずにいるわたしの隣で、陸ちゃんは口を開いた。
「わかりました。早めに入院します」
「陸ちゃん!」
叫んでいた。
「わたし、いやよ。子供は産むから。絶対に産むから」
そう。絶対に産む。これだけは誰が何と言っても譲れない。
「入院しよう。ちゃんと治療しよう。子供は仕方ないだろ」
「いやっ! 絶対にいやっ!」
そこが病院だというのを、忘れて叫び続けた。首を振りながら叫び続けた。
「まあ、二人でよくご相談なさってください。ですが、手術は一日でも早いほうがいいですよ」
「わかりました。一番早い日にちはいつですか?」
「来週の金曜日に空きがあります」
それならもう一週間もない日程になる。
「じゃ、その日に予約を入れてください。必ず連れてきます」
陸ちゃんの顔には表情がなかった。能面のように感情が失われている。
「陸ちゃん、言ったでしょう。わたし、産むって」
「その話は家に帰ってからまたしよう」
「そうですね、お二人でよく話し合ってください」
手術の予約を入れ、陸ちゃんに引きずられるように病院の外に出てゆき、陸ちゃんが運転する車に乗ってマンションまで帰って来ると、わたしはヒステリックに叫んだ。
「絶対に産むから。誰がなんて言ったって。陸ちゃんだっていいって言ったじゃない」
「状況が変わった。そうだろう?」
「がんがわかった日の夜、いいって言ったじゃない」
「わかったって言ったんだ」
「いいっていう意味でしょ」
「違う。わかったっていうのは、そういう意味じゃない」
「じゃ、どういう意味よ」
「がんだっていうのはわかった。桃花の気持ちもわかった。そういう意味だ」
「じゃ、産んでもいいじゃない」
「それは駄目だ」
「どうしてよ。わたし絶対に産むから」
「駄目だ」
「陸ちゃん、嫌い。そんなこと言う陸ちゃんなんか嫌い!」
わーっと声をあげ、リビングの床に直接しゃがみ込んで泣きわめいた。
泣いたってどうにもできないのに、泣かずにはいられなかった。あんまりわたしがかわいそうだった。お腹の子がかわいそうだった。
「桃、おれは……」
肩に手を置かれた。それを振り払う。
「いいわよ。わたし、ここを出ていく。もう陸ちゃんと暮らさない。家に帰る。だってここにいたら陸ちゃんは赤ちゃんを殺してしまう。わたしがこんなに産みたがってるのに。ちっともわかってくれない」
「どうしようもないことじゃないか。そんなのいくらでもあるだろう。生きていく中で」
「わたしはね、陸ちゃんみたいに冷静にはなれないの。もういいっ。話もしたくない。わたし、家に帰る」
バッグを持ってマンションを飛び出した。陸ちゃんは追いかけてこない。もっとも追いかけてきたって帰る気はない。
実家に帰ると、お父さんもお母さんも巽くんもびっくりした顔をした。芽衣ちゃんは仕事で帰っていないらしい。
「姉ちゃん、どうしたんだよ」
巽くんは目を白黒させた。
「離婚する。もう別れる。わたし、ここで暮らす」
一息に答える。
「は⁉ なに言ってんだよ。伝馬と喧嘩でもしたのかよ。夫婦喧嘩の巻き添えなんかごめんだぜ。送ってやるから帰りな」
「いや! 絶対に帰らない!」
一気に階段を駆けあがり、自分の部屋に飛び込んだ。
過去も思い出もない部屋だった。でもここ以外に住める場所をわたしは知らなかった。
翌日、連絡もなく家にやってきた千波の理由は聞かなくっても知っている。突然訪問した千波の顔は、真剣そのものだ。だからリビングではなく、自分の部屋に通した。
「説得したって無駄だから」
すぐさま言った。
「知ってる。全部、伝馬から聞いた。でもね、冷静に考えて。伝馬がどんな気持ちでいると思う? 伝馬はね、自分からわたしに連絡を寄越す人じゃない。あいつは不器用で、自分の感情を表に出したりしない人だよ。少なくとも伊織とわたしに対してはそうなの。その伝馬がだよ、助けを求めてきたんだよ。無視できないでしょう」
つん、と横を向く。
「桃花」
千波に手を握られた。少し汗ばんでいた。
「せめてマンションに帰りなさいよ。ここにいたら話し合いにもならないじゃない」
「いや。帰ったら、陸ちゃんに説得されちゃうもん。わたしね、今度だけは自分の考えを変えないつもりなの」
「じゃ、伝馬はどうなるのよっ! 自分の気持ちだけ一方的に押し付けて、それで伝馬はどうなるのよ」
「じゃ、わたしの気持ちはどうなるの」
千波の手を振り払って、手のひらで自分の胸を叩く。何度も何度も叩く。
「気持ちはわかる。だからこそちゃんと二人で相談しなきゃ」
「わかんないわよっ! わたしの気持ちなんか誰にも」
固く目を閉じる。涙が零れそうになっていた。
「わかんないよ」
そうだ、誰にもわかりはしない。千波にも陸ちゃんにも。
記憶もなくて、頼りは陸ちゃんだけで、陸ちゃんに寄りかかって生きている。その陸ちゃんから拒絶された。
この辛さは、誰にも伝わらない。
ぼろっと零れた涙が、頬を伝う。大きく目を開くと、ぱっと涙が散らばった。
「ねえ、千波。わたしってなにをしたの? 記憶をなくす前。どんな生き方してたの。どんな生き方をしたら、こんな辛いめにあうの? わたしは本当は誰なの? わたし、記憶を取り戻したい」
ぼろぼろと泣きながら訴える。
記憶さえ戻れば、なぜこんなひどい運命を歩かされているのか、納得できる気がした。
「教えてよ。本当は、わたしって誰なの?」
両手で顔を覆って泣いた。自分の意志とは無関係に涙が頬を伝う。
「桃花……」
千波は抱いてくれた。両方の肩を抱いて、千波も泣き出した。
二人でしばらくの間、泣き続けた。
千波は同情して。わたしは失ってしまった記憶を呪って。自分の運命を受け入れられなくて。
「とにかく」
やがて涙に曇った千波の声が聞こえてきた。
「このまんまじゃ駄目だから。今すぐ伝馬の元に帰れとは言わないけど、このまんまじゃ駄目だから」
返事をしなかった。できなかった。
「伝馬にはもう一回よくわたしも話をしてみる。でもね、これは大変なことなんだよ? もし手術しなかったら、その時は桃花が死んじゃうんだよ? そんなのわたしだっていやだよ。伊織だってそうだよ。それは理解してほしい。みんな桃花を心配してるんだから」
零れた涙を指の腹で拭い、うなずいてみせた。
「さ、もう泣かないで。泣いたってなんの解決にもならないんだから」
バッグからハンカチを取り出し、千波は零れた涙を拭ってくれた。自分の顔だって、涙でべとべとになって、化粧が崩れてしまっているのに。
わたしのまわりはみんなそうだ。自分よりもわたしを一番に考えてくれる。そんな人ばかりだ。記憶はないけれど、そう考えるととても恵まれている気がしてくる。でも、どうしても譲れない気持ちもある。
「帰らなくてもいいけど、伝馬に電話くらいしてあげて。心配してるから。あいつ、すっごく悩んでるよ」
「うん」
一応そう言ったが、連絡を取るつもりはなかった。話せば説得されてしまう。会えば手術を受けろと言われてしまう。
だから今はまだ電話をするつもりもなかった。
「桃花、元気出してね」
手早く化粧をなおした千波は、最後にそう言って部屋を出て行った。わたしは見送らなかった。
千波が飛んできてくれてうれしかったけど、今は一人でいたかった。誰にも会いたくなかった。
家でのんびりと過ごした。妊娠を知らない両親と巽くんは、陸ちゃんとの関係を心配してあれこれ聞いてきたけれど、それだけだった。それものらりくらりとかわしているうちにあきらめたのか、三日も過ぎるとなにも言わなくなった。
陸ちゃんは連絡してこない。いっそこのまま忘れさられたほうがいいのかもしれないな、と思い始めた火曜日の午後だった。
昼ご飯をお母さんと巽くんと三人で食べた。巽くんはたまたま休みだった。食後のお茶を飲む間、お母さんは後片づけをするからとキッチンに消え、わたしと巽くんはリビングでテレビなんか見ていた。
「やっぱさあ、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないの?」
ソファに座っていた巽くんは、眉間にしわを寄せていた。
「うん、大丈夫」
「なにが大丈夫なんだかわからないよ。おれ」
お茶を飲み干し、ソファから立ち上がると、インターフォンが鳴った。近くにいたので仕方なく対応すると、伊織くんだった。
「よっ」
ドアを開けると、右手を挙げた伊織くんがいて、わたしは鼻から息を吐き出した。
「千波が来たと思ったら、今度は伊織くん?」
「まあ、そんな冷たい顔すんなって。桃花ちゃんの部屋、いこ。ゆっくり話ができるもんな」
遠慮もなく家にあがった伊織くんは、わたしの背中を押して階段を駆けあがり、部屋に入ると後ろ手でドアを閉めた。
この場面だけを見ると、あらぬ誤解を振りまきそうだけど、そこはわたしと伊織くんだ。今さら色っぽい関係になどなるはずがない。第一わたしは妊婦さんだ。伊織くんはそれをちゃんと知っている。
「さてと」
部屋の中心に胡坐をかいて、伊織くんは話を切り出した。
「伊織くんの説得なんか聞かないよ」
はっきりと言ってやった。そうしないと伝わらないから。
「説得っていうか、なんちゅうか。まあ、とにかく伝馬と連絡取ってやれ、な」
「いいのよ。これはわたしたちの問題だから。ううん、今となってはわたし一人の問題よ。いいのよ。陸ちゃんがいなくても、わたし、一人でなんとかするから」
「桃花ちゃん!」
たしなめられた。伊織くんに。
「あんまりな、伝馬を苦しめたら駄目だ。あいつはとても苦しんでる。桃花ちゃんの気持ちがわかっているからだ。けどな、どうしようもないから困ってる。桃花ちゃん、電話だけでいいからとりあえずしてくれないか」
伊織くんは自分のスマホを差し出した。
スマホと伊織くんを交互に眺める。
「頼む。してやって。あいつ、待ってる」
「だったら、陸ちゃんが来ればいいじゃない。なによ、千波や伊織くんを使ってさ、最低」
「そうじゃない。桃花ちゃんの気持ちを逆なでしたくないからだよ。ならわかった。伝馬が来ればいいんだな。桃花ちゃんがそう言ってたって、おれ、言っておくから」
「来たって、わたしの決心は変わらないけど」
「二人が離れているのがよくないんだよ。離れていると、ろくなことがない」
そうなんだろうか。そうかもしれない。でも、会って言い合うのも嫌だった。
「とりあえずラインで今夜来るように言っておくから。桃花ちゃんもそのつもりでいてな」
そう言われると、決心がつかないというか、心が揺らぐ。
「伊織くん、わたしはね」
「自分の気持ちは自分で伝馬に言うんだ。おれや千波はおまけ。伝馬だって本当は自分がここに来たいんだ。桃花ちゃんに会いたいんだ。でも今会ったら桃花ちゃんの気持ちを混乱させる。それをあいつはよく知っている。桃花ちゃんの気持ちを大切に思ってる。桃花ちゃん」
真顔で見つめられる。
「おれらなんかが口出すのはお角違いだろうけど、みんなが桃花ちゃんを心配してる。一番にそう考えてるのは伝馬だ。意地を張りたいのもわかる。けど、ほどほどにな。なんでも妥協は必要だから」
「意地を張らなきゃいけない時もあるでしょう。今回みたいに」
「今回はかなりレアなケース。なら、おれは退散するわ。伝馬のやつ、今夜にもここに来るだろうから、ちゃんと話し合ってな」
あっさりと伊織くんは帰っていった。わたしも前回千波が来た時と違ってさほど取り乱さなかった。相手が伊織くんだったからだろうか。
二人共話し合えと言っていたけど、もうなにも話したくなかった。でも今夜来るというなら、もう一度はっきりと自分の気持ちをぶつけるだけだ。
「姉ちゃん、伊織のやつ、もう帰ったのか?」
ひょっこり巽くんが顔を出した。
「うん。仕事の合間抜けてきたみたいだから」
「なんの用? もしかしてイタリアツアーに関して」
ちくりと心に突き刺さる。
イタリアにはもう行かない。
そうは言えなかった。
「おれもついていきたいよ。サッカー、観たいよね。あとパスタとかさあ。芽衣と新婚旅行してないんだよねえ、だから行きたいなあ」
「巽くんも行けばいいよ。芽衣ちゃんも喜ぶよ」
「そうだけどさあ。あー、いいないいな」
心底羨ましそうに、巽くんは繰り返す。
「部屋でうろうろしない。用がないなら出ていってちょうだい」
「はいはい」
手を振って巽くんは出て行った。巽くんは何も知らない。だから口調も呑気だ。いつかはばれるんだけど。そしてそれは今夜かもしれなかった。
意外にも陸ちゃんはなかなかやってこなかった。さらに驚いたのだけれど、わたしは陸ちゃんを心待ちにしている。
がんであるという事実を除けば、陸ちゃんはとてもやさしかったし、愛情に包まれているのを実感していたし、なにより記憶がなくても幸せだった。
がんという病気が結局はすべての禍で、始まりだった。
そう思えばまた悲しくなり、部屋にこもってはさめざめと泣いた。もちろん家族の前では泣かなった。泣けばすべてを話さなくてはいけなくなる。そうなればほかの人達と同様、すぐにでも手術をして子供はあきらめろと言われるに決まっている。それではここに帰ってきた意味がなくなる。
夕飯を終えて、部屋に引っ込んだわたしは、今夜も押し寄せる悲しみにじっと一人で耐えていると、ノックもなしに、ドアが開いた。
「姉ちゃん、伝馬が来たよ。迎えにきてくれたんだから、さっさと帰れよ」
巽くんはさばさばとしていた。安心感もあるようだ。結局、巽くんも陸ちゃんが来るのを首を長くして待っていたらしい。
膝を抱え込んでベッドの上にしゃがみ込んでいたわたしは、唇をぎゅっと噛み締めた。
「姉ちゃん、いつまで意地を張ってんだよ。伝馬が待ってるんだからさ。早く帰ったほうがいいよ」
手首を摑まれ、無理矢理に立たされる。いやだと拒否する間もなく、引っ張られ、下に降りていき、たたきに立っていた陸ちゃんと一週間ぶりに顔を合わせた。
陸ちゃんはひどく疲労して見えた。全身から疲れが滲み出ている。
「桃花」
それでもわたしに会えてほっとしたのか、口元を緩ませた。
「よかった元気そうで。手術の前に検査があるっていうから検査の日を決めてきた」
お腹に両手を当てる。
「もう決めたから」
「いやっ! 絶対にいやっ!」
叫ばずにはいられなかった。
巽くんが驚いている。
「手術ってなんだよ」
なにも事情を知らない巽くんは、きょとんとした声をあげた。
「陸ちゃんはね、お腹の子供を殺すつもりでいるのよっ。巽くん、お腹の赤ちゃんを守って」
しがみついた。陸ちゃんではなく、巽くんに。
「姉ちゃん、妊娠してたのかよ。なんで言わないんだよ。それに手術って……。伝馬、子供がほしくないのかよっ」
非難を浴びせた。なにも知らないのだから、当然そうなる。
「違う」
陸ちゃんは冷静だった。いつもどおり抑揚のない口調だった。
「そうじゃない」
「じゃ、なんだよ」
「桃は、子宮がんで、だから手術しないといけない」
「やめてっ! 巽くん、お願い。巽くんはわたしの味方よね? 赤ちゃん産んでもいいよね?」
肩にしがみついて、訴える。戸惑いの色が、巽くんの顔に浮かぶ。
「そりゃ、産んでほしいよ。でも、がんって……」
呑み込めていない。だから陸ちゃんとわたしを交互に見ている。
「巽、悪いけど、桃と二人で話をさせてほしい」
「それはいいけど」
「桃、外に出よう」
「いやよ。二人になったら、陸ちゃんは自分の考えを押しつけるだけだもん」
「来るんだ」
腰に手を回され、外に引きずり出された。異常な雰囲気を察した巽くんは追いかけてこなかった。
抱きかかえられるようにして、近所にある公園に連れて行かれた。児童公園で、古びたシーソーやブランコがあり、真ん中はあまり広くないグラウンドになっている。脇には桜の木があった。花はすっかり散り葉桜になろうとしている。その木の下にあるベンチに、陸ちゃんはわたしを座らせて、自分も隣に腰をおろした。ぐっと肩を抱き寄せられる。
「この公園。よく寄ったんだ。桃を送るとき。高校生のころ」
目を細めて、陸ちゃんはあたりを見回した。
「桃は覚えていないだろうけど、学校からの帰り道、ここでよく話をしたんだ。こうしてベンチに座って」
覚えているはずがなかった。わたしの記憶は失われたままだ。
「おれは桃がいればそれでよかった。桃といる時間がすべてだった。それは今でも変わらない。今、桃とこうしているのが、なにものにもかえがたい。あの頃も今も、桃がおれのすべてなんだ」
そうして陸ちゃんはまっすぐにわたしを見た。
「本当なら子供を産んでほしい。二人の子供を二人で育てていきたい」
「だったら、許してくれるの?」
「それはできない。桃、おれは一度おまえを失った。フランスから迎えにきたとき、おまえの記憶がなくなっていると知ったとき。そのときの絶望感は今でも忘れられない。だから空港で、桃が飛び込んできたとき、迷わず桃を受け入れた。記憶がなくなっていたとしてもかまわなかった。大切なのは、桃がそばにいてくれる。これだけだった」
つん、と鼻の奥が痛くなる。涙がじわっと浮かんできた。
わたしは待っていた。家にいる間。説得されると知っていたのに。それでも陸ちゃんを待っていた。会いたかった。
「おれはもう二度と、おまえを失いたくない。だから手術を受けてほしい。子供よりも、ほかのなによりも誰よりもおれのそばにいてほしい」
そっとわたしの左手を取った陸ちゃんは、薬指にはめられた結婚指輪を撫でた。
「病める時も健やかなるときも。そう約束しただろう。神様の前で。だからそばにいてほしい。いつまでもいてほしい。子供がいなければいないなりに生活していけばいい。おれは、子供よりも桃を失いたくない」
「陸ちゃん」
そうかもしれない。その通りかもしれない。
「陸ちゃん、わたしもずっと陸ちゃんのそばにいたい」
「だから生きてくれ。生きてずっとおれのそばにいてほしい。桃が一番大切だから」
「はい」
素直にうなずいた。だってこれほどわたしを思ってくれている人を他に知らない。多分、この先何十年生きていったとしてもきっと巡り合えない。
陸ちゃんだけが、こんなにもわたしを思ってくれている。
「手術、受けます」
それまでのこだわりが、溶けていく。陸ちゃんの情熱に溶かされていく。
そっと胸の手のひらを這わせ、空を見た。
月が眩しく輝いていた。
手術の日、陸ちゃんと二人で病室にいた。千波も伊織くんも巽くんも来たがったけれど、全員断った。陸ちゃんと二人でいたかったから。陸ちゃんはいつまでも手を握っていてくれた。
手術室に入る直前まで。
生臭いにおいが漂う手術室の中で、深い眠りに落ちた。痛みもなにも感じない深い眠りの中で、わたしは夕日が差し込む教室に立っていた。
紺色のブレザーに赤いリボンをして、プリーツの膝上のスカートを着ていた。陸ちゃんもいた。やっぱり紺色のブレザーを着て、ネクタイを締めていた。
誰もいない二人きりの教室の机の上に座って、グラウンドを見ていた。野球部が放課後の練習をしている。わたしたちは笑っていた。大分暗くなってきてから教室を出て駅前にある喫茶店に行った。そこでもやっぱり笑っていた。
カップが空になっても粘って話をして、いよいよ夜になって、ようやっと立ち上がる。
手をつないで歩いて、近所の公園のベンチに座る。
あのベンチだ。誰もいないブランコが風に吹かれている。
なにを話してるのかな? なにがそんなに楽しいのかな。
場面がページをめくるように変わっていく。
森林公園に行ったり、海に行ったりしたんだね、わたし達。
わたしの高校生活には、いつも陸ちゃんがいた。
いつもどんなときも。
同じ大学に進学しても、わたし達はいつも一緒にいた。バイト先のブティックに来て、陸ちゃんはいつもほかのスタッフにからかわれていた。
旅行にも行った。
千波にアリバイを頼んで。
小さなペンションで、一晩中語り合った。
両親にたくさんの嘘を重ねて、わたし達は幾晩も一緒の夜を過ごし、大学を卒業せず、陸ちゃんはフランスに行ってしまった。
――いつか必ず迎えにくるから
そんな一言を残して。
ずっとずっと一緒だった。どの季節にも、どの時間にも陸ちゃんは常にわたしのそばにいてくれた。
そして今も。
目を開けると、陸ちゃんが目の前にいた。
「桃、痛いか?」
まだ麻酔が効いているのか、少しも痛くなかった。
「わたしね、見てきたよ。会ってきたよ。高校生の陸ちゃんに」
「記憶を思い出したか?」
「ううん。陸ちゃんを見てたの。わたし達いつも一緒にいたんだね。いろんなとこに行ったんだね。スケートや動物園や、ほかにもたくさん」
「そうだ」
「ありがとう」
わたしは微笑んだ。
手を握る陸ちゃんの手に力がこもる。
「これからもずっと一緒にいる。永遠に一緒にいよう」
「うん」
頭が朦朧としていて、わたしはまた眠りに落ちた。
もう一度陸ちゃん会いに行くつもりで。
それからの数日間の記憶が曖昧だった。あとから千波が教えてくれたが、三日間ほど、わたしはずっと眠り続けていたそうだ。トイレには一人で行ったけれど、食事はしようとせず、千波と伊織くんが交代で食べさせてくれたらしい。口を全然開かないときもあって、食べさせるのにひどく苦労した聞かされた。
人形のようだった。
千波は泣きながらそう言った。
もう元に戻らないんじゃないかとも。
病院には行かなかった。行こうとするとひどく興奮してしまうので、介助でも何でも食べ物がのどを通る間は、交代で看ようと決めたのだと教えてくれた。当然千波一人ではままならないから、巽くんや両親も来てくれたが、なにしろそのあたりはなにも思い出せなかった。
恐らく、千波の言う通り、人形になっていたのだと思う。人形になればなにも聞かなくて済むし、なにも話さなくていいし、なにより考えなくていい。
失くした記憶を取り戻す努力をせずに済むからだろう。失った記憶を取り戻す行為に、自分でも知らないうちに押しつぶされそうになったのだと思う。
そして数日後、わたしは再び目覚めた。
胸のあたりが重苦しくて目が覚めた。
自分の体の上に突っ伏している千波を目にして激しく動揺した。
きれい好きでおしゃれな千波の髪はフケがあったし、着ていたシャツは汗ばんでいた。しばらく風呂にも入っていないのか、異臭がした。
「千波、千波」
ぐっすりと眠っている千波の背中を揺すると、うーんと唸りながら、はっと目を開けた。
「千波、どうしてこんなとこで寝てるの?」
次の瞬間、じわっと千波の目に涙が浮かんだのが見えた。それからがばっと力任せに抱きしめられた。
「桃花、はっきりしゃべったね。ここがどこだかわかる? わたしが誰だかわかる?」
涙で曇った声に、わたしのほうが驚いた。
「そりゃあ、わかるよ、なんで?」
驚いて言うと、千波は何度もわたしの頭を撫で、この三日間、ほとんど寝たきりだったと言ったのだ。
千波は泣いていた。反対にわたしの頭はすっきりと冴え渡っていた。記憶が戻ったとか、そういう意味じゃなくて、くたびれ切っていた心も体も元通りになった気がしたのだ。
「まあ、よかった」
わたしの体から離れ、千波は指で涙を拭き、勢いをつけて立ち上がった。
「お腹すいてるでしょう。なんか食べる?」
「ううん、大丈夫。それよりも千波、シャワー浴びたほうがいいよ。なんか汗臭いよ」
くんくん、と腕のにおいを千波は嗅いでいる。鼻の頭に皺が寄った。
「そうね、そうかもしれない。じゃ、お風呂入ろう。桃花もあとで入るといいよ。ずっと寝てたから汗かいてるでしょ」
そう言われてみれば、体中、汗でべとついていた。きっと千波に負けず劣らず変なにおいを放っているに違いない。
照れてぺろっと舌を出す。
「そうする。千波のあとに入るわ」
「うんうん」
千波が部屋から出ていくと、そっと床に足をつき、ベッドから立ち上がった。寝たきりだったせいで、頭がぐらぐらと揺れた。
こうなる前になにがあったのか、カスミがかかったように、ぼんやりしている。これも伊織くんが言う病気のせいだ。きっとそうだ。
答えがそこに辿り着くと気持ちが楽になった。
千波と交代でシャワーを浴び、洗濯をしたTシャツに、ウエストがゴムのロングスカートを着た。それからリビングに行き、千波が用意してくれたミルクを飲む。ほどよく温められたミルクは、胃の中にじんわりと広がっていった。
両手でマグカップを包み込んでいるわたしの前で、千波はコーヒーを飲んでいた。
「よかったわ。あのままだったらどうしようかと思ったのよ。今はいつもの桃花ね」
心底ほっとしたのか、千波はうれしそうだ。
「そんなにおかしかった?」
「とてもね。でも、いいのよ。もう過ぎたんだもの」
「ごめんなさい。おかしな病気よね」
「いいのよ、桃花が悪いんじゃないの。病気なんだから。そうだ、伊織にも連絡しなきゃ」
すぐにスマホを手にして、千波は連絡を取る。きっとラインでメッセージを送っているに違いない。
「夜、来るって」
目の前で、千波は嬉しそうに微笑んでいた。
夕飯の支度を千波と二人でしていると、伊織くんが飛び込んできた。手にはやっぱり和菓子の袋を持っている。
「お、元気そうじゃないか」
伊織くんはわたしの顔を見るなり言った。
腰を二つに折る。
「ご心配おかけしました」
「いいのいいの。桃花ちゃんが元気になってくれればな。伝馬のやつによく言っておかないとな」
「伊織!」
千波が首を振る。
一瞬だけ、気まずい雰囲気が漂う。
伝馬って人は忘れたほうがいい。
そこに辿り着くために、きっとおかしくなってしまったのだ。心の奥底に追いやるために、必要な時間だったんだとなんとなく察する。実際目覚めてから、伝馬って人はずっと遠くに行ってしまった気がする。
「伊織も来たし、夕飯だよ。今夜はお好み焼きにしたよ。みんなでわいわいやろう!」
「おー!」と伊織くんと二人で右手を上げる。
その夜の夕飯は確かに楽しかった。久しぶりに楽しい夜だった。
三人でいればそれでいい。こんなに楽しいんだから。これ以上多くを望んじゃいけない。
三人でかわるがわるお好み焼きを焼いた。なぜか伊織くんが焼いたお好み焼きが一番おいしかった。
最後に伊織くんが持ってきてくれた和菓子を食べて、今夜の夕飯は終了。
伊織くんはうれしそうに帰っていった。家に帰ったら飲み直しだと言って手を振りながら。
千波もほっとしたのか、もう寝るわ、と自分の部屋に入っていった。
わたしも今夜は早く休むつもりで自分の部屋に行った。
わたしの部屋からも海が見える。海は街の明かりと船のせいできらきらと水面が光っている。
その光を見ながら、ずっと三人でいられたらいいな、と思った。でもそれは無理なんだ。だって千波と伊織くんはいつか結婚する。新婚家庭にまでもぐりこんではいけない。それにわたしには家族がいる。両親と巽くん。どんな事情と話し合いがあったのかは知らないけれど、きっと家族もわたしの帰りを待っているはずだ。
恐らくは、記憶が戻ってくるのを。
カーテンをぎゅっと握りしめる。
恐れている。記憶を取り戻すのが。本当の自分を知ってしまうのが。
否定する。
楽しい時間だけを考えよう。二人がいればいつだって楽しい。
二人がいれば幸せだ。
そう思い込ませながら、カーテンをひこうとした手が止まった。
マンションの真下、暗がりの中に人が立っている。
どきん、と胸が痛くなる。
あの人だ。海に行こうとしたとき、わたしを待っていた。千波が阻んだあの人だ。
じっとこちらを見上げている。
前ほど胸は痛まない。でも苦しい。
ねえ、あなたは誰なの? そう思うと同時にそっと部屋を抜け出し、玄関のドアを開けて、暗闇に沈む外へ飛び出した。
外の空気はひんやりと冷たく、海が近いせいで少し湿気て重たかった。体に重たい空気をまとわりつかせながら外に出ると、あの人が気がついて、わたしのほうを向いた。
苦しい。
息がしづらい。でも逃げちゃいけない気がしてそこに立っていた。
「明後日、フランスに帰る」
なんの前置きもなしに、突然そう言われた。
フランス。
頭がぼんやりして、なにも考えられなくなった。
「午後の便で。成田から。それだけ言いたくて。せめてそれだけ言いたくて。ここで、待ってた。もしかしたら出てきてくれるかもしれないと思って」
ふわふわの髪を揺らしていた。
「それだけ言いたくて」
苦し気に息を吐き出している。
苦しいの? あなたも苦しいの? なぜ、どうして?
そう問いたいのに、言葉にはならずのどの奥からひゅうっと空っ風が吹くように息が漏れただけだった。
「それだけ言いたかっただけなんだ」
そう言うなりくるりと向きを変え、その人は風のように走り去ってしまった。
暗闇の中に溶け込んでしまってから、わたしはそっと胸に手を当てる。
明後日、成田。フランス。
そんな言葉がぐるぐると頭の中をまわっていた。
翌日から普通の生活に戻った。千波は仕事に行って、わたしは家事をして、動き回る。動いていればなにも考えなくて済むはずなのに、何故か胸の中をフランス、明後日、成田という言葉がぐるぐると回っている。すべてを追い払うようにして、掃除や洗濯をする。
その晩、千波の帰りは遅かった。途中連絡があって、仕事が溜まっているのでかなり遅くなると電話が入った。
わたしは一人で夕飯を済ませ、帰らない千波に諦めをつけて、ベッドにもぐりこんだ。
朝から、正確には昨日から気になっている言葉たちがわたしの心を覆いつくしていてうまく眠れず、何度も寝がえりをうった。
明後日。つまり明日だ。
明日、フランスに帰る。あの人が。
――桃に会いたくて来たんだ
そう言ったあの人が。
布団の端っこをぎゅっと握りしめる。そうしないと胸の苦しさに耐えきれそうにもなかった。
そのうちに千波が帰ってくる音がして、慌てて頭の上まで布団を持ち上げた。
部屋のドアが開く。
「ごめんね、明日はもっと早く帰ってくるからね」
千波の囁く声が聞こえた。寝入っていると信じているわたしに言ったのだ。でもわたしはしっかりと起きていた。
心配してくれている。だからこれ以上、心配かけちゃいけない。
堅くわたしは目をつむった。
翌日は、朝から細かい雨が降っていた。千波はリビングのソファに座って「あー」と残念そうに声を上げた。
「雨の日って仕事に行きたくなくなるのよねえ」
そう言いながら、わたしが淹れたコーヒーをすすり、トーストを齧った。
「忙しいの?」
千波と違って時間に余裕があるわたしは、千波の世話をかいがいしく焼きながらそう尋ねた。
サラダとゆで卵を千波の前に置く。
「ここんとこね。でも昨日みたいに遅くはならないから」
急いで朝食を食べ、千波は慌ただしく出て行った。
わたしにはいつもの家事が待っているだけだ。
洗濯機のスイッチを入れ、掃除機を手に取ったところで体の動きが止まった。
壁に掛けられている時計を見る。まだ八時前だ。
午後の便て何時だろう。
一時? 三時? 五時?
もし一時だったら、今から向かわなければきっと間に合わない。
間に合わない。
はらりと涙が零れてきた。なぜ泣くのか自分でも意味がわからない。
涙は止まらなかった。
掃除機を放り出し、自分の部屋に行くと急いで着替えをし、バッグを持って外に飛び出した。雨が降っているのを忘れていた。かまわない。細かい雨だ。
雨は冷たく降り注ぎ、霧のようにわたしの髪や服に落ちてきて、銀色の粒となってまとわりついた。
かまわず走り続け、千波の職場のマンションの一室に辿り着いたときには、髪からしずくがぼたぼたと落ちていた。
「桃花ちゃん!」
パソコンの前に座っていた伊織くんが驚いて立ち上がる。千波も驚いて口を半開きにしている。
肩で息をついた。乱れた息を整える間もなく、わたしは一息に言い放つ。
「お願い、成田まで連れていって!」
悲鳴にも似た声が部屋中に広がった。
二人は困惑の色合いを浮かべていたけれど、なにも気がつかないふりを装って、懇願し続けた。
成田に連れていって。午後の便に間に合うようにして。
「今、行かなかったら一生後悔すると思う。だから連れていって」
もし一人で成田まで行けるなら、わたしはきっと一人で電車に乗っていたと思う。バスでもいい。でもお金もろくに持ってないし、行き方もわからない。なにより黙って遠い場所まで出かけていって、また二人に迷惑をかけたくない。だから頼んだ。
一生懸命、涙すら浮かべて。
何度もお願いして、伊織くんは根負けした。
「わかった。連れていってやる」
静かにそう言った伊織くんとは対照的に、千波は激しく止めた。
「成田に行ってどうするの。仕事だって溜まってるのよ」
「桃花ちゃんが優先だ。千波は黙って仕事していればいい。おれが送ってくる。今から飛行機を調べるよ」
パソコンの前に座って伊織くんが手を動かしたのはほんの少しの時間だ。いすから立ち上がると支度を始めた伊織くんを見て、反対するのは無駄だと思ったのかもしれない。
千波は大きく息を吐いてから前髪をかきあげる。
「わかった、わたしも行くわ。二人だけじゃ心配」
そう聞いて、わたしはまた涙腺が緩んだ。
成田に行ける。行ってどうしたいのか何をしたいのかはわからない。ただ行かなければならない気がしていた。どうしようもなく心が急いていた。
「車出すよ」
そう言って伊織くんは車のキーを指に引っ掛けた。
車の中ではみんな押し黙っていた。空気が重苦しく感じるほどだ。
千波は納得しきれていないのか、いつもなら後部席に並んで座ってくれるのに、今日は助手席に乗って窓枠に肘をついて外ばかり眺めている。
バックミラーに映る伊織くんの顔はどこか険しい。
そんな二人の後ろでわたしは祈るように両手を組み合わせていた。
成田に行きたい。午後の便に間に合いたい。
その午後の便が何時なのかも知りもしないのに。
車は小雨を切り裂くように高速を走り、成田空港の駐車場に入った。車が停まるとわたしは外に飛び出した。
成田に来て、あの人に会って、それからどうしたいのか自分でもよくわからない。けれど会わずにはいられない。このままでは駄目だと心が叫んでいる。
自動ドアをくぐり、あちこち走り回る。今にも出国しようとしている人達はたくさんいて、大きなスーツケースを引きずっている人もいる。
たくさんの人がいた。なのに、あの人だけが見つからない。
周囲がよく見えるように、エスカレーターで二階にのぼり、柵に摑まって目を凝らす。どこにも見つけられない。
当たり前だ。時間だって知らないのだから。
今にも崩れてしまいそうになる体を柵に寄りかかってなんとか踏ん張る。
「満足?」
後ろからついてきた千波にそう声をかけられた。
振り返らなかった。千波の声が、いつもと違って冷たく響いたからだ。
「もう満足でしょう。成田まで来たんだから」
肩に手をかけられた。
その通りだった。目的はとりあえず達した。でもあの人に会えていない。
二階からありみたいに動く人たちから目が離せない。体も目もそこから動かせなかった。
どきん、と突然胸が鳴った。激しく波打ち始める。
これから出国していく人の中に、光を見た気がした。
頭の中で写真をめくるみたいに様々な場面が浮かんだ。
その中にあの人、伝馬、が、いた。
見つけてしまった。
わかってしまった。
これから今まさにゲートを抜けようとしている伝馬に。
目の奥が熱くなって、みるみる涙が盛り上がってきた。頬に涙が伝うまでそう時間はかからなかった。
「陸、ちゃん……」
つぶやいた一言に、千波が反応した。
「桃花、今、なんて言った?」
「陸ちゃん……」
様々な思いが溢れ始めた。
行かないで。行っちゃいや。一人にしないで。おいていかないで。
――約束。必ず、迎えに来る
あの日、確かにそう言われた。
――だから待ってて
そうだ。そう言われた。
ゲートをくぐらないで。行かないで。
「思い出した」
ぽたぽたと涙を零しながら、つぶやく。
思い出した。
あの日もこうやって遠くから見送った。本当は行ってほしくなかったのに。ずっと一緒にいたかったのに。でもそれがうまく言えなくて。だから迎えに来るって言ったその一言を信じて。
行かないで。一人にしないで。
体が動いていた。床を蹴って階段を駆け下りる。
「陸ちゃん。陸ちゃーん」
思い切りの声で叫ぶ。人をかき分けて、何度も名前を呼ぶ。わたしの声に驚いた人達の視線が集中する。かまわずに走って、呼び続ける。
こんな大勢の人の中で届くはずがない。
でも、彼は気がついてくれた。
後ろを振り返り、駆けているわたしの姿を見つけてくれた。
そうだ。
どんなにたくさんの人がいたって、わたしは見つけられる。
愛しいたった一人の人を。
だって愛してる人は、たった一人しかいない。
十万人の中からだってわたしは見つけ出せる。
「陸ちゃん!」
見つけ出して、そしてわたしは何度も恋をする。
たった一人の愛しい人に。何度も、何度だって。きっと生まれ変わっても、陸ちゃんに恋をする。
「陸ちゃん!」
驚いた顔をしている陸ちゃんの胸の中に飛び込んでいた。
勢いをつけていたから、陸ちゃんの体がぶれた。
「おいていかないで。連れていって。一人にしないで。ずっと陸ちゃんのそばにいる」
しがみついて、一気に放つ。
あの日、言いたかった。でも言えなかった。それがわたしをどんどん追い詰めていった。
「桃、おまえ、記憶が?」
目の前にいる陸ちゃんは戸惑った表情をしている。
「違うの。なんにも思い出せてないの。でも陸ちゃんだけは思い出した。わたし、本当は行ってほしくなかった。あの日、本当はそう言いたかった。でも陸ちゃんの夢を叶えてほしくて。だから迎えに来るって、いつか必ず迎えに来てくれるってそう信じると決めて。でもわたし」
泣きながら、懸命に訴えるわたしを、陸ちゃんは思い切り抱きしめてくれた。
「もういい、なにも言うな。迎えにきた」
抱きしめられながら、陸ちゃんの言葉を聞き続けた。
知っている。この胸のぬくもりを、わたしは確かに知っている。
「桃、一緒に行こう。もう離さない。永遠に一緒にいよう」
熱く囁かれる言葉を泣きながら受け止めた。
過去のわたしがどうであろうともうどうでもいい。陸ちゃんがいてくれればいい。陸ちゃんだけを思い出せればいい。
「陸ちゃん」
顔をあげると、そこに陸ちゃんがいた。細くてすんなりとした指が、頬に零れた涙を拭き取ってくれた。
しばらくそうやってお互いの顔を見つめていた。
それからまた思い出したように、陸ちゃんは強い力で抱きしめてくれた。
「愛してる」
耳元に聞こえた甘やかな声。
ああ、陸ちゃんだ。
二度と離さない。なにがあっても。永遠に。
背中に視線を感じて振り返ると、千波と伊織くんが笑いながら立っていた。
伊織くんは照れくさそうにこほん、と空咳をひとつした。
「あー、ラブシーンはそのくらいにしてだな」
突然恥ずかしくなって陸ちゃんから離れようとした。でもぎゅっと腰に手を回されていて動けない。
「桃花ちゃん。これ」
パスポートとチケットを伊織くんは差し出した。
「もしかしたら思い出すかもしれないと思ってな。一応持ってきた。おれはな、本当はなにもかも思い出してほしかった。だってそうだろう? 桃花ちゃんのいる場所は伝馬のとこしかないからな。だから一応取っておいた。乗らなきゃキャンセルするつもりだった」
差し出されたパスポートと伊織くんの顔を交互に見る。伊織くんは笑っていた。
「伊織くん」
涙がまた溢れてくる。
どこまで、一体どこまでやさしくしてくれるんだろう。こんなわたしの為に。
「桃花、記憶取り戻した?」
不安気に、千波が尋ねた。
「ううん。でも陸ちゃんのことは思い出した。思い出とか細かいのは駄目だけど、陸ちゃんの存在だけ」
「うん、それでいいんだよ。桃花、ついていきな。荷物はあとで送るから。ご両親にはわたしから話しておく」
ほっとしたのか、千波の顔に笑みが浮かぶ。
「びっくりするね、きっと」
泣きながら、笑った。
「いいのよ、それで。わたしはね、伝馬の存在が記憶をなくした桃花を苦しめるんじゃないかってそう思ってたの。実際、桃花はとても苦しんでた。もうそういう姿は見たくないって。だから会わせたくなかった。でも違った。桃花の幸せはやっぱり伝馬がそばにいる。これなんだよ」
「千波……」
「記憶なんかいつか戻るよ。戻らなくてもいいじゃない。伝馬がいればいいんでしょう?」
千波は片目をつぶる。
「うん。そのとおり」
「伝馬、桃花ちゃんを頼んだよ。いつかまた日本に帰って来るんだろう?」
「ああ、今の仕事が終われば帰ってくる。日本で店を開く。今回、その打ち合わせもあって帰ってきたから多分、一年以内には」
「そうか。待ってる。いってこい。桃花ちゃんを連れて」
伊織くんと陸ちゃんは固く握手をした。
「いってくるよ。伊織くん、千波」
チケットを手にしてわたしは真っすぐに二人を見た。
「行ってこい。桃花ちゃん、幸せになるんだぜ」
「もちろん」
「桃花、メールとかできるようになったら送ってね」
ゲートをくぐろうとしていた足が止まる。
「巽くんに結婚するように言っておいてね」
心のどこかで引っかかっていた。心残りがないようにわたしは振り返ってそうつけくわえる。
「任せておいて!」
千波が胸を張って言ってくれたので安心して二人に見送られ、陸ちゃんと二人でゲートをくぐる。
手を握りしめて。
もう二度と離さない。
飛行機の中で、わたしはずっと陸ちゃんの手を握りしめていた。陸ちゃんもずっと離さなかった。
その手のぬくもりが暖かい。
飛行機の中の空気はエアコンが効いていてとても寒かった。空気も乾いていた。途中、陸ちゃんはブランケットをもらったほどだ。でもわたしは寒くはなかった。
陸ちゃんの手を握り、その肩に頭を寄せたり、胸に頬をうずめているだけで充分だった。
久しぶりに、ほんとうに久しぶりにわたしはぐっすり眠った。なんの夢も見なかった。
陸ちゃんがそばにいる。ただその安心感に包まれて眠り続けた。
空港に降り立つと陸ちゃんは大きなスーツケースを持って先に歩き始めた。陸ちゃんには住み慣れた街でもわたしには違う。なにもかもが初めての場所で、迷子にならないように、必死で後を追う。
バスと地下鉄を乗り継いで、そのまま陸ちゃんのアパートに行くのかと思ったら、連れていかれたのはタワーホテルだった。
「ホテル……」
空まで伸びていくホテルと見てぼんやりとつぶやく。
「今夜はここに泊まろう。空港で予約しておいた。アパートは散らかってるし」
照れ臭そうに、陸ちゃんは鼻の頭を掻いた。
「いいのよ。そのくらい気にしないわ」
実際少しくらい汚れてても気にしない。問題は陸ちゃんと一緒というところだから。陸ちゃんといればどんな場所だって、わたしは何も感じないし、きっと見えない。
「今夜だけ。桃とおれの再会を祝して。おれ達はここからすべてを始めるんだ。それにこのホテルからだとパリの街が見渡せる。桃に見せてあげたいんだ」
そう言われると返す言葉が見つからなかった。
陸ちゃんなりに気を使って思いやってくれる。それがうれしかった。
陸ちゃんとチェックインした部屋は、大きなダブルベッドにサイドテーブル、ソファがあった。なにより窓が大きくて広い。確かにパリの街が見渡せる。
「すごーい」
部屋に入るなりわたしは窓ガラスに両手をつけて街を見下ろした。
「すごいだろ。この風景を桃に見せたかった」
後ろからそっと肩を抱かれる。
「もう、どこにもやらない」
耳元で呟かれた、全身がかっと熱くなった。
どこにもいくつもりなんかない。
抱かれながら、陸ちゃんのぬくもりを確かに感じていた。
その日はルームサービスを陸ちゃんが頼んでくれた。外に出るのはわたしが疲れるからというの理由だったけど、運ばれてきた料理を見てびっくりした。
ステーキにサラダ、前菜のマリネ、デザートもついていたし、シャンパンまで並べられた。
「こんなに頼んだら高いわ。わたし……」
料理を見てうつむいてしまった。
もともと千波はあんまりお金を持たせてくれなかった。もちろんカードも持っていない。おまけに着のみ着のままで飛行機に乗ったから財布の中はほぼ空に近い。
情けないやら恥ずかしいやらで、まともに陸ちゃんの顔が見られなかった。
「言ったろ。今日は二人のお祝い。桃と再会できた記念日。金の心配なんかしなくてもいい」
まるでわたしの心を見透かしたように、陸ちゃんは言った。
「でも……」
やっぱりこんなのよくないって思ってしまう。宿泊代だってあるのに、と思わず親指の爪を噛んでしまう。その指を、陸ちゃんはすっと握りしめ、唇から手を離した。
「親指の爪の形が悪くなる。桃にはいつもきれいな爪の形でいてほしい」
かあっと顔が火照る。
かっこよすぎるんですけど。
思わず言いたくなってしまった。元からこんな人だったのかしら。だってわたしが思い出したのは陸ちゃんと離れ離れになったことと、一緒にいたかったというこの二つだけ。
陸ちゃんがどんな人かも思い出せないままついてきてしまった。
これって実は本当はかなり怖くない? でも千波も伊織くんも止めなかったし。
戸惑っているわたしに、陸ちゃんはフォークを握らせた。
「明日からは質素だよ」
そう微笑まれて幾分ほっとした。
今夜は遠慮なく料理をいただくと決めると、猛烈な空腹感に襲われた。
飛行機の中でもあまり食べていなかった。ずっと陸ちゃんの手を握っていたから。
「いただきます」
ぺこりと頭を下げて、ステーキから食べ始めた。久しく食べた記憶がないほど料理はどれもおいしかった。
夕食が済み、陸ちゃんがシャワーを浴びている間、わたしはずっとパリの夜景を見つめていた。
千波と住むマンションから見える海の夜景もきれいだったけど、この街はそれ以上の美しさを持っている。
この街で陸ちゃんがずっと生活をしていたのだと知ると、いとおしくてたまらない気持ちになってくる。
「桃、入る?」
後ろから声がかかった。振り返ると、バスローブを羽織った陸ちゃんが髪からしずくを滴らせて立っている。
バスローブの間から筋肉質の胸が見えてどきりとした。服に隠れている間は見えなかったけど、陸ちゃんはスレンダーで髪が濡れているせいか、やけに色っぽくて目のやり場に困ってしまい、また窓の向こうに目を向けた。
「使っておいで」
返答に困った。でもシャワーを浴びてすっきりしたい気持ちはある。飛行機に何時間も乗って、肌寒かったけど、なんとなく体が汚れているような気がした。そんな体にこれ以上陸ちゃんに触れられたくないなって気持ちもあった。
「あ、うん、じゃあ」
できるだけ陸ちゃんを見ないようにして、距離を取ってシャワールームに飛び込む。
バスタブもあったけど、それにお湯は溜めず、シャワーを頭からかぶった。髪も体も念入りに洗って、脱衣所に出てバスタオルを手に取ってから気がついた。
パジャマがない。
あるのは備え付けのバスローブがあるだけだった。陸ちゃんが着ていたのと同じベージュ色のバスローブがかごの中に入っている。
まさかこれまで着ていた服をそのまま身に着けるもためらわれて、思い切ってバスローブを羽織った。きっちりとひもを締めて、できるだけ胸が見えないように自分の体を抱きしめて、ベッドルームに戻る。
陸ちゃんはソファに座ってルームサービスで頼んだシャンパンの残りを飲んでいた。「おいで」
そう言われて、体を抱きしめたまま陸ちゃんのそばに寄る。
グラスをテーブルに戻した陸ちゃんは静かに立ち上がり、わたしの体を抱き上げた。
お姫様だっこされ、全身が固まった。
恥じらうわたしの気持ちを無視して、ダブルベッドまで運ばれる。
柔らかいシーツはひんやりと冷たかった。
なんの前触れもなく、陸ちゃんの顔が近づいてくる。
「待って」
右手を広げて陸ちゃんの顔の前に突き出した。片手はバスローブがはだけないようにしっかりと押さえている。
この先になにが待っているのか、記憶がなくてもぼんやりわかる。
恥ずかしさに心が爆発しそうだった。
右手は陸ちゃんの顔の前、もう片方はバスローブの前をぎゅっと握りしめて、わたしはうつむいた。顔が熱い。
「あ、あの、わたし、記憶がないの」
必死に訴える。
「わかってる」
涼し気な口調で返されて恥ずかしさが増していく。
「きっ、きっと陸ちゃんとしたんだと思うの」
「何回もした」
頭の上に降ってきた陸ちゃんの声を聞いて、更に羞恥心が増す。
わたしが覚えていないことを陸ちゃんはしっかりと覚えているんだと思うと、どうにも恥ずかしくて仕方ない。
恥ずかしがって身を捩るわたしの上に、陸ちゃんが覆いかぶさってきた。ぺろりと首筋を舐められる。
ぞくっと首から背中が震える。
この舌の感触をわたしは確かに覚えている。でもそれだけだった。ほかはなにも思い出せない。
くっとのどの奥をつぶしたような陸ちゃんの笑い声が聞こえてきた。
堅く目を閉じる。
「記憶がなくなってても桃は変わらない」
もう一度首筋を舐められて、自分でも信じられないくらい甘ったるい声が自分の唇から飛び出した。
「ここ、桃が感じるとこ」
楽し気に笑って言うものだから、恥ずかしさよりも悔しさが沸きだしてきた。
何も覚えていないのを理由にして、陸ちゃんが遊んでいるように感じてしまって、それがなんだか悔しかった。
「それからここも」
陸ちゃんの唇が、首筋から下に落ちていき、堅く握っていたバスローブの中に入り込んできた。
抵抗のつもりで握っていた手は、自分の意志とは無関係にだらりとベッドの上に落ちる。バスローブがはだけて、素肌があらわになったのをエアコンの風で感じた。
陸ちゃんはわたしの背中に手を回しながら、鎖骨から胸へと唇を移動させた。あっという間もなく、乳房から乳頭に移った唇の感触はわたしを陥落させた。
ベッドの上に座っていられなくなり、呆気なく倒れてしまった。
「わ、わたし、初めてみたいなものだから!」
顔を横にそむけて、そう言い切った。
記憶がないのだから初めてだと言ってもいい。なのに唇が体を這っているだけで、全身が泡立つような心地よさを感じた。股間の間からぬるりとした生暖かい液体が零れてくる。
「知ってる。桃のことは全部知ってる。なにも心配しなくていい」
耳元で囁かれる言葉が気持ちよかった。
わたしも知ってる。この唇の感触も、息遣いも。
「なにも心配してなくていい」
胸に顔をうずめた陸ちゃんは、わたしの体のあちらこちらを撫で、そのたびに体が喜びに震えてくる。
ああ、わたしってこんないやらしい人だったんだと思いながら、陸ちゃんの愛撫を受け止める。だらりとベッドに落ちていた手は、いつの間にか陸ちゃんの背中にしがみついていた。
陸ちゃんの手が体を撫で続けたおかげで、バスローブはすでにその意味をなくし、半裸になりながら、わたしは陸ちゃんを受け入れた。
顔をのけぞらせて、悲鳴にも似た声をあげながら、陸ちゃんの名前を何度も呼んだ。
太腿が濡れそぼっている。
恥ずかしいとは思わなかった。いつまでもこうして抱き合っていたかった。
わたしの体は陸ちゃんをちゃんと覚えていた。
それがたまらなくうれしくて、陸ちゃんにしがみつきながら泣いていた。
心地いい。
陸ちゃんの腕の中も。素肌に当たるエアコンの空気も、糊のきいたシーツも。
頭の芯はぼうっとしていた。でも心地よさを全身で感じながら、わたしはうっすらと目をあけて、ホテルの明るい天井を眺めている。
こんな明るい部屋ですべてをさらけ出したのに、不思議と羞恥心はなくなっていた。
「おれが高校に入学した春に」
突然思いついたように、隣にいた陸ちゃんが口を開いた。
「父親が仕事で九州の博多に転勤になった」
もちろん覚えていない話だったから、耳を傾ける。
「母さんは父さんについていくって言ったんだ。おれも来いって言われたけど、おれ、断った。高校で転校はいやだったし、なにより桃がいたから」
布団の中にあったわたしの手を、陸ちゃんはぎゅっと握った。
「両親は二人で博多に行って、おれは一人暮らしになったけど、少しも寂しくなかった。桃がいたから」
そうなんだ、わたしの存在って大きかったのね。
陸ちゃんの胸に頬を寄せる。心臓の音がとくとくと聞こえてきて、本当に近くにいるんだと感じる。
「桃がよくケーキやクッキーを買ってきておれの家で食べたんだ。桃なりのやさしさだったと思う。おいしそうに楽しそうに食べる桃を見てて、パティシエになろうって思ったんだ。桃の幸せな顔がいつも見たかったから。桃、待たせて、ごめんな」
そう言って陸ちゃんはわたしの髪を撫でてくれた。
激しく首を振る。
もうどうでもいいのよ、そんなの。
そう言いたかったのに、のどの奥がつまってしまったみたいになってなにも言えなくなってしまった。かわりに涙がまた零れた。頬を伝って陸ちゃんの胸まで流れる。
「ごめんな」
人差し指で陸ちゃんは涙を拭いてくれた。
いいのよ、本当に、もうどうでもいいの。
知ってる? 気がついてる? わたし今、とても幸せなんだから。
6
陸ちゃんとフランスで一年過ごし、わたし達は帰ってきた。一年ぶりの日本はやたらと暑かった。
成田には、千波と伊織くん、巽くんが迎えに来ていた。巽くんは海にでも行ったばかりなのか、ひどく日に焼けていた。
「桃花、おかえり」
ゲートをくぐると、千波が抱きついてきて、ああ、日本に帰ってきたんだと実感した。フランスでの生活は悪くなかったけれど、やはりみんなと離れているのは少しだけ淋しかった。
伊織くんが運転するワゴン車に乗り、わたしたちはかつて住んでいた街に帰ってきた。そこで陸ちゃんは念願だったお店をオープンする。フランスに滞在している間に、陸ちゃんは何度かこちらに帰っていて、店舗をあらかじめ決めていた。最初は洋菓子を売るだけだけれど、いつかはカフェもやりたいと言っている。そんなときの陸ちゃんの目は、いつもキラキラしている。
ああ、お菓子が本当に好きなんだと実感する。記憶のないわたしは、陸ちゃんをうまくサポートできない。かわりにフランスの店で知り合ったロザリーという人が手伝ってくれる。陸ちゃんが言うには、彼女は優秀なマネージメントをするらしい。
「で、店はいつオープンするんだ?」
ハンドルを握った伊織くんが尋ねた。
「秋には」
助手席に座っていた陸ちゃんは素っ気なく答える。陸ちゃんのおしゃべりはいつも抑揚がなくて、感情がこもっていないように聞こえる。だから損をしてしまうときもあったりする。
「そか。楽しみだなあ。おれ、一番最初に買いにいくよ」
店の話で盛り上がる二人とは別に、わたしと千波は後部席でおしゃべりに花を咲かせる。なにしろ一年も会わなかった。積もる話はたくさんあって尽きない。
わたしがフランスに行ってから、二人は一緒に暮らし始めたと聞いてうれしくなった。入籍はまだだけど近々考えているらしい。
そんな話やらフランスでの話をするものだから二人の口は止まらない。
夕飯を一緒に、と伊織くんは言ったけれど、わたしたちは辞退した。今夜はわたしの家に泊まる。なにしろ突然フランスに行ってしまって、あとは電話でしか両親とやり取りしていない。きっと心配している。
伊織くんはわたしの家までちゃんと送ってくれた。
玄関のドアを開けると、お父さんとお母さんが出迎えてくれた。芽衣ちゃんもいる。芽衣ちゃんは少し恥ずかしそうに近付いてきて、「いつかはごめんなさい。でもちゃんと結婚できたから」と囁いてくれた。
わたしがフランスに行って安心したのか、それから半年と経たずに二人は入籍していた。結婚式はしなかった。わたしは電話で報告を聞いて、お祝いにお金を少しと陸ちゃんの焼き菓子を送っていた。
「もういいのよ」
そう答えると、芽衣ちゃんは心底ほっとしたように頬を緩めた。あのときあんなふうに言って本音はとても後悔してたんだ。なんだか少し気の毒になってしまった。そこまで追い詰めたのはわたしだから。でもすべてがチャラになった。
リビングのテーブルにはわたしが大好きな料理がたくさん並んでいた。
六人でテーブルを囲み、お父さんは上機嫌でビールを飲み、陸ちゃんにも勧めた。
「なあ、伝馬、住むとこが決まるまで、うちでずっと暮らせばいいじゃないか」
「巽の提案はありがたいけど、とりあえずはうちで暮らす。空き家のままだと家が傷むから」
陸ちゃんの家は、ここから車で五分ほど離れた場所にある。陸ちゃんのご両親はまだ博多で仕事をしている。いずれは帰ってくるとは聞いているけど、いつ、という具体的な話は出ていないようだった。なので今は誰も住んでいない。
「おれ、姉ちゃんと暮らすの、けっこう楽しみにしてたんだけどな」
「ありがとう、巽くん。でも陸ちゃんの意見にわたしも添いたいから。ごめんね。それにここには芽衣ちゃんもいるんでしょう。二人の邪魔をしても悪いわ」
仕事の都合もあったのかもしれないけれど、芽衣ちゃんは同居してくれている。アパート代を浮かせて、いずれ自分たちの家を買うつもりだからと巽くんが言っていた。
「いいんだ。姉ちゃんがいいならさ」
少しむくれてしまった巽くんをフォローするみたいにして、芽衣ちゃんが教えてくれた。巽くんは店のマネージャーに昇格したと。
「わあ、すごい」
手を叩いてわたしははしゃぐ。
照れ臭そうに巽くんは頭を掻いた。
「マネージャーって言っても雑用が増えただけでさ」
そんなふうに言いながらもうれしそうだ。
仕事もプライベートもうまくいっている巽くん。きっとわたしがフランスに行って安心したんだろうなあ。
その夜、陸ちゃんは巽くんとお父さんに遅くまで付き合わされた。お酒をたしなまないわたしは早く布団に入ったけれど、陸ちゃんは日付が変わるまで寝かせてもらえなかったらしい。当然翌日に響き、昼近くなって起き出した。
遅い朝食を摂ってから、両親に別れを告げ、陸ちゃんの家にやってきた。しばらく住んでいなかった家には、淀んだ空気が漂っていて、少し埃っぽかった。
すぐにリビングの窓を全開にする。夏の暑い空気に包まれる。
「桃、本当は実家で暮らしたかった?」
後ろから抱きしめられる。胸のあたりに陸ちゃんの腕がきて、わたしはそっとその腕を摑む。
「陸ちゃんがいるところがわたしの住む家だからいいの」
「早く新しい家を探す。ここだといつか父さんたちが帰って来るから」
「慌てなくてもいいのよ。陸ちゃんがいるだけでいいんだから」
そう、今は陸ちゃんがいるだけでいい。それだけで充分だった。
翌日から陸ちゃんは精力的に動き始めた。店のオープンの準備に追われ、合間に二人で暮らすための家を探している。わたしはそんな忙しい陸ちゃんを少しでもサポートする為、せっせと実家に帰ってはお母さんから料理を習った。
記憶を失ってからガスコンロを使ってはいけないと常々言われていたけれど、フランスではそうもいかなかった。かといって料理方法も覚えていなかったから、慣れない土地で三度の食事にはひどく気を使った。陸ちゃんもフォローはしてくれた。でもいつまでも甘えていてはいけない。
フランスですでに人気パティシエとして注目されていた陸ちゃんは、日本に帰ってからも取材に追われた。あまり人前には立ちたくないと陸ちゃんはたびたび零しながら、店の宣伝になるならと引き受けた。
わたしには想像もできないほど忙しい思いをしていると思う。せめて食事くらいなんとかしたかった。
家に帰るたび、わたしは料理を学び、陸ちゃんに披露した。
なにをつくっても陸ちゃんは素直に喜び、誉めてくれた。
やさしく穏やかな時間だった。わたしにとっては。
カレンダーが八月の終わりになるころ、陸ちゃんが新築のマンションを見つけてきた。そこは以前、千波と二人で住んでいたマンションからとても近くて、バルコニーから海が見えた。
ひと目で気に入り、翌週には二人で引っ越した。たいした荷物はなかったけれど、千波と伊織くんが手伝いに来てくれた。
三LDKの間取りは二人には充分だった。大きな家具と家電製品は新しく購入し、すでに運び込んでもらっていたから、わたしたちは身の回りのものだけを持っていけばよく、夕方にはすべて片づいてしまった。
「なんかあっけない引っ越しだったなあ」
リビングの真ん中に立ち、伊織くんはあたりを見回した。
「いろいろ新しく買ったから。二人共お夕飯食べて行って。ピザを頼むから」
シンクでグラスを洗いながら、わたしは首を伸ばした。
「いやー、なんか新婚さんの家に長居するのは、気が引けるなあ」
などと伊織くんは言っていたけど、ちゃっかりソファに座り込んでいる。
「なあ、伝馬。なんでここに決めたんだ?」
向かい側に座った陸ちゃんに、伊織くんは聞いた。
「桃が、海が見えていいって」
「ピンク色のカーテンは?」
「桃が決めた。この色がいいって」
「じゃ、黄色のラグは?」
「桃が……」
「あー、もうええわ。頭痛くなってくる」
額に手を当て、伊織くんは天井に顔を向けた。
くすくすと笑いながら、わたしはみんなにグラスを配り、ローテーブルに缶ビールを置いた。それから電話でピザやサラダを注文する。
こうして四人で集まって話をするのは、フランスから帰ってきてから初めてだった。陸ちゃんは休みなく動きまわっていたし、伊織くんも会社が忙しそうだった。
四人でいると、高校生のころもこんなふうだったのかなと、ぼんやり思う。
ほとんど一方的に伊織くんが話し、陸ちゃんは聞き役だった。
伊織くんは店の話を聞きたがった。陸ちゃんが淡々と答える話からすると、思ったよりも順調に店の準備が整っているし、すでに問い合わせが入り、オープンの日にはホールケーキの予約が入っているらしい。
そのうちにインターフォンが鳴ってピザが届いた。
宴会が始まる。
伊織くんは機嫌を良くし、千波も楽しそうだった。夜十時頃になって帰っていった二人を、エントランスまで見送った。
帰り際、千波にはわたしの手を握った。
「よかったね、桃花。あとは結婚式かな? 入籍もちゃんとしなきゃね」
「ありがとう」
その通りだった。わたしたちはまだ入籍していない。
部屋に戻り、寝る支度をして二人でダブルベッドにもぐりこむ。陸ちゃんは髪を撫でてくれた。
「いろいろ、ちゃんとしなきゃな」
穏やかに言う陸ちゃんの胸に頬をうずめる。正直、形なんてどうでもよかった。陸ちゃんがいるだけでよかった。でもそう言ってくれてうれしかった。
胸に額を押し付ける。
その晩、ぐっすりとわたしは眠った。陸ちゃんに抱かれながら。
新しいマンションに引っ越しても陸ちゃんの忙しさは変わらない。朝早く出て、夜遅くならないと帰ってこない。どんなに夜遅く帰ってきても夕飯を食べずに待っている。必ず食事は二人で摂る。陸ちゃんには内緒にして決めたルールだ。
その夜も陸ちゃんは十時を過ぎて帰宅した。リビングでソファに座ってテレビを見ていたわたしはいつの間にか眠ってしまっていた。ドアが開く音がして、慌てて飛び起きて出迎える。
「寝てたのか?」
「ううん、うとうとしてただけ」
外で一生懸命働いている陸ちゃんに、まさか寝ていたなんて言えない。
「嘘つけ。頬に服の跡がついてる」
ぎゅっと陸ちゃんは頬をつねる。怒ってはいない。心配そうにしているだけ。
「ごめんなさい。お腹すいたでしょ。ご飯の支度はしてあるからね」
今夜は肉じゃがと鮭のムニエルだった。急いでテーブルを整え、陸ちゃんと向き合って食べ始める。
「なあ、桃」
「うん? なあに?」
じゃがいもを頬張る。我ながら会心の出来だ。なんたって講師がいい。
「無理して待ってなくていい。先に寝てていいし、夕飯だって食べていい」
「迷惑?」
箸が止まった。
「いや、桃が無理してるんじゃないかと思って」
「無理してないよ。ぜんぜん。お夕飯だって陸ちゃんと一緒のほうがおいしいもん。陸ちゃんのほうが迷惑?」
「そうじゃない。おれも桃と一緒のほうがいい」
「なら待ってる」
「そうか」
実はけっこう無理をしていた。だから転寝なんかしてしまった。夜遅くまで起きて、朝早く、陸ちゃんよりも先に起きるって、大変だった。でも忙しい陸ちゃんに真実は言えないし、自分に甘えたくない。
夕飯を済ませて陸ちゃんはすぐに寝入った。わたしが後片づけを済ませてベッドに行くと、陸ちゃんは息をしてないで寝ているように見えて怖くなった。
胸が上下しているのを目にして、ほっとする。
目覚まし時計は朝五時にセットした。目覚めたら朝食の支度をして、掃除をして、洗濯もして。
やらなきゃいけない家事は山積みだ。
数日後、わたしは熱を出した。起きると体が怠かったけれど、無理してキッチンに立ち、陸ちゃんが起きるのを待つ。体が重いせいか動きが鈍い。挙句、めまいを起こしてシンクに寄りかかるようにして倒れ、水切り籠にあった皿が落ちて割れてしまい、派手な音をたてた。
「やだ。片付けないと」
シンクの縁に手をかけて、やっとの思いで立ち上がると、驚いた顔をした陸ちゃんが立っていた。
「どうしたんだ?」
割れた皿に目をやっている。
「なんかよろけちゃって。こっちに来ないで。欠片を踏んだらいけないから」
ストップをかけたのに陸ちゃんは平然として近付き、わたしの額に自分の額をくっけた。
「熱があるじゃないか」
ひょいと抱っこされていた。
「寝てなきゃ駄目だ」
「大丈夫。たいした熱じゃないから」
「駄目だ」
有無を言わせず、ベッドまで運ばれて、体温計を口の中に入れられる。
五分待ち、陸ちゃんはまじまじと体温計を見た。
「七度もある」
「七度しかないわ」
「駄目だ。今日はここから動いたら駄目だ」
「でも、ご飯の支度とか、掃除とか」
「掃除なんか一日くらいしなくても平気だ。ご飯は外で買ってくる」
「洗濯だってあるし」
「明日でいい。今日はここから動いたら駄目だ。おれもどこにも行かない」
「えー。それは駄目よう。陸ちゃん、仕事が」
「一日くらい休んだって支障ない」
「陸ちゃん」
押し問答が続く。忙しい陸ちゃんを休ませたくなかったら、大丈夫と何度も言ったのに聞き入れてくれなかった。最後にはわたしが折れるしかなくて、でも仕事にはやっぱり行ってほしくて千波にヘルプの電話をかける羽目になった。
夏らしいブルーのブラウスを着た千波はすぐに飛んできてくれた。入れ替わって陸ちゃんは仕事に出かけて行く。
「まったく、熱って言ったって七度じゃないのよ。熱のうちに入らないわよ」
ベッドの端っこに千波は腰かけた。
「ごめんね」
「伝馬の心配性にも呆れるわ。で、朝はなんか食べた?」
「食べてない」
ずっと陸ちゃんと話していたし、ベッドから出してもらえなかった。
「お粥でもつくろうか?」
やけになっているようにも見えた。無理もない。千波にも仕事があって、休んで来てくれた。
「いいわよ。七度だもん。自分でなんとかする」
起き上がろうとして、千波に押し倒された。
「風邪だろうけどさ、悪化したらわたしが伝馬に文句言われるから起きちゃ駄目」
「はあい」
おとなしく顎の下まで布団を持ち上げる。
「しっかし伝馬に愛されてるねえ」
にたにたと千波は笑う。
「んー、うん」
「ぬけぬけと言ってくれるよ。ま、そうじゃないとこっちも困るけどさ。どっちにしろ今日は寝てればいいよ。桃花のことだから伝馬に付き合って夜遅くまで起きたり、早起きしたりしてたんでしょ」
「ご名答」
「無理しないほうがいいよ。楽にしてさ、生きていけばいいよ」
わたしとしては日々忙しいって、とてもありがたいなと思っていた。忘れた過去を必死になって思い出そうとしなくて済むからだ。
「ま、とにかく寝て。わたしはリビングにいるから。なんかあったら呼んで」
「うん」
千波と陸ちゃんに甘えると決めて、その日はぐっすりと寝た。これまで足りなかった寝不足の分を取り返すように。そのせいか翌日には熱も下がり、すっかり元通りになった。
店のオープンまであと数日だったから、もう倒れるわけにはいかない。
陸ちゃんの足だけは引っ張るまい。なにも手伝えないからこそ、大切だった。
オープン当日は真夏の雲が、空に浮いていた。海もきらきらと光っている。忙しい一日が始まると思うとじっとしてはいられなくなって、手伝いに行きたいとわたしは申し出た。
「駄目だ」
朝一番のコーヒーを飲んでいた陸ちゃんは、いつもと違って激しい口調で一喝した。
「でも、陸ちゃんが一番忙しいときなにもしないなんて。わたし、ここでじっとしているのもなんだか耐え切れなくて」
なにもできないけれど、支えにはなれないけれど、なにか手伝ってあげたい。
「桃は家にいればいい。熱だって出したんだから」
「もう数日も前だわ」
「数日しか経ってない。桃は家にいてほしい。しっかりと家を守ってほしい。おれが安心して過ごせるように」
「それだけでいいの?」
「それが大切なんだ。来て」
陸ちゃんの前に立つ。ソファに座っている陸ちゃんの膝の上にのるように言われ、腰をおろす。
陸ちゃんとの距離が一気に縮まる。
「桃には桃にしかできないことがある。それをちゃんとやってほしい。店は心配しなくてもいい。迷惑をかけないようにおれもがんばるから」
「うん」
額をこつんとぶつけ合う。
納得したようなしないような、微妙な感じではあったけれど、陸ちゃんが言うのもなんとなくわかる。
店に勝手に行ったりすれば、それは陸ちゃんにとって迷惑にしかならない。だからその日もいつもの通り玄関まで見送り、家事に精を出す。掃除やら洗濯やら。
午後にはちょっとだけ遠くまで足を延ばして、大きめのスーパーに行った。普段よりも高めの食材を買って家に帰ると、全身が汗にまみれた。額に浮かんだ汗を手の甲で拭っていると、マンションの前に立っているロザリーに気がついた。
大切な陸ちゃんの仕事のパートナーだ。わたしも何度か会っているのでもちろん顔は知っている。見事なブロンドの髪もブルーの瞳の色も。
もちろん陸ちゃんを間に挟んでしか話したことはない。
陸ちゃんによれば、ロザリーはこのところ店のオープンの為に、二人で走り回っているらしい。オープン初日は忙しいはずなのに、なんでこんなところにいるのだろうかと首を捻った。
「オープンまでのほうが忙しいのよ」
ぼうっと突っ立っていたわたしの気持ちを見透かしたかのように、ロザリーは達者な日本語で言った。
「ああ、そうなんですか。わたし、お店のほうはよくわからないから。あの、せっかくいらしたんですし、お茶でも飲んでいきませんか?」
「そうね。そうするわ」
あっさりとロザリーは家に入ってきた。
エアコンを入れっぱなしのリビングは涼しかった。汗がすうっと引いていく。
ソファをすすめると、ロザリーはためらいも見せずに、すぐに腰かけた。長い足を組む。
「あの、陸ちゃんがいつもお世話になってます」
紅茶を入れたティーカップを差し出して、頭をぺこりとさげた。
「いいのよ。これがわたしの仕事だから」
「それで、今日はお店のほうは?」
「いい感じでスタートを切ったわよ。臨時の手伝いも雇ったからなんの心配もないしね」
ほっとする。
うまくいってよかった。かといって陸ちゃんに直接は聞けない。仕事に首を突っ込むなとまた言われてしまう。
「もう少しして軌道に乗ったらフランスに帰るつもりでいたのよね、わたし」
「ああ、そうなんですか」
「ええ。でもね、ちょっと迷ってるの」
「どうしてですか?」
ロザリーは日本語が上手だった。生活に不自由はしなくても、やはり自分の国は恋しいだろうし、親しい人もフランスにいれば、帰りたくなって当然だと思いながら尋ねた。
「店よりも、リクと離れたくないなあって」
「は?」
ロザリーの唇が片側だけ持ち上がった。意味深な笑みを浮かべている。
「わたしはね、リクがフランスに来たときからサポートしてたの。彼は勘がよかった。パティシエとしての素質はあるなと最初から思って惚れ込んだの。彼の腕にね。だからフランスで大きな賞を取ったとき、今後はわたしに任せてほしいって頼んだの。彼も了承したわ。そしてわたしたちはパートナーになった。これ、どういう意味だかわかる?」
「どういう意味って?」
考え方によってはいろいろな取り方があると思うけれど、わたしは陸ちゃんを信じている。
「プライベートでもっていう意味よ、当然でしょう」
くすっと笑ってしまった。ロザリーは見逃さなかった。
「笑うなんて失礼じゃない」
「ごめんなさい。でも、プライベートって、絶対ないと思ったから」
「どうして?」
「陸ちゃんは、仕事は仕事と切り離す人だから」
でなければ、わたしが手伝うと言ったとき、あんなに拒絶するはずがない。もちろんわたしの体も心配だったんだろうけれど、それだけじゃない。
「仕事とプライベートは別って考えてる人だから。そんな人が仕事に関わりのある人となにかあるわけがないから」
不思議と絶対的な自信があった。その自信が、わたしを支え、こうして対等にロザリーと向かい合わせてくれる。
ロザリーは目を細めてわたしを見ている。
「フランスでなにがあったか知りたくない? いくら腕を見込んでいても異国まで女がついてくると思う?」
「そうですねえ」
しばし考える。
本当のとこはどうなんだろう。実はわたし自身にもあやふやだった。
真っすぐにロザリーを見る。ブルーの瞳がまっすぐにわたしを見つめている。日本人にはない色。それがすべてを見透かしている。なんだか嘘をついてもすぐにばれてしまいそうだ。
「知ってると思うんですけど、わたし、記憶がないんです」
「知ってるわ。リクから聞いてる」
「だからなんにも覚えてない。高校生や大学生だったころのこと。陸ちゃんがフランスに渡ってからも」
そうだ、わたしはなにも覚えていない。思い出せずにいる。それでも陸ちゃんはなにも言わない。
「陸ちゃんがフランスに行ってからわたしがどうしていたのか、きっと陸ちゃんは知りたいと思うの。でも、わたしが覚えていないからもちろん話せない。陸ちゃんは記憶のないわたしを受け入れてくれた。だからわたしも陸ちゃんの過去なんか知らなくていいって思ってるの」
そうだ、と自分で言いながら改めて納得する。大切なのは、過去ではなく、未来につながる今だった。
「わたし、今の陸ちゃんがいればいいの。過去の陸ちゃんもいいけど、大切なのはやっぱり今の陸ちゃんだから。そりゃ、もしフランスでなにかあったとしたら、少し妬けるけど。でも、それも含めて陸ちゃんだから」
胸に手を当てて自分に言い聞かせるように言った。
突然、ロザリーは吹き出した。
「あなたっておもしろい人ね。からかってみようかと思ったけど、それもできないのね。あの堅物なリクが選ぶだけの人だわ。安心して。わたしとリクは仕事上のパートナー。それ以上でもそれ以下でもない。あなたの言う通り。それ以上には見てもらえないの。ちょっとは、期待してたんだけどね」
ぺろりとロザリーは舌を出した。
「もしあなたが、疑うような素振りを見せたら、わたし、邪魔してたかもしれない。でもそんな気もなくなったわ。お茶、ごちそうさま。わたしはまた店に戻らなきゃ」
さっぱりとつきものが取れた顔をして、ロザリーは帰っていった。
一人になって改めて考える。
もしかしてロザリーは宣戦布告に来たつもりだったのかもしれないと。
いつもより早く帰ってきた陸ちゃんは、ケーキの箱を手にぶら下げていた。
「桃のためにつくったんだ。一番最初につくった」
リビングのローテーブルに陸ちゃんは箱をそっと置いた。
「開けてもいい?」
「いいよ」
リボンをほどき、ふたを開けると、水色のケーキが現れた。海を形どっていた。
わたしが好きな海と青い魚が二匹で向き合っている。
「これ、わたしと陸ちゃん?」
「まあな」
空咳を一つして、陸ちゃんは頬を赤く染める。
恥ずかしがり屋で愛情表現があまりうまくない陸ちゃん。変なとこが不器用なんだけど、そこがまた好きだったりする。
「食べるのもったいない」
「桃の為につくったんだから」
「ふふふ、そうね。お夕飯の前に食べるのもなんだから、ご飯にしようか。今日はね、シチューにしたの」
鶏肉をたくさんいれて、野菜もたっぷりなシチューだった。ほかにはサラダ。テーブルにいそいそと並べて、二人で向かい合う。
「お店、どうだった?」
「まあまあ」
スプーンを口に運んで、さりげなく答える。
「売り上げは?」
「まあまあ」
「お客さんて女の人が多いの?」
「まあまあ」
「陸ちゃん」
口に運ぼうとしたスプーンを、テーブルに置き、身を乗り出した。
「全部答えがまあまあなんておかしいでしょ」
わざと拗ねて怒って見せるために、頬を膨らませる。
「でも、まあまあだから」
「ふーん。今日ね、ロザリーが来たよ」
「ロザリーが?」
片側だけ眉を持ち上げる。
「うん、来た」
「なんで?」
「うーん、宣戦布告に来たって感じだった。あの人、陸ちゃんを好きなんだね」
すまして言ってやる。
「それは、ないだろう」
突然、口ごもる。怪しさ満点だ。
「なにか隠してる? 二人でなんか怪しい関係になっちゃった?」
「桃花」
ぴんと張りのある声だった。こんなときの陸ちゃんは少し怒っている証拠だ。わたしは唇を持ち上げて笑う。
「冗談。でも、本当に宣戦布告に来たんだって。だけどわたしに負けたって言ってたよ。ねえ、わたしって強いね」
「強いんじゃなくて鈍いんだ」
「えー、なによ、それ」
「でも、その鈍いとこがいい」
「それ、誉め言葉?」
「ああ」
誉められているなら、良しとしよう。
夕飯のあとで、わたしはケーキにフォークを突き立てようとして、陸ちゃんに止められた。向かいに座っていた陸ちゃんが隣にきて、フォークを奪い取る。真四角のケーキを均等に四つに切り、一つにフォークを刺した。
「あーん」
目の前にケーキが差し出された。
「あーん」
大きく口を開けて一口頬張る。程よい甘さと、ラズベリーの酸っぱさが広がる。
「おいしい」
「だろ。渾身の作品。桃に食べさせたくて。ちなみにこれは非売品。桃のためだけ」
「桃花ケーキだね」
世界中でたった一つのケーキは口の中で甘くとろける。
「もう少しして店が軌道に乗ったら、式をあげよう」
「うん。千波と伊織くんも呼んでもいい?」
「駄目だって言っても呼ぶんだろ」
へへへ、と笑う。だって二人を呼ばないなんてあんまり失礼だから。二人はわたしたちのために一番奔走してくれた。
「海が見えるとこであげたいな」
「どこでも好きに選べばいい。来年の春。春には式をあげよう」
「うん」
陸ちゃんの胸に頬を寄せると、とくんとくんと鼓動が聞こえてきた。不意に涙が溢れてきた。
「桃?」
「幸せだと涙も出るのよ」
そっと陸ちゃんは頭を撫でてくれた。
このままでいい。充分すぎるほど、幸せだったから。ゆるぎない愛情をしっかりと感じた。
翌日、陸ちゃんはいつも通りに仕事に行き、わたしは少しでも陸ちゃんが居心地よく過ごせるように、部屋に飾る花でも買ってこようかとぼんやり考えていた。
家の電話が鳴ったのは、ちょうどお昼ご飯も済んでそろそろ出かけようかなと考えていたときだった。
固定電話にはろくなのがかかってこないと陸ちゃんは嘆くけれど、出ないわけにもいかず受話器を持ち上げると伊織くんの声がした。
「伊織くん? どうしたの?」
なんだかいつもの伊織くんと違って小さな声だったので、なにを言っているのかはっきり聞き取れなかった。
「千波が……」
かろうじて千波の名前が届いて、少し驚いた。
「千波がどうかした?」
「千波が入院した。今、病院にいるんだけど、仕事が溜まってて。悪いけど、桃花ちゃん、来てくれないか?」
「すぐに行く」
緊急事態だ。伊織くんから病院の名前と場所を聞き出して、大急ぎで向かった。マンションからもそう遠くない市内にある病院で、わたしも名前くらいは知っていた。もうすぐ結婚するのだからいつまでも記憶がないのを理由にして、なにもできないままでは困る。
病院に電話をかけて行き方を教えてもらい、電車を乗り継いで、病院に行った。
市内にある個人病院の受付は、昼を少し過ぎていたのに、人だかりができていたし、待合室のいすにはぎっしりと人が座っていた。
寒いくらいにエアコンが効いている病院の中でまっすぐに受付に行き、千波の病室を教えてもらう。
三階にある内科病棟に入院していると知って、受付の脇にあるエレベーターから三階に行く。開かれた扉のすぐ前がナースステーションだった。中ではナース達が忙しそうに動いている。
ナースステーションの目の前にある病室に千波の名前が掲げられていた。
ノックしてから中に入ると背中を丸めて、いすに座っていた伊織くんが振り返った。
「桃花ちゃん、ごめん、急に」
「いいのよ」
後ろ手でドアを閉めて、ベッドに近付いた。寝かされている千波の顔色は透き通るように白い。
「おれがずっといられたらいいんだけど、今、仕事が立て込んでて。千波の親にも連絡してあるからじきに来てくれるとは思うけど、桃花ちゃんのほうが家が近かったから」
悲痛な顔で伊織くんに言われて、千波の両親をよく知らなかったと思い出した。
千波はいつもわたしに気を使ってか、家族の話をしようとはしなかった。伊織くんもだ。だからわたしは二人の家族構成すらよく知らないままだった。
「気にしないで。わたしがついてるわ。伊織くんはお仕事に戻って」
「頼む。過労だって。このところ忙しくて睡眠時間も少なかったから」
わたしがフランスに行ってから、二人は仕事場であるマンションの一室で生活している。仕事場と生活する場所が一緒なら、疲れが取れないのもなんとなくわかる。
「大丈夫、任せておいて」
二本の指で輪っかをつくり、伊織くんを廊下に押しやった。
千波と二人になると、よけい顔色の悪さが気になった。
丸いすを引き寄せて座り、千波の顔をじっと見つめる。
「疲れていたんだね、ゆっくり休んで」
眠り続ける千波に、そっと囁いた。
千波に寄り添いながら、陸ちゃんに連絡しようか少しだけ迷ってやめた。言えばいいように使ったと千波と伊織くんが責められる。これまでずいぶん二人にはお世話になってきた。このくらいで恩返しになるとは思ってはいないが、できることはしてあげたい。
かすかに千波の唇が動き、ゆっくりと目を開ける。ぼうっとしているのか、焦点が定まっていないようで、自分がどこにいるのか、わたしが誰なのかもわかっていないみたいだった。
「千波、大丈夫? わかる?」
布団の端っこに手を置き、わたしは静かに尋ねた。
「うーん」と唸ってから千波は目をこすり、今度はしっかりと見開いた。
「桃花? なんで?」
わたしを認識したみたいで、ほっと息を吐いた。
「仕事中に倒れちゃったみたいよ。それで伊織くんが病院に」
「ああ、そうか」
頭を撫でながら千波は突然体を持ち上げた。
「やりかけの仕事があるの。戻らなきゃ」
そう言って今にもベッドから降りようとする千波を押しとどめる。
「駄目よ。過労なんですって。休んでなきゃ駄目。仕事は伊織くんがちゃんとしてくれるから。ね、だから今は体を休めることだけ考えて。お願い」
「でも」
納得していない千波は困惑の色合いをその顔に浮かべている。
「大丈夫、わたし、ついてるから」
「そんなの、駄目。桃花に迷惑をかけるからなおよくない」
「わたしはいいのよ。千波だってわたしの為にいろいろしてくれたでしょう。だから今度はわたしの番。少しくらい面倒看させてよ」
「桃花……」
千波の目に涙が浮かんでいる。
「なんだかうれしいわ。桃花、本当に元気になったのね」
「わたしは元気よ。これもね、千波のおかげよ。だからお礼はちゃんとしなきゃ。記憶は未だにないけど、ほかはなんともないんだから。だから少し寝てて、休んで、ね」
「うん」
千波は静かにベッドに戻り、わたしは布団を整えた。そのときだった。部屋のドアが開いて、女性が一人入ってきた。病院のスタッフではない。白いブラウスにグレーのフレアスカートという装いだ。
千波にもその人が目に入ったらしい。目を丸くしている。
「お母さん」
千波がそう呼んだので、入ってきた人が千波のお母さんだと知った。
たぶん、記憶をなくす前のわたしはちゃんと知ってたはずだ。
「過労ですって? だからあんな仕事はやめなさいって言ったのに」
少し怒ったように千波のお母さんの口調は尖っていた。
きれいな人だった。肩を超える髪には緩くパーマがかかり、念入りに化粧もしていた。指には小さなピンク色の石がついた指輪をして、シルバーのブレスレットが部屋のあかりできらきら光っている。
こんな人だったんだ、と丸いすに座りながら、わたしはぼんやりと千波のお母さんを眺めていた。
大股にお母さんは千波のベッドに近づくと、その顔を覗き込んだ。
「顔色がだいぶ悪いわ。過労ですって? だからあんな怪しい会社に勤めるのは反対だったのよ」
千波を心配しているのかそうではなのか、よくわからないものの言いように、わたしは混乱してその場から動けずにいた。
「伊織の会社を悪く言わないで。伊織は一生懸命やってる。がんばってるわ」
千波は千波で、反抗するみたいにして語気を荒らげた。
「おまけに高校の同級生の面倒看るとか。いくら仲のいいお友達でも限界っていうのがあるのよ。お金だってあの子の為に使って」
びくん、とわたしは肩を震わせた。
「桃花の前よ、お母さん、口を謹んで」
慌てて千波は制したけれど、後の祭りだ。わたしはすっかり聞いてしまい、委縮してしまってうつむいた。
「ああ、この子よね。うちにも高校生のときに来たわね。忘れてたわ。とにかくあんな会社はすぐに辞めなさい。仕事だからって会社に泊まり込むのもやめなさい」
「わたしは好きでやってるの。お母さんの言いなりにはならない。帰ってよ。文句を言うなら帰って!」
上半身を起こして、千波は枕を叩く。ぶつけられない怒りを枕にぶつけているようだ。
「千波を連れて帰るわ。入院が必要なら家の近くの病院に変えればいいんだから。すぐに支度をするわよ」
「いやよ。わたし、家には帰らない。伊織とずっと働くわ。お母さんにはわからないでしょうけど、それがわたしの夢なの。夢を壊さないで」
「体を悪くしてなにを言ってるの」
「お母さんの言いなりにはならないっ! 帰って」
こんなにも母親を拒絶し、怒りを露わにする千波を前にして、わたしは動揺していた。いつだって千波は明るくて元気で、わたしを励ましてくれた。泣いたりもしたけど、それは全部わたしの為に流した涙だった。
けれど千波だって普通の女の子だ。自分の気持ちだってあるし、考えだって持っている。わたしはそんな千波の気持ちに甘えすぎていたんだと今になって気がついた。
「あ、あの、お母さん」
勇気を振り絞っていすから立ち上がり、わたしは口を開いた。
「あの、伊織くんの会社は変な会社じゃないです。ちゃんとした旅行会社です。ツアーだってたくさんやっててお客さんだってたくさんいて。だから忙しくて疲れちゃっただけなんです。わたしも千波に甘えてばかりいたけど、もう大丈夫なんです」
そう、もう大丈夫。だって陸ちゃんがそばにいてくれるから。
「今まで甘えてばかりでごめんなさい。千波の好きにさせてあげてください。やっとそういう時間が取れるようになったんです」
そうして腰を折った。しばらくの間、そうやっていた。
「勝手にしなさいっ!」
頭の上からそんな声が振ってきて、わたしは腰を伸ばした。お母さんは出口に向かって、来た時と同じように大股に歩いていた。そして一度も振り返らず、部屋を出ていき、わたし達はまた二人きりになった。
静かになった部屋の中で、わたしは茫然と立ち尽くしていた。
うつむいて布団を握りしめていた千波は突然顔をあげ、にっこりと微笑んだ。
「ごめんね、みっともないとこ見せちゃって」
ぺろりと舌を出す仕草は、いつもの千波そのものだ。ちょっと安心する。
ぶるぶるとわたしは首を振る。
「みっともなくなんかないよ。それよりもごめんね、わたし、千波や伊織くんだけじゃなくて、千波の家族にも迷惑かけてたんだね」
申しわけなさでいっぱいになる。
千波に家族がいるのは当たり前だった。それを考えもせず、おんぶにだっこで生きてきた。お母さんが怒るのも無理はない。
「迷惑なんかじゃなかったよ。わたし、桃花と一緒に暮らせて楽しかった。だからお礼を言わなきゃいけない。お母さんは大きな企業に就職させたがってたの。自分もお父さんもみんなそうだから。なのに伊織の会社を相談もなしに手伝い始めちゃって。それで怒ってるの。伊織のこともよく思ってないのよ。桃花はおまけ。もらい事故だと思って気にしないで」
「でも」
よくない気がする。このままじゃ。
「本当、気にしないで。家の問題だから。いつかお母さんもわかってくれると思うの。わたし、信じてる。だってお母さんだもん」
そう言って千波は人差し指をたててにっこりと笑った。
そんなものかもしれない。親子なんだからいつかはわかり合える。だからわたしも笑い返した。
「そうよね、そうだわ。きっとなにもかもうまくいくわよ。それよりも千波が入院している間は毎日、わたし通ってくるから。安心して任せてね」
「いいわよ。伝馬に怒られそう」
「駄目駄目。わたしに通わせてほしいの。千波の為にしてあげたいの。自己満足もあるかもしれないけど」
そっと千波の手を握る。千波の指先は冷たかった。血が通っていないみたいだ。
「じゃあ、甘えちゃおうかな」
首を傾げて、千波はわたしの手を握り返してくれた。
「甘えて甘えて」
顔を近づける。額がくっつきそうになるまで。目を合わせてわたしたちは笑った。
空気がふわっと軽くなるのを感じた。
その日の夜、千波が入院してしばらく病院に通うと陸ちゃんに宣言した。毎日となればやはり黙ってはいられない。反対されるのも覚悟の上だ。
仕事から帰ったばかりの陸ちゃんは、お風呂にも入っていなかったし、夕飯もまだだった。でも大切な話なので先に言ってしまいたかった。
リビングのソファに座った陸ちゃんは、「そうか」とだけ短く返事をした。
「だから家にいる時間が少なくなるから。でも大丈夫、家事はちゃんとする」
坐っている陸ちゃんを後ろから抱きしめる。バニラの甘い匂いがする。さっきまで仕事をしていた証拠だ。
「駄目って言っても行くんだろ」
胸に回したわたしの腕を握る。
「うん、千波の為にしてあげたいの。わたしの為でもあるの」
「いいよ、けど、無理はするな」
「ありがとう陸ちゃん」
抱きしめていた腕に力を込める。
今回ばかりは反対されても行こうと決めいてただけに、お許しが出てうれしかった。陸ちゃんに感謝する。ぎゅっと抱きしめることでわたしは感謝を表現した。陸ちゃんはそれきりなにも言わなかった。
翌日、陸ちゃんを見送ってから、すぐに病院に向かった。途中でデパートに寄って、千波が好きそうな総菜とフルーツ、明るく咲くひまわりの花束を購入してから病室に行くと、大荷物を持ったわたしを見て、千波がぽかんと口を開けてた。
どうやら呆れているらしい千波を脇に置いて、わたしはナースステーションで花瓶を借りてひまわりを活ける。殺風景だった部屋が華やかになる。それから買ってきたお惣菜をテーブルの上に並べた。中華、和食、イタリアンととりあえず一通り買ってきたので、小さなテーブルはすぐにいっぱいになった。
「あのね、桃花。わたしは重病人じゃないのよ。それとお昼はさっき食べたばかり」
面会時間は一時からなので昼ご飯を済ませたあとなのは知っている。それでも買わずにはいられなかった。だって千波にしてあげられることがほかに思い浮かばなかったから。
「病院の食事って物足りないでしょう? 余ったら夜に食べればいいじゃない」
「それにしても多すぎー」
「栄養つけなきゃね。まだまだ足りないくらいよ。でも昨日より顔色がいいわ。安心した」
今日は頬に赤みがさしている。化粧はしていないから、血色がよくなってきた証拠だ。
「それにしても多すぎ。それにもう退院するのよ」
さらりと言われてしまって、わたしは慌てた。
「駄目よ。この際だからゆっくり休んで。そう、せめて一週間くらい。そうしたらのんびりできて心も体も休まるわ。ね、お願い、そうして。その間の面倒はわたしに任せてほしいの。恩返ししたいのよ。こんなときくらい」
顔の前で手を合わせる。本音だ。嘘も偽りもない。
千波は髪の毛を両手でくしゃくしゃと搔きむしる。
「まあ、休みはほしかったからちょうどいいって言えばそうだけど」
「決まり! わたしに任せてね」
千波にしがみつく。お風呂なんて入っていないはずなのに、石鹸の香りがした。千波の為にがんばらなきゃ、と石鹸の香りをかぎながら思った。
お見舞い四日目の帰りだった。毎日、午後の四時には病室を出るとわたしは決めていた。陸ちゃんと約束したとおり家事をきちんとしたかったからだ。
毎日差し入れをしているせいか、千波はここに運ばれてきた日よりもずっと健康的になった気がする。
きっとわたしが記憶を失って入院していたときも、みんなこんなふうに思っていたんだろうなあ、と考えると切なくなってくる。それだけに元気な千波に会えるのはうれしかった。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
今日はフルーツを多めに差し入れした。オレンジやカットスイカ、メロンがテーブルには並んでいる。
「はい、毎日ごくろうさま」
ははーっとふざけて千波は頭をさげる。
ばいばいと手を振って部屋を出て、あがってくるエレベーターを待つ。三階で止まったエレベーターの中から千波のお母さんが降りてきた。
「あ、こんにちは」
数日前のやりとりが頭をかすめて、ほかに言葉が見つからない。
ぺこりと頭をさげても、次になんて言えばいいのか思い浮かばなくて、しばらく向かい合ってしまった。
「毎日、来てくれているんですってね。ありがとう」
千波のお母さんの表情はどこか硬かった。少なくとも笑っていない。やっぱりわたしを快く思っていないんだ。
「あ、いえ。千波にはお世話になったのでこのくらいはしないと」
「そう、あなた、少し時間あるかしら?」
出し抜けに言われて、どうしようかと迷ってしまった。
ここからマンションまでは三十分はかかる。帰りに夕飯の買い物をするつもりだった。それから夕飯の支度を始めないと、陸ちゃんの帰宅時間に間に合わない。
唇に指を当てて、考えてしまった。でもそれは一瞬だった。
「大丈夫です」
そう答えた。ちゃんと理由を説明すればいい。陸ちゃんは怒ったりしないはずだ。それに千波のお母さんと千波がこのままでいいはずはないし、わたし自身も気になっていた。
「じゃ、コーヒーでも飲みましょうか。ごちそうするわ。誘ったんだから。病院の前に喫茶店があるからそこにしましょう」
降りてきたエレベーターにお母さんは乗り、わたしも後に続いた。
病院の前にある喫茶店は個人経営の小さな喫茶店だった。テーブル席が四つ、あとはカウンターだ。客はカウンターに一人いるだけで、お母さんは一番奥にあるテーブルに腰を押し付けた。
八十年代のアイドルの歌が流れていた。店の中もなんとなくレトロな雰囲気でドアにはカウベルがあり、棚には毛糸でできた犬のぬいぐるみがいくつも飾られていた。
やってきたウエイトレスはかなり年配の女性で、Tシャツにジーンズというラフな格好の上に赤いチェックのエプロンをつけていた。気取らない店なのだろう。
「アイスコーヒーを。あなたは?」
プラスチックに挟まれたメニューを差し出されたが、読みもせずに同じものでと答えた。
「じゃ、アイスコーヒーを二つで」
オーダーを聞き終えた店員は頭を軽くさげると、水が入ったグラスを二つ置いてカウンターの奥へと消えていく。
「千波から一応毎日メールが来るのよね。家を出るときにそういう約束をしたから」
窓の外に目をやってお母さんは言った。
「あなたと暮らしているときは、毎日あなたの様子。入院してからも毎日あなたが見舞いに来てる、差し入れの中身まで書いてあるのよ。ありがとう」
怒っているのか感謝されているのかわからない。微妙な表情だった。
「とんでもない。わたしは恩返ししているんです」
顔の前で両手を振る。
一週間では足りないくらいに、千波には感謝している。
「昔からねえ、言い出したら聞かない子だったのよ。勤めを始めたときもそう。あなたと暮らすときもそう。全部自分で決めてしまってから報告だけをするの。だから仕方ないって諦めて好きなようにさせてきたの。でも今回入院するほど疲れているって知って、やっぱり家に帰ってきてもらおう、仕事も辞めてもらおうと思ったわ」
そこにアイスコーヒーが二つ運ばれてきた。
ストローを突き刺し、わたしはグラスの中身をくるくるとかきまぜたが、お母さんは見向きもしなかった。
「でもやっぱり駄目。仕事は辞めたくないんですって」
そこで初めてくすりとお母さんは笑った。楽しそうにその顔が見えた。笑うと千波になんだか似ている気がする。
「気の強い子だからね、貫きたいんでしょう。もうほんとお手上げ」
両方の肩をすくめている。
「だから説得はやめにしたの。それを今日言いにきたのよ」
「じゃあ、千波を許してくれるんですか」
ぱっとストローから指を離す。
「許すもなにも本人が聞き入れないんだもの。どうしようもないわよね。あなたから千波にそう伝えてくれる? わたしだと遠慮もなくなってまた言い合いになっても困るから」
「駄目だと思います」
姿勢を正し、わたしは膝の上に両手を置く。
「それじゃ、駄目だと思うんです」
「どうして?」
「わたし、記憶がないから、だから人の言葉の大切さっていうのをよく知ってます。本人から聞いた言葉しか信じられないんです。でもそれでいいって思ってます。ずっとそうやって生きてきました。記憶がなくなってから。だからお母さんの気持ちは、お母さんがちゃんと言わないとうまく伝わらないと思います」
言い過ぎかも、生意気と思われるかもしれないと思いながら、それでもわたしは最後まで言い切った。
八十年代のアイドルは片思いの切ない恋心を歌っている。伝えたいのに伝えられない。そんな内容だった。伝えられないんじゃない。伝えようとしないのがいけないんだ。
「そうか、そうね」
伏し目がちになってお母さんはアイスコーヒーにミルクを落とし、ストローで氷をつついた。
「その通りかもしれない。ありがとう」
そう言って微笑んだお母さんは、やっぱり千波とよく似ていた。
予定通り一週間で千波は退院した。伊織くんはもちろんわたしも陸ちゃんも一緒に迎えに行って、帰りは横浜の中華街に寄ってランチをした。
休みを取った千波は、これまで以上に元気になって、一番笑っていた。
円卓を囲みながら笑う千波を目にして、あれからお母さんとはどうなったのか知りたかったけれど、それはやっぱり聞かなかった。
言いたければ自分から言うだろう。それよりも今は千波が笑っているほうがうれしい。
「今回は本当に桃花にお世話になったわ。本当にありがとう」
改めて礼を言われた。
「なんにもしてないよ。それにわたしが千波にしてもらったのを考えればまだまだよ。これからもなにかあったらすっ飛んでいくからね」
「頼りにしてますっ」
ふざけて敬礼する千波の笑顔が眩しかった。
三人で笑う中、陸ちゃん一人が笑わなかった。もっとも陸ちゃんは普段から自分の気持ちを表現するのがうまくない人だから、これは自然なのだ。もし本当に心の底から楽しくなければここにはいない。
伊織くんの車でマンションの前まで送ってもらい、二人と別れた。
部屋に戻ってから、わたしは陸ちゃんの為に冷たいお茶を用意して、リビングのテーブルに置いた。
「千波、よかったな」
ぽつんと陸ちゃんがつぶやいた。
「うん、よかった。でもわたしは陸ちゃんがそう思ってくれてたってことの方がうれしい。ありがとう」
「そうか」
グラスに手を伸ばした陸ちゃんは静かにお茶を飲んだ。
「千波も退院したし、これから本気モードで結婚式の準備に入るね」
ふざけて後ろから陸ちゃんを抱きしめる。柔らかい髪の毛が、頬に当たる。
「任せる。桃の好きなようにやればいい」
「でも協力はしてね」
んー、と髪の中に頬をうずめる。
陸ちゃん、大好きな陸ちゃん。少し回り道をしてしまったけれど、いいよね。だってわたしたち回り道ばかりしてきたから。あとほんの少しの回り道くらい、どうってことないよね。
きっとわたし達は大丈夫。
陸ちゃんのぬくもりが、いとおしくてならなかった。
7
千波が退院してひと月後の日曜日、ブライダルフェアにやってきた。もう九月も半ばっていうのに、夏みたいに暑い日だった。
千波と二人で、フェアに参加するために、わたしは港に立っていた。波が太陽の光に反射してきらきらと光っている。
ブライダル雑誌で見た通りの光景に、わたしの胸が躍る。
海の見える場所、できれば青空の下で式をやりたいなと考えていたら、ある程度場所が決まってしまった。
わたしが選んだ式場は、船だった。チャペルは船の先端にある特設の教会でして、披露宴は甲板にテーブルを並べるといったスタイルだ。
青空の下で食べるフランス料理はなかなかおいしい。
ステーキを食べていると、千波に隣で乱暴にナイフとフォークを使っていた。
「普通さ、こういうフェアってカップルで来るのよ。デートを兼ねて!」
吐き捨ててから、千波はステーキを食べる。眉間にしわを寄せて、露骨にむっとしている。
「だってえ、陸ちゃんは仕事で忙しいしさ。そうなると頼みの綱は千波しかいないもん」
「わかるよ。伝馬がこういうの好きじゃないっていうの。仕事でごまかしてるの。でも、まわりを見てよ」
フォークを握って、千波はテーブルをどんっと叩く。
「カップルだらけじゃない」
「ごもっともです」
言われるまでもなく、もちろん気がついていた。受付の段階で、早々に。わたし達のテーブル以外は全部カップルで、楽しそうに会話をしながら食べている。
――桃花に任せるから、好きなように決めていいよ
投げやりにも取れなくはなかったけれど、仕事が忙しいのもわかっていて、それ以上誘えなかった。
「まあ、機嫌なおして。おいしいね。千波だって本当の式でまた食べられるんだからさ」
「ここでやればね」
「やるわよ。わたしはほぼここに決めているの」
雑誌で目にしたときから、気持ちは八割がた決まっていた。絶対に船の上って。青い空の下って。
「ほかも見たほうがいいと思うけどね」
「そりゃ、一応は見るけどさ」
そう言いながら、ここよりもいい会場があるとは、最早思えなくなっていた。
わたしたちは試食の料理を食べ、説明を聞き、ウエディングドレスなんかを試着して、会場をあとにした。
「せっかくだからお茶でもして帰る? 横浜駅近くで」
千波の提案にすぐに乗った。のども乾いていた。駅近くのオープンカフェに入ろうとすると、後ろから名前を呼ばれた。振り返ると、知らない男の人が立っていた。
「やっぱり桃花じゃねえか。久しぶりだな、元気にしてたか」
下卑た笑いを浮かべて男が近づいてくる。よれよれのシャツに膝に穴の開いたジーンズを穿いた男の人の顔がなんだか怖くて、思わず千波の背中に隠れてしまった。千波は全身をぶるぶると震わせていた。
「あんた、今頃なんの用?」
そう尋ねた千波の声が、強張っていた。なんとなくだけど怒っている。
「おれは桃花に用があるんだよ。おまえじゃねえよ」
男は乱暴に千波を横に押しやり、わたしの腕を引っ張った。乱暴で遠慮のない力の入れ方に、わたしはきゃ、と悲鳴をあげた。
「なんの用ですか?」
タバコの臭いがして、顔をそむけながらわたしは言った。
「なんの用っておまえ、自分の亭主の顔を忘れちまったのかよ。あ、そうか。記憶がないんだって。記憶喪失なんだっけ、おまえ」
え、と目を大きく見開いていた。
今、この人が今言ったセリフを、頭の中で反芻する。
「でもよう、おれは今でもおまえの亭主。旦那。結婚してんだぜ、おれ達はよ。いつになったらこっちに帰ってくるんだよ。おれもいつまでも一人でいるのは淋しいしよ。早く家に帰ってこい」
顎を摑まれ、無理矢理に顔を向けさせられる。
「知りません、わたし。あなたなんか。それにわたしの旦那さまは陸ちゃんです。一緒に暮らしているのも陸ちゃんです」
苦し気に顔を歪めて、必死で言う。
だってわたしが愛しているのは、陸ちゃんだけだ。ほかに誰もいない。だから結婚しようと思っているし、その準備を始めたばかりだ。
「やめてよ」
飛ばされた千波が間に割って入ってくる。
「桃花はあんたなんか忘れたの。もう伝馬と結婚するんだから」
「結婚だってえ」
ひゃーははは、と男はばかみたいに甲高く笑い出した。
「いや、笑えるぜ。重婚する気かよ。まだおれ達は離婚してねえぜ。それを知らないわけじゃないだろ。おまえ、桃花の友達ならよく知ってるだろうが」
「嘘つきやがれ。なあ、桃花。早く帰ってこい。このまま帰ってきてもいいんだぜ」
「知らないわよっ! そんなの」
「やめてっ。桃花におかしな話を吹き込まないで。桃花はもう全部忘れたんだから」
ひゅう、と男は口笛を吹いた。
「まあ、それでもいいけどよ。おれは離婚しねえぜ。離婚しない限り、お前は伝馬と結婚できねえぜ。それをよく考えな。連絡先、渡しておくよ。桃花の出方によっちゃ、離婚も考えてやるよ」
そう言うと男はわたしが持っていたブライダルフェアでもらった資料の袋を奪い、その中からチラシを一枚引き抜くとひどく乱暴な文字で、携帯電話の番号とアドレスを書いた。
「よく考えるんだな」
袋をわたしに投げつけて、男は去っていった。あっという間に人混みに消えていくさまを、わたしは呆然と見送った。
意味がさっぱりわからなかった。ただ黒い渦が心の中で巻き始めている。
「あの人誰。わたしがあの人と結婚してるって本当?」
人混みに消えた後ろ姿を見つめながら、わたしは尋ねた。
「桃花、気にしちゃ駄目。本気にしちゃ駄目。忘れて、今の出来事全部」
早口に千波が言えば言うほど、事実に聞こえてくる。
「わたし、帰る」
千波を置き去りして、わたしはそこから駆け出した。
男の顔は思い出せる。会ったばかりだから。でもそれ以前は、なにもわからない。
わたしは陸ちゃんと結婚できない? あの人と結婚しているから?
いやだ。
激しく拒絶する。
家に帰り着くと、糸が切れたみたいにしゃがみ込み、その拍子に袋からパンフレットが飛び出して、あたりに散らばった。男が残した番号が揺れて見えた。
突然目の前が明るくなって、顔をあげた。陸ちゃんがリビングの入り口に立っている。
「起きてたのか。あかりがついていないから寝てるのかと思った」
窓の外に目をやれば、すっかり暗くなった。
帰ってきてから、ずっとぼうっとしていたから、時間の経過もわからなくなっていた。
「泣いてたのか?」
顔を覗き込まれて、慌てて目のあたりを手の甲で拭う。
「違うのよ。ごめんね、お夕飯の支度、忘れちゃった。すぐするわ」
両手を床に押し当て、立ち上がる。
「いや、いい。本当に泣いてたんじゃなかったのか?」
「違うってば」
「じゃ、千波となんかあった?」
陸ちゃんに隠し事は難しい。けれど真実が言えるはずもない。もしあの人が言ったのがすべて本当だとしたら、きっと陸ちゃんはとても怒って、そしてどこかにいってしまう。
もう陸ちゃんがいない生活なんて考えられない。
「なんにも。ブライダルフェアに行っただけ。千波、怒ってたわ。こういうとこはカップルで来るべきだって。いろいろもらってきたよ。パンフレット。見てみて」
「ああ、あとで」
「あとでじゃ駄目よ。今見てよ」
散らばったパンフレットを拾い集めて、陸ちゃんに渡す。もちろん電話番号が書かれた一枚だけは引き抜いた。
「桃がいいなら、おれはなんでもいい」
「駄目よう。ちゃんと見なきゃ」
陸ちゃんの手を引いて二人でソファに座り、ブライダルフェアがいかに楽しくて、船上で行う式がどれほど素敵だったか、身振り手振りを添えて語る。
「そんなに、気に入ったのか?」
ろくに目を通さず、陸ちゃんは尋ねた。
「そりゃあ、もう」
「なら、ここでいい」
「じゃ、今度、陸ちゃんも一緒に行こうよ」
「まあ、時間があれば」
「あるよう。だから行かなきゃ駄目よ。日取りだって決めなきゃならないんだし」
「まあ、それも桃に任せるから」
「駄目よう。お店の都合だってあるでしょう? いつでもいいってわけにはいかないじゃない。お店に関しては、わたしもわからないし。陸ちゃんじゃないと。だから、行こうね。次の休みに」
一生懸命笑顔をつくる。でもフェアは楽しかった。それは本当だ。問題はそのあとにあった。考えると、気持ちが重くなってくる。考えないようにしなければと思うほど、男の顔がちらついた。
「なあ、桃」
手を取られた。
「指先が冷たい。顔色もよくない。もう寝よう。そのほうがいい。話は明日また聞くから」
「でもね、大切だよ? 結婚式って」
「だから明日ちゃんと聞く」
そのあとはいいも悪いもなかった。
ふわっと抱きかかえられて、問答無用でベッドまで連れていかれた。パジャマに着替えてもいないのに、布団をかけられた。
「きっと外を出歩いて疲れたんだ。だから顔色も悪い。千波にあとで電話して言っておく。あんまり桃花を連れまわさないように」
「駄目よ。千波は付き合ってくれただけなんだから。絶対に駄目」
「わかった。とにかく今日は寝ろ。いいな」
「うん」
布団の上から、陸ちゃんは体を撫でる。
「パンフレットも見ておく」
「うん」
「そんな顔するな。大丈夫だから。なんだって桃のしたいようにすればいい。おれは、桃がよければそれでいい」
「うん」
陸ちゃんはそっと部屋を出て行った。
一人になると、あの男が迫ってきた。
あの人が言っているのが本当なら、陸ちゃんとは結婚できない。
ぎゅっと布団の端っこを握り、いやだ、と激しく心が拒絶する。
いやだ、絶対に陸ちゃんと結婚する。ちゃんと式をあげて、ちゃんと入籍して。
布団の中にいるのに、体がぶるっと震えた。
恐れている。
なにもかも駄目になってしまうのではないかと、そう思わずにはいられない。
やはりきちんと自分で確かめなければと思った。そしてもし、あの人の言うとおりなら、離婚してもらわなければならない。
嘘だと信じているけれど。だってわたしが陸ちゃん以外の人と結婚してたなんて考えられない。
真実を知るためにも、やはり会わなければいけない。
奥歯をぐっと噛みしめた。
翌朝、陸ちゃんが仕事に行くと、すぐにパンフレットに書かれた番号を押した。コールは一回だけ。
「かかってくると思ってたよ」
間延びした声は、昨日のいやらしい顔を思い出させてくれた。気持ちが悪くなり、胃の底が持ち上げられる感覚がした。口元を手のひらで拭う。
「本当なの? 教えて。わたし、本当にあなたと……」
そこから先は言えなかった。口にするもおぞましかった。
「嘘なんかつくかよ。証拠を見せてやるから、役所に行こうぜ」
「役所?」
「戸籍を見ればわかるだろ。そっちまで行ってやるよ。今から一時間後に。駅で待ってる」
一方的に電話が切られて、呆然と虚空を見つめる。
真実か、嘘か。
嘘に決まっている。
慌ただしく身支度を整え、待ち合わせの場所に向かう。昨日よりも幾分涼しい風が吹いている。
平日だというのに、駅の前はさまざまな人達が往来していた。どこに行くつもりなのかせかせかと早歩きの人もいる。その中にあの男が立っていた。
「よう」
突然、肩を抱かれた。
「離してください」
身を捩るが、相手の力は強い。どんなに拒絶しても、指の先が肩に食い込んでしまったかのような感覚に襲われて、離れていかない。
「おまえ、おれの名前も覚えてないの」
「当り前じゃないですか」
「一樹って呼んでくれよ。いつもそう呼んでたんだぜ。ベッドの中でも」
かっと全身が熱くなる。恥ずかしさに貫かれる。
嘘だ、と叫びたかった。けれどのどに蓋をされてしまったみたいで、なにも言えない。口の中も乾ききっている。
「本当に覚えてないんだな。話を聞いた時は半信半疑だったけどな。なるほど、あんたの親も会わせてくれないわけだぜ。納得したよ」
ヤニ臭さに顔をしかめる。今日はさほど暑くないのに、奇妙な汗が浮かんだ。
「早く証拠を見せてください。あなた、嘘ばかり言ってるんでしょう。その証拠をきちんとこの目で確かめないと。だって、わたし……」
陸ちゃんと結婚するから。
「まあ、そう焦るなよ。どっかでお茶でもしてさ」
「結構です」
お茶などのどを通るはずもない。そばにいるのだって、いやでたまらない。
「ふん。強情な女だぜ。相変わらず」
鼻の頭に皺を寄せ、不愉快そうに一樹という男はわたしを見た。
「仕方ねえ。役所に行くか」
駅前に市役所の出張所があり、真っすぐに一樹はそこに入っていった。
必要な書類に記入を済ませ、五分と待たずに職員から渡された戸籍を奪い取り、頭が真っ白になった。
夫、早川一樹。妻、桃花。
指の間から用紙がすり抜けていき、音も立てず床の上に落ちる。
全身がわなわなと震え、立っているのも覚束なくなった。
「嘘、だわ。こんな、ばかな」
「嘘なもんか。見た通りだよ」
「離婚して。今すぐ、離婚届を出してください」
叫んでいた。そうせずにはいられなかった。
悲しみとか、悔しさとか、そんな簡単な言葉では表せないほど、激しく動揺していた。
「まあ、よく相談しよう。話し合わないとな」
「なにを話し合うんですか。離婚届を書けばいいだけです」
必死になって訴える。
陸ちゃんはなんにも知らない。だから結婚しようって言ってくれたに決まっている。陸ちゃんには知られたくない。なにもかもなくなってしまう。
もうなにも失いたくない。
「まあ、ちゃんと相談しないとな。おれ達は夫婦なんだから。近くにいいところがあるんだよ。部屋を借りたんだ」
「部屋って? それよりも早く届けを書いてください」
「用意してあるよ。部屋にな。来れば渡してやるよ。来なきゃ渡さない。おれの署名は記入済み。あとはお前が書けばいいだけになっている」
値踏みされるように、全身を眺められた。
悪寒が走る。
行くしかなかった。行かなければ、離婚はない。離婚ができなければ、陸ちゃんとの結婚もありえない。
仕方なく役所を出て、一樹についていく。
項垂れて歩くわたしの隣に、ぴたりと一樹がついている。一樹は駅前にある建物の中に入って行こうとした。みすぼらしい建物には「ホテル」と毒々しい色合いの看板が掛けられている。
「困ります!」
激しく拒絶する。ホテルの部屋になど連れていかれたら、なにをされるかしれやしない。
「ここに部屋を取ってある。で、部屋に離婚届はある。おれはいいんだぜ。別に今のままでも」
絶望的な気持ちになった。
選択肢はない。
部屋に行って書類を取ってくればいいだけだ。
自分に言い聞かせるが、足が震えていた。
フロントで鍵を受け取った一樹についてエレベーターに乗り、四階にある部屋に行く。
部屋は狭く、タバコのにおいが充満していた。吐きそうになる。思わず口元を押さえた。
「早く、書類をください」
そう言うだけで精一杯だった。
書類をもらって早くここから出ていかなければと、そればかり考えていた。
「まあ、そう慌てるな。お茶でも飲んでさ」
「結構です。それよりも早くください」
今にも倒れてしまいそうだった。足の裏に力を入れて必死に耐える。
耐え続けるわたしを、一樹は面白そうに眺めていた。
タバコの匂いに全身がからめとられるように、わたしはそこから動けずにいた。ねっとりとした視線からも逃げたいのに。
「早く、ください」
もう一度口にすれば、言葉の端々が震えている。
「さて、そうだな」
一歩前に踏み出た一樹はテーブルにあった用紙を取り、指の間に挟む。
「これだろう? ちゃんと署名もしてある」
手を伸ばした。届かない。一樹が遠くに追いやってしまったから。
「渡すのは簡単だけどな。ほしいんだろ」
「当り前じゃないですか」
「なら、これだけ用意しろ」
紙を持っていないもう一つの手をぱっと広げた。
「なんですか?」
「五百万」
背筋がすうっと冷たくなった。
意味を理解したくないからか、頭の芯が痛む。
「簡単だろ? 五百万円と引き換えだ」
「どうして。わたしはお金なんて持っていません」
記憶をなくしてから、わたしは金の管理をしていない。千波と暮らしたときは千波に任せていたし、今は陸ちゃんがやってくれている。必要なものは陸ちゃんに言えば買ってもらえた。カードすら持っていない。持つ必要のない生活をしている。
「おまえが持っていなくても伝馬が持ってるだろう。なにしろ人気パティシエだもんな。よくテレビにも出てるじゃないか。ずいぶん稼いでるらしいな」
「陸ちゃんに言うんですか? あなたから金を要求されたって」
言えるはずがない。こんな男と夫婦だなんて言うくらいなら、死んでしまったほうがマシだ。
「そのへんはさ、ま、好きに考えてくれよ。おれは金さえもらえればいんだから」
「どうしてわたしがあなたにお金を渡さなきゃいけないんですか?」
「そりゃよう、慰謝料だろ。当然じゃないか。結婚してるのに、ほかの男と浮気したんだ。おれは深く傷ついてるんだ」
うんうん、と大きくうなずいている。
冗談じゃない。傷ついているのはわたしのほうだ。過去になにがあったのかは知らないけれど、今、苦しんでいるのはわたし自身で、この人じゃない。
「傷ついてるのは、わたしのほうです」
現に目の前にいる男が悩んだり、傷ついたりしているようには見えない。むしろこの状況を面白がり、楽しんでいる。
「だからよう、おれも傷ついてるの。とにかく金だよ、金。一週間待つよ。それまでに用意してくれ。なんなら取りに行ってもいい。住んでるマンションも知ってる。おれは本気だぜ」
「そんな。来ないでください」
「じゃ、金をなんとかするんだな」
唇を噛む。思い切り。血が滲むほど。
「待つのは、一週間。それ以上は待たないぜ。こっちの要件はそれだけだ。早く帰って伝馬と相談するんだな」
胸のあたりを押され、部屋の外に出されていた。
もう一度中に入って交渉する勇気はない。震えながらマンションに帰ってきた。リビングのソファに寄りかかるように座り込んだ。
千波に相談しようかと考えて、激しく首を振る。千波に言えば、陸ちゃんに伝わってしまう。恐らく巽くんに言っても陸ちゃんにばれてしまう。
どうしようもない泥沼に足を踏み入れた気持ちになっていた。
迷いに迷って、陸ちゃんの店まで行った。海に向かって建つ店は、お客さんで賑わっていた。ロザリーがレジに立っている。店が落ち浮くまで、ロザリーはフランスに戻らず手伝ってくれている。なんにもできないわたしの代わりに。
ロザリーに言ったとしても、結果は同じ。
胸が張り裂けそうに痛む。
あの男から書類をもらわない限り、陸ちゃんとの結婚はない。
思い切って全部話してしまおうか。いや、それは絶対にしたくない。なにがあっても隠し通したい。
店の前をうろついていたから、レジにいたロザリーに気づかれた。
「リクなら奥にいるわよ」
外に出てきたロザリーは親指をたて、奥を示した。
「いえ」
目を伏せる。
「リクに用事でしょう?」
「いえ、急ぎではないから。帰ってからでいいんです。すみません、忙しいのに、お邪魔して」
「いいけど、大丈夫? 顔色がよくないわ」
「ええ、大丈夫です」
ふらつく足取りで帰る途中で、海を見た。
結局一人ではなんにもできないと、どうにも情けなくなってくる。
誰にも頼らず、お金を用意するなんて、はなから無理な相談だった。
「人魚姫はいいなあ」
海にできる白い泡を見つめてつぶやく。
いっそ、海の泡になりたかった。
夕飯の支度の途中で、陸ちゃんが帰ってきた。エレベーターを使わずに、階段を駆けあがってきたのか、息が少し乱れている。シンクの前で菜箸を持ったわたしは動きを止めた。
「まだ、お夕飯できてないんだけど」
「そんなのはいい」
早口に言うと、陸ちゃんは突然、わたしの頭を触ったり、肩や腕に触れたりした。
「なんか怪我とか病気じゃないんだな?」
「は? なんで?」
ぽかんと口を開けてしまった。
「昼間、店に来たって。ロザリーが」
ああ、と納得する。
「それで急いで帰ってきたの? お店は?」
窓の外はまだ明るい。閉店の時間には少し早い。
「ロザリーに任せてきた。本当になんでもないんだな」と言いながら、額を合わせてきた。熱の確認をしているのだ。
「うん。ちょっと近くまで行ったから覗いただけなのよ」
「そか、なら、いい」
ほっとして、陸ちゃんは大きく息を吐いた。
「もう一度、お店に戻る? まだご飯もできてないし」
「いや、いい。久しぶりにのんびりする。このところ桃とあまり話もしてなかった」
「なら、座って待っててよ。お茶を淹れるから。ね」
菜箸を置いて、陸ちゃんの手を引っ張りソファに座らせて両方の肩を揉む。
「毎日お疲れ様」
陸ちゃんの肩は広くて、わたしの手ではうまく揉めない。筋肉もしっかりついていて、固くて指先が入らない。
「いいよ。桃。隣においで」
隣と言いつつ、陸ちゃんはわたしの体を膝の上に抱いた。
「なかなか一緒にいてやれなくてごめんな」
「けっこう楽しくしてますよう。日々、幸せよ」
頬を寄せる。
わたしは幸せだった。充分なほど。
ゆっくり、のんびりとした夜を二人で過ごした。時間をかけて夕飯を食べて、一緒にお風呂に入って、同じ時間にベッドに入った。
疲れているのか、陸ちゃんはすぐに寝息を立て始める。寝顔をじっと見つめる。
「ありがとね、本当、幸せだったから。わたし」
この先を考えると、涙腺が緩んでしまう。涙より先に零れそうになる鼻水をすすりあげる。それから陸ちゃんの頬にかかった髪を指の先ですいた。柔らかな髪だった。
寝顔を見ながら、わたしはひそやかに決心した。
一樹との約束の前日、わたしは身の回りのものをバッグに詰めて、クローゼットの奥に隠した。それからいつもどおり夕飯の支度をしていると、巽くんが遊びにきた。
「これさ、伝馬の店で買ってきた。すげえ混んでた」
「手土産なんていらないのに。なんか用でもあった?」
突然の来訪に驚き、そう尋ねた。
「いやー、伝馬がさ」
リビングのソファに巽くんは腰をおろした。
「うん、陸ちゃんが?」
「なんか姉ちゃんが元気がないみたいだから、顔出してやってほしいって。ほら、伝馬、店が忙しいだろ? だからおれがさ」
「あら、元気ならあるのに」
内心、冷や汗が浮かぶ。いつも通りにふるまってきたつもりだったけど、そんなふうには見えていなかったらしい。陸ちゃんは侮れない。
「そか? ならいいけどさ。伝馬も心配性だよな」
「せっかく来たからお夕飯食べてく? 陸ちゃん、遅くなるかもだけど」
「なんか新婚家庭を邪魔しているみたいだなあ、おれ」
「そんなことないわよ。巽くんが来てくれてうれしいわ」
これは本当。
紅茶を淹れ、巽くんの前に差し出した。姉の家だから遠慮もなく、巽くんはおいしそうに紅茶を飲んだ。
「やっぱパティシエの家だな。いい紅茶だ。おいしいよ」
「普通のリプトンだけど」
「あれ?」
「淹れ方がいいのよ。愛情たっぷりだもん」
「おれにはないだろ。伝馬だけだろ」
「あるよう、巽くんにも」
そう、ちゃんとある。すべての記憶を失っても、巽くんはわたしを姉として受け入れ、認めてくれた。愛情もちゃんとくれた。
わたしは、幸せだった。
陸ちゃんが帰って来るまで、巽くんとたわいのない話をした。巽くんは自分の仕事のことや両親の今の様子を楽しそうに話してくれた。そのうちに陸ちゃんが帰ってきて、三人でテーブルを囲んだ。
「巽、来てくれてありがとうな」
テーブルに着くと、陸ちゃんは缶ビールを開けて巽くんに手渡した。
「いえいえ。お役に立ててよかったです」
おどける巽くんの姿がおかしくて笑ってしまった。巽くんもつられて笑った。その笑いを破るようにインターフォンが鳴る。
「ああ、おれ、出るよ」
やがて強張った陸ちゃんの声が聞こえてきた。
「桃花、早川ってやつが来てるけど」
笑いがぴたりと止まり、息がつまった。
なぜ? どうして?
約束の日は明日だ。
めまいを起こしかけていた。
顔から血の気が引いてひんやりと冷たくなっている。
「桃花、どうした?」
怪訝そうに、陸ちゃんが眉をひそめる。当然だ。わたしの友人関係は広くない。千波と伊織くんだけだった。仕事をしておらず、家で過ごすのが当たり前で、外に行って友達などつくれるはずがない。
立ち尽くすわたしを押しのけて、巽くんが前に出た。
「おれが追い返すよ。姉ちゃんは出なくていい」
低く押し殺した声は、一樹を知っている証拠だ。当たり前だった。巽くんは弟なのだから、わたしがなくした記憶を持っている。
インターフォンで巽くんは怒鳴った。用はないから帰れと罵った。相手はひかなかったらしい。
「桃花、誰?」
陸ちゃんにそう尋ねられても答えられない。
混乱していた。約束の日は明日だったし、本当にここまでやってくるなんて考えてなかった。もし仮にやってきたとしても、わたしは姿を消しているはずだった。クローゼットの中に隠した身の回りの物だけを持って、明日、ここを出ていくつもりだった。陸ちゃんの前から姿を消すつもりだった。
楽しい思い出があれば生きていける。そう思っていた。なのに、あいつは来てしまった。
「ええい、駄目だ。埒が明かないから直接追い返してやる。姉ちゃんは奥にいて」
苛立ちを隠さず、巽くんは言い放つ。
「いえ、わたしが、わたしが言うから」
はっきりと言ってやらなければならない。陸ちゃんとは別れる。だからお金は用意しなかった、と。
玄関まで行く足取りはふらついていた。鍵を開け、一樹がやってくるのを待つ。心配して、陸ちゃんも巽くんもついてきた。三人に出迎えられた一樹は、ひゅうと口笛を吹いた。
「こりゃ、驚いた。伝馬までいたのか。なら、話が早い。なあ、巽、おまえは知ってるよな。おれと桃花が……」
「やめて!」
叫んだ。聞かれたくない、知られたくない一心だった。
大きく息を吸い込み、明日、ここから出ていくからと言おうとした。一樹はそれよりも早く口を開いた。
「この前はホテルで楽しかったなあ、桃花」
目の前が真っ暗になった。
茫然と立ち尽くすわたしを押しのけて、巽くんが前に出た。
「姉ちゃんがおまえとそんなとこに行くわけないだろっ! 姉ちゃん、そうだよな。だってこいつのせいなんだ。なにもかもこいつのせいなんだから!」
「相変わらずお姉さん思いだねえ。だがよ、これは真実なんだよ。で、約束したんだよな。約束の日は明日だったな。用意はできたかい? 高跳びされても困るんでね、それを言いに来たんだ」
見透かされていた。なにもかも。
全身が冷たくなっていく。
「また明日、この時間に来るよ」
言いたいことだけを言い、一樹はドアの向こうに消えた。
あたりが静まり返る。空気が重たくなる。
「桃花」
陸ちゃんが一番最初に口を開いた。
「今の話は?」
陸ちゃんの顔を見る。
答えられない。唇がわなないた。
「ホテルに行ったのか」
行ったんじゃない。連れていかれた、が正解だ。けれど唇は動かなかった。それを答えと受け取ったらしい。陸ちゃんはかっと目を見開き、ぱん、とわたしの頬を打った。
「出かけてくる」
こちらを見ようともせず、陸ちゃんは出かけていき、わたしはその場にへたり込んだ。
「伝馬のやつ、ろくに話も聞かないで行きやがった。姉ちゃん、大丈夫か」
じんじんと痛む頬に手を這わせもしなかった。
「頬よりも、心が痛い」
そう言うだけで精いっぱいだった。
「巽くん、わたし、本当にあの人と結婚してたの」
痛む頬がじんじんと熱を帯び始める。
「うん、だけどさ、それだって、そもそも伝馬が悪いんだぜ。原因をつくったんだよ、伝馬が。それで姉ちゃんは仕方なく」
ああ、と深い闇に落ちていく気がした。
巽くんが知っているのなら、当然、千波も伊織くんも知っているんだ。知っているのに、黙っていた。きっとわたしを思いやってくれたからだろう。
でもどうしてわたしはあんな人と結婚なんかしたんだろう。陸ちゃんを裏切ってまで。
この世の中で一番大切なのは、陸ちゃんのはずなのに。
「姉ちゃん、おれ、伝馬を捜して、よく説明するよ」
「いいのよ」
油断すると涙が零れてしまいそうだ。今回の事件は、言ってみればわたし自身が原因だ。陸ちゃんが怒って当然だった。
「いいのよ。巽くん、こんなわたしにやさしくしてありがと。わたし、それで充分だから」
「なんだよ。別れの挨拶みたいに言うなよ」
「そう、ね」
本当は別れるつもりだった。明日、なにもかも捨てて出ていくはずだった。けれどすべてがばれた今となっては、それすら無理になった。わたしが捨てなくても、陸ちゃんはわたしを捨ててしまう。現に今だって一人で行ってしまった。
「姉ちゃん、伝馬はなんにも知らないんだよ。真実を知って、頭を冷やせば戻って来る」
「そうかな」
とてもそうは思えない。陸ちゃんが手をあげるなんて、一緒に暮らしてから一度だってなかった。フランスにいたときも。やさしくて穏やかで、確かな愛情で包んでくれていた。その人が手をあげたのだから、よほど怒ったのだ。
「おれがあとでちゃんと説明するから。伝馬はさ、ばかじゃないから、きっとわかってくれるよ」
わかってくれたとしても、その先がある。巽くんには秘密にしている現実がある。
「今晩はここにいてやるから、少し休みなよ」
巽くんに支えられて、リビングに戻れば、テーブルには食べかけの夕飯があった。もう食べる気も、片付ける気持ちにもなれなくて、ソファにどすんと腰をおろした。
その場でわたしはまんじりとしない夜を過ごした。巽くんはソファでうとうとしている。
姉思いのやさしいいい子だ。きっとわたしたちは昔から仲のいい姉と弟だったんだ。それをわたしが壊してしまった。
夜中が過ぎて、朝方になるころ、家の電話が鳴った。
慌てて取ると、千波のヒステリックな声が聞こえてきた。
「ちょっとあんた達どうなってんのよ。うちに伝馬が来てるんだけど」
ひどく千波は怒っていた。
電話の音で目を覚ましたのか、巽くんが起き上がってきた。
「とにかく来なさいよ。こっちはいい迷惑だよ。桃花が迎えに来て。タクシー飛ばせばいいんだから、頼むわよ」
千波は電話を切り、わたしは巽くんと目を合わせた。
「千波のとこにいるって」
「伝馬が?」
「うん」
「迎えに行こう」
巽くんと二人で家を出て、表通りまで出て、タクシーを捕まえて乗り込み、千波のマンションに行った。
インターフォンを押して出てきた千波は、両手を腰に当てて、背筋をぴんと伸ばしている。
「まったく、どっかで派手に飲んでたみたいよ。うちでもさんざん飲んでさ。どうせくだらない夫婦喧嘩なんだろうけど、ほどほどにしてほしいよ」
「で、陸ちゃんは?」
「リビングでぶっ倒れて寝てるわよ」
すぐに千波を押しのけて家にあがり、リビングに行くと、背中を丸めて陸ちゃんがソファで寝入っていた。ひどくお酒臭かった。そんな陸ちゃんに、伊織くんが毛布をかけている。
「どこで飲んでたのか知らないけど、車まで運転しちゃってさ。見た? 車の横っつら。どっかでぶつけてきたのよ。派手にへこんでいるんだから。人を轢いてなきゃいいけどさ」
後からリビングに来た千波は呆れていた。
「まあまあ、伝馬だってそうやって飲みたいときがあるんだろ。少し休ませて、目が覚めたら連れて帰ればいい。おれらはぜんぜん気にしてないから」
「ありがとう。伊織くん」
寝ている陸ちゃんの枕元に座る。
陸ちゃんの顔は、たった数時間会わなかっただけなのに、ひどくやつれていた。
飲んで車を運転して、ぶつけた原因はわたしにある。わたしがここまで追い詰めてしまった。
「伊織くんは、一樹って人、知ってる?」
陸ちゃんの顔を眺めながら、ぽつりと言う。
「なんで、今更あんなやつが」
苦々しく千波は吐き出した。
「やっぱり二人共知ってるのね」
「知ってるわよ。でももう桃花とはなんの関係もないわよ」
「あるのよ。あったのよ」
ゆっくりとなにがあったのか、わたしは話し出した。
離婚届けがほしくてホテルの部屋まで行ったというのも、話してしまった。話すと一気に気持ちが楽になった。
落ち着いて冷静になって、ちゃんと相談していればよかった。陸ちゃんはともかく二人には。だって二人はずっとわたしのそばにいたんだから。いつだってわたしの味方だった。
あのときのわたしは本当にどうかしていた。その顛末の結果が、これだ。
「それじゃ、桃花、あのばかに脅されてたの?」
これにはさすがに千波も驚いていた。
「うん」
「最初に相談してくれればすぐに終わったのに。桃花、あんたってばかよ」
そう言って、千波は抱きしめてくれた。
「こんなの桃花と伝馬に対する嫌がらせよ。一樹と結婚した経緯だって、みんな知ってるわ。詳しく知らなかったのは、伝馬だけよ。伝馬はフランスにいたからね。でも桃花が結婚したのは、伝馬も知ってるのよ。桃花がどうして記憶喪失になったのか、その理由を話さなきゃならなかったから」
「わたし、あの人のせいで記憶喪失になったの?」
初耳だった。
伊織くんと千波が困った顔をして見つめ合っている。
「たんなる夫婦喧嘩だったと思うの。詳しくはわたしも知らない。こんなこと今更言っても仕方ないから誰もなにも言わなかったけど、あの一樹って人はね、日常的に、その、桃花に暴力をふるっていたらしいの。あのころ桃花はなにも言わなかったけど、たぶん、そうだったと思う。それである晩、桃花は家を飛び出して事故に遭ったの」
頭の傷に手を這わせる。
「もともとわたしと伊織が勧めた結婚だったのよ。天馬を忘れさせたくて。あんな人だってわかっていたら勧めなかったわ。わたしたち、桃花に天馬を忘れてほしかったの。桃花自身もそう願ったのよ、あのころ」
「どうして? 陸ちゃんがこんなに好きなのに」
過去のわたしを責めても仕方ないけれど、そうせずにはいられなかった。
「あのね桃花、前にも言ったと思うけど、思い出さないほうがいいことはたくさんあるの。一樹との結婚もその一つ。そして天馬と別れようとした理由もその一つ」
「わたし、待てなかったの? もしかして」
迎えにくる。
そう言われた記憶だけはぼんやりとある。
「無理ないわ。天馬がフランスに行ってから五年以上経ってたのよ。しかもほとんどなんの連絡もなく。桃花だけじゃなくてみんなが天馬との縁は終わったんだと思っても仕方がない状態だったのよ」
苦し気に千波は吐き出した。
ばかなわたし。
待ちきれなくてほかの人と結婚しただなんて。
「天馬はね、全部自分の責任だって言ってたの。全部知ってるのよ」
赤い顔をしてソファに横になっている陸ちゃんをちらりと見る。
「陸ちゃん、全部、知ってたの?」
「知ってたわよ。伝馬はね、全部知ってた。知っててあんたを受け入れたのよ。離婚が成立してないのもちゃんと知ってた。ただ、相手の名前と顔を知らなかったのよ。当然でしょう。会ったことがないんだから」
「陸ちゃん……」
全部知っていた。なにもかも知っていた。それなのに惜しみなく愛情を注いでくれた。
寝ている陸ちゃんの頬に手を這わせる。
「その話、本当か?」
ぱちっと目を開いた陸ちゃんに手を握られた。
黙ってうなずく。
「だからホテルに行ったんだな?」
念押しのように尋ねられる。
「うん」
「仕方なくってやつだな。自分でなんとかしようとしての結果か」
ゆっくりと陸ちゃんは上体を持ち上げた。かかっていた毛布がはらりと落ちる。
「うん。だって陸ちゃんに迷惑かけたくなかったから」
「そう、か」
ほっと息を吐き出すみたいにして、陸ちゃんは言った。
「叩いたりして悪かった。痛かったか?」
陸ちゃんに頬を撫でられる。ひんやりと冷たい指先だった。
「ううん、大丈夫」
ぽろりと涙が零れる。
「泣かなくていい。あとはおれに任せておけ」
ぎゅっと力強く抱きしめられる。
この強さに任せておけばいい。
目を閉じ、わたしは包まれる。陸ちゃんのやさしさと愛情に。最初からこうして身も心もゆだねてしまっていればよかった。そうしたらこんな面倒にはならなかった。
「陸ちゃん」
しがみついた。腕に力を込めて。もう二度とこの人を離さないように。
そこからの陸ちゃんの行動は素早かった。一緒についていくと言った巽くんを家に帰し、一人で出かけて行った。
どこでなにをしたのかどうやって離婚届を奪ってきたのか、なにも説明はしなかったけれど、夕方にはちゃんと帰ってきて、署名された用紙をわたしに寄越した。
リビングに広げられた離婚届と陸ちゃんの顔を交互に見る。頬が赤く腫れていた。指を這わせると、熱を帯びていた。
危険な真似をしたのだと、胸が熱くなる。
「殴られちゃった?」
恐る恐る尋ねた。真実を聞くのが怖かった。でも聞かないといけない気がした。
「ちょっとな」
片目をつぶる。
「ごめんなさい。わたしの為に」
「いいんだ」
頬に当てていた指先を摑まれる。その手の甲に傷がついていた。
「陸ちゃんも手を出したの? 傷になってるわ」
「三倍返ししたから」
「待ってて。消毒しなきゃ」
救急箱を取ってきて、赤い傷に消毒薬をつけて、ばんそうこうを貼る。
「本当にごめんなさい」
もう一度謝った。謝っても全部済んでしまっているからなんの意味もないのに、そうせずにはいられなかった。
「いいんだ。桃のほうが痛かっただろ。頬っぺた。ちゃんと話を聞かなくてごめんな」
「少しも。本当よ、少しも痛くなかったの。でもね、心が痛かった。ああ、陸ちゃんを傷つけたんだなって」
そう。あのとき、心が痛かった。頬なんかよりもぜんぜん。
「やっぱり痛かったんだな。桃花」
両手でしっかりとわたしの手を包み込む。
「これからはちゃんと話をしよう。隠し事とかなしにして。なんでも全部。言いにくい話もあるだろうけど、やっぱりそれじゃ、駄目だと思う。おれ、話すのあんまり得意じゃないし、うまく伝えられないかもしれないけど、それでもちゃんと話すから。桃の言葉も、ちゃんと聞くから」
「うん」
ふわっと心が軽くなった。
「話さないとなにも伝わらないから。黙っていてもわかるなんて、そんなの嘘だ」
「うん」
「じゃ、それ、さっさと書いて提出しに行こう。で、半年たって春になったらちゃんと結婚しよう」
「うん」
急いで書類にサインをして、二人で近所の役所に出かけた。離婚届けを二人で出しに行くのもなんだかおかしかった。職員さんも訝しそうにわたしたちを見ていた。実際、わたし達はずっと手をつないでいた。どこからどう見ても仲がよく見えたはずだ。なのに、離婚届け。
笑ってしまった。
提出を終えてから。もちろん、ほっとした意味もある。
「なんだよ、一人で笑って」
「だって役所の人、不思議そうに見てたわ」
「ああ、そうか。そうだったな」
「離婚する夫婦には見えなかったのよ」
「そうだな。桃、なんか食べてから帰るか?」
「うん」
手をつないでわたしたちは横浜まで出た。海が見えるレストランで食事をした。春に待ってる未来を想像しながら。
春になったら、わたしたちは本当に夫婦になれる。それはきっと、長い間わたし自身が求めていた結果なんだろう。
多分、それはもうずっと前から決まっていた。何年も前から。
食事を終えてレストランを出ると、二人で港のあたりを散歩してから帰ってきた。
街の明かりが眩しかった。それ以上に、待っている未来が眩しい。
春になったら、陸ちゃんのお嫁さんになる。今度こそ本当に。
回り道はもうしない。
8
リビングのソファに座った千波は、両手を組んで仰々しくため息をついた。
「わたしさー、他人の家がどうしようとなにをしようと勝手だと思うんだよね、基本。でもさ、ものには限度ってものがあると思うよ、うん」
「そう?」
紅茶を淹れたカップを差し出すと、遠慮もなく、千波は口をつけた。桜を形どったケーキも添える。陸ちゃんが先日から売り出した商品だ。
「あるよ。わかってないのは、多分、桃花だけ!」
一口、紅茶を飲むと、千波は呆れ果てたように、リビングを見回した。
「結婚式の写真だらけじゃないの!」
確かにあちらこちらに結婚式の写真は飾った。ちなみにテーブルには透明なクロスを買って、間に写真を敷き詰めている。テーブルを見れば、否応なく結婚式の写真が目に入る。このテーブルをわたしはとても気に入っていた。
「写真立てだけならいざ知らず、ポスターみたいに引き延ばして飾るなんて」
壁にも貼った。ちなみにブーケはドライフラワーにして、サイドテーブルに飾ってある。
「伝馬、なんにも言わない?」
「別に、なんにも」
実際、なにも言っていない。写真でカレンダーをつくって知り合いに送りつけたりもしたけど、それに関してもなにも言わなかった。
「陸ちゃんはね、なんにも言わないよ。好きなようにすればいいって言ってくれたんだ」
両手を胸の前で組み、うっとりする。
「はいはい。まったくさあ、あんた達みたいなの、バカップルっていうんだよ」
「それ、誉め言葉?」
「違うと思うよ」
「誉め言葉として受け取っておく」
にっこりと笑ってみせる。
「で、新婚旅行どうするの? 行くならうちで申し込んでよ。どこに行きたい?」
「陸ちゃんはイタリアって言ってるよ」
「イタリアでなにするの?」
「サッカー観たいんだって」
「そういえばあいつ、高校生のときからよくスタジアム行ってたわ。で、いつ頃?」
「八月くらいって。そのころになると店も落ち着くだろうからって」
「じゃ、適当にみつくろっておくよ。ほか、行きたいとこある? 桃花はどこに行きたいの?」
「わたしは陸ちゃんがいればもうどこでも」
「はいはい。じゃ、サッカー観戦を中心にしたツアーね。伊織にも聞いておくから」
「よろしくね」
そうなのだ。今日、千波が来た理由は、新婚旅行の相談のためだった。わたしが出向いてもよかったんだけれど、このところなんとなしに調子が悪くて、出歩くのが億劫になっていた。もちろん、陸ちゃんはなにも言っていない。体調が悪いと言えば、ものすごく心配をかけてしまうし、挙句、外出禁止令が出てしまう。
「ところで、桃花。なんか息苦しいの?」
「は? なんで?」
調子は悪いが息苦しくはない。
「なんか、肩で息ついてるから。苦しいのかなと思ったんだよ」
「そんなことないけどなあ」
どちらかと言えば、微熱があって体が怠いだけだった。それに眠気もひどい。
「そう? ならいいけど」
「なんか、微熱がちょっと続いてるのよねえ。あ、陸ちゃんには内緒にしてね。心配するといけないから」
「微熱って?」
持っていたカップをソーサーに戻し、千波はまじまじとわたしの顔を見た。
「桃花、生理きてる?」
「うーん。そういえば、このところ遅れてたかな。でも、わたし、もともと不順だから」
そうなのだ。毎月、ハンコで押したように来ると言う人もいるが、わたしは違った。その月によってまちまちで、一週間くらい遅れるなんてざらだった。別に珍しくもなんともないから、気にもかけなかった。
「やだ。妊娠したんじゃないの?」
「は?」
思わず、自分のお腹に視線をやってしまった。もちろんぺたんこだ。
「そうよ。きっとそうだわ。桃花達みたいなバカップルだもん。毎晩やってるに違いないんだから」
「毎晩て……」
否定できない。頬が熱くなった。
「きっとそうよ。わたし、検査薬買ってきてあげるよ。すぐに検査してみよう。わあ、おもしろそう」
止める間もなく、千波はリビングを飛び出していき、十分ほどして検査薬を買って帰ってきた。
二人で説明書を読み、わたしはトイレに押し込まれた。
記載されたとおりにして、トイレを出ると、そこに千波が待っていた。
「どう?」
持っていた検査薬を千波が覗き込む。すぐに反応はなく、じっと息をつめて二人で見つめ続けていると、徐々に妊娠を示す二重の線が浮かび上がってきた。
「桃花!」
はっきりと腺が見えると、千波に抱きつかれた。
「やったー。もうイタリアどころじゃないよ。妊婦さんだもん」
飛び上がって千波は喜び、わたしは圧倒されてしまった。でもだんだんと妊娠したんだと実感が沸いてきた。
「ちゃんと病院に行って調べたほうがいいよ。今日にでもさ」
千波は泣いていた。泣きながら喜んでくれた。そんな友達がいるのが、なんだかとてもうれしかった。
一人で行けると言ったのに、千波は結局婦人科のクリニックまでついてきた。しかもネットで近所にある腕のいい医者がいるというのまで探し出して。
評判どおりクリニックはひどく混んでいて、診察してもらうまで一時間以上も待たされた。もちろん千波も待っていてくれて、診察が終わって待合室に戻ったわたしを出迎えてくれた。
「どうだった?」
いすから立ち上がった千波は急いで駆け寄ってきた。
「うん。六週だって」
「やったー、桃花」
またもや千波に抱きつかれた。今日一日で何度、抱きつかれたか数えきれない。
「陸ちゃんにはまだ内緒にしてね。わたしがちゃんと言うから。それと伊織くんにもまだ言わないで」
「わかってるって。いやー、伝馬どんな顔するかなあ。なんか楽しみだね」
けらけらと顔を突き合わせてわたしたちは笑った。
陸ちゃんが帰って来るまで一緒にいたいと言った千波を無理矢理追い返して、夕飯の支度をして陸ちゃんを待った。
一人でいてもにやついてしまう。
ソファに座って、時折お腹を眺めてさする。
「陸ちゃんに似た子になってね。ママに似たら駄目よ。陸ちゃんに似るの」
帰ってきてから何度もお腹をさすっては、そう話しかける。きっと聞こえているはずだ。
「陸ちゃんはね、かっこいいし、やさしいから、きっとあなたもそうなるの。陸ちゃんみたいになるの」
何度も何度も話しかける。
幸せってきっとこんな時間をいうんだな、と一人納得していると、夜の九時を過ぎて陸ちゃんが帰ってきた。
「なに、一人でにやついてんだ。しかも独り言言ってた。聞こえてきたぞ」
リビングに入り口に立って、陸ちゃんはじっとわたしを見ている。
唇に手を当てて、必死で笑いをこらえる。
「あのね、陸ちゃん。わたし、イタリアに行くの、やめようと思うの」
「なんで? イタリアじゃないほうがいいのか?」
約束したとおり千波はなにも言っていない。この反応を見れば一目瞭然だ。
「あのね、飛行機に乗ったり、旅行をするのがいやなの」
「飛行機なら何度も乗ってるだろう? 嫌いなはずがない」
「そうなんだけど、いやなの」
「どうして?」
「あのね、実はね」
かなり勿体つけた。一気に言うのが、もったいなかった。
「なんだよ」
「わたしね、赤ちゃん、できたの」
ゆっくりとそう言った。
一瞬、陸ちゃんはぽかんと口を開けた。なにを言われているのか、わからないみたいにばかみたいな顔をして、わたしを眺めている。
「うれしくないの?」
ちょっとだけ不安になってしまった。喜んでいるとは思えなかった。むしろ戸惑っているみたいだった。
「本当に?」
陸ちゃんの瞳がかすかに揺れる。
「うん。だからね、イタリアはやめておこうと思うの。ごめんね、陸ちゃん、試合観たかったんだよね。でもサッカーならいつでも観られるから。なんなら一人で行ってきていいし」
「桃花」
陸ちゃんに抱きしめられた。思い切り。
「いいよ、そんなの。サッカーなんていつでも観られるから。それより桃だ。子供だ。ありがとう、桃」
「お礼を言うのはわたしのほう。ありがとう。記憶も戻らないわたしを愛してくれて」
「記憶なんか戻らなくていい。桃がいてくれればいい」
その晩、わたしたちはこれから生まれてくる子供の名前を考え、どんな子育てをしていこうかと笑いながら話し合った。
「おれ、桃に似た女の子がいい」
布団に入っても話は続いた。
「そう? わたし、陸ちゃんに似た男の子がいい」
「桃に似た女の子。でもって、花の名前をつけよう。桃みたいにかわいくなるように」
「やだやだ。絶対男の子がいい」
ふざけて陸ちゃんの胸を叩く。
幸せって何度感じてもいい。
人間は欲がありすぎる。でもありすぎるくらいでちょうどいいのかもしれない。
こんな日がやってくるなんて思いもしなかった。
記憶をなくして、戸惑ってばかりいたころのわたしに教えてあげたい。
こんなにも幸せになれる日が来るんだよって。
翌日には二人で役所に行って、母子手帳をもらってきた。ピンク色の手帳を手にすると、本当に妊娠したんだなと実感が沸く。
帰りにはさっそくベビー用品を揃えている専門店に寄った。
「赤ん坊の服って小さいな」
陳列された服を、陸ちゃんは触っている。なにか不思議なものを見ているような目つきだ。
「そりゃそうよ。赤ちゃんだもん」
「そうだな」
店をぐるりと一周する。陸ちゃんは早速いろいろ欲しがった。でも性別も不明だと、服も買えない。もちろんわたしは男の子だって信じてるけど、陸ちゃんは女の子だと思ってる。二人の意見もあわないから、なおさらなにも買えずにマンションに帰ってきた。
「なるべくじっとしてて。体、冷やさないようにして」
ソファにわたしを座らせると、陸ちゃんはブランケットを膝にかけてくれた。
「うん」
「あまり遅くならないうちに帰るから」
朝の店のオープンをロザリーに預けていた陸ちゃんは、慌ただしく出ていった。
正直、こんなに喜んでくれるとは想像もしていなかった。
喜びに包まれて、幾日も穏やかな日々を過ごし、ひと月後に、定期検診のためにクリニックを訪れた。待合室は相変わらず混んでいて、やっぱり一時間は軽く待たされて、診察室に入った。
「実はですね、伝馬さん」
まだ若い女医さんは、表情を曇らせておずおずと切り出した。
「はい?」
「先日の診察のときに子宮がん検診をしましたよね」
そういえば診察のついでに一応しておきましょうと言われたのを思い出した。
「はい、しました」
「結果が来まして、陽性です」
「はい?」
意味が分からなくて聞き返していた。
「子宮がんの細胞が見つかったと意味です」
息が止まった。
「これ以上の詳しい検査はここでは無理です。もっと大きな病院へ紹介しますから、そちらで詳しい検査をなさってください」
女医さんは気の毒そうに眼を伏せる。
頬がひんやりと冷たくなった。
「あのう」
口の中がからからに渇いていた。
「あのう、どういう意味なんでしょうか。わたしには、その」
額にどっと汗が浮かんだ気がして、手の甲で拭っていた。
「子宮がんです。初期だとは思いますが、それは検査を進めていかないとわかりません。できるだけ早く大きな病院に行ってください」
額に手のひらを当てて、意味を理解しようと躍起になる。
「あのう、わたしはがんなんですか」
自分の身の上になにか起こったというのか。
「そうです。ですから早くご主人と相談して、大きな病院に……」
そこから先はなにも聞こえなかった。言葉が頭の上を滑っていく。
足元から暗闇が這い上がってきて、全身を包み込もうとしている。異世界に放り投げだされたみたいに、上も下もなくなっていく。
一体なにが起こったというのだろう。
紹介状を持たされて、クリニックをあとにし、海が見える公園にやってきた。ベンチに座り込む。
海から冷たい風が吹いてきた。晴れているので、空も海も澄み渡っている。
ここからだと海も街も全部が見渡せる。巽くんの話だと、わたしも陸ちゃんも小さいころからここに住んでいたという。この海と街を見て育ってきたと教えてくれた。そしてわたしは記憶をなくし、それでも結婚して、妊娠した。この世の中で一番大好きな人の子を身ごもった。
一人でベンチに座っていると、小さな子供を連れた人やベビーカーを押した人ばかりが目についた。
来年の今ごろは、ああしてわたしも子供を連れて歩いているはずだ。陸ちゃんと一緒に。
クリニックの先生はなにも言わなかったけれど、がんになってしまったのだから、もう子供は産めないかもしれない。きっと手術で子宮を取り出して、そして……。
その先は考えられなかった。
悲しすぎる現実に、涙も出ない。というか、現状を受け入れられない。
バッグの中には紹介状がある。
隠し事はしない。なんでも話し合う。そう、約束した。言わなければならない。病院に行くんだと、陸ちゃんも一緒に行かなければならないと。
朝までの幸せが、今は幻にさえ思えている。
頭を抱え込んで、いつまでもそこに座り込んでいた。
体が鉛にみたいに重くてならなかった。
ずいぶんと長い間、座り込んでいたらしい。時間の感覚がまったくなくなっていた。海が暗くなって街のあかりが輝くと、わたしはすくっと立ち上がった。
頭の中が空っぽになった。もうなにも考えられないくらいに。
どこにも寄らずに真っすぐに帰ると、陸ちゃんが待っていた。
「どこに行ってたんだ」
玄関まで出迎えてくれた陸ちゃんの顔は、なんだか青ざめていた。
「なにかあったのか? 今日、検診だったんだろ? なにか言われたのか」
真っすぐに陸ちゃんを見る。
すぐに口を開けなくて、しばらくの間、たたきに立って、じっと陸ちゃんを眺めていた。
陸ちゃんが頬に触れる。
「冷たいな。体、冷え切ってんじゃないのか? 無理したら駄目だろう」
一つ一つの言葉が心に沁みる。促されて家にあがり、リビングに行き、陸ちゃんの隣に座ると、すぐに抱き寄せられて、頭を撫でられた。
「どこにいたんだ。すっかり冷えて」
「あのね、陸ちゃん、今日の検診でね」
「うん?」
「驚かないでね。わたし、子宮がんなんですって。それで今度大きな病院に行ってほしいって。できれば陸ちゃんも一緒にって」
一息に言い放った。そうしなければ言えない気がした。
「わかった」
陸ちゃんは冷静だった。取り乱してはいない。ほっとする。
「おまえ、顔色が悪いぞ。今日は早く寝よう。一緒に寝てやるから」
「ご飯は?」
「いい」
食欲がなかったから、これにはありがたかった。正直、夕飯の支度をする気力もない。すぐにパジャマに着替えてベッドに二人で横になった。
「わたしね、決めたから」
「なにを?」
「今、お腹の中にいる子は絶対に産むって」
「わかった」
「誰がなんて言ってもそうするから」
「わかった」
「反対しないでね」
「わかった」
その晩は会話にならなかった。すべてわたしの一方通行で、陸ちゃんは「わかった」としか言わなかった。
きっと混乱してる。わたしと同じように。
陸ちゃんの腕の中で、わたしは眠る。暖かくて心地いい。
この心地よさは永遠に失いたくない。そして陸ちゃんの子供も産む。産んで育てる。陸ちゃんと二人で。
翌週、街にある大学病院に二人で行き、様々な検査を受けた。検査はなんだかんだと午前中いっぱいかかり、午後になってから結果を聞いた。担当になった医者は、やっぱり女医さんだった。クリニックの先生よりもずっと若かった。
女医さんの口調は淡々としていた。なんの抑揚もなく、感情もなかった。努めて冷静に結果を述べた。
がんは思ったよりも進行していて、子宮を摘出しなければならない。したがって今後二度と妊娠は望めず、早期に手術する必要がある為、今の子供もあきらめなければならない。
そんな内容だった。
一通り説明が終わると、わたしはスカートをぎゅっと握りしめた。全身を固くさせて身動きひとつできずにいるわたしの隣で、陸ちゃんは口を開いた。
「わかりました。早めに入院します」
「陸ちゃん!」
叫んでいた。
「わたし、いやよ。子供は産むから。絶対に産むから」
そう。絶対に産む。これだけは誰が何と言っても譲れない。
「入院しよう。ちゃんと治療しよう。子供は仕方ないだろ」
「いやっ! 絶対にいやっ!」
そこが病院だというのを、忘れて叫び続けた。首を振りながら叫び続けた。
「まあ、二人でよくご相談なさってください。ですが、手術は一日でも早いほうがいいですよ」
「わかりました。一番早い日にちはいつですか?」
「来週の金曜日に空きがあります」
それならもう一週間もない日程になる。
「じゃ、その日に予約を入れてください。必ず連れてきます」
陸ちゃんの顔には表情がなかった。能面のように感情が失われている。
「陸ちゃん、言ったでしょう。わたし、産むって」
「その話は家に帰ってからまたしよう」
「そうですね、お二人でよく話し合ってください」
手術の予約を入れ、陸ちゃんに引きずられるように病院の外に出てゆき、陸ちゃんが運転する車に乗ってマンションまで帰って来ると、わたしはヒステリックに叫んだ。
「絶対に産むから。誰がなんて言ったって。陸ちゃんだっていいって言ったじゃない」
「状況が変わった。そうだろう?」
「がんがわかった日の夜、いいって言ったじゃない」
「わかったって言ったんだ」
「いいっていう意味でしょ」
「違う。わかったっていうのは、そういう意味じゃない」
「じゃ、どういう意味よ」
「がんだっていうのはわかった。桃花の気持ちもわかった。そういう意味だ」
「じゃ、産んでもいいじゃない」
「それは駄目だ」
「どうしてよ。わたし絶対に産むから」
「駄目だ」
「陸ちゃん、嫌い。そんなこと言う陸ちゃんなんか嫌い!」
わーっと声をあげ、リビングの床に直接しゃがみ込んで泣きわめいた。
泣いたってどうにもできないのに、泣かずにはいられなかった。あんまりわたしがかわいそうだった。お腹の子がかわいそうだった。
「桃、おれは……」
肩に手を置かれた。それを振り払う。
「いいわよ。わたし、ここを出ていく。もう陸ちゃんと暮らさない。家に帰る。だってここにいたら陸ちゃんは赤ちゃんを殺してしまう。わたしがこんなに産みたがってるのに。ちっともわかってくれない」
「どうしようもないことじゃないか。そんなのいくらでもあるだろう。生きていく中で」
「わたしはね、陸ちゃんみたいに冷静にはなれないの。もういいっ。話もしたくない。わたし、家に帰る」
バッグを持ってマンションを飛び出した。陸ちゃんは追いかけてこない。もっとも追いかけてきたって帰る気はない。
実家に帰ると、お父さんもお母さんも巽くんもびっくりした顔をした。芽衣ちゃんは仕事で帰っていないらしい。
「姉ちゃん、どうしたんだよ」
巽くんは目を白黒させた。
「離婚する。もう別れる。わたし、ここで暮らす」
一息に答える。
「は⁉ なに言ってんだよ。伝馬と喧嘩でもしたのかよ。夫婦喧嘩の巻き添えなんかごめんだぜ。送ってやるから帰りな」
「いや! 絶対に帰らない!」
一気に階段を駆けあがり、自分の部屋に飛び込んだ。
過去も思い出もない部屋だった。でもここ以外に住める場所をわたしは知らなかった。
翌日、連絡もなく家にやってきた千波の理由は聞かなくっても知っている。突然訪問した千波の顔は、真剣そのものだ。だからリビングではなく、自分の部屋に通した。
「説得したって無駄だから」
すぐさま言った。
「知ってる。全部、伝馬から聞いた。でもね、冷静に考えて。伝馬がどんな気持ちでいると思う? 伝馬はね、自分からわたしに連絡を寄越す人じゃない。あいつは不器用で、自分の感情を表に出したりしない人だよ。少なくとも伊織とわたしに対してはそうなの。その伝馬がだよ、助けを求めてきたんだよ。無視できないでしょう」
つん、と横を向く。
「桃花」
千波に手を握られた。少し汗ばんでいた。
「せめてマンションに帰りなさいよ。ここにいたら話し合いにもならないじゃない」
「いや。帰ったら、陸ちゃんに説得されちゃうもん。わたしね、今度だけは自分の考えを変えないつもりなの」
「じゃ、伝馬はどうなるのよっ! 自分の気持ちだけ一方的に押し付けて、それで伝馬はどうなるのよ」
「じゃ、わたしの気持ちはどうなるの」
千波の手を振り払って、手のひらで自分の胸を叩く。何度も何度も叩く。
「気持ちはわかる。だからこそちゃんと二人で相談しなきゃ」
「わかんないわよっ! わたしの気持ちなんか誰にも」
固く目を閉じる。涙が零れそうになっていた。
「わかんないよ」
そうだ、誰にもわかりはしない。千波にも陸ちゃんにも。
記憶もなくて、頼りは陸ちゃんだけで、陸ちゃんに寄りかかって生きている。その陸ちゃんから拒絶された。
この辛さは、誰にも伝わらない。
ぼろっと零れた涙が、頬を伝う。大きく目を開くと、ぱっと涙が散らばった。
「ねえ、千波。わたしってなにをしたの? 記憶をなくす前。どんな生き方してたの。どんな生き方をしたら、こんな辛いめにあうの? わたしは本当は誰なの? わたし、記憶を取り戻したい」
ぼろぼろと泣きながら訴える。
記憶さえ戻れば、なぜこんなひどい運命を歩かされているのか、納得できる気がした。
「教えてよ。本当は、わたしって誰なの?」
両手で顔を覆って泣いた。自分の意志とは無関係に涙が頬を伝う。
「桃花……」
千波は抱いてくれた。両方の肩を抱いて、千波も泣き出した。
二人でしばらくの間、泣き続けた。
千波は同情して。わたしは失ってしまった記憶を呪って。自分の運命を受け入れられなくて。
「とにかく」
やがて涙に曇った千波の声が聞こえてきた。
「このまんまじゃ駄目だから。今すぐ伝馬の元に帰れとは言わないけど、このまんまじゃ駄目だから」
返事をしなかった。できなかった。
「伝馬にはもう一回よくわたしも話をしてみる。でもね、これは大変なことなんだよ? もし手術しなかったら、その時は桃花が死んじゃうんだよ? そんなのわたしだっていやだよ。伊織だってそうだよ。それは理解してほしい。みんな桃花を心配してるんだから」
零れた涙を指の腹で拭い、うなずいてみせた。
「さ、もう泣かないで。泣いたってなんの解決にもならないんだから」
バッグからハンカチを取り出し、千波は零れた涙を拭ってくれた。自分の顔だって、涙でべとべとになって、化粧が崩れてしまっているのに。
わたしのまわりはみんなそうだ。自分よりもわたしを一番に考えてくれる。そんな人ばかりだ。記憶はないけれど、そう考えるととても恵まれている気がしてくる。でも、どうしても譲れない気持ちもある。
「帰らなくてもいいけど、伝馬に電話くらいしてあげて。心配してるから。あいつ、すっごく悩んでるよ」
「うん」
一応そう言ったが、連絡を取るつもりはなかった。話せば説得されてしまう。会えば手術を受けろと言われてしまう。
だから今はまだ電話をするつもりもなかった。
「桃花、元気出してね」
手早く化粧をなおした千波は、最後にそう言って部屋を出て行った。わたしは見送らなかった。
千波が飛んできてくれてうれしかったけど、今は一人でいたかった。誰にも会いたくなかった。
家でのんびりと過ごした。妊娠を知らない両親と巽くんは、陸ちゃんとの関係を心配してあれこれ聞いてきたけれど、それだけだった。それものらりくらりとかわしているうちにあきらめたのか、三日も過ぎるとなにも言わなくなった。
陸ちゃんは連絡してこない。いっそこのまま忘れさられたほうがいいのかもしれないな、と思い始めた火曜日の午後だった。
昼ご飯をお母さんと巽くんと三人で食べた。巽くんはたまたま休みだった。食後のお茶を飲む間、お母さんは後片づけをするからとキッチンに消え、わたしと巽くんはリビングでテレビなんか見ていた。
「やっぱさあ、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないの?」
ソファに座っていた巽くんは、眉間にしわを寄せていた。
「うん、大丈夫」
「なにが大丈夫なんだかわからないよ。おれ」
お茶を飲み干し、ソファから立ち上がると、インターフォンが鳴った。近くにいたので仕方なく対応すると、伊織くんだった。
「よっ」
ドアを開けると、右手を挙げた伊織くんがいて、わたしは鼻から息を吐き出した。
「千波が来たと思ったら、今度は伊織くん?」
「まあ、そんな冷たい顔すんなって。桃花ちゃんの部屋、いこ。ゆっくり話ができるもんな」
遠慮もなく家にあがった伊織くんは、わたしの背中を押して階段を駆けあがり、部屋に入ると後ろ手でドアを閉めた。
この場面だけを見ると、あらぬ誤解を振りまきそうだけど、そこはわたしと伊織くんだ。今さら色っぽい関係になどなるはずがない。第一わたしは妊婦さんだ。伊織くんはそれをちゃんと知っている。
「さてと」
部屋の中心に胡坐をかいて、伊織くんは話を切り出した。
「伊織くんの説得なんか聞かないよ」
はっきりと言ってやった。そうしないと伝わらないから。
「説得っていうか、なんちゅうか。まあ、とにかく伝馬と連絡取ってやれ、な」
「いいのよ。これはわたしたちの問題だから。ううん、今となってはわたし一人の問題よ。いいのよ。陸ちゃんがいなくても、わたし、一人でなんとかするから」
「桃花ちゃん!」
たしなめられた。伊織くんに。
「あんまりな、伝馬を苦しめたら駄目だ。あいつはとても苦しんでる。桃花ちゃんの気持ちがわかっているからだ。けどな、どうしようもないから困ってる。桃花ちゃん、電話だけでいいからとりあえずしてくれないか」
伊織くんは自分のスマホを差し出した。
スマホと伊織くんを交互に眺める。
「頼む。してやって。あいつ、待ってる」
「だったら、陸ちゃんが来ればいいじゃない。なによ、千波や伊織くんを使ってさ、最低」
「そうじゃない。桃花ちゃんの気持ちを逆なでしたくないからだよ。ならわかった。伝馬が来ればいいんだな。桃花ちゃんがそう言ってたって、おれ、言っておくから」
「来たって、わたしの決心は変わらないけど」
「二人が離れているのがよくないんだよ。離れていると、ろくなことがない」
そうなんだろうか。そうかもしれない。でも、会って言い合うのも嫌だった。
「とりあえずラインで今夜来るように言っておくから。桃花ちゃんもそのつもりでいてな」
そう言われると、決心がつかないというか、心が揺らぐ。
「伊織くん、わたしはね」
「自分の気持ちは自分で伝馬に言うんだ。おれや千波はおまけ。伝馬だって本当は自分がここに来たいんだ。桃花ちゃんに会いたいんだ。でも今会ったら桃花ちゃんの気持ちを混乱させる。それをあいつはよく知っている。桃花ちゃんの気持ちを大切に思ってる。桃花ちゃん」
真顔で見つめられる。
「おれらなんかが口出すのはお角違いだろうけど、みんなが桃花ちゃんを心配してる。一番にそう考えてるのは伝馬だ。意地を張りたいのもわかる。けど、ほどほどにな。なんでも妥協は必要だから」
「意地を張らなきゃいけない時もあるでしょう。今回みたいに」
「今回はかなりレアなケース。なら、おれは退散するわ。伝馬のやつ、今夜にもここに来るだろうから、ちゃんと話し合ってな」
あっさりと伊織くんは帰っていった。わたしも前回千波が来た時と違ってさほど取り乱さなかった。相手が伊織くんだったからだろうか。
二人共話し合えと言っていたけど、もうなにも話したくなかった。でも今夜来るというなら、もう一度はっきりと自分の気持ちをぶつけるだけだ。
「姉ちゃん、伊織のやつ、もう帰ったのか?」
ひょっこり巽くんが顔を出した。
「うん。仕事の合間抜けてきたみたいだから」
「なんの用? もしかしてイタリアツアーに関して」
ちくりと心に突き刺さる。
イタリアにはもう行かない。
そうは言えなかった。
「おれもついていきたいよ。サッカー、観たいよね。あとパスタとかさあ。芽衣と新婚旅行してないんだよねえ、だから行きたいなあ」
「巽くんも行けばいいよ。芽衣ちゃんも喜ぶよ」
「そうだけどさあ。あー、いいないいな」
心底羨ましそうに、巽くんは繰り返す。
「部屋でうろうろしない。用がないなら出ていってちょうだい」
「はいはい」
手を振って巽くんは出て行った。巽くんは何も知らない。だから口調も呑気だ。いつかはばれるんだけど。そしてそれは今夜かもしれなかった。
意外にも陸ちゃんはなかなかやってこなかった。さらに驚いたのだけれど、わたしは陸ちゃんを心待ちにしている。
がんであるという事実を除けば、陸ちゃんはとてもやさしかったし、愛情に包まれているのを実感していたし、なにより記憶がなくても幸せだった。
がんという病気が結局はすべての禍で、始まりだった。
そう思えばまた悲しくなり、部屋にこもってはさめざめと泣いた。もちろん家族の前では泣かなった。泣けばすべてを話さなくてはいけなくなる。そうなればほかの人達と同様、すぐにでも手術をして子供はあきらめろと言われるに決まっている。それではここに帰ってきた意味がなくなる。
夕飯を終えて、部屋に引っ込んだわたしは、今夜も押し寄せる悲しみにじっと一人で耐えていると、ノックもなしに、ドアが開いた。
「姉ちゃん、伝馬が来たよ。迎えにきてくれたんだから、さっさと帰れよ」
巽くんはさばさばとしていた。安心感もあるようだ。結局、巽くんも陸ちゃんが来るのを首を長くして待っていたらしい。
膝を抱え込んでベッドの上にしゃがみ込んでいたわたしは、唇をぎゅっと噛み締めた。
「姉ちゃん、いつまで意地を張ってんだよ。伝馬が待ってるんだからさ。早く帰ったほうがいいよ」
手首を摑まれ、無理矢理に立たされる。いやだと拒否する間もなく、引っ張られ、下に降りていき、たたきに立っていた陸ちゃんと一週間ぶりに顔を合わせた。
陸ちゃんはひどく疲労して見えた。全身から疲れが滲み出ている。
「桃花」
それでもわたしに会えてほっとしたのか、口元を緩ませた。
「よかった元気そうで。手術の前に検査があるっていうから検査の日を決めてきた」
お腹に両手を当てる。
「もう決めたから」
「いやっ! 絶対にいやっ!」
叫ばずにはいられなかった。
巽くんが驚いている。
「手術ってなんだよ」
なにも事情を知らない巽くんは、きょとんとした声をあげた。
「陸ちゃんはね、お腹の子供を殺すつもりでいるのよっ。巽くん、お腹の赤ちゃんを守って」
しがみついた。陸ちゃんではなく、巽くんに。
「姉ちゃん、妊娠してたのかよ。なんで言わないんだよ。それに手術って……。伝馬、子供がほしくないのかよっ」
非難を浴びせた。なにも知らないのだから、当然そうなる。
「違う」
陸ちゃんは冷静だった。いつもどおり抑揚のない口調だった。
「そうじゃない」
「じゃ、なんだよ」
「桃は、子宮がんで、だから手術しないといけない」
「やめてっ! 巽くん、お願い。巽くんはわたしの味方よね? 赤ちゃん産んでもいいよね?」
肩にしがみついて、訴える。戸惑いの色が、巽くんの顔に浮かぶ。
「そりゃ、産んでほしいよ。でも、がんって……」
呑み込めていない。だから陸ちゃんとわたしを交互に見ている。
「巽、悪いけど、桃と二人で話をさせてほしい」
「それはいいけど」
「桃、外に出よう」
「いやよ。二人になったら、陸ちゃんは自分の考えを押しつけるだけだもん」
「来るんだ」
腰に手を回され、外に引きずり出された。異常な雰囲気を察した巽くんは追いかけてこなかった。
抱きかかえられるようにして、近所にある公園に連れて行かれた。児童公園で、古びたシーソーやブランコがあり、真ん中はあまり広くないグラウンドになっている。脇には桜の木があった。花はすっかり散り葉桜になろうとしている。その木の下にあるベンチに、陸ちゃんはわたしを座らせて、自分も隣に腰をおろした。ぐっと肩を抱き寄せられる。
「この公園。よく寄ったんだ。桃を送るとき。高校生のころ」
目を細めて、陸ちゃんはあたりを見回した。
「桃は覚えていないだろうけど、学校からの帰り道、ここでよく話をしたんだ。こうしてベンチに座って」
覚えているはずがなかった。わたしの記憶は失われたままだ。
「おれは桃がいればそれでよかった。桃といる時間がすべてだった。それは今でも変わらない。今、桃とこうしているのが、なにものにもかえがたい。あの頃も今も、桃がおれのすべてなんだ」
そうして陸ちゃんはまっすぐにわたしを見た。
「本当なら子供を産んでほしい。二人の子供を二人で育てていきたい」
「だったら、許してくれるの?」
「それはできない。桃、おれは一度おまえを失った。フランスから迎えにきたとき、おまえの記憶がなくなっていると知ったとき。そのときの絶望感は今でも忘れられない。だから空港で、桃が飛び込んできたとき、迷わず桃を受け入れた。記憶がなくなっていたとしてもかまわなかった。大切なのは、桃がそばにいてくれる。これだけだった」
つん、と鼻の奥が痛くなる。涙がじわっと浮かんできた。
わたしは待っていた。家にいる間。説得されると知っていたのに。それでも陸ちゃんを待っていた。会いたかった。
「おれはもう二度と、おまえを失いたくない。だから手術を受けてほしい。子供よりも、ほかのなによりも誰よりもおれのそばにいてほしい」
そっとわたしの左手を取った陸ちゃんは、薬指にはめられた結婚指輪を撫でた。
「病める時も健やかなるときも。そう約束しただろう。神様の前で。だからそばにいてほしい。いつまでもいてほしい。子供がいなければいないなりに生活していけばいい。おれは、子供よりも桃を失いたくない」
「陸ちゃん」
そうかもしれない。その通りかもしれない。
「陸ちゃん、わたしもずっと陸ちゃんのそばにいたい」
「だから生きてくれ。生きてずっとおれのそばにいてほしい。桃が一番大切だから」
「はい」
素直にうなずいた。だってこれほどわたしを思ってくれている人を他に知らない。多分、この先何十年生きていったとしてもきっと巡り合えない。
陸ちゃんだけが、こんなにもわたしを思ってくれている。
「手術、受けます」
それまでのこだわりが、溶けていく。陸ちゃんの情熱に溶かされていく。
そっと胸の手のひらを這わせ、空を見た。
月が眩しく輝いていた。
手術の日、陸ちゃんと二人で病室にいた。千波も伊織くんも巽くんも来たがったけれど、全員断った。陸ちゃんと二人でいたかったから。陸ちゃんはいつまでも手を握っていてくれた。
手術室に入る直前まで。
生臭いにおいが漂う手術室の中で、深い眠りに落ちた。痛みもなにも感じない深い眠りの中で、わたしは夕日が差し込む教室に立っていた。
紺色のブレザーに赤いリボンをして、プリーツの膝上のスカートを着ていた。陸ちゃんもいた。やっぱり紺色のブレザーを着て、ネクタイを締めていた。
誰もいない二人きりの教室の机の上に座って、グラウンドを見ていた。野球部が放課後の練習をしている。わたしたちは笑っていた。大分暗くなってきてから教室を出て駅前にある喫茶店に行った。そこでもやっぱり笑っていた。
カップが空になっても粘って話をして、いよいよ夜になって、ようやっと立ち上がる。
手をつないで歩いて、近所の公園のベンチに座る。
あのベンチだ。誰もいないブランコが風に吹かれている。
なにを話してるのかな? なにがそんなに楽しいのかな。
場面がページをめくるように変わっていく。
森林公園に行ったり、海に行ったりしたんだね、わたし達。
わたしの高校生活には、いつも陸ちゃんがいた。
いつもどんなときも。
同じ大学に進学しても、わたし達はいつも一緒にいた。バイト先のブティックに来て、陸ちゃんはいつもほかのスタッフにからかわれていた。
旅行にも行った。
千波にアリバイを頼んで。
小さなペンションで、一晩中語り合った。
両親にたくさんの嘘を重ねて、わたし達は幾晩も一緒の夜を過ごし、大学を卒業せず、陸ちゃんはフランスに行ってしまった。
――いつか必ず迎えにくるから
そんな一言を残して。
ずっとずっと一緒だった。どの季節にも、どの時間にも陸ちゃんは常にわたしのそばにいてくれた。
そして今も。
目を開けると、陸ちゃんが目の前にいた。
「桃、痛いか?」
まだ麻酔が効いているのか、少しも痛くなかった。
「わたしね、見てきたよ。会ってきたよ。高校生の陸ちゃんに」
「記憶を思い出したか?」
「ううん。陸ちゃんを見てたの。わたし達いつも一緒にいたんだね。いろんなとこに行ったんだね。スケートや動物園や、ほかにもたくさん」
「そうだ」
「ありがとう」
わたしは微笑んだ。
手を握る陸ちゃんの手に力がこもる。
「これからもずっと一緒にいる。永遠に一緒にいよう」
「うん」
頭が朦朧としていて、わたしはまた眠りに落ちた。
もう一度陸ちゃん会いに行くつもりで。

