「ばかだ……」
 卒業式のあと、誰もいなくなった教室でぽつんとわたしはつぶやいた。
 大好きだった天馬陸ちゃんの机に座って、彼が授業中に書いたんだじゃないかっていう猫の落書きを見ながらつぶやいた。
「わたしってばかだ」
 またつぶやいた。
 言葉はわたしの意志とはまるで無関係に口から飛び出した。
 だって本当のことなんだもん。
 高校三年間をほぼ陸ちゃんと一緒に過ごした。
 体育祭では二人三脚を二人で走った。修学旅行の京都も二人で回った。文化祭は一緒にクラスの演劇もした。
 日曜日はほぼ毎週どこかに行った。
 動物園やショッピング、映画もたくさん観た。
 それなのに……。
 きゅっと唇を噛んで、机に突っ伏す。
 ぷーんと古い木の香りが漂ってきた。
 ぎゅっと目をつむる。
 固く閉じた瞼の合間から涙が零れてきた。
 告白するチャンスは何度もあった。ときおり陸ちゃんがなにか言いたげに唇を開いたときもあった。すっごくいい雰囲気のときもあった。
 それなのにわたしはいつだって素直になれなかった。
 好きって一言がどうしても言えなかった。
 少し照れ臭かった。恥ずかしかった。でもなにより今の友達同士のいい関係が壊れてしまうのを恐れていた。
 勇気が足りなかった。
 もしわたしの心にあと百倍の勇気があれば、卒業式までにはちゃんとカップルになれたはずだ。まわりのクラスメートの何人かがそうなったように。
 ぱっと目を開けると、涙が飛び散って、机を濡らした。涙が飛んだところだけ机の色が濃い茶色に変わる。
 ず、と涙と一緒に零れた鼻をすすった。
 気持ちを打ち明けられないまま、わたしは卒業する。同じ大学に進むけれど学部が違うから今までみたいに会えなくなる。そして、たぶん、そのままなんとく二人は離れていく。
 誰が悪いんでもない。自分が悪いんだ。
 拳で涙を拭ってからゆっくりと立ち上がる。
 誰もいない教室は静かだ。
 こんなに静かなんだって改めて実感してしまう。
 窓のほうに目を向ける。
 白いカーテンが風で揺れている。その向こうには青い空が広がっていて、雲が漂うみたいに浮いている。
「陸ちゃん」
 名前を呼んでみる。
 いつからだろう。
 天馬くんから陸ちゃんという呼び方に変わったのは。
 それが思い出せないくらいわたしたちは同じ時を過ごした。
 それは夜空に輝く星のようにきらきらと輝いている。
 やさしくて楽しくて穏やかな時間。陸ちゃんと過ごした二人きりの時間。
 なんだかずっと遠くに行ってしまった気がしている。
 今日、わたしは高校を卒業する。陸ちゃんからも卒業する。そうしなければきっと前には進めない。
 誰が悪いわけじゃない。
 全部、わたしのせい。
 胸に手を当てる。
 どくんどくんと鳴っている。
 また涙が零れて、頬を濡らしていった。
 ぐいっと手の甲で涙を拭う。
「後悔先に立たず」
 つぶやいた言葉達が教室の空気に溶けていく気がした。
 今日でなにもかもおしまい。
 明日からは新しい自分になろう。
 大学生活が始まればきっと楽しい生活が待っているはずだ。
 天井に向かって大きく伸びをして、たくさん空気を吸い込む。
 ほら、ちょっと元気になった。
 よしと足の裏に力を入れてくるっと向きを代えて、体の動きが止まった。
 教室の入り口に陸ちゃんがいた。
 肩で息をして、額に汗が浮かんでいる。
 走って来たんだ。どこから?
「陸ちゃん、みんなとカラオケに行ったんじゃなかったの?」
 卒業式が終わったら今日はたくさん遊ぼう。カラオケだよ、と誘ってくれたのは友達の藤堂千波だ。三年間クラスも部活も違ったけど、わたしたちはなにかというといつもつるんでいた。
「行こうと、思ったけど」
 陸ちゃんの茶色の瞳がわたしをとらえている。
 柔らかなねこっ毛がふわっと揺れたと思ったら一気に陸ちゃんとの距離が近づいた。
 陸ちゃんがわたしの目の前にやってきた。
「泣てたのか」
 ぶつぶつと言葉のひとつひとつを切るようにしゃべる癖が陸ちゃんにはある。陸ちゃんの話し方は独特だ。それが愛想がないとか言う人もいた。でもわたしはそんな陸ちゃんの話し方が好きだった。
「え?」
 ぱっと手を広げて目の下に当てる。
「目が真っ赤だ。それに、まつ毛が濡れてる」
「そ、そんなことないよ」
 慌てて顔を背ける。
「嘘、つくな」
「嘘じゃないよ。ほんとに泣いてないよ。ほんとだよ」
 意地になっていた。陸ちゃんに泣いていたと思われたくない。最後だから、ちゃんと笑ってお別れしなくちゃいけない。
「ほんとだよ」
 言えば言うほど、鼻の奥が痛くなってきて、目がじんと熱を帯びる。
また零れてきそうな涙を必死でこらえる。
「嘘だ」
 突然、陸ちゃんは両手でわたしの肩を摑み、ぐいっと力任せに自分のほうに向けた。
「泣いてる」
 そう言われた瞬間、ぽろっと涙が頬を伝う。
「ちが、う」
 ばればれの嘘。でも涙の理由を聞かれたくない。
「おれのせい、か?」
 ぶるぶると頭を振る。
「おれのせい、だな」
 また振る。肩までしかない髪が宙を舞う。
「桃花、嘘をつくな。おれも本当のことを言うから」
 まっすぐに見つめられて、どきんと胸が鳴った。
「本当のことって?」
 問い返した言葉の端々が震えている。
 本当のことなんか聞きたくない。でも聞きたい。
 陸ちゃんに捉えられて、わたしは身動きが取れなくなった。
「藤堂に」
「千波に?」
「おれはばかだって言われた」
「なんで?」
「桃花の気持ちにこたえてやってない。おれ、口下手だから。でも言わなくても通じるなんて嘘だ。ちゃんと言わないとなにも伝わらない。そうだろう?」
「う、うん」
 こくんとうなずく。何度も。
「だからちゃんと伝える。おれ、桃花にそばにいてほしい。ずっと前から入学式で会ったときから」
 そこで陸ちゃんはいったん口を閉じた。
「おれ」
 駄目、その先を言わないで。心臓が爆発してしまう。
 耳元に陸ちゃんは自分の唇を近づけた。
 次の瞬間、わたしは確かに聞いた。確かに陸ちゃんの思いを受け止めた。
「で、答えは?」
 そっと離れた陸ちゃんの顔は、これまでわたしが知らない陸ちゃんの顔だ。
 ばかみたいにまじめくさってる。
「答え?」
「そう、返事」
 ぶわっとまた涙が零れた。
「そんなの、聞いちゃ、駄目」
 そう言いながら陸ちゃんの胸の中に飛び込んでいた。
 心臓が怖いぐらいに波打っている。鼓動が陸ちゃんにまで届いてしまいそう。
 お願い、夢なら覚めないで。
 陸ちゃんのワイシャツは汗で少し湿っていた。その胸に額を押し付けてわんわん泣いた。
 三年間分の思いが一気に溢れ出してきた感じだった。

 帰り道、初めて手をつないだ。
 なんとなく照れくさくてうつむいて歩いていた。
「桃花の手、冷たいな」
 隣を歩く陸ちゃんに言われて、ぱっと手を離そうとした。でも陸ちゃんにしっかり握られていてできなかった。
「冷え性なの」
「知ってる」
「うん。陸ちゃんの手はあったかい」
「その分、心が冷たい」
「そんなことないよっ!」
 心の底から全否定する。
「陸ちゃんはあっかい人だよ。桃花、よく知っている。だって陸ちゃん……」
 そのとき遠くからわたしたちを呼ぶ声がした。
 顔をあげると千波と加藤伊織くんが手を振っているのが見えた。
「桃花―」
 笑いながら千波が大きく手を振っている。
 二人が走ってきて、わたしたちの前で止まった。
「カラオケ行ったんじゃなかったの」
 素朴に聞いてしまった。
「行こうとしたけど、二人が気になって戻ってきちゃった」
 ポニーテールに結った髪を揺らしながら、千波に顔を覗き込まれた。
 にたにたと二人とも笑っているから、全部見透かされているみたいで恥ずかしくなった。
 顔が火照る。
「ま、うまくいってみたいで」
 伊織くんに顔を覗き込まれて、ますます顔が熱くなる。
「いやー、よかったよ。じゃ、これから四人でカラオケだよ!」
 楽し気に千波は伊織くんを煽っている。
「悪いな」
 隣にいた陸ちゃんはそう言ってぐっとわたしの肩を自分のほうに引き寄せた。
「これから二人で家デート」
 かーっと伊織くんが声にならない声を出す。
「はいはい、いってらっしゃい」
 ほらほら、と言わんばかりに伊織くんが手を振った。
「くうう。見せつけられた。こんなことなら戻って来なきゃよかった。じゃ、加藤、二人で行こうよ」
「そうするか。じゃあな」
 まるで風みたいに二人は去っていく。
「ねえ、今から二人と合流しようよ」
 見えなくなっていく背中を目で追いながら、わたしは二人を指で示す。
「冗談じゃない。これから三年間を取り戻すんだ。桃花に話したいことがたくさんあるんだ。桃花はない?」
薄い茶色の瞳がきらきら光っていた。
「ある」
「決まり」
 手を握って陸ちゃんは急に駆け出した。
「待って、そんなに早く走らないで」
 陸ちゃんの背中を息を切らせて追いかける。
 思えばずっとこの背中を追いかけてきた。 
 どんなときもいつだってわたしは陸ちゃんだけを見つめていた。
 陸ちゃんだけを捜していた。
 陸ちゃんとの距離が一気に近くなっていく。
 幸せってこういうのを言うんだな、なんてしみじみと思ってしまう。
 そのあと、わたしたちは陸ちゃんの家に行った。
 ご両親は仕事の都合で九州に住んでいる。だから高校に入学してから陸ちゃんはずっと一人暮らしをしていた。何度か遊びに来たことがあるので家の場所も陸ちゃんの部屋もよく知っている。
 その日、わたしたちはこの三年間の間に言えなかった話をたくさんした。伝えられなかった気持ちもたくさん。
 さすがに泊らなかったけど。
 それはもう少ししてから。
 さすがに今はまずいってなんとなくわたしたちは理解していた。
 わたしが自分の家に帰ったのは八時ごろだった。
 陸ちゃんに送ってもらって家の前で立ち話をしていると、弟の巽がいきなり玄関のドアを開けた。
「姉ちゃん、なにやってんだよ。いつまで話してるんだよ」
 今年高校に入学する巽はこのところ急に背が伸びてきた。
「天馬もいい加減にしろよ」
 何度か家に陸ちゃんを連れてきていたので、巽もよく知っている。
 生意気にも天馬って呼び捨てにする。「くん」づけで呼びなさいと何度か言ったけど、巽は頑なに「天馬」と呼ぶ。
「話し声が丸聞こえ。父さんが怒ってる」
「きゃ」
 思わず口元を押さえる。
「桃花、ここで」
「うん、ありがとう」
 じゃ、と手を振って陸ちゃんは夜の闇の中に消えていった。
「姉ちゃん」
 陸ちゃんの姿が見えなくなると、巽がにやついてわたしを見ていた。
「とうとう天馬にこくられたのか」
「ばかっ」
 こつんと頭を小突く。
 巽を押しのけて、家に中に入る。
「ただいまあ」
 わたしの声は、いつもよりワンオクターブ高かった。

 四月から始まった大学生活は楽しかった。陸ちゃんに会う時間は減ったけれど、休みの日は必ずと言っていいほどどこかに出かけた。それは高校時代とあまり変わらない。
 専門学校へとすすんだ千波からもときどき連絡がくる。伊織くんと四人で出かけたりする。
 高校時代の延長戦みたいな大学生活にわたしは満足していた。
 がんばって勉強してよかったなあと心底思い始めた五月のゴールデンウィーク、わたしは陸ちゃんと一緒によく行く喫茶店にいた。
 おしゃれな内装の店の壁紙は真っ白だった。椅子とテーブルも壁に合わせた白い色で、高校時代からわたしたちのお気に入りだった。
 そんなに広くない店は、わたしたちとあまり年が変わらない女の子たちが声をあげて笑っている。でもそんなに騒がしいわけじゃない。
 そんな店の中でわたしたちはアイスコーヒ―を飲んでいた。
 今日の陸ちゃんはちょっとなんだかおかしかった。
 ここに来る前にショッピングをしていたときから変だった。
 口下手だから無口なのはいつも通りだけど、今日はいつも以上に口が重い。挙句にときどきなにか考えるように目を伏せている。
 今もそうだ。
 陸ちゃんの前にコーヒーはほとんど口がつけられず、氷が溶けてグラスの中は二層になっている。
「ねえ、陸ちゃん、今日、変だよ」
 自分のグラスの中をストローでつつく。
「おれ、いつも変だから」
 くそ真面目に答える陸ちゃんはいつも陸ちゃんだ。でもやっぱりなんだかおかしい。
「あ、わかった」
 ぽんと手を叩く。
「大学でかわいい子と知り合ったんだ。で、いつものようにおせおせでこられて断れないんでしょ」
 ふふふ、とわざと笑い声をたてた。
 無口だけど、顔立ちがすっきりしているし、成績もよかった陸ちゃんはいつだって女の子の話題の中にいた。
 着ているものもセンスがある。周囲の女の子が放っておくはずがない。
 そんな陸ちゃんに高校時代はやきもきしたけど、今はそんなふうに思わなくなった。
 陸ちゃんのまわりにかわいい女の子がいても、陸ちゃんが見ているのはわたしだけっていう自信があった。
「そんなんじゃない」
 むすっとして陸ちゃんは唇を尖らせた。
「うーん、ほかに思い浮かばないなあ」
 おどけて両手を組み、じっと陸ちゃんを見る。
「桃、ここを出よう。うちに行こう」
 なんで、と問う間もなく、陸ちゃんは伝票を摑んでいた。
 急いであとを追って外にでる。
 まだ五月だっていうのに、今日は真夏日で、太陽の光が眩しくてならなかった。

 陸ちゃんの家はいつもと同じようにきちんと掃除されていた。余計な家具は一切置かずシンプルな部屋だ。
 いつも通り陸ちゃんの部屋に行く。
 しばらくの間、一人で待たされた。こんなことは珍しくない。
 ベッドの上にあるクッションを抱きしめて、陸ちゃんのにおいを堪能していると、トレイに湯飲みを二つのせた陸ちゃんがやってきた。
 緑茶の香がする。
 暑い日には熱いお茶がいい。
 陸ちゃんの心配りがうれしかったりする。
 それを自分の机の上に置いてから、陸ちゃんはわたしの隣に座った。
「なんか話でもあった?」
 こくんと陸ちゃんはうなずいた。
「なに?」
 小首を傾げて、陸ちゃん緒顔を覗き込む。
「桃、おれ」
 すうとそこで陸ちゃんは大きく息を吸い込んだ。
「うん、なに?」
「……ンスに」
 かすかに動いた唇から漏れた声は小さくて、思わず聞き返していた。
「フランスに行くんだ」
「旅行?」
「そうじゃない」
「じゃ、お父さんのお仕事?」
 陸ちゃんのお父さんは建築関係の仕事をしている。けっこう大きな仕事を受取っていると聞いている。だから転勤も多くて、そのために陸ちゃんがここに一人で住んでるのも知ってる。
「おれ、フランスに留学する」
 思い切ったように陸ちゃんは一息に言った。
 まっすぐにわたしの目を見つめて。
 今度はわたしが息を止める番だった。
「ど、どういうこと?」
 尋ね返したわたしの声が震えている。
「おれがパティシエになりたいのは知ってるだろう」
「知ってる」
 ずいぶんと前から聞いていた。
 お菓子がつくれるようになりたい。専門学校に行こうかどうしようか迷っていたのも知っている。けれど陸ちゃんが選んだのは大学だった。
「大学行きながら、専門学校にも通うつもりだった。でも父さんの知り合いが今、フランスにいて、それでどうせなら向こうで修業をしないかって誘われた。悩んだけど、行ってみたいと思う」
 話を聞いていたら息苦しくなってきた。
 つまり陸ちゃんはわたしの前からいなくなるって意味だと理解するまで少しだけ時間がかかった。
「一生いるわけじゃない。数年、たった数年だけだ。桃、待っていてほしい」
 膝の上にあったわたしの手をぎゅっと陸ちゃんは握りしめた。
 薄い茶色の瞳がわたしをとらえている。
 そんな目で見られて、どうして反対なんかできると思うの?
「わかった」
 そう答えるのがやっとだった。
 ほっとしたように陸ちゃんは息をついた。
「必ず迎えにくるから。一流になって」
「大丈夫、わたし、待ってる。ずっと待ってるから」
 そう言いながら、わたしはなにが起こったのかわからずに、ただぼうっと陸ちゃんを眺めていた。

 大学生活にも慣れて空気が秋色に変わるころ、千波がアルバイト先のブティック「エム」に飛び込んできた。
 駅の近くにあるその店は、高校時代からやっているアルバイトだった。
 狭いながらデザイナートオル先生がつくった店内はいつもカラフルな色合いで、二十代から三十代を中心にして客が集まってくる。
 日曜祭日などとんでもない忙しさになる。
 その日はたまたま平日の夕方だったから、客足はそんなに多くなかった。
 千波は専門学校の帰りだったのか、大きなバッグを肩にかけて、額に玉のような汗を浮かべて店内に入ってきた。
 そのまま大股でレジにいるわたしに近づいてきた。
「あんた、天馬がフランスに行くって知ってたの」
 開口一番、責めるような口調だった。
 きゅっと唇を噛んでから、無理矢理の笑顔をつくる。
「知ってたわよ」
 わざとらしくにっこり笑った。
「じゃ、明日発つっていうのも?」
「もちろん知ってるわ」
 冷静さを装った。
 知っているのは事実だ。
 ゴールデンウィークに陸ちゃんから教えられた。秋になったらフランスに行くのも、その間大学はとりあえず休学するのも。でも何年かかるかわからないから、もしかしたらそのまま退学するかもしれないというのも。
「わたし、今知ったのよ。伊織から連絡が来て。伊織も今日知ったのよ。たまたま天馬と会って、それで知らされたって。それで明日伊織と成田に見送りに行くんだけど、桃花はどうするのかそれを聞きに来たのよ」
 伊織くんの呼び方が、いつの間にか加藤から伊織に変わった理由をあえて聞かずにいた。
「行かない」
「行かない?」
 千波の細い眉毛がぴくりと片方だけ持ち上がった。
「どうしてよ。フランスだよ? 日本じゃないんだよ。しかも何年くらいいるのかもわからないっていうじゃない。それなのに行かないの?」
「行かない」
「桃花、あのね」
 大きく息を吸い込んだ千波は、怒っているようだ。
「今、仕事中」
 千波の言葉を遮った。
「わかってるわよ。仕事、何時に終わるの? 待ってるわ。どっかでご飯でも食べよう。伊織も来るから。それでさ、明日の見送り計画をちゃんと立てようよ」
「仕事が終わったら聞くって。行くつもりはないけど」
「わかった。八時にミッションで待ってる」
 そう言い残して、千波は店をあとにした。
 ミッションはこの店の近くにあるレストランだ。もちろんアルコールも提供する。大学生になってから、千波とよく行く店だった。
「あら、陸ちゃん、明日出発だったの?」
 奥にいたはずのトオル先生がいつの間にかわたしの後ろに立っていた。
 先生も陸ちゃんを知っている。わたしを迎えに来たりしていたからだ。
「ええ、そうなんです」
「だから明日は休みなのね。日曜日だから出てほしかったのに」
 本当にゲイなのかどうかは知らないが、トオル先生の口調はいつもお姉っぽい。体つきもほっそりしている。
「そうじゃないですけど」
 うつむいてしまった。
 日曜日が忙しいのは毎週だ。だから予定がない限りは必ずバイトを入れていた。
「ま、いいわ。あたしも恋する二人の邪魔をするつもりはないのよ。そんなやつは馬に蹴られて死んじまえってね」
 おほほほほ、と先生は口元に手を当てた。
「本当です、そんなんじゃないです」
「いいのよいいのよ。気にしないで、ゆっくり別れてきなさい。じゃ、あたし、出かけるから。あとは店長の指示に従って」
 先生はいつも忙しかった。デザインのほかに雑誌の取材、ときにはテレビにも出演する売れっ子デザイナーだ。
「わかりました。お疲れ様です」
「じゃあね」
 体を左右に揺らしながら、先生は忙しそうに出かけていき、次の客がやってきた。
 日曜に比べられば客数は少ないけれど、やっぱりそれなりにやってくる。
 接客やレジ打ち、商品の陳列を黙々とこなして、八時ぴったりにわたしは店を出て、そこから徒歩五分の場所にあるミッションに向かった。
 ミッションがある駅前は賑やかだ。
 いろんな人たちが往来している。
 ときおり人にぶつかりそうになりながら、わたしは千波が待つミッションに足を進ませていた。

 ミッションは若いカップルで混んでいた。オープンテラスのほうまで人がテーブルを埋め尽くしている。わたしが案内されたのも、テラスのほうだった。夜になって日が完全に暮れたせいか少し肌寒い。
 千波は先にいて、カクテルを飲んでいた。むっとした表情で、肘をついてグラスを傾けている。
 そんな千波の前にわたしは「おまたせ」と一声かけてから腰を降ろした。
「なに飲む?」
 不愛想な顔のままで尋ねられた。
「ジンフィズ」
 わたしのかわりに千波は近くにいたウエイトレスに注文をしてくれた。
「なんか食べる? お腹すいてるんでしょ」
 メニューをテーブルに広げ、わたしのほうに向ける。
「じゃ、パスタ食べようかな。ここのおいしいしね」
 洋食を中心としたメニューを掲げるミッションは比較的安い値段設定になっている。パスタのほかにもサラダやグラタン、スープを注文する。
「よく食べること」
 注文を終えたわたしを見て、千波はうんざりした口調で言った。
「仕事のあとでお腹すいてるもん」
「のんきね。明日、天馬が出発するのに。ねえ、桃花」
 ぐいっと千波は身を乗り出した。
「もう一回聞くけど、本当に見送りに行かないの?」
「行かない」
 すませて答えるわたしの前にアルコールが届く。乾杯もせずに、グラスに口をつける。
「あのねえ、天馬は何年後に帰ってくるかもわからないんだよ? そんな調子でどうするの。フランスだよ、フランス。そう簡単に行ける場所じゃないのは桃花だってわかってるでしょ」
「わかってるわよ」
「だったら明日はちゃんと行かなきゃ駄目でしょ」
「いいの。その話はもうやめて」
「だってねえ」
「説得したって無駄なんだから」
 突っぱねる。
 そうしないと今にも涙が零れてきそうだからだ。
「素直になんなよ」
「あら、わたしはいつだって素直よ」
 行こう、行かない、と繰り返している間に、頼んだ料理がテーブルに並んだ。
 千波を無視して食べ始める。できるだけ大きな口を開けて、おいしいと繰り返しながらわたしは食べた。
 そんなわたしを千波は呆れたように見えている。
「平然としちゃってさ」
 ふんっと千波は鼻から息を吐き出した。
 嘘だよ。
 心の中だけで叫ぶ。
 本当は辛くって悲しくって仕方ないんだよ。ご飯なんか食べたくないほど胸がいっぱいなんだよ。それを無理して食べてるんだよ。
 見送りにだってほんとは行きたい。でも行ったら泣いて喚いて引き止めちゃいそうで怖いのよ。
 だから平気そうな顔をしているだけなの。本当は今にも心が折れそうなの。
 そんな気持ちを全部飲み込むようにわたしは料理を食べ続けた。

 朝、鏡の中の自分を見て声をあげそうになった。
 思わず見入ってしまい、頬に手を合わせる。
 目は充血し、瞼が腫れあがっていた。
 一晩中眠れなかったし、ずっと泣いていたせいだ。
「こんな顔じゃ、陸ちゃんに会いに行けないわね」
 自嘲してしまった。
 こんな顔になったことでさっぱりとあきらめが付いた。
 やっぱり見送りに行くのはやめよう。
 腫れあがった瞼を冷やすように冷たい水で顔をじゃぶじゃぶと洗う。
 乱暴に水をかけたせいで、パジャマの前がぐっしょりと濡れてしまった。
 急いで二階にある自分の部屋に飛び込み、化粧水をはたき、クリームをたっぷりと塗り込んでからパジャマを脱ぎ捨て、長袖のTシャツにジーンズというラフな格好に着替える。
 ベッドに腰かけてスマホを見ると、千波からメッセージがたくさん届いていた。
 伊織くんからも来ていた。
 昼の便で発つ陸ちゃんを見送るのなら、午前中に家を出ないと間に合わないからだろう。
 メッセージは既読にしたけれど、返信はしなかった。
 五分おきにメッセージが届く。
 早く出ないと間に合わない、と急かしている。
「でもこんな顔じゃいけないでしょう」
 スマホを見ながらぽつりとつぶやく。
 そう、こんな顔じゃいけない。
 瞼は重たかったし、少し熱を持っているようだ。
 陸ちゃんに会うどころか人さまに見せられる顔でもない。
 時刻は午前七時。
 アイスノンで瞼を冷やしていけば、腫れは引くだろうか。
 駄目駄目と頭を振る。
 行ったら泣いてしまう。引き止めてしまう。
 陸ちゃんが困るような真似はしたくない。
 スマホを握ったまま、どすんともう一度ベッドに身を投げた。
 どうしよう、どうしよう。
 心が迷っている。
 今から行けば充分間に合う。
 成田空港で陸ちゃんと会える。でも会ったら泣いてしまう。
 堂々巡りばかり、わたしの頭はしている。
 なにも判断がつかない。
 しばらくそうやって悩んでいた。昨夜からずっとわたしは同じことばかり考え、悩み続けている。
 どうしよう。
 胸が苦しい。
 ぎゅっと布団を摑む。
 どうしよう。
 答えの出ない問題に、頭が割れそうに痛んだ。
 油断するとまた涙が零れてくる。
 涙をこらえるために、枕に顔を押し付ける。
 シャンプーの香がしみ込んでいた枕は甘い香りがした。
 どうしよう、どうしたらいいんだろう。
 迷うわたしの心を別のわたしが戒める。
 行っちゃ駄目だよって引き止めている。
 そう、こんな顔じゃ行けない。陸ちゃんが心配するから。
 一階からお母さんの声が聞こえてくる。
 朝ご飯だよって呼んでいる。
 八時になったのだ。
 陸ちゃんが乗る飛行機の出発時間は午前十一時。でもその前に陸ちゃんは搭乗してしまう。
 次はいつ会えるかわからない。
 やっぱり会いたい。
 がばっと起き上がるとバッグの中にスマホを突っ込んで、わたしは二階から駆け下り、外に飛び出していた。
 青い空が目に染みる。
 陸ちゃん。
 心の中で必死に陸ちゃんを呼び続けていた。

 成田まで時間がかかるのは知っていた。でも電車がこんなにのろく感じたのは初めてだった。
 スマホの時刻を何度も確認し、窓の向こうに流れる景色ばかり見つめていた。
 心ばかり急いていた。
 だから成田に着いたときには駆け出していた。
 掲示板で飛行機の確認を済ませると、すぐに搭乗ゲートに向かった。
 人がやたら多くて、よけながら走った。
 心臓がばくばく言っている。
 破裂するかもしれない恐怖と戦いながら、陸ちゃんの姿を見つけたときには本当に呼吸すらできなくて立ち止まってしまった。
 会いたかった。会いたくてたまらなかった。
 駆けだそうとする足が止まる。
 千波と伊織くんの後ろ姿が見えた。
 三人でなにかを話しながら、陸ちゃんの視線はきょろきょろと落ち着きがない。
 わたしはなぜかくるりと反転して近くにあった階段を駆け上っていた。
 踊り場からでも三人の姿は見えた。
 陸ちゃんは見送りなんかいらないと言っていた。わたしも行かないと言った。それなのに陸ちゃんがわたしを捜しているのを知って胸が潰れそうになった。
 実際、胸のあたりを摑んで、わたしはしゃがみ込んでいた。
 会えばいかないでと言ってしまう。
 笑いながら行ってらっしゃい、と言える自信は欠片もない。だって離れていたくない。ずっと陸ちゃんのそばにいたい。ずっと一緒にいたい。
 涙がぼろぼろと零れてきて、陸ちゃんの姿がかすむ。
 三人が手を振り、陸ちゃんがゲートの奥に消えていこうとしている。
 いやだ、行かないで。
 絶対に言ってはいけない言葉がわたしの頭の中をぐるぐる回っている。
 笑顔で笑って、いってらっしゃい、そう言うんだ。
 すうっと息を大きく吸い込んだ。
 名前を叫ぼうとした。でもそのときには陸ちゃんはゲートの奥に行き、なにも見えなくなっていた。
「陸ちゃん……」
 階段の手すりにつかまりながら、愛しい人の名前を呼ぶ。もう決して届かないとわかっていて。
 ゆっくりと立ち上がり、もはや陸ちゃんの姿が見えなくなったゲートの向こう側に向かってつぶやく。
「いってらっしゃい」
 そのときわたしは笑っていたのか、そうではないのか、なにもわからなくなっていた。
 


 大学を卒業して五年目の春。わたしは二十七歳になった。アルバイト先だったブティック「エム」で今は働いている。
 陸ちゃんは、まだ帰ってこない。
 就職活動もしたけれど、ずっと続けてきたこの店で就職しないかと卒業間近になってトオル先生に誘われた。ほかの企業に内定はもらっていたけど、先生に拝み倒される形で了承したのだ。
 今はチーフという役職までいただいて、日々忙しく働いている。
 そう、忙しい。週に五日の仕事。休日は千波や伊織くんに誘われて、遊びにも行く。毎日が充実している。
 なのに、ぽかっと心に穴が開いている。
 夏用のシャツを購入した客を見送ってレジに戻ると、ふ、と小さく息を吐き出した。
 日本にいて、気心のしれた店で働いてても忙しい。
 フランスで働きながらパティシエの勉強をしている陸ちゃんはもっと忙しい。
 スカートのポケットに入れていたスマホをそっと取り出す。
 ラインもメールも届いていない。
 もともと陸ちゃんはそんなにまめなほうじゃなかった。高校も大学も同じだったから、ラインやメールをしなくてもすぐに会えた。でも今は違う。
 フランスに行ったころは、毎日のようにメールが来た。それが三日に一度になり一週間に一度になった。だんだんと届く間隔が長くなり、今はひと月に一度がいいとこだ。もちろん、こちらからは送っている。
 ラインは既読になる。なのに、返事が来ない。
「こら、桃花ちゃん。仕事中のスマホは禁止」
 いつの間にかトオル先生が立っていた。デザイナーだけあってちょっと派手めなピンク色のスーツを先生は来ている。それは細身の先生によく似合っている。
「あら、先生。いつお店に戻ってきたんですか」
 わざとらしく笑いながら、ポケットにスマホをしまう。
 先生は昨日から、雑誌の取材で東京に行っていた。
「ついさっき。思ったより早く済んだの。よかったわ。取材とかそういうのは苦手だから」
 疲れているのか、こめかみに指をあてている。
「それより桃花ちゃん、お昼摂った?」
「まだですよ」
「なら、アルバイトの子に任せて食事に行きましょうよ。駅前に新しいパスタ屋ができたの。一人じゃ行きづらいから。どう?」
「いいですよ」
 店内の陳列をしていたアルバイトの女の子に一声かけ、先生と一緒に店を出た。
 駅まで五分もあれば着いてしまう場所に先生は店を構えている。四十歳を過ぎても独身の先生は、店もほとんど一人で切り盛りしている。以前は、デザイナー志望のアシスタントの子に店を任せていたのだが、結婚退職をしてしまったのだった。
 かわりに雇われたのが、わたし。もっともわたしはデザイナーになる気はない。それは最初にはっきりと言ってある。
 先生が連れていってくれたパスタの店は混んでいた。着飾った女の子たちの列に五分ほど店の外で待たされ、中に入ってもやはり待たされて、テーブルに着いた。
 きらびやかな店内の天井はステンドグラスだった。周りを見れば若い女の子ばかりで、なるほど先生一人では入りにくいはずだと納得する。
 定番のペペロンチーノのランチセットにしようと先生が言った。
「ペペロンチーノがシェフの腕前がわかるのよ。もっともここのシェフの腕は悪くないのよ」
 そんなものかと思っていると、口ひげをたくわえたシェフが直々にあいさつに来た。
「トオルちゃん、いらっしゃい」
 恭しく頭をさげてから、シェフは気さくにそう言った。どうやら知り合いらしい。
「ちょっとトオルちゃんはやめてよ」
「はいはい。いらっしゃい、お嬢さん」
「こんにちは」
「珍しいな、女の子を連れてるの」
「うちの従業員よ。それよりも変なもの出さないでよ。信頼してるんだから」
「任せておいてくれよ。じゃ、ごゆっくり」
 もう一度丁寧に頭をさげて、シェフは奥に引っ込んだ。
「お知り合いなんですか?」
「幼馴染。大学を卒業してからイタリアでずっと働いてけど、一年前に帰ってきたの。で、店をオープンしたってわけ」
「なるほど」
「どっかの誰かと似てるでしょう?」
 いたずらっぽく先生は笑った。
「そうですね」
「海外で働くのは大変だったらしいわよ。言葉も通じないしね。でもやり遂げて帰ってきた。誰もができるわけじゃないけど」
「陸ちゃんはがんばってますよ」
「そうね。最近連絡ある?」
「忙しいみたい」
 ごまかすためにお水を飲む。
 そう、陸ちゃんは忙しい。だからラインもメールも送れない。
「そう。まあ、大変なんでしょ」
「はい」
 運ばれてきたペペロンチーノは本当においしかった。
 にぎわう店内、忙しく働くシェフ。どれもこれも未来の陸ちゃんの姿と重なった。
 遠くにいる陸ちゃん。今頃どうしてる?
 スマホを見る。やはりなにも届いていない。こちらからはメッセージを書いた。ペペロンチーノの写真と一緒に。
――日本に帰ってきたら、一緒に食べようね
 ハートマークもつけて送信する。けれど仕事が終わって家に帰っても、ラインは既読にならなかった。
 きっと忙しいんだ。大変なんだ。
 ベッドに寝転びながら、何度も言い聞かせる。
 忘れてしまったんじゃない。
 忙しいだけだ。
 多分。きっと。
 そう思わなければ、一日を過ごせない日々が続いている。もう、ずっと前から。
 
 夜、部屋にいるとばたん、と派手な音がしてドアが開いた。巽が立っている。
「姉ちゃん、伝馬、日本に帰ってきたのかよ⁉」
 いきなり言われて、ベッドから飛び起きた。
「帰ってきてないよ」
 少なくともわたしはなにも聞いていない。
「帰ってきてるよ。テレビに出てるよ、見てみろよ」
 わたしよりも先に、巽がテレビのリモコンを取り、電源を入れた。
 映し出された画面に、陸ちゃんがいた。
 人気急上昇中、若手パティシエ。
 そんなふうに紹介されていて、日本の有名洋菓子店を訪れる内容だった。ナレーションによれば、フランスで開催されたコンテストで盛大な評価を受けたと説明されている。
「若きパティシエ、日本に凱旋……」
 画面の端っこに映っていた文字をつぶやく。
「いつ帰ってきたんだよ」
 巽が驚いている。肩を揺さぶられた。
「知らないわ。知らない」
「はあ、なに言ってんの?」
「本当、知らなかった」
 数年ぶりに見る陸ちゃんは実に堂々としていた。きれいなケーキをフォークでつついている。久しぶりに見る陸ちゃんに涙が零れそうになる。
 変わっていなかった。茶色の髪もその瞳の色も。抑揚のないしゃべり方も。全部、わたしが知ってる陸ちゃんだった。
「これ、収録よね?」
「そりゃ、そうだよ。本当に伝馬から連絡なかったのかよ」
「なかったわ。どうして? いつ日本に帰ってきてたの?」
 巽に聞いたって知っているはずがないのに、思わずそう尋ねていた。
 画面が近所の駅前に切り替わる。
 若きパティシエが育った町として、様々な店が紹介されていた。もちろんその中には、わたしと二人でよく行った店もあった。
 見覚えのある店が映って、大きく目を見開いた。
 ブティック「エム」だ。
 そういえばいつだったか、テレビの取材があると先生が言ってた。あの日、わたしは休みだったし、収録に興味もなくて、店に行かなかった。
 先生が画面に映り、陸ちゃんと親しそうに話をしている。
「よく彼女と来たわね」
 画面の中で先生が陸ちゃんの肩を叩いた。
「昔の話です」
 頭を掻きながら、無表情に陸ちゃんは答えた。
「姉ちゃん……」
 不安気に巽に顔を覗き込まれた。
「出てって」
 つぶやいた。
「姉ちゃん、これ、テレビだからさ。その、言えないだけなんだよ。ほら、伝馬ってさ、不器用だし、あんまり気持ちを表に出さないやつだから」
「出てって!」
 テレビの電源を切った。
 勢いに呑まれたのか、巽はなにも言わずに部屋を出て行った。
 ぽろぽろと涙が零れた。
 過去の人。
 昔の人。
 違う。現在進行形だ。少なくともわたしの中では。
 スマホを見る。
 昼間送ったラインはまだ既読になっていない。もしかしたらまだ日本にいるかもしれないと電話をかけた。
 何度鳴らしても、陸ちゃんは出なかった。
 その晩、あまりよく寝られなかった。
 疑問符がやたらと頭に浮かび続けた。
 陸ちゃん、わたしは昔の人じゃないよ。
 そう言って怒りたかった。それすらかなわなくて、どうしたらいいのかわからず、悶々と朝まで過ごした。

 翌朝出勤してすぐに店の事務所に行った。事務所のテーブルの上には雑誌や書類が無造作にのっている。壁際にはぎっしりとマネキンが並び、きちんと服を着ているのもあれば、布を巻いただけのものもある。そんな雑多な場所で、先生がのんびりコーヒーを飲んでいた。
「先生、どうして黙っていたんですか」
 朝の挨拶もせず、食って掛かった。
「なんの話?」
 マグカップを離さず、涼しい顔をしている。ポーカーフェイスもここまでいけば立派すぎる。その飄々とした表情が、さらに頭に血をのぼらせた。
「陸ちゃんですよ。どうして教えてくれなかったんですか。陸ちゃんと会ったのに、どうして黙ってたんですか」
「ああ」と天井を見上げて、先生はやっと思い当たったように声をあげた。
「その話ね。夕べ放送されたからね。見たのね」
「見ましたよ。わたしは心臓が飛び出るくらい驚いて。なぜ黙ってたんですか。陸ちゃんはまだ日本にいるんですか。それともフランスに帰ったんですか」
「まあ、そう興奮しないでよ」
 散らばった書類をかきわけ、マグカップをテーブルに置き、わたしと向き合った。
「いろいろね、事情があるのよ。異国で大変な思いをしてるんだから」
「それとわたしに連絡をしないのとどんな関係があるんですか。わたしは昔の人じゃありません。約束したんです。フランスで勉強したら帰ってくるって。迎えにくるって」
 そうだ。
 そう約束をして陸ちゃんは旅立っていった。だから淋しいのを我慢して見送った。陸ちゃんががんばるのだから、わたしもがんばらなきゃって。
「陸ちゃんに会わせてください」
「もうフランスに帰ったわよ。見てのとおり、彼のフランスでの評価は高くなっているの。今が一番大事なときよ」
「それとわたしに会わないのとどんな関係があるんですか」
「だからだね、なんていうかな、彼の中ではまだその時期じゃないっていう意味よ」
「高く評価されて、日本まで帰ってきたのにですか」
「そうよ」
 ぎゅっと拳を固く握る。
「わたしは……」
 苦し気に吐き出した。
「わたしはいつまで待てばいんですか。もう待てません。今日からお休みをください。わたし、フランスに行って、陸ちゃんに会ってきます!」
 はっきりと言い放つ。
 先生の顔色が変わった。慌てていすから立ち上がる。
「落ち着いて。だいたい桃花ちゃんに今休まれたら困るわ」
 わたしはくるりと背中を向けた。
 店などどうでもよかった、今大切なのは、陸ちゃんだ。
 もう充分すぎるほど待った。
 店を出ると、伊織くんが住むマンションに歩き始めた。ここからそう遠くない場所のマンションの一室で伊織くんは旅行会社を経営している。そこには千波もいる。二人に事情を話せばきっとわかってくれる。
 フランスまでのチケットなどすぐに用意してくれるはずだ。
 マンションの一室を事務所にしてある部屋には、千波も出勤していた。主にネットで販売しているので、直接店に来る客は少ないと聞いている。
 伊織くんはわたし達とは別の大学に進み、卒業後は親から援助をもらってこの会社を立ち上げた。
 オープン当初は大変だったと聞いているけれど、今は固定客もついて安定しているらしい。
 高校のときから伊織くんに片思いしていた千波は、専門学校を卒業すると、少しだけ別の企業に勤めてからこの会社を手伝い始めた。思いが通じた結果だった。
 連絡もなしにやってきたわたしに二人は驚いた顔をしている。
「なんだ、電話くらいくれたらよかったのに。なんかおっかない顔してるよ、桃花ちゃん。なんかあったんかい?」
 パソコンに向き合っていた伊織くんは、いすから立ち上がって出迎えてくれた。
「フランスに行きたいの。チケットとか、ツアーを紹介して。今夜にもすぐ行けるやつ」
 早口にまくしたてると、二人は困惑の色合いを浮かべて顔を見合わせた。
「どうして急に? 伝馬のとこに行くつもりなのか」
 真面目な顔つきをして伊織くんは尋ねた。
「そうよ。帰ってきてたのよ。先生も知ってたわ。わたしだけ知らなかった。そんなのおかしいでしょ。どうして連絡をくれなかったのか、ちゃんと陸ちゃんから説明が聞きたいの。だってわたし、ずっと待ってたんだから」
「落ち着いて、桃花」
 いすに座っていた千波が立ち上がって慌ただしく近づき、わたしの肩に触れた。身を捩って振り払う。
「これが落ち着いていられる?」
「待ってよ。伝馬が帰国してたのはわたしたちも知らなかったのよ。ネットで初めて朝、知ったくらいなの。桃花と同じよ」
「同じじゃないわ。わたしと千波じゃ立場が違う。だってわたしたち、約束したんだから」
「知ってる。知ってるわ。でも、なにか言えない事情があったのよ。桃花がちゃんとわかってあげなかったら、伝馬がかわいそうだわ」
「事情ってなによ。わたしは約束を守って。信じて……」
 陸ちゃんがいない間には新しい出会いもあった。付き合ってほしいと告白されたりもした。それを全部スルーして、信じて待っていた。
 陸ちゃんを信じていたから。
 気がつくと泣いていた。熱い涙が頬を伝っていた。
「桃花、みんな事情があるのよ。突然行ったら伝馬だって驚くわ。せめてラインかメールでちゃんと伝えて返事を待ってからのほうがいいわ」
「無理よっ。だってこのところラインは読んでも返事はくれない」
「桃花、でもね……」
「千波にはわからないっ。ずっと好きな人と一緒にいられる千波にはわからないよっ。おいてけぼりをくらったこの気持ちは。誰にもわからない」
 駄々っ子みたいに頭を左右に振って言い続け、泣いた。
 千波はいろいろ諭してくれたけど、全部わたしの心を通り過ぎていく。
 誰が止めたって無駄だ。わたしは陸ちゃんに会いに行く。
 心が激しく求めている。この世中で一番好きな人に会いたいと訴えている。自分にだって止められない。
 溢れ出した感情に自分がコントロールできずに泣いて、フランスに行きたいと二人に訴え続けた。
「よし、わかった」
 やがて伊織くんが言った。
 わたしは顔をあげた。涙で二人が曇っていた。
「行ってこい」
「伊織、勝手は駄目よ。伝馬に迷惑をかけるかもしれないわ」
「連絡ひとつ寄越さないあいつが悪い。桃花ちゃん、行って確かめてこい。それですっきりするならいいだろう。ちょうど明日発つ予定のツアーがある。フリータイムが多いツアーだからそこで伝馬に会えばいい。やつが住んでる場所まで行くのは、言葉の問題もあるから厳しいだろうけど、店には行ける。有名なとこだもんな。現地のガイドに頼んでおくよ」
「伊織くん……」
「さ、もう泣くのはやめてな。すぐに申し込んでやるからパスポートの番号教えてくれ。持ってるだろ?」
 何度か千波と海外旅行に行っているから、もちろん持っていた。
「すぐに手続きしてやるから」
「ありがとう。伊織くん」
「礼はいいから。パスポートは家か?」
「うん」
「なら家帰って番号をメールで教えてくれ。夕方には全部手続きを済ませておく」
「うん」
 千波は複雑な顔をして立っていたが、かまわなかった。
 すぐに家に飛んで帰ってパスポートの番号をメールで送り、それから旅行の支度をした。
 明後日には陸ちゃんに会える。
 気持ちはもうフランスだった。

 パリで出迎えてくれた旅行ガイドは、わたしの気持ちを知っていた。伊織くんが懇々と時間をかけて説明してくれたのだと知り、胸が熱くなる。ほかの旅行者たちはすぐに観光に行ったが、わたしは一人でタクシーに乗せてもらった。もちろんフランス語なんて話せない。ガイドさんが陸ちゃんの勤め先まで乗せて行ってくれるように頼んでくれた。
 帰りはホテルまで送ってほしいとも付け加えた。
 三十歳そこそこの女性ガイドは、これで大丈夫だからと背中を押してくれた。
「とりあえず一時間、店で待っていてもらうように言ってあるから。もしなにかあって乗らなくても彼はフランスに住んでいるんでしょう? だったらあとは彼になんとかしてもらって」
 幸運を祈るとばかりに握手を求められて、「メルシー」と礼を言った。わたしが知っているフランス語はその程度だ。
 店に着くまでの間、タクシーの運転手はゆっくりとなにか言ってくれたが、ちんぷんかんぷんだった。たとえこれが日本語だったとしても、今のわたしの耳にはなにも入ってこなかったと思う。
 一時間ほどタクシーに揺られ、街の中で停まった。
 運転手が窓の外を指で示している。
 ラデュレ。
 それが陸ちゃんの勤めている店の名前だった。
 期待で胸が熱くなる。
「ありがとう」
 思わず伝わるはずのない日本語で答え、タクシーから飛び降りると、太りぎみの運転手がなにか叫んだ。しきりに両手を動かし、人差し指をたてている。
 恐らく一時間だよ、と念押ししているのだと察して、大きくうなずいた。
「一時間」
 同じように人差し指をたてて答えると、運転手は笑みを浮かべた。そこから走り出す気配がないので、移動せずに待ってくれるようだった。 
 タクシーから降り、店を見上げる。
 テラス席もある広い店だった。中に入ると客が押しよせていて、人で溢れている。ケースにはかわいらしいケーキがずらりと並んでいた。この中に陸ちゃんがつくったお菓子もあるのだと想像するだけで誇らしい気持ちになる。
 店内を見回して、陸ちゃんを捜す。店員はいるが、陸ちゃんの姿は見つからない。当然と言えば、当然だった。陸ちゃんは厨房にいるはずだ。
 歩いていた店員を呼び止め、「伝馬陸」とゆっくりと繰り返す。名前は伝わったが、彼女が言っているフランス語はわからない。だが店の奥を指で示し、いったん外に出て裏に回れと伝えている気がした。頭を下げて店を出て脇にある細い道を歩き、裏手に回ると、従業員用の出入り口と思えるドアが一つあった。
 あそこから入ればいいのかとアスファルトを蹴ろうとした足が止まった。
 ドアが開いて、中から人が出てきた。
 陸ちゃんだった。制服は着ていない。Tシャツにジーンズというラフな格好だった。
 迷わず飛び込んでいくつもりだったのに、そこから動けなくなった。わたしの脇を素早く通り過ぎた人がいて、よろけてしまったのだ。
「リク」
 長い髪をなびかせて通り過ぎた女の人は、確かにそう名前を呼んだ。陸ちゃんの視線がこちらに向けられる。だが陸ちゃんが見つけたのは、わたしではなかった。
「ロザリー」
 まったく別の名前が呼ばれ、わたしは呆然とその場に立ち尽くした。その間に、ロザリーと呼ばれた人は陸ちゃんの腕を取った。嫌がる素振りも見せず、陸ちゃんはその人と一緒に歩き出した。わたしに背中を見せて。
 ぶるぶると足が震えて、立っているのもままならなくなった。言葉など当然出ない。ただ茫然として人混みに紛れて、消えていく二人の後ろ姿を見送っていた。
 陸ちゃんはすぐそこにいた。手を伸ばせば届く距離にいた。なのに陸ちゃんは気づきもしなかった。
 陸ちゃんが見たのは、別の人。わたしではない別の人。
 しばらくの間、ずっとそうやって立っていた。
 わたしにとってそれは途方もなく、長い時間に感じられたが、そうではなかったようだ。
 ふらつく足取りでタクシーに戻ると、運転手は怪訝そうな顔をして、早口になにか言い出した。
「ホテル、ホテルへ」
 なにも考えたくなくて、わたしは「ホテル」という一言を繰り返した。
 しばらく押し問答のような形で会話にもならない会話が繰り返されたあとで、運転手は車を走らせ始めた。
 ホテルには十分ほどで着き、料金を払って降りるとフロントに行った。おりよく英語が通じるスタッフがいて、部屋の鍵をくれた。
 英語なら片言だがなんとかなる。
 部屋に入ると、体中の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
 気力という気力がすべてなにかに吸い込まれてしまった気がして、すぐそこにあるベッドまで行くのもままならなかった。
 呆然と虚空を眺めながる。
 鼻の奥がつんと痛み、涙がこみ上げてきた。その時なって初めて、自分の身の上になにが起こったのか理解し、同時に陸ちゃんが日本に帰ってきても、連絡をしない意味を悟った。
 声をあげて泣いた。
 子供みたいにわんわん泣いた。
 それしかわたしにはできなかった。
 部屋の電話が鳴っている。
 窓の外はすっかり暗くなっていた。
 泣きすぎて瞼が重く、腫れぼったい。
 執拗に鳴り続ける電話に根負けして受話器を持ち上げると、昼間のガイドさんだった。
「レストランに行く時間なんだけど、待ち合わせのロビーに来ないから電話したんです。降りてこられますか?」
 戸川というガイドは、少し不安げな口調だった。探りを入れられている気がした。
「すみません。食べたくないので結構です。ツアーも行きたくないので、明日以降はすべてキャンセルしてください」
 一方的に言い、受話器を置いた。
 ベルサイユ宮殿もモンマルトルの丘も、なんの興味もなかった。それにツアーを申し込んだのは、伊織くんだった。陸ちゃんに会うだけではつまらないだろうし、休みも急には取れないかもしれない。せっかくフランスに行って、なにもしないのではもったいないからと気を使ってくれただけだった。
 わたしはもうどこにも行きたくなかったし、なにも食べたくなかった。
 スマホは一応確認した。WiFiにつなぐと、千波からラインが入っていた。
――伝馬と会えた? 今頃楽しくしてる?
 何気ない一言が心に痛い。
 千波は悪くない。だけど頭にきてスマホを壁に投げつけていた。
 情けないやら恥ずかしいやら、いろんな感情に揺さぶられていた。
 しょせん夢だった。
 子供のたわごとだった。
――必ず迎えにくる
 海の泡となって、希望も夢も消えてしまった。実に呆気なく。
 フランスでの滞在は、ホテルの部屋にこもって過ごした。ときおり下の売店やカフェに行ったが、なにものどには通らなかった。
 わずか一週間の滞在で、体重は五キロ落ち、痩せて、やつれてわたしは日本に帰ってきた。
 成田まで迎えにきてくれた伊織くんと千波はそんなわたしを見て言葉を失い、なにがあったのかだいたい察してくれたようだ。
 千波はふらつくわたしを抱きしめて、車に乗せ、家まで送ってくれた。
 家で待っていた家族も、わたしを見て驚き、巽はここにはいない陸ちゃんに暴言を吐いた。
「伝馬のやつ。おれが連絡してやるよ。電話かけてやるよ」
 巽は本気で怒っていた。巽も伝馬が好きだった。よくうちに来た陸ちゃんに懐いていた。本当の兄のように慕っていた。
 陸ちゃんはわたしの夢だけではなく、巽の夢も破ってしまった。
「いいのよ、巽。もういいの。わたしが子供だったの。それだけよ」
 力なく言うわたしの前で、やっぱり巽は陸ちゃんに怒り続けていた。
 そんな巽を見ているのもしんどくて、部屋に一人こもった。
 なにもかも終わった気がした。
 昔の話です。
 その通りだ。
 陸ちゃんと過ごした日々は、はるか彼方に行ってしまった。もうずっと遠い昔の話だ。
 体中の水分が涙になったと思うほど、フランスで泣いた。なのにまた涙が溢れた。
 もう忘れよう。忘れなければいけない。
 何度も何度もわたしはそう言い聞かせた。
 
 二週間ぶりに出勤したわたしを見て、先生は唸った。なにがあったのか、だいたい見当をつけたに違いなく、なにも聞いてこなかった。
 無理もない、フランスから帰ってきたあともこのところほとんど食べていないから、体重はすっかり減り、頬も胸も肉という肉は削げ落ちてしまったし、手足は棒切れのように細くなって、まるでおばけが立っているようだ。
 実際鏡に映った自分を見たとき、これが本当のわたしなのかと、自分自身が驚いてしまった。
 肌艶も悪くなり、いくらファンデーションを塗ってもちっとも顔色はよくならなかった。
 黙々と仕事を続けた。誰よりも早く来て店の支度をして、毎日残業をした。
 仕事をしているときが一番楽だった。
 気が緩むと涙が零れてしまう。
 休みの日も仕事をつくって出勤した。
 ある晩、千波から電話が来た。千波はひどく怒っていた。
「だからさあ、仕事ばっかしてたってしょうがないじゃんよう。たまにはさあ、横浜のほうに買い物行こうよ。ランチでもいいよ。中華街にまた新しい店ができたからさ。とにかく仕事は休んだほうがいいって」
 きっと先生から連絡が行ったのだ。高校生のときから、千波はよく買い物に来る。もちろん付き合いで伊織くんも来る。だから先生はみんな知っている。
「いいの、今、仕事が楽しいから」
 力なく言った。
 仕事が今のわたしにとって唯一陸ちゃんを忘れられる時間だった。
「そんなの駄目だって。明日ね、休みもらったよ。桃花、ずーっと出勤してるっていうじゃない。休みは取っていいんだから。働く者の当然の義務。明日、朝迎えにいくよ。仕事には行っちゃ駄目。わかった、桃花」
 返事をしなかった。
 できなかった。
 陸ちゃんをよく知っている、事情をすべて知っている千波に会うのは辛すぎる。
「返事っ!」
 苛立って千波は怒鳴ってきた。
「うん、わかった」
 そう言わなければいつまでも小言が続いてしまいそうだった。
「迎えにいくからね。朝一番で。絶対仕事に行かないでね。もし行ったら、店まで押しかけるからね」
 念押しを、千波は何度もした。
「うん、わかった」
 感情を込めず、わたしは答えた。
 千波は電話を切った。
 スマホを投げ出し、ベッドに横になる。目をつむっても、どうせうまく眠れない。
 光輝いていた未来はもう遠くに行ってしまった。
 わたしは、一人だ。
 これから先の人生、一体どれほど長い時間をたった一人きりで生きていかなければならないのか、想像するだけで背筋が凍る。
 布団を頭の上まで持ち上げる。
 部屋の明かりはつけたままだ。
 フランスから帰ってきてから、一晩中電気を消さない夜が続いている。
 暗闇が、さらなる闇の奥に連れて行こうとするからだ。どうせならなにもかも連れていってしまえばいいのに、心の半分しか持っていってくれない。
 いっそ心なんかなくなってしまえばいいのにとすら思う。
 今のわたしに心や気持ちは不要だった。
 翌朝早く、本当に早く、まだ七時という時間に千波はやってきた。当然ながら着替えも化粧もしていなかったし、髪は寝ぐせで四方八方に向いていた。
 お母さんに呼ばれて下に行くと、千波がリビングのソファに座り、巽と一緒にコーヒーを飲んでいた。
「おっはよう」
 二階から降りてきたわたしを見て、千波はわざとらしいほど大きな声をあげた。
「姉ちゃん、駄目じゃんか。千波、ずっと待ってたんだぜ。横浜に行くんだって? 中華料理、おれも久しぶりに食べたいなあ」
 羨ましそうに巽は言う。
「巽も今度連れて行ってあげるよ。今日は女子会の日よ」
 楽し気に千波は言う。
「女子会ってなんだよ。二人きりじゃねえか」
「二人いれば女子会よ。さ、桃花、早く着替えてきて。待ってるから」
 千波の勢いに呑まれてしまった。
 大急ぎで顔を洗って身支度を整える。仕事以外で出かけるのは、フランスから帰ってきてから初めてだった。
 気分は悪かったけれど、千波のためにうんとおしゃれをしようと、フランスに行く前に店で買った夏用のワンピースを着た。季節的にまだ早い気がするが、気分をあげるにはちょうどいいアイテムだ。寒ければカーディガンを引っかければいい。
 鏡の前で化粧をし、バッグとカーディガンを手にして、下に降りる。
「あら、いい柄のワンピースね」
 新しい服に敏感な千波は手を叩いた。
「うん。この前買ったきりで着てなかったから。もっと夏になってからがいいと思ったけど、思い切って着てみた」
 ワンピースのすそにはひまわりが咲いていた。
「いいじゃない。これからの季節にぴったりよ。黄色は金運もあがる」
 一人、千波は納得している。
「よし、じゃ、行こう」
 ソファから立ち上がった千波は、腕を絡ませてきた。まるでわたしを逃がさないようにしているみたいだった。
 さすがにここまで来たらわたしだって観念する。
 千波はコーヒーを淹れてくれたお母さんに礼を言い、巽に手を振った。
 外に出ると、よく晴れていた。頬を撫でる風が心地いい。
 ああ、空ってこんなに青かったっけ。
 なんてふと思った。
 そういえばこのところ下ばかり見て歩いていた気がする。空なんてまともに見ていなかった。
 空が、目に痛いほど眩しかった。

 その日、わたしたちは思いつく限り遊んだ。ショッピングをして、おしゃれなカフェでお茶をして、ランチは中華街で食べた。
 久しぶりに港の見える丘公園にも行った。潮風に吹かれていると、なんだかほっとした。
 夜には伊織くんも合流して、雰囲気のいいバーにも行った。珍しく伊織くんはぐでんぐでんになるまで飲んで、わたしと千波の手を煩わせた。
 すっかり酔った伊織くんをタクシーに押し込み、千波は何度も謝って一緒に帰っていった。
 久しぶりに飲んだアルコールのせいか、わたしの気分も高揚した。昼間の余韻が残っていたせいか、興奮して家に帰ると、巽が飛び出してきて迎えてくれた。
「姉ちゃん、どうだった? てか、酒くせえ」
 鼻をつまんで、巽は横を向けた。
「やだ? そんなに? たいして飲んでないけどなあ」
 そう言ってあがりかまちに足をかける。体がふらついて、相当飲んだと気がついた。
「よろけてるぜ。部屋まで行けるか?」
「行ける行ける」
 体を左右に揺らしながら洗面所に行き、化粧だけを落とし、部屋に戻るとそのままベッドに倒れ込んだ。
「早く元気にならなきゃ」
 ぽつんとつぶやく。
 一人になってももう涙は出なかった。
 みんな心配している。千波も伊織くんも先生も。
 誰も彼も元のわたしに戻ってくれるのを待っている。
 巽でさえ。
 なんだか自分が情けなくなった。
 陸ちゃんがわたしという存在を過去にしてしまったのと同じように、わたしも陸ちゃんを過去の人にしなければならない。
 物事がひとつ終わったら、新しくなにか始めなければならない。
 陸ちゃんがそうしてるように。
 その晩、フランスから帰ってきて初めて電器を消して寝た。
 アルコールのおかげか、深い眠りについた。死んだみたいに眠り続けた。まるでこれまで眠れなかった時間を取り戻すみたいにして。
 翌日の夕方になって目が覚めた。
 頭がやたらすっきりとしている。
 窓を開けて、外のさわやかな風にあたると出勤だったと思い出して慌てて店に電話をかける。
「ごめんなさい、先生。すっかり寝ちゃって。起きたらこんな時間で」
見えてないのに、頭を何度も下げた。
「いいよいいよ、今日は休みで。明日からまた来てくれれば」
 先生は怒っていなかった。呆れてもいなかった。なんだか笑っていた。
 電話を切ると、心が軽くなっていた。いろんな重荷が取れた気がする。
 まだ、生きていける。
 そんな気がした。



 もう夏が来たんじゃないかって思うくらい暑い日だった。まだ午前中だっていうのに、駅から徒歩五分ほど歩いただけなのに、わたしは汗まみれになって店に飛び込んだ。
 エアコンが効いた店に入ると汗が冷やされていく。
「おはようございまーす」
 ほかのスタッフに向かって声をかけながら、奥に入っていく。
 店に制服はない。かわりに店の服を試着して接客に当たる。面倒なのでいつも家から着て来ていたので、ロッカーにはバッグだけを入れる。
 スマホだけはスカートのポケットに突っ込んでおくために抜き取った。
 ラインから陸ちゃんの名前を消したのは、千波と横浜に行ってからすぐだった。
 もちろん電話番号もメールアドレスも全部削除した。そんなことをしなくても連絡はこないとわかっているけれど、そうせずにはいられなかった。
 不思議なもので全部削除してしまうと、それまでわたしにまとわりついていたいろんな重たいものがすうっとなくなっていったようで心が軽くなった。
「よっし、今日もやるぞ」
 ポケットにスマホをしまってから店に出ていった。
 平日の午前中はまだ客が少ないので、今のうちに気の早い秋物の展示の準備を始めた。
 今年の秋のトレンドは茶色とグレーだ。必然的にその色合いの服が多くなる。
 秋物の準備をしながら一日の業務を進めていると、ひょっこり千波が店にやってきた。
「どう? 忙しい?」
 ポニーテールの髪を揺らしながら、千波は店の中に入ってきた。淡いブルーのワンピースを着ている。
「秋物の準備。本格的な夏はまだなのに」
「さすがトオルセンセのお店。トレンドには敏感に動くね」
「そんなわけでけっこう忙しい。千波、仕事は?」
「抜けてきたのよ。桃花とランチしようかと思って」
 そういえばそんな時間だったと千波に言われて気が付いた。
「OK。ちょっと待ってて」
 ほかのスタッフに一声かけてから、バッグを持って千波と外に出た。
「いやー、暑いねえ」
 千波は額の上に庇をつくって、眩しそうに太陽を見つめている。
「冷たいものにしようよ」
 こう暑くては、熱いものはのどを通りそうもない。
「なに言ってんの。暑いときは辛いカレーにしようよ」
「あ、いいかも」
 千波の提案に乗り、近所のカレーショップに足を進める。
 ランチ時なのに店が空いているのは、この店は夜に客が多くなるからだ。
 二種類のカレーとナン、ラッシーが付いたランチセットを二人で頼み、届けられた水を飲むとひと心地ついた。
「ところでさ、今日か明日の夜、空いてない?」
 テーブルに両肘をついて千波はそう尋ねてきた。
「空き家のわたしよ。いつだって暇暇よ」
 冗談めかして答える。
 でも嘘は言っていない。
 空き家も真実なら暇なのも本当。
「じゃ、今日の夜、店が終わったら伊織と飲みに行かない? ちょっといい店見つけたの」
「いいわよ。終わるのは八時だけど」
「うん、駅前だから八時半に店に集合でどう?」
「いいよ」
 千波から店のデータをスマホに送ってもらう。
 駅前にあるビルに入っている店だ。これなら迷わずに行ける。
「わかった。八時半ね」
 スマホを覗き込みながら、確認のためにもう一度聞く。
「そうそう。よろしくね」
 ランチがわたしたちの前に置かれ、仕事の話なんかをしながらおいしく食べた。
 カレーは確かに辛く、でもほんのりと甘みがついていて食べやすかった。
 食後のラッシーを飲み干すと、わたしたちは席を立ち、会計を済ませて外に出た。
「あっついなあ、もうっ」
 空に怒っても仕方ないのに、千波は眩しそうに顔を歪めながらそう言った。
 店の前でわたしたちは別れ、わたしはまた仕事に戻った。
 午前中にはいなかったトオル先生が店にやってきていた。
「あら、桃花ちゃん。カレーの匂いがするわ」
 そう言ってトオル先生に笑われて、慌てて奥にいって歯磨きをし、コロンを振りかける。
 夜は千波とデートだと思うと、心使いがうれしくなった。
 きっと落ち込んでると思われているんだろうなあ。
 もうこんなに元気なんだけど。
 コロンをバッグにしまい、わたしは店に行った。
 近所の高校生と思われる子たちが制服のまま店に数人で来ていた。
 学校はどうしたの、なんて野暮なことは聞かない。
 わたしにも確かにあんな時があった。
 陸ちゃんと一緒に学校を抜け出したりした。
 ぶるる、と頭を振り、声を張り上げる。
「いらっしゃいませー」
 女子高校生の笑い声が店に響いていた。

 指定された店は最近オープンしたカジュアルなイタリアンレストランだった。
 仕事で忙しいはずなのに、伊織くんと千波は先に窓際のテーブルについて、わたしを待っていてくれた。
「お待たせ」
 手を振りながら近づいていき、ほかにもう一人男の人がいたのに気が付く。
 水色のポロシャツを着て、肌がよく焼けたスポーツマンタイプのその人に、わたしはまるで見覚えがない。なのに彼は、わたしを見て、にっこりと微笑んだ。白い歯が唇の合間から覗く。
「あの、伊織くんのお友達?」
 いすに腰かける前に尋ねる。
「そう。おれの大学のときの同期。でも浪人してるから一年先輩な」
 がははは、とわざとらしいくらいに大きな口を開けて伊織くんが笑う。
「おいおい」
 照れ臭そうに笑いながら、伊織くんのシャツを引っ張っている。
「高校も同じ。もっともそのころは付き合いがなかったけどな」
 そうだろう。わたしも見覚えがない。
 高校ではいつも陸ちゃんが一緒にいた。千波も伊織くんともずっと一緒だった。
「まあ、座って」
 促されて、いすに座る。
 三人の前にはすでに生ビールが置いてある。でもあんまり飲んでいない。泡がまだ残っているから注文したばかりなんだろう。
「なに飲む」
 ちなみにメニューを渡された。
「あ、おんなじので。とりあえず」
 中身を見ずに答えると、すぐに伊織くんが店員に注文してくれた。
 四人揃って、わたしのビールが届いたところで乾杯する。
「伊織、飲みすぎないでよ」
 次はワインに切り替えようとした伊織くんを、千波はたしなめる。
「わかってるっちゅうに。おい、早川もワインでいいか?」
「いいよ」
 爽やかに答える。
 早川一樹という名前なのは、テーブルについてすぐに教えてもらった。
 悪い人ではなさそうで、楽し気に伊織くんと話をしている。
「じゃ、白な。それでいいか?」
「もちろん」
 早川さんの前にあるジョッキはすでに空になろうとしている。
 四人での会話はそれなりに弾んだ。
 建設会社に勤務している早川さんの話はよくわからなかったけれど、仕事は楽しいようだ。笑みが絶えない。
 旅行も好きなようで日本じゅうあちこち旅をしているらしい。だから伊織くんとも気が合うんだと納得する。
 二人は旅行の話を楽し気に話し、わたしと千波は聞き役に回っていた。でもわたしは退屈しなかった。最近、旅行なんかしていなかったせいだろう。
 旅行と言えば、先日のフランスだ。
 ぶるぶると首を振る。
 あれは旅行でもなんでもない。
 楽しい席で、わたしはそう思い込もうと躍起になっていた。
 テーブルの上の料理をあらかた食べ尽くし、ワインが一本空になると、そろそろお開きにしようかといった雰囲気が漂い始めた。
「どっかで飲み直ししようぜ」
 すっかり顔を赤くした伊織くんが、誰に言うわけでもなく声をかける。
「じょーだんでしょ」
 少し怒ったような顔をして、千波が言い切った。
「この前みたいなのはごめんだわ。わたしは帰る」
「冷たいわ、千波」
 おネエ言葉で伊織くんが返した。
「今夜は伊織のおもりはごめんだわ。桃花、どっかで酔い覚ましにコーヒーでも飲んで帰らない?」
「いいわよ」
 わたしとしても明日はまた仕事なのでありがたい提案だった。
「じゃ、早川。どっかで飲み直しするか」
 わたしたちを無視して伊織くんが言う。
「いいよ。知ってるバーがあるからそこに行くか」
「OK。じゃ、会計してもらおう」
 その日の飲み代は伊織くんと早川さんが支払ってくれて、わたしたちは店の前で別れた。
 二人は肩を組んで店の前から歩き出し、二人の背中が完全に見えなくなると、千波は大きく息をついた。
「じゃあ、近くのファミレスにでも」
「いいわよ」
 時間は十時を過ぎている。ドリンクバーがあるファミレスはありがたい。
 ワインを飲んだわたしはのどが渇いていた。
 ちなみに誘われるまま、となりにあったファミレスに二人で行く。
 ファミレスはけっこう混んでいた。
 遅い夕飯を摂っている人もいる。
 窓際の席に案内され、それぞれ好きなドリンクを取ってきて改めてソファに座ると、
「さて」
 と千波はテーブルに両方の肘をのせた。
「どうだった? 彼?」
 来た! と内心では思いながら平静を装い、アイスコーヒーにストローを突き立てた。
 ず、とすする。
 冷たいコーヒーがのどをするりと滑って落ちていく感触をわたしは楽しんでいた。
「ねえ、どうだった!」
 じれているのがわかる。
「そんなことだと思ったわよ」
 そう、そんなのは最初からわかっていた。彼があの席にいたときから。
「じゃ、話は早い」
 にこにこと笑いながら、千波は顔を近づけてきた。
「どうって、そうねえ」
 ストローでくるくるとグラスの中をかきまぜる。
「別にどうとも思わなかったなあ」
 天井を見上げて素直に感想を述べる。
「あちゃあ」
 べたっと千波はテーブルに突っ伏した。
「でもどっかいいとこあったでしょ。ほら、サーフィンが好きだとかさ。海は毎年行くって言ってたじゃない」
「そうだったかなあ」
 そう言われればそんな気もしなくはないけど、話の中心が伊織くんと早川さんだったからぼんやりとしか覚えていない。
「いいじゃない。サーフィン! 教えてもらいなよ」
「遠慮しておく」
 ず、とまたコーヒーをすする。
「遠慮ってさ、なにが駄目だったのよ」
「なにってわけでもないけど」
 千波たちの魂胆を知ったときから、わたしの気持ちは冷めていた。正直あまり楽しくもなかった。だから話も頭に残らなかった。
「なんか今はそんな気分になれないの。それよりもみんなでぱあっと遊ぼうよ」
 わざと明るく振舞う。
「なにして遊ぶのよ」
「なにって、そうねえ。これからの季節は海でしょ。みんなでピクニックとかさ」
「みんなって誰よ」
「だから千波と伊織くんと陸……」
 陸ちゃん、と続けようとしていた。
 思わずうつむいた。
 四人はいつも一緒だった。
 高校生のときからずっと。
 みんなで花火大会に行ったり、海に行ったり、スキーにも行って。でも今は……。
 ぼろっと涙が零れてきた。慌てて顔を背け、指の腹で拭う。
「ごめん、千波。わたし、今、恋をするとかそういう土俵にいないの。だから誰が来ても駄目なの」
 拭っても拭っても涙が零れてきた。
 止まらない。
 諦めたはずなのに、それでもまだ心が求めてる。
「気持ちはわかるよ、でもね、天馬とのことはもう終わったんだよ」
「わかってる」
「じゃ、前に進もうよ」
「わかってる」
「わかってないよ!」
 ばんっと千波がテーブルを叩いた。
 静かに顔をあげると、両目を吊り上げた千波がいた。
「ごめん。でも、もう少し待って。もう少しだけ。ばかよね。自分でもよくわかってるの。でもうまく切り替えができないの。だからもう少し待って。千波たちの気持ちはうれしいんだけど」
「あんた、ばかよ」
 ぼそっと千波はつぶやく。
 うん、わかってる。
 ごめんね、おばかさんでごめんね。でももう少しだけ待っていて。
 何度も何度も、心の中で謝り続けていた。

 三日後の夜だった。
 店から外に出ると早川さんが立っていた。
 少しはにかんだような笑みを浮かべている。
「あ、こんばんは」
 ぺこりと頭を下げる。
「すみません。伊織には期待しない方がいいって言われたんだけど、それでもなんていうか、やっぱりこのままじゃなって。それで、その、もし時間が少しでもあったらって思って。食事でもどうですか?」
 回りくどい言い方に誘い方に思わず笑ってしまった。
 不器用な人なんだなって思った。それがかわいらしくもあった。
「あ、無理にはいいんです」
 ずっと返事をせずに立っていたからだろう。きっと断られると思ったに違いない。
 慌てて早川さんは両手を顔の前で振った。
「いいですよ、ご飯行きましょう」
 思わずそんなふうに答えていた。
「あ、よかった。思い切って誘ってよかった」
 ほっとしたのか、胸に手を当てている。
 ああ、思い切らなきゃないほど、誘うのを迷っていたんだ。
 これは彼の精一杯なんだ。
「行きましょうか」
 肩にかけてたバッグをかけなおす。
「はい。先日と同じ店ではつまらないですか?」
「いえ、大丈夫です」
 そう言いながらわたしは足を動かした。そのとき、気が付いた。これが前に進むってことなんだなって。
 こんな簡単だったんだ、と改めて思った。
 それから頻繁にわたしたちは会うようになった。
 呼び方も早川さんから一樹さんに変わるまでさして時間はからなかった。
 周囲の協力も得て、翌年の春に、わたしたちは結婚した。
 町にある小さな教会で、ごく親しい人たちだけを呼んで式をあげた。
 千波は喜んでいた。伊織くんも笑っていた。
 巽だけが不満そうな顔をしていた。
 ウエディングベルを聞きながら、わたしは本当に前進したのだと確信した。
 柔らかい風が吹く丘の上の教会で、わたしは陸ちゃんでは別な人と愛を誓った。
 一樹さんがみんなに囲まれて祝福を受けているとき、わたしの目は海と見つめていた。
 手にしていたブーケにそっと顔をうずめる。
 甘い香りがした。その中から一枚、バラの花びらを抜き取った。
 二本の指で摘み、そっと指を離す。
 花びらは風にのって海に向かって飛んでいった。
「さよなら、陸ちゃん」
 誰にも聞かれないように、わたしはぽつんとつぶやいた。

 なにが気に入らないのかまるでわからなかった。
 仕事から帰ってきた一樹の目は充血していた。その目でわたしを見ると問答無用とばかりに足気にされた。
 キッチンで夕食をつくるために包丁を持っていたわたしは、その場でよろけて落とした包丁で右足のすねを切ってしまった。
 つう、と赤い血が流れ、熱さと痛みを感じて、うずくまった。
「とろくさい女だなっ!」
 そう言って一樹はまた足を蹴る。
 丸まって、うずくまってわたしは耐える。
 歯を食いしばって耐える。
 嵐はいつか過ぎ去る。
 そのとおりになるまでどれほど時間がかかったのかはわからない。
 やがて一樹の暴力は止まり、一樹が舌打ちする音が聞こえてきた。
「出かけてくる」
一樹の足音と締まるドアの音を聞いてから、わたしは上体を起こした。
 刻んでいたキャベツはまな板ごと落ち、フローリングの床の上に散らばっていた。
 血がついた包丁も床に落ちていた。
 痛みに耐えながら、血が流れた足を両手で押さえる。
 六畳の部屋が二つと三畳ほどのキッチン。
 それがわたしたちの新しい家だった。
 ちょっと古いけど駅からも実家からも近い、スーパーも徒歩五分の距離にある。
 住みやすそうだね、と二人で話し合って決めたアパートだった。
 ここから出発して、お金を貯めて、いつかマンションでも買おうと約束したのは、そう遠い過去じゃない。ほんの半年ほど前だ。
 幸せだったのかそうではないのかよくわからない時間は、瞬く間に過ぎ去っていった。
 一樹は突然手をあげるようになった。帰りも遅くなって、ひどく酔っている時間が多くなった。
 きっかけはつまらないことだった。
 陸ちゃんがテレビに映っていた。
 それをたまたまわたしが見ていた。
 懐かしさが溢れてきて、涙が止まらなくなったわたしを見て、一樹は怒った。
 一樹はわたしと陸ちゃんをよく知っていた。
 わたし達が付き合い出したのは、高校を卒業してからだけど、いつも二人でいたから高校時代には恋人同士に見えていたらしい。
 天馬がまだ好きなのか。
 悲し気に一樹がそう言ったのは、一度きりだった。
 あとは暴力に変わった。
 そうじゃない、違うといくら言っても聞き入れてくれなかった。
 聞く耳を持たない、といのはああいうのを言うんだろう。
 一樹は嫉妬しているだけだ。
 彼なりに辛いのだろう。
 ぎゅっと押さえていた手を離す。
 血は止まったようだ。
 絆創膏を持ってきてべたりと貼る。
 一樹が暴力を振るうようになってから、この家にはいつも消毒薬と絆創膏を絶やさないようにしていた。
「辛いのよ、みんな」
 絆創膏を張った足を見て、ぽつりとわたしはつぶやいた。

 日曜日の朝、一樹は帰ってこなかった。
 どこでなにをしているのか今更聞くつもりもなく、わたしは一人で家事をこなし、昼前になると家を出た。
 今年は残暑が厳しかったけれど、十月に入ってかなり涼しくなってきた。薄手のコートを羽織ってアパートをあとにし、千波と待ち合わせている駅前のコーヒーショップに行く。
「桃花、こっち」
 先に来ていた千波は元気に声を張り上げる。
 肌艶もよくて健康そうだ。
 そんな千波を見てほっとする。
「お待たせ」
 千波の向かい側のいすに腰かけ、すぐにやってきたウエイトレスにコーヒーを注文する。
 わたしの顔を見て、千波がにたりと笑う。
「どうよ、結婚生活は。そろそろ赤ちゃんの報告が聞けるかな?」
 にっこりと微笑む千波に悪気はない。ただ返事には困ってしまって、苦く笑ってしまった。
「あら、うまくいってないの? 早川くんは伊織が太鼓判を押してるのに。桃花のために吟味に吟味を重ねたって」
「ああ、ううん。そんなんじゃないの」
 まさか毎日のように叩かれているなんてのは、千波には言えない。
 黙ってテーブルに置かれていた水の入ったグラスに手を伸ばす。
「大丈夫、けっこううまくやってるから」
 嘘をつくとちくりと胸が痛い。
「ああ、よかった」
 満面の笑みで、千波は言った。
 これまでだって散々千波たちには迷惑をかけてきた。これ以上の心配はさせたくない。
「ところで専業主婦ってどう?」
 わたしは結婚と同時に店を辞めていた。不規則な仕事だし、妻としてきちんとフォローアップできないと思ったからだったが、今となっては仕事を続けていたほうがよかったのかもしれない。でもそれはやっぱり千波には言えない。
「いろいろ大変」
「今日は早川くんはどうしてるの?」
「出かけたわ。たまの休みだもん。自由に遊びに行きたいんでしょう」
「寛大ね。帰りは遅くなるの」
「たぶん。はっきりとは聞いていないけど」
 一度出かけたら一樹は遅くにならないと帰ってこない。それはつまりわたしと距離を置きたいからだと考えている。
「じゃ、わたしたちもお夕飯を食べてから帰ろうよ。映画見てさ、ショッピングしてさ」
 明るく言われるたびに、心が沈んでいく。
 今のわたしはなにかしたいという気持ちがなかった。でも千波にはやっぱり言えなくて、千波の言うがまま、ランチをして映画を観て、ショッピングをして夕飯を食べた。
 夕食には伊織くんも合流して、久しぶりに三人で集まった。
 伊織くんは仕事がけっこう忙しいらしい。それでも充実しているようだ。
「あー、伊織、ソース零してる」
 慌てて千波が伊織くんのシャツにおしぼりを当てている。
 そんな姿を見ていると、きっと千波はいいお嫁さんになるんだろうなあと思ってしまう。
 いいお嫁さん。
 わたしもそうなりたかった。
「桃花ちゃん、どうかした?」
 仲睦まじい二人の姿を見て心が苦しくなっていたわたしを見て、伊織くんが心配そうに見ている。
「なんでもない。でもそろそろ帰らなきゃね」
「そうだわ。この人一応人妻だったわ」
 思い出したように言いながら、千波はけらけらと笑った。
「だからここで失礼する」
 どうせ料理はあらかた食べ尽くしていた。
 その場で二人に別れを告げて家に帰ると、玄関のたたきを見て仰天した。
 一樹が帰ってきていた。

 ひどく一樹は酔っていた。
 真っ赤な顔をして、わたしを睨んでいる。
 ひっく、と吃逆をしながら、酒臭さをまき散らしながら体を左右に振りながら近づいてくる。
「奥さんも飲んでいるようで」
 嫌味なのは醜く歪んだ口元を見てすぐにわかった。
「少し、飲んだだけ。家にいるとわかっていればもっと早く戻ってきたのだけれど」
 言い訳めいた言葉を口にしながら、果たして本当にそうだったか、と自分の心に問いかけたくなった。
 一樹と二人でいるよりも千波たちといる方が楽しかった。
「まあいいけどよう」
 腕が伸びてきて、ぐっとわたしの髪を一樹が引っ張った。
「きゃ」
 頭を抱えながら悲鳴をあげる。
「おまえ、また天馬が好きなんだろう」
 不意に耳元に一樹の唇が寄ってきてそう囁かれた。アルコールとは別に頬がかっと上気する。
「だけどよう、天馬はもういないんだぜ。フランスにいるんだよ。おフランスに。おまえは捨てられたんだ。知らないと思ってたか? おれを通して天馬を見ているのに」
 嘘だ。
 否定したいのに唇が開かない。
「たまらないよな。奥さんはおれに抱かれながらほかの男のことを考えてるんだ。いやにもなるぜ」
 そんなことない。
 陸ちゃんはもう遠くに行ってしまった。
 わたしの手が届かない場所に。
「天馬に会いたいんだろう。そうだよな。初めての男だろ。天馬が。忘れられるはずなよな。いつだっておまえの心には天馬がいるんだ。嫌気がさすぜ」
 全身がわなわなと震える。
「会いたいっておれに頼めよ。会わせてやるぜ。愛しい愛しい天馬くんによ」
 次の瞬間、わたしはどんっと一樹の胸を叩いていた。
 目の前にいた一樹は反撃を予想していなかったに違いないし、酔っていたせいもあるだろう。ふらっとよろけて尻餅をついた。
「てめえ、全部本当のことじゃねえか!」
 一樹の怒鳴り声が聞こえていた。
 今夜も殴られる。
 そう思ったとたん、外に飛び出していた。
 真っ暗な闇がわたしを待っていた。
 夜の闇はわたしの心そのものだ。
 どうせならなにもかも黒く塗りつぶしてしまって。
 どこへ行くわけでもなく、涙を溜めてわたしは走り出していた。
 だから細い道を走ってくる車に気が付かなかった。
 眩しい、と思ったら、全身に鈍い痛みを感じた。
 意識がなくなっていく中で、わたしは何度も陸ちゃんの名前を呼んでいた。


 
 窓を開けると、五月の爽やかな風が吹いてきた。大きく伸びをする。洗濯物を干すなら絶好の天気だ。どこからか夏を彷彿させるにおいが漂ってきて、開放的な気分になる。
マンションのバルコニーに出て、青い空を眺める。
吸い込まれそうだ。
「桃花ー」
 マンションのエントランスから出てきた藤堂千波の張りのある声が聞こえてきて、柵に手をかけ、下を覗き込む。
 ポニーテールに結い上げた千波の髪の先が、風に吹かれていた。
「桃花ー、いってくるねえ」
 高校時代の同級生だと聞かされている千波が、大きく手を振っている。
「いってらっしゃーい」
 わたしも手を振り返す。
「知らない人が来ても、ドアを開けちゃ駄目だよー。インターフォンにも出なくていい。夜は早く帰るからねえ」
 大きく左右に手を振りながら、千波は駅に向かって歩いていった。
「もうっ。わたしは子供じゃないんだってば。もうじき三十になるんだから」
 心配してくれている。わからなくもない。だってわたしの学力は中学生程度しかない。
 一年前、わたしはすべての記憶を失った。その前にどうやって自分が暮らしていたか、なにも覚えていない。学校の勉強はもちろんだけれど、自分の名前さえ覚えていなかった。
家族の顔もわからない。みんながなにを話しているのかわからない。おかしな話だが、ご飯の食べ方も覚えていなかった。
 最初、病院で目が覚めたとき、そこに千波がいた。両親と弟もいた。けれどそれが誰なのか、まるで記憶がなくて、目覚めてみんなに会った瞬間、ぼろぼろと泣いた。
 赤ちゃんみたいに。
 そう、わたしは赤ん坊だった。なにも知らない無垢な赤ん坊だった。
 それから一年が過ぎて、言葉を覚え、食べ方を覚えた。
 思い出したのではなく、覚えたのだ。
 それからどういう経緯があって、友人である千波と暮らすようになったか、わたしは知らない。ただ目覚めたとき、わたしは千波の腕にいつまでもすがって泣き続け、離れようとはしなかった。だからきっと両親と千波が話し合ったのだろう。
――実家で暮らすよりもいいよ。今の姉ちゃんには家は辛すぎるから
 三つ年下の弟の巽くんがそう言ったとのちに教えられた。どうして巽くんがそう提案したのか、その理由はまだ教えてもらっていない。
 千波に言わせれば、人には忘れてしまったほうがいいときがあるし、思い出す必要がない出来事もあるのだそうだ。
 だから記憶を取り戻せないまま、わたしは千波と二人、海が見えるマンションに住んでいる。
 今日の空が青いなら、窓から見える海の色も青かった。
 この窓から見える海の景色を、わたしはとても気に入っている。
 荒れた海も、天気が悪くて灰色になった海も、穏やかな波をつくりだす海も全部好きだ。
 バルコニーから部屋に戻り、洗濯機を回す。
 千波は近所にある旅行会社に勤めているので、家事はわたしが一手に引き受けている。もちろん千波の給料だけでは生活していけないから、両親からいくばくかの援助をしてもらっている。
 詳しい金額は知らない。誰も教えてくれないし、知ったところで、わたしに管理できる能力はない。
 今のわたしは生きていくだけで精一杯だった。
 洗濯機に洗剤を入れ、スイッチを入れる。
 ういん、と音を立てて、回り始めた洗濯機をじっと見つめる。
 みんな、誰も彼もなにも思い出さなくていいよ、と言ってくれる。でも失った記憶がほしい。知りたい。けれど考えれば考えるほど、頭の奥がずんずん痛くなってきて、思考回路が奪われてしまう。特に頭の右側。
 そっとわたしは頭に指を這わせる。そこに髪の毛が生えていない場所がある。長さは十センチくらい。太さは一センチくらい。髪を肩まで切り揃えていれば見えない傷跡。
 手術の傷跡だと教えられている。その傷跡から痛みが始まって、頭の芯まで辿り着く。
あんまり痛むから、最近ではなにも考えないようにしている。
 過去なんかなくても、充分幸せだったし、満ち足りているから。
 きっとわたしはとても悲しい思いをしたのだ。だから心が拒絶している。
 千波と二人で暮らすのを許してくれた両親は、知っている。過去、わたしがどんなに辛い目にあったかを。
 時折みんなと集まって食事をしたりする。でも誰も過去は話さない。
 今の生活ばかりを聞く。だからわたしも答える。
 幸せだよ、と。
 でも……。
 回る洗濯機を眺めて、ぷつりと思う。
 わたしって一体誰なんだろう?
 そう考えてしまうときもある。
 いやいや、と激しく首を振る。
 これでいい。だってわたしは幸せだから。とても幸せだから。
 幸せなんだから、と自分に言い聞かせて、洗濯機の前から離れ、掃除機を手にした。
 最初は掃除の仕方もわからなかった。千波が根気よく教えてくれて、今では掃除洗濯くらいは一人でこなせている。ただ千波がひどく心配して、ガスコンロを使わせてくれない。
 料理は千波の担当だった。
 一人で食事をしなればならないときのために、千波は冷凍食品やレトルトをたくさん買ってくれている。ご飯は小分けにして冷凍してある。
 午前中の間に掃除や洗濯を終わらせ、リビングでテレビを見るのが日課だ。
 掃除機を部屋の隅に置く、リビングに移動してソファに腰かけ、テレビの電源を入れる。
 窓は開け放ったままだ。ほんのり潮の香りがする風がやさしく頬を撫でていく。
 仕事を持たないわたしには、家事が終わるとなにもするべきことがない。
 なにもしなくていいと千波は言う。
 だから千波に甘えている。
 千波は外で一生懸命に働いているのにと、ときどき申し訳なく思う。
――いいのよ、仕事って言っても旅行は趣味。半分お遊びみたいなもんだから
 負担を減らそうとしてくれているのか、いつもそう言ってくれる。実際、千波の会社は、社長のほかは従業員の千波が一人だけという小さな企業だった。それを企業と言っていいのかどうかすら迷うのだと千波は言っていた。
――いいのよ、伊織の会社なんだから
 伊織くんは、千波の彼氏だ。わたしたち三人は高校の同級生だったと言うが、記憶がないから、真相は不明だ。
 伊織くんは大学を卒業してから、旅行会社を立ち上げたと聞いている。主にネットでの申し込みが中心だから、千波一人いれば充分間に合うのだといつだったか言っていた。
 詳しく聞かされても、今のわたしには理解できない。
 ごめんなさい、と心の中で謝る。
 千波に。伊織くんに。両親に、弟に。
 みんなのおかげで、のんびりとした緩やかな生活を送れている。
 ありがとう。
 何度言っても足りないが、感謝せずにはいられない。
 もうじき三十歳の誕生日がくる。けれどわたしは子供だった。なにもかも忘れた、本当の子供よりも始末の悪い子供だった。
 テレビでは、情報番組が流れている。

 その夜、千波は伊織くんを連れて帰ってきた。
「桃花ちゃーん、元気だったかい」
 真四角の紙袋をさげて、伊織くんは軽快に笑いながら、リビングに入ってきた。そのとき、ちょうどシャワーを浴びたばかりのわたしの髪は濡れていて、パジャマ姿だった。
 来るとわかっていれば、シャワーなんか浴びずに、ちゃんとした服を着て待っていた。
「やだ、恥ずかしい」
 思わず両腕を抱きしめてしまった。
 ぽっと顔が熱くなる。
「なに言ってんの。おれと桃花ちゃんの仲。パジャマ姿もかわいいし、水もしたたるいい女になってるよ」
 そう言って大きく両手を広げ、わたしをぎゅっと抱きしめる。分厚い胸のあたりに頭が当たって、伊織くんの服が濡れてしまいそうになった。
 急いで身を捩ってその中から抜け出す。
 伊織くんの青いシャツがやはり濡れてしまった。
「ごめんなさい。濡れちゃったわ」
「いいんだいいんだ。今日は暑かったからな、すぐに乾くから。それよりも早く髪を乾かしておいで」
「うん、ありがと。千波もひどいよ。連れて帰って来るなら電話一本かけてくれればいいのに」
 スマホは持っていない。持っていたとしても、ラインもメールもきっとわたしは送らないし、みんなも持たせたがらなかった。家のパソコンはネットにちゃんとつないであるが、メールアドレスはやはり持っていない。
 必要ないときっとみんなで判断したのだろう。わたしはなくても別に不自由はしない。
 近所のコンビニくらいは一人で行くけど、遠出のときは必ず千波がついてくる。そこに今日みたいに伊織くんが混ざるときもある。
 基本的に両親と弟の巽くんはここにあまり姿を見せない。
 意図的にしているんだって、なんとなく感じてる。理由は聞けずにいるけれど。
 洗面所で軽く髪を乾かしてリビングに行くと、夕飯が並んでいた。
 サラダやキッシュ、鳥の唐揚げ。ほかに色鮮やかな和菓子が並んだ。
「まあ、きれい。どうしたの。この和菓子」
 和菓子はいろんな形をしていたが、その中でもあじさいの花を形どったお菓子に目を奪われた。青い色のあじさいがかんてんの中で咲いている。見るからに涼しげで、これからの季節にぴったりだった。
「今日、用事があって鎌倉のほうに行ったんだ。桃花ちゃん、好きだろ、和菓子」
 伊織くんはいたずらをした子供みたいに、片目をつぶってウインクした。
「えー、わたし、ケーキのほうが好きなんだけど」
「和菓子のほうがいいよ。清楚でおしとやかな桃花ちゃんによく似合ってる。千波とは大違い」
 歯をむき出して笑うと、千波が頬を膨らませる。
「ひどーい、まるでわたしががさつな女みたいじゃない」
 すぐに痴話げんかを始めてしまう。この二人の得意技だ。
 結婚は秒読みだと思っているけれど、二人の間に具体的な話はあがっていない。その話をすると、千波はいつも無口になってしまう。きっと周囲には伝えられない、二人の間で約束事でもあるんだと勘ぐっている。
「夕飯にしようか」
 二人の痴話げんかが済んでから、千波は取り皿を並べた。
「ありがとう」
 素直に礼を言う。食事の支度もろくにできない。というか、人の助けを借りてばかりいる。かわりにお礼だけはしっかり言おうと決めている。
「伊織が全部買ってくれたの」
 千波は嬉しそうに言った。
「桃花ちゃんのためだからな」
 両手を腰に当て、伊織くんは得意そうに鼻から息を吐き出した。
 その仕草がなんだか少しおかしくて、思わず笑ってしまった。
「お、笑った」
 目ざとく、伊織くんに突っ込まれて、緩んだ頬を引き締める。
「やっぱり桃花ちゃんには笑顔が似合うなあ」
 これじゃあ、どっちが恋人かわからない。でも千波は機嫌よさそうに箸を置き、テーブルについた。
 千波の隣にわたしが座り、千波の前に伊織くんが座る。
 みんなで声を合わせて「いただきます」と言って夕飯が始まった。
 並んだ料理はどれもこれもおいしかった。伊織くんは缶ビールを飲み、千波も付き合ったが、わたしはお茶だった。
 料理が全部なくなると、最後に残った和菓子を食べた。
 あじさいはつるんとした感触がして、ほんのり甘くて、口に入れると舌の上でするんと溶けて消えていった。
「わあ、これおいしい」
 感嘆の声を上げる。
「鎌倉周辺で一番の店で買ってきたからな。当然だ」
「ありがとう、伊織くん」
 伊織くんはやさしい。千波もやさしい。
 わたしのまわりはやさしい人で溢れている。だから過去がなくても生きていける。

 わたしの夜は早い。夕飯が済むと、ベッドにもぐり込む。睡魔はあっという間にやってきて、すぐに寝入ったはずなのに、トイレに行きたくなって部屋を出た。
 まだ伊織くんがいて、リビングからはあかりが漏れていた。ぼそぼそと話し声がする。足音を忍ばせてリビングの前を通り、トイレに行こうとした。
「伝馬が帰ってきてる」
 押し殺した伊織くんの声が聞こえてきて、思わず足を止めた。
 なんだか胸が急に痛くなった。ナイフで切り裂かれるみたいな痛みで、左胸のあたりをぎゅっと摑む。
「うん、知ってる」
 千波の声も低かった。
「あいつ、今頃帰ってきやがって。なに考えてんだか」
 伊織くんの口調は怒っていた。
「怒っても仕方ないわ。それより伝馬は完全に桃花を忘れたんだよね? 連絡あった?」
 どきん、とまた胸が痛くなる。
 伝馬。
 知らない名前。記憶がないから、覚えもない。なのに胸が激しく痛む。
 足ががくがくと震え始めた。最早トイレなんかどうでもよかった。それより二人の会話が気になった。
「いや、ない。テレビで見ただけだ。千波のとこには?」
「ないわよ。もともと伝馬とはそんなに仲がよかったわけじゃないし。桃花が付き合っていたから、まあ、そんな程度よ」
 付き合っていた?
 伝馬という人とわたしが?
 心臓が飛び出してしまいそうだ。そのくらい苦しかった。
「一応ほかの連中にも聞いてみるけど、あいつを桃花ちゃんに近づけるな」
「わかってる。桃花は今のままでいい。ご両親もそう言ってる。わたしは桃花を任されたんだから、守る義務がある」
 誰から? 千波、誰から守ろうとしているの?
 言葉にはならない。体も動かない。当たり前だ。これだけ胸が苦しければ、動けるはずがない。
 そのうちに立っているのも難しくなって、その場にしゃがみ込んだ。
「伝馬もひどい。せめてあと一年早く帰ってきてくれたら。それにしてもわたしのとこにはともかく、伊織にも連絡ないなんてあんまりじゃない?」
「きっとおれらはもうどうでもいいんだろ。伝馬陸と言えば、今や有名人だからな」
「それにしたってさ」
「時間は流れ過ぎた。みんな変わった。伝馬も、桃花ちゃんも。おれらも」
「うん」
「けど、万が一ってのもある。もし桃花ちゃんに近づいてきたら困る」
「わかってる。桃花がこうなったのだってもとはと言えば伝馬が原因なんだから。やっと落ち着いた生活ができるようになったのよ。今さら伝馬に振り回されたくない。桃花は一人で外には出させないようにする。もっとも今だってそんなに出ないけど。あの子にあまりお金を持たせてないの」
「でも、もし、桃花ちゃんが会いたいと言ったら?」
「記憶がないのに、どうして言えるのよ。それにもし会いたいと言ってもわたしは会わせたくない。なにもかも伝馬が原因なんだから」
「そうか。そうだな」
「そうよ。今、桃花を守れるのはわたし達だけよ」
「そうだな。桃花ちゃんを守れるのはおれらだけだ。千波、頼んだぞ」
「任せて」
 耳に会話が届けば届くほど、胸が苦しくなる。
 とうとうしゃがみ込んでいるのも難しくなって、その場に倒れ込んでしまった。
 どすんと派手な音がした。
 二人がリビングから飛び出してきて、伊織くんがわたしの背中に手をまわし、支えてくれた。
「桃花ちゃん、どうしたんだ。顔が真っ青だ」
「トイレに行こうとして。でも、急に胸が苦しくなって」
 ぎゅっと胸を摑んでいる指先にさらに力を込める。
「トイレか? 立てそうか?」
「胸が苦しくて」
「なら、いったんベッドに戻ろう」
 そこから先の伊織くんの行動は素早かった。
 ひょいとわたしの体を持ち上げて、ベッドまで運んでくれた。千波が布団をかけて、乱れた前髪を整えた。
 横になると胸の苦しさが少しだけ楽なった。
 大きく息を吸い込み、二人の顔を見る。
「ねえ、伝馬って誰?」
 二人に尋ねる。
 二人共答えない。唇を固く結んでいる。
「誰?」
 もう一度尋ねた。
「おれらの、共通の知り合いだ。桃花ちゃんには関係ない。仕事付き合いの人だから」
「でも」
 わたしと付き合っていたと言っていた。それなら関係のある人だ。
 そう言いたかったが、それより先に千波が口を開いた。
「そうよ、桃花にはなんの関係もないの。ごめんね。うるさくしてたから起きたのね」
「ごめんな。おれももう帰るから。桃花ちゃんは寝とき、な」
 聞けなかった。
 聞いてはいけない雰囲気が漂っていた。
 仕方なく、目を閉じる。
 でも頭の中は「伝馬」という人でいっぱいになった。
 突然激しく傷跡が痛みだした。
 思い出してはいけないという合図だ。
 心が拒否して、体が反応している。
 思い出してはいけない。
 忘れなければいけない。
 思い出しては駄目。
 心の中で繰り返すうちに、頭痛が引き、また眠りに落ちていった。

 目覚めると、昨夜の胸の痛みはなくなっていた。かわりに胸に冷たい風が吹き込んでくる。そっと手のひらを胸に当てる。
 冷たい、気がした。
 不可解な感情に苛まれてベッドから降り、リビングに行くと千波がすでに出勤の支度をして、コーヒーを飲んでいた。
「具合どう?」
「うん、いいみたい」
 いすを引いて向かい側に座った。
「そう、ならよかった。本当に顔色が悪かったよ。伊織もすごく心配してた」
「ごめんね、もう大丈夫」
 無理矢理に笑みをつくったせいか、頬が強張り、痛みが走る。
「大丈夫? 一人でいられる? なんなら仕事休んでそばにいるよ。いいのよ、一日くらい休んだって」
「駄目駄目」
 髪が宙に舞うほど頭を振った。
「伊織くんが大変になっちゃうから、それは駄目。絶対。わたしならもう平気」
 ガッツポーズをしてみせる。千波がほっとしたように息を吐き出した。
「それより千波、朝ご飯はもう食べた? トースト焼こうか?」
 一日の始まりがコーヒーだけでは心もとない。わたしは家にいるからいいけれど、千波はこれから働かなければならない。デスクワークだけど、やはり食べなきゃ力もつかないだろうし、頭だって動かない。
 そのくらいわたしにだってわかる。
「いいのよ、わたしは平気。桃花はどうする?」
「あとでトーストでも食べるわ」
「レタスがあるから千切ってサラダにするといいよ。トマトもハムもあるから」
「ありがとう。ねえ、それよりも伝馬って……」
 その名前を口にした途端、またもやぶわっと、今度は竜巻みたいなうねりが心の中で吹き荒れた。
 千波はびくんと顔をあげて、それから何事もなかったようにゆっくりと首を振った。
「昨日言ったとおり、仕事関係の人。さ、行かなきゃ。遅れちゃう」
 まるで逃げるみたいにして千波はいすから立ち、バッグを肩に引っ掛けて慌ただしくマンションを出ていった。
 知る必要がない人なんだ、きっと。
 葬もいながら家の電話の前に立ち、じっと眺めてから、受話器を持ち上げ、連絡先が何件か書いてある手帳を見ながらボタンを押す。
 何度目かのコールのあと、弟の巽くんが電話に出た。
「巽くん?」
 弟と言っても、記憶がないから実感もない。伊織くんのように頻繁に会わないから、親しみも少ない。それでも弟だった。けれど呼び捨てはできない。
「姉ちゃん。元気か?」
 受話器の向こうから聞こえてきた声は、張りがあって元気な様子が伺える。
「うん、元気。そっちは?」
「みんな元気だよ。どうしたんだよ、突然、電話なんてさ」
「うん、あのね、巽くんは、伝馬って人、知ってる?」
 息を呑んでいるのが、受話器を通して伝わってくる。
「なんで?」
「なんでって言われても困るけど」
 まさか二人の話を立ち聞きしたとは言えなかった。自分がずるい人間に思えたからだ。
「おれさ、今日、仕事休みなんだ」
「うん」
 巽くんは、街にあるちょっと有名なブティックで働いている。ファッションが好きで、その道に行ったのだと聞いている。もともとはわたしが勤務していた店だというのも。
「姉ちゃん、マンションにいるんだろう? おれ、遊びに行くよ。たまには姉ちゃんの顔も見たいしさ」
「でも、ほかに用事はないの?」
「ないよ。家にずっといるのも退屈だから。昼頃になると思うから、どっかで一緒にメシでも食おうよ。ごちそうするから」
「あら、ありがとう」
「じゃ、待ってて」
 電話は切られ、そのあとはいつも通りに洗濯や掃除をした。風呂場を洗っていると、インターフォンが鳴った。
「姉ちゃん、おれ」
 やってきた巽くんは紙袋を持っていた。
「これ、土産。和菓子。近所でおいしい店があってさ。柏餅。子供の日は過ぎたけど、まだ売ってたんだ」
 紙袋を差し出しながら、照れくさそうに巽くんは笑った。
 昨日の伊織くんといい、巽くんといい、わたしはよほど和菓子が好きだと思われているらしい。
「ありがとう。でもわたし、ケーキのほうが好きなんだけど」
「姉ちゃんには和菓子が似合うよ」
「どんな理由で? あ、お茶でも飲む? すぐに淹れられるよ。ポットに沸いてるから」
 コンロを使うと千波が嫌がる。だから、ポットにはいつも電源が入っている。
「いいよ、それよりもなにが食いたい?」
 うーん、と天井を見上げて悩む。
「ラーメン」
 ぼそっと言うと、肘でつつかれた。
「一応働いてるんだぜ。もっといいもの食べようよ。中華がいいなら専門店にいこうよ」
「うーん、じゃ、中華」
「オーケー」
 二本の指で輪っかをつくり、もらった和菓子を冷蔵庫に入れて、外に出ていった。
 巽くんは車で来ていた。
 マンションの前に停まっていた車に乗り込むと、シートベルトをしっかりとし、巽くんは車を走らせた。
 カーステからは軽快な音楽が流れていた。

 マンションから車で五分ほど走った場所にある中華料理店の駐車場に、巽くんは車を停めた。
 どこにでもある中華料理店は餃子が売りらしく、赤い旗が風になびいている。
 店内は昼時とあってひどく混んでいた。最近できたばかりなのか店内は、どこもかしこもピカピカに磨き上げられている。それでも値段が安そうだなと思ったのは、スーツ姿の人や作業着の職人さんが多かったからだ。
 店の中はエアコンががんがん効いていて、わたしは寒いくらいに感じたけれど、そうでない人もいるらしく、半袖のシャツを肩まで持ち上げている人もいる。
 テーブルに着くと、巽くんはメニューを見て、餃子や八宝菜、チンジャオロースといった品をいくつか注文してくれた。
「そんなに食べられるかしら」
 頬に手のひらを這わせて、首を傾げる。朝は食べていなかったけれど、空腹感はあまりない。
「おれが食うの。姉ちゃんも少し食べたほうがいいよ。前からあんまり食べなかったけど、なんだか痩せたみたいだ。頬のあたりとかさ。女はさ、少しふっくらしてたほうがかわいくていいよ」
「それは巽くんの好みでしょ」
「へへ、ばれたか」
 無邪気に笑う顔は、どことなく自分に似ている気がする。だからきっと弟に間違いはない。みんなもそう言っている。なのに今ひとつしっくりこない。
「巽くんの彼女、元気?」
 話だけで聞いている巽くんの彼女。巽くんが高校生のころから付き合っていると聞いている。もちろんわたしも何度か会っているらしい。でもなにも覚えていない。
「うん、元気だよ」
 水の入ったグラスを手にして、さらりと巽くんは言う。
「そう、うまくいってるのね?」
「いってるよ。おれのことなんかどうでもいい。今は姉ちゃんのほうが大切」
 冗談半分かもしれない。巽くんは笑っている。でもわたしには気になってしかたない。三つしか変わらないわたしの弟だ。長い付き合いの彼女なら結婚話も出ているかもしれない。でもそんな話は聞かない。千波と伊織くん同様、わたしが足かせになってしまっているのだろうかと不安になる。
「今度会わせてよ」
 前のめりになってじっと巽くんを見る。巽くんの長いまつ毛がぱちぱちと上下する。
「今度ね」
 そう言って巽くんは水をがぶりと飲んだ。この話題を避けるみたいにして。
 ああ、やっぱりわたしがなにか足を引っ張っているんだと思わずにはいられない。でも今のわたしは自分のことしかできないし、考えられないの、と心の中で謝る。
 普段はなんとも思わないが、こんなとき、記憶がない自分が恨めしくなる。
 注文した料理が並ぶと、巽くんは口を大きく開けて食べ出した。わたしもそれに続く。
「おいしいわ。よく知ってたわね」
「来る前にネットで調べたんだ。たまには姉ちゃんとおいしいものが食べたくてさ」
「ありがとう」
 餃子を箸でつまんだ巽くんはたれをたっぷりとつけて頬張る。
 おいしそうに食べる巽くんを、箸を止めてじっと見る。なんだか口の中がからからに渇いていた。でも、せっかく会ったのだからちゃんと聞かなきゃいけない。
 えいっと勢いをつけて、わたしは口を開く。
「ねえ、ところで、わたしが聞きたいのはね、伝馬って人なんだけど」
「知らないよ」
 素知らぬ顔をして素早く答える。顔色ひとつ変わっていない。
「本当に?」
「うん、知らない。その人がどうかしたの?」
 今度はチンジャオロースを箸で器用につかみ、巽くんは口に放る。
「なんだかね、ちょっと引っ掛かって」
 胸のあたりに指を這わせる。
「ふーん」
「だからね、わたしが記憶をなくす前に関係のあった人なのかなって、そう思ったの」
「でも、おれ、知らないから」
 知らないふりをしているのか、それとも本当に知らないのか、判断がつきかねた。どちらにしろこれ以上はなにを聞いても無駄な気がする。
「まあさ、無理しなくてもそのうちにいろいろ思い出すよ、うん。千波とはどう? うまくいってる?」
「うん。千波は本当によくしてくれるの。とてもありがたいわ」
「そか、よかった。ほら、食えよ。うまいよ、これ」
 そう言って巽くんは、八宝菜の皿を前に押しやった。
「うん」
 止まっていた箸を動かし始める。
 おいしいけれど、うまくのどに通らない。巽くんの言うとおり、わたしは食が細いのかもしれなかった。どうやっても胃の中にすんなり落ちていかない。結局料理の大半を巽くんが平らげてくれた。
 食事が済むと、マンションの前まで送ってもらった。巽くんは部屋まで送ると言ったが、わたしが断った。
「だってよう、鍵が使えないかもしれないじゃんか」
 むくれて、巽くんは頬を膨らませた。
「そこまで子供じゃないから大丈夫よ。ありがとう」
 車から降り、手を振った。
 オートロックの鍵を開け、エントランスに入ってから振り返る。巽くんの車が走り去っていったのが見えた。
 巽くんから見れば、わたしはきっと姉というよりも自分の子供みたいに思っているのだ。それがなんだか悲しかったし、巽くんがかわいそうだった。
 わたしは記憶と共に、巽くんから姉を奪ってしまった。
 部屋に入り、冷蔵庫から柏餅を出した。四つも入っている。一人では食べきれないから、千波が帰ってきたら二人で食べようと決めてまた冷蔵庫にしまった。
 バルコニーに出て、干してある洗濯物に触れる。当然だけれど、まだ乾いていない。
 不意に視線を感じた。周囲を見回すが、誰もいない。
 気持ちが高ぶっているのかもしれなかった。
 失くした記憶を無意識のうちに取り戻そうとして。
 焦らなくていい。思い出さなくてもいい。
 千波も伊織くんも、みんなそう言ってくれる。でも不安だった。このまま生きていくのが。
 バルコニーでしゃがみ込み、頭の傷跡に指を這わせる。
 記憶が一生戻らないように思えて、なんだかひどく悲しくなった。

 夜の九時に千波が帰ってきた。
「ごめんねえー、遅くなって。今日忙しくて」
 明るくて伸びやかな声が、部屋中に響く。
 体が重くてリビングのソファで横になっていたわたしは、上半身をやっと持ち上げて、「おかえり」と口を動かした。
「なんか食べた?」
 肩に下げたバッグを外しながら、千波が尋ねてきて、頭を左右に振る。
「じゃ、なんかつくろうか? てか、桃花、顔色悪いよ」
 慌てて千波が近付いてきて、わたしの頬に触れた。
「なんか熱いよ。熱があるんじゃない? ベッドに行ったほうがいいよ」
「うん」
 仕事をしてきて千波だって疲れているはずなのに、肩を貸してくれた。
 自分の体が重くて、足を引きずるみたいにして、ベッドに行くとそのまま倒れ込んだ。
「具合が悪いときは先に寝てていいのよ」
 そう言って千波は布団をかけ、額に手を当てた。
 返事をするのも億劫だった。
「お昼はなんか食べた?」
「巽くんが来てくれて」
「巽くんが? なんかあった? いや、その前にアイスノン取ってくるから」
 スカートを翻して部屋を出ていこうとする。かろうじて腕を伸ばして、スカートのすそを引っ張った。
「なに? どうしたの?」
 すうっと大きく息を吸い込む。目の前に、千波の黒い瞳があった。
「わたし、子供みたいよね?」
「なに言ってるのよ。いいのよ、子供で」
「でも、千波、大変でしょう?」
「巽くんになにか言われた?」
「ううん」
 ベッドの脇に膝をつき、千波とわたしは同じ目線の高さになった。
「ただみんなに気を使わせて、悪いなって。巽くんからお姉さんを奪ったの、わたし」
「そう言われたの?」
「巽くんは言わないよ」
 静かに首を振る。
 そうだ。あの子はやさしい。責め立てたりしない。巽くんだけじゃない。千波も伊織くんも責めないし、怒らないし、気長に付き合ってくれて見守ってくれて。
 やさしいから誰もなにも言わない。
「じゃ、気にしないの。わたしね、桃花が生きていてくれるだけでいいの。桃花がここにいてずっと一緒にいてくれればいいの」
「でも、そうしたら、伊織くんと結婚できないよ?」
「ばっかねえ」
 ぱしん、と布団を軽く叩く。
「気にしないの。気にしちゃ駄目。もう寝たほうがいいよ。なんにも考えないで。ね?」
「うん」
 そう答えると千波は安心したのか、部屋を出ていき、アイスノンを持ってきてくれた。
「早く寝てね」
 そうして千波は額を撫でてくれた。
 わたしは眠った。なにも考えずに。なのに涙が零れた。
 心が押しつぶされそうだった。
 みんなは今のままでいいって言うけど、本当は過去がほしい。これまでの時間を取り戻したい。
 このままじゃ、いつもまでもこうやって胸の苦しさが続いてしまう。
 なんの前触れもなく襲われるこの苦しさから解放されたい。
 わたしは、わたしに戻りたい。
 目覚めると、朝だった。体の怠さはなくなった。熱が下がったのかもしれない。枕元にメモ用紙が貼ってあった。
――今日はのんびりしててて。先に仕事に行くから
 千波は出かけてしまっていた。
 見送りができなくて申し訳なく思う。
 ごめんね、と謝る。
 これ以上、誰の重荷にもなりたくない。
 過去が取り戻せないなら、ちゃんとした大人にならなきゃ。
 ベッドから足を卸し、リビングに行く。開け放ったカーテンから眩しい光が降り注いでいる。海もきらきらと光っていた。
 
 その日、千波は夜、というより夕方に帰ってきた。昨日の埋め合わせのつもりらしく、デパ地下で総菜をたくさん買ってきてくれた。それに、和菓子。
 うさぎのおまんじゅうを見て、思わず笑ってしまった。
「なんで笑うのよう」
 喜怒哀楽がはっきりしている千波は頬を膨らませる。
「違うの。昨日ね、巽くんが柏餅を持ってきてくれたのよ。だからわたしってよっぽど和菓子が好きだと思われてるんだなあって」
 くすくすと笑ってしまう。笑いが止まらないわたしを千波は「あら」と目を丸くしている。
「そういえばあったわ。イメージ貧困ね、わたし」
 二人で笑っていると、インターフォンが鳴った。対応しようとしたわたしを千波が制してかわりに出てくれた。
「桃花、悪いんだけど、部屋に行っててくれる?」
 総菜をテーブルに広げようとして、手を止めた。
「なんで?」
「うん、仕事関係の人が来たの。大丈夫、家にはあげない。ここで済ませるから」
「でも、せっかく来てくれたのにそれじゃあ」
「いいから!」
 千波は怒っていた。あからさまに。
 渋々部屋に引きこもってすぐ、千波の怒鳴り声が聞こえてきて驚いた。
 部屋から出てはいけないと言われても気になってしまった。
 申し訳ないけれど、ドアを薄く開けた。だって千波が怒るとこなんて見た記憶がなくて、心配だったから。
「今さら帰って来たって遅いのよ!」
 どきんと胸が痛む。
 仕事関係じゃない、と瞬時に察する。
「なんなのよ、今までさんざん放っておいてさ。これってないでしょ。桃花はあんたを忘れたの。なにもかも忘れたの。迎えって、もう遅いのよ。なにもかも遅いの。会わせないわよ。会ったって桃花はあんたを覚えてないんだから。この一年、どれほどわたしや伊織や家族が大変だったか。そのころあんたはフランスにいたんだよ。桃花が大変だったのも知らないでさっ!」
 わたしが大変? 大変じゃないよ。だってこんなに幸せだよ。みんなよくしてくれるよ。ぜんぜん、大変じゃない。
 ぎゅっとドアを摑んでいた指先に力がこもる。
「誰からここの場所を聞いたんだか知らないけどね、桃花は今、やっと穏やかに暮らしているの。邪魔しないで。絶対に会わせないから帰って!」
 乱暴にインターフォンを切る音がして、慌ててドアを閉めた。
 わたしが大変。フランス。迎え。
 引っ掛かる。わたしの中にある、なにかが叫んでいる。
 思い出して、と叫んでいる。忘れたままは駄目だって。
 突然激しい頭痛に襲われる。頭が割れるようだ。
 ベッドに突っ伏して、頭を抱える。
「ごめんね、もう終わったから。桃花、どうしたの? 頭が痛いの?」
 両方の肩に千波の重みを感じる。
「頭が痛いのね? 寝る? 病院に行く?」
 頭を振る。
 溢れ出そうとしている。なにかが。固く閉じた頭を破ろうとしている。
 痛みに悲鳴を上げて、意識が遠くなっていった。
 目を開けると、そこに千波と伊織くんがいた。心配そうに覗き込んでいる。
「桃花ちゃん、大丈夫か?」
 伊織くんの顔は強張っていた。
「うん、もう平気」
 ゆっくりと持ち上げようとした上体を、伊織くんが支えてくれた。
「もう少し寝てたほうがいい」
「桃花、お水でも飲む?」
「ううん。それよりも伊織くん、来てくれたんだね。ありがとう」
 わたしはまたみんなに迷惑をかけてしまった。
「千波から電話もらってすっ飛んできた。事情は聞いた。一応病院にも電話したけどな、なにしろ、その病気が病気だからな」
 申し訳なさそうに、伊織くんは目を伏せた。
 記憶喪失は病気なんだと改めて思った。病気ならいつかは治るって意味? もちろん聞いてはいけない質問だ。
 ゆっくりと起き上がる。
「もう大丈夫。心配かけてごめんね。千波、仕事の人、帰ったの?」
「う、うん。そう」
「仕事、大丈夫?」
「おれらの仕事なんか気にしなくていい。少し遅くなったけど、みんなで晩飯でも食うか?」
 カーテンの向こう側を見る。もう真っ暗だ。千波が帰ってきたときはまだ明るかった。
「うん、食べよう」
 これ以上、二人に迷惑をかけたくない一心でリビングに行き、千波が買ってきてくれたお惣菜を食べた。食欲なんか全然なかったけど、無理して詰め込んだ。できるだけ笑いながら。二人に心配をかけてくないから。
 おいしいねって何度も言いながら一生懸命食べた。そうしたら二人ともほっとしたように頬を緩ませた。
 泣いちゃ駄目。悩んじゃ駄目。
 無理して笑い続けて、頬の筋肉が痛くなった。それでもがんばって笑った。二人が嬉しそうにしているから。
 だから、笑わなきゃ、駄目。

 翌日、千波はいつもより早く仕事に行った。朝ご飯も食べなかったし、せっかく淹れたコーヒーも口にしなかった。
「ごめんね。今、団体客の対応に追われてて。海外だし、仕事が大詰めなのよ」
 いつもように慌ただしくポニーテールに結いながら、千波は早口に言った。
 朝、髪を整えると千波は仕事スイッチが入り、表情がきりっとする。
「お手伝いできなくてごめんなさい」
 素直に自分の気持ちを口にする。もしわたしに記憶があったなら、きっと二人の仕事の手伝いもできたはずだ。なにもできない自分がどうしようもなくもどかしい。
「いいのよ。だから今日は少し遅くなるかもしれない。あんまり遅いようなら先にご飯食べて寝ててね」
 ソファに置いてあったバッグを引っ掛けて、千波は慌ただしく出かけていった。
 千波にとって朝は戦争なのだ。玄関先で見送って一人になると、掃除やら洗濯をする。だってわたしにはそのくらいしかできないから。でも掃除も洗濯も午前中の数時間で終わってしまう。
 残りの時間はテレビを見るかバルコニーに出てぼうっと海を眺めるくらいだ。今日はバルコニーに出た。
 今日の海は青色にきらきら光っている。空にはもくもくと雲が浮いている。もうじき夏になるよってその雲が教えてくれる。
 バルコニーはそんなに広くはないけれど、海ばかり見ているわたしのために、千波がウッドチェアを買ってくれた。そのいすに腰掛けて、わたしは何時間でも海を眺める。
 海は季節によっても時間によっても、その日の天候によっても変化する。わたしは海を見ているとき、自分の気持ちが落ち着くのを感じる。きっと記憶が無くなる前のわたしも時間があればこうして海を眺めていたんだろうなあって思う。
 唯一、自分の過去を取り戻した気持ちになれる時間だった。
 海が見える場所で育ったからだよってみんなは言う。きっとその通りなんだろう。
 わたしの実家は少し歩くと海が見える場所に建っている。
 大切に育ててくれたわたしの両親。なのにわたしは二人も忘れてしまった。でもお父さんとお母さんなら教えてくれるかもしれない。
 そう思うといてもたってもいられなくなった。
 一人で外に行ってはいけない。電車にも乗ってはいけない。
 千波は毎日そう戒める。知ってる。それがわたしの為なんだって。でもわたしは大人だ。少なくとも見た目は。
 すっといすから立ち上がり自分の部屋に行って財布の中身を確かめる。千円札が三枚しか入っていない。千波が現金を持たせたがらないから。
 でもわたしは子供じゃない。
 財布をバッグにしまい、わたしは一人で外に出た。
 もうすぐそこまで来ている夏を思わせる太陽が輝く空の下、わたしは急ぎ足で、駅に向かった。
 
 かつてわたしが住んでいた家は、千波と暮らすマンションの最寄りの駅から三十分ほど電車に乗らなければいけない。ほどよい距離だ。きっとそのあたりもみんなで考えてくれたんだと容易に想像がつく。
 三十分、電車に揺られて駅のホームに降り立つと一度はエアコンのおかげでひっこんだ汗がまた浮かんできた。
 改札をくぐり、たぶん記憶があったころは毎日のように通ったと思われる道を歩く。駅前のにぎやかな商店街を抜ければすぐに住宅街になる。その一角に両親の住む家がある。二階建てのどこにでもある家だ。
 自分の家で、もちろん鍵も持っているが、インターフォンを押すとすぐにお母さんが現れて、口元を覆ったと思った次の瞬間、涙がたまり始めた。
 肩を超えた髪をバレッタでひとつにまとめ、ラフなTシャツにジーンズという格好で出迎えたお母さんは、わたしをぎゅっと抱きしめた。
 甘い香りがする。香水とかそういうのではなくて、たぶん、お母さんの香り。
 しばらくの間、お母さんは玄関のドアを開けたまま、わたしを抱きしめ続けた。やがてそっと腕を離すとたまった涙を人差し指の腹で拭った。
「元気そうで安心した。千波とはうまくやってる?」
 そう尋ねたお母さんの声は少し震えていた。
「うん、大丈夫。心配しないで」
「よかった。さ、あがって」
 背中に手を回され、またお母さんのぬくもりを感じた。
 記憶がなくなった娘を手放して、友人の千波に預けているお母さんはどんな気持ちでいるんだろう。
 促されて家に入り、リビングに通されてソファに座ると、お母さんは冷たい麦茶とおせんべいを皿に盛って出してくれた。
 リビングの棚には家族の写真があった。どこかの遊園地のようだ。わたしと巽くんとお母さんとお父さん。四人で楽しそうに笑っている。もちろんわたしにはそのときの記憶がまったくない。そればかりかここに住んだという記憶もない。当然思い出もなく、お母さんという人だとわかっていても実感がない。
 申し訳ない気持ちになりながら冷えた麦茶を一口飲む。
「どう、体の調子は?」
 トレイを持ったまま向かい側に座ったお母さんはその問いを皮切りにしてあれこれと質問してきた。
 体のこと、千波との関係。日々の生活。
 矢継ぎ早に聞かれて思わずどもってしまった。
「ごめんなさいね。一度にたくさん聞いても答えられないわよね」
 そう言ったお母さんは少し悲しそうな笑みを浮かべた。それから視線をあちこちに泳がせ、最後は思い切ったように口を開いた。
「それで、その……記憶は少しよくなった?」
 遠慮がちに聞かれて、思わずスカートを握ってしまった。
 答えられなかった。だって記憶はなにも思い出せていない。
 答えられないわたしを見て、お母さんは察してくれたらしい。すぐにまたごめんなさいと謝ってきた。
「今夜はゆっくりしていけるの? 千波にはちゃんと伝えてきた? なんならお母さんが連絡してあげるから泊っていけば? 今日は巽も早く帰るの。それにね、芽衣ちゃんも来るのよ。久しぶりに」
 ぽかんと口をあけて、お母さんを見る。
「芽衣ちゃんよ。思い出して。巽の彼女の」
 そう言われても思い出せなかった。巽くんに彼女がいるのは知っているけれど、それだけだった。
「ほら、桃花だってかわいがっていたじゃない、そうだわ、写真を見てみる。お母さんのスマホに入ってるから」
 勢いをつけて立ち上がったお母さんはスマホを手にしてわたしの隣に座り、芽衣ちゃんの写真を見せてくれた。ショートカットの元気のよさそうな女の子だ。家族で撮った写真もあるし、お母さんと二人で撮ったものもある。
「ほかの写真を見てみて。これはね、みんなで海に行ったとき。こっちはスキーね」
 次々に写真を見せられて困惑した。
 どれもこれも覚えがないものばかりだ。
 どこで撮ったのかもいつ撮ったのかも、なにも思い出せない。
「ねえ、桃花。このスキー場でね、巽は転んで捻挫してね。お父さんがおぶったのよ。覚えているでしょう」
 そう言ってお母さんはスマホを突き付けるようにわたしに差し出してきた。
 思い出そうと必死になった。でも思い出せない。
 頭が割れるように痛くなってくる。
 わたしの気持ちを置き去りにして、お母さんは写真をめくる。
「あ」
 思わず声をあげた。
 そこに映ってたのは、薄い茶色の瞳をして、ふわふわの髪を風に揺らしている高校生の男の子とわたしだった。
「待ってお母さん、この人」
 指で指し示すよりも先に、お母さんはスマホを引っ込めてしまった。
「ごめんなさい。無理はいけないのにね。お母さん焦っちゃったわ。ごめんなさい」
「お母さん、その人は誰なの? わたしのなんなの?」
 お母さんの動きが止まった。
「なんでもないわ。たまたま街で見かけてかっこいいから桃花と撮ってもらっただけ。お母さん、メンクイだから」
 戸惑った笑みを浮かべているのを見て、嘘だと確信した。
 お母さんの腕を取った。すがるようにお母さんを見る。
「嘘だわ。嘘よ。そうでしょ、わたしの知っている人だわ。だから写真を持っているのよ」
「違うわよ」
「嘘よ」
「違うの」
 押し問答が続いた。
「違うって言ってるでしょ!」
 苛立ったような声がリビングに響いて、お母さんの腕を離した。
「ごめんなさい。お昼まだでしょう? 一緒に食べましょう。そうだわ、巽くんに帰ってきてもらいましょう。桃花が来てるって言えば喜ぶわ」
 巽くんなんてどうでもいい。わたしが知りたいのは……。
 その先は言えなかった。みんななにかを隠してる。巽くんも千波も伊織くんもお母さんも。
 きっと隠さなければならない、真実が言えない事情があるのだと思うしかなかった。それに思い出してもわたしにはなんの得もないのかもしれない。実際具合も悪くなってしまったりする。知らない方が、なにも思い出さない方がいいこともあるのだと思うよりほかに方法がなかった。

 昼ご飯には間に合わなかったが、夕方、巽くんが予定よりも早く帰宅した。お母さんが知らせたのだ。巽くんは駅から走ってきたのか、リビングに入ってきたときは、息を切らして両方の肩で息をついていた。
 鼻の頭には大粒の汗が浮かんでいる。お母さんとキッチンに立っていたわたしは思わず吹き出してしまった。
「びっくりしたあ」
 肩で息をつきながら、巽くんはうれしそうに息を吐き出した。
「突然思い立ってきちゃったの」
 千切ったレタスを入れたボウルを持ちながら、ぺろりと舌を出す。
「お父さんは?」
 隣で天ぷらを揚げていたお母さんに、巽くんが尋ねた。
「もう帰ってくるわ。芽衣ちゃんは?」
「早めに来るって」
「そう、それなら久しぶりに五人でお夕飯ね」
 天ぷら鍋の中に菜箸を入れてお母さんはうれしそうに微笑む。
「五人で夕飯なんて桃花の事故以来初めてね」
 退院してそのまま今のマンションに越したのだ。だからわたしにはこの家で暮した記憶がなにもない。こうしてお母さんと二人でキッチンに立っていても、知らない赤の他人の家に来たみたいで居心地がなんとなく悪かった。
 お母さんともろくに会話をしていないかったせいもある。でも巽くんが帰ってきてくれてそんな気持ちは払拭された。
 お母さんよりも巽くんと会っている回数のほうが多いせいだ。
 それからすぐに芽衣ちゃんがやってきて、お父さんが帰ってきた。五人でテーブルを囲む。お父さんもお母さんもとてもうれしそうだった。
 夕飯のテーブルを囲みながら、あまり帰らずにいて申し訳ない気分になる。
 芽衣ちゃんは写真で見た通りの勝気そうなボーイッシュな女の子だった。今はどこかの会社で事務員をしているという。
 何度も遊びにきているのか、わたしよりもお父さんと会話が弾んでいる。
 少し、羨ましい。だってわたしはお父さんともお母さんともあまり話ができなかったから。かわりに巽くんががんばって盛り上げ役をしてくれている。
 心の中で手を合わせる。
 巽くん、ありがとう。情けないお姉さんでごめんねって。

 夕飯が済んで、お母さんがテーブルの上の皿を片づけ始めると、あんまり遅くなるといけないからって巽くんが言い出した。
「送ってくよ、車で。芽衣もついでに」
 いすから立ち上がりながら、巽くんはわたしと芽衣ちゃんの顔を見ながら言った。
「えー、わたしはついでなのう」
 ぷううっと頬を膨らませている芽衣ちゃんは、表現が豊かな子に見えた。
「大丈夫。まだ真夜中って感じでもないし、電車で帰るわ。巽くん、明日も仕事でしょう。いいのよ、電車くらい乗れるから。芽衣ちゃんも駅まで行くんでしょう?」
 巽くんの隣に座っていた芽衣ちゃんに視線を投げる。
「そうです」
「じゃ、駅まで一緒に。芽衣ちゃんがいれば大丈夫よ。あんまり心配しないでね。じゃ、帰るわ」
 バッグを持って立ち上がって、芽衣ちゃんと一緒に玄関まで行った。後ろから追いかけてきた巽くんは、送ってくと言って聞かなかったが、わたしは丁重にご辞退して、芽衣ちゃんと二人で夜の道を歩き始めた。
 住宅街にある道は、家々のおかげで明るかった。ところどころ電灯もきちんとついている。ただ夜になったので気温が下がって肌寒かった。両方の腕をさすりながら歩いた。
「巽、やさしいですよね」
 もう少しで商店街、というところで芽衣ちゃんが口を開いた。それまでの明るさがなくなっていて、口調は堅い。顔をちらりと見る。その横顔もやっぱりちょっと強張っている。
「大事なお姉さんになにかあったら困るんですよ。だからあんなに必死になって。事故に遭う前からお姉さん好きは知ってたけど、ここまでとは思わなかった」
「ごめんなさい」
 なんて言っていいのかわからなくて、思わず謝ってしまった。
「いいんですよ。でも、事故に遭ったのって自業自得じゃないですか」
 ぴしゃりと言ってから芽衣ちゃんは足を止め、わたしの方を見た。唇が少しけいれんしている。
「そう、なの?」
 事故以前の記憶はない。だからどうして事故に遭ったのかも覚えていなかった。それに誰も教えてくれなかった。知る必要がないからだといつだったか千波が言ってくれた。
「そうですよ。あんな男と一緒にいたのが悪いんです。おとなしく伝馬先輩といればよかったのに」
 思わず芽ちゃんの両腕を、ぎゅっと握っていた。
「伝馬先輩って?」
 芽衣ちゃんがぽかんと口を開けたと思った次に瞬間、けらけらと笑い出した。
「本当に記憶がないんだ。嘘かと思ってた」
「誰、その人?」
「伝馬陸。高校じゃ有名だったんですよ、二人は」
 伊織くんと同じ名前を口にした。
「二人って、わたしとその人?」
「そうですよ。覚えてないんじゃ無理ないですけどね。でもわたしが言いたいのはそんなことじゃないんです」
 摑んでいた手を乱暴に払われて、芽衣ちゃんに睨みつけられた。
「巽が言うんです。お姉さんがよくなるまで結婚はしないって。一体いつになったら記憶を取り戻すんですか。嘘じゃないっていうのはわかったけど、迷惑なんですよっ」
 怒って興奮しているのか、芽衣ちゃんは短い息を絶え間なく吐き出している。
「いつって言われても……」
「本当にないんですか。いつ思い出すのかもわからないんですか。ひどい。巽もひどいけど、一番ひどいのはあなただわっ」
 そう吐き捨てると、芽衣ちゃんはアスファルトを蹴って走り出した。
「待って、芽衣ちゃん」
 言葉は出てくるのに、行動には移せなかった。
 ただ小さくなっていく芽衣ちゃんの姿を見つめていた。
 一人になると情けなさに包まれてどうにもできない感情に襲われる。
 わたしってみんなに迷惑をかけるだけの存在なの?
 ぽろりと涙が一粒零れた。

 千波と二人で暮らすマンションのドアを開けた。部屋の中は真っ暗だった。千波はまだ帰っていない。
 肩にかけていたバッグをソファに下ろし、そのままどすんと座り込む。
 家に行って、かえって混乱してしまった。芽衣ちゃんに言われた様々なことも気になっていた。なにより自分のせいで巽くんの結婚が進まないと知らされたのがショックだった。
「こんな姉じゃあねえ」
 ため息とともにそんな言葉が飛び出してきた。
 芽衣ちゃんに罵られたのが一番こたえた。無理もない。自分が芽衣の立場だったらやっぱり同じように思う。
 一体、自分は誰なんだろう。本当にあの家で暮して、巽くんとは姉と弟なのか。千波は本当にただの同級生なのか。そして伝馬陸という人とはどんな関係にあったのか。
 考えれば考えるほど、頭の傷跡がずきずきと痛む。
 頭を抱えて必死に痛みに耐え、記憶を取り戻そうとするけれど、なにも思い出せない。気ばかり焦る。
 このままではまた千波に迷惑をかけてしまう。
 もうこれ以上誰にも迷惑はかけたくない。
 せめて今、自分にできることをしなければと、午前中のうちに干した洗濯物を取り込み、片づけをし、シャワーを浴びた。
 濡れた髪を乾かしているうちに千波が帰ってきた。
「ただいまあ」と千波の元気な声がする。
 迷惑をかけないように。
 ドライヤーのスイッチを切ってから、自分に言い聞かせて、リビングで待つ千波の元に行った。
 千波の化粧は崩れて、顔色が少し悪かった。よほど忙しかったのだ。こんな千波に迷惑をかけたくない。
「おかえりなさい」
 必死で笑顔をつくる。
「ただいま。家に帰ったんだって? 巽くんから連絡もらって驚いた。電車にはちゃんと乗れた? 迷子にならなかった?」
 本気で心配しているのを感じる。
「大丈夫。ちょっとお母さんの顔が見たくなって」
「まあ、そんなときもあるよね」
 疑いもせず、千波はバッグを肩から外す。
「お腹すいてる? なんかつくろうか?」
 疲れている千波にしてあげられるのは、そのくらいだ。
「あ、大丈夫。伊織と食べてきた。桃花も家に帰ったしね」
「じゃ、久しぶりにデートしたのね」
 口元に両手を当てて、わたしは意味深に千波を見た。
 このところ二人でどこかに行ったというのはほとんど聞いていない。二人はいつもわたしのために時間を割いて、わたしが元気になりそうな場所ばかり連れていってくれる。本当は二人で行きたいはずなのに。
「そんなんじゃないわよ。仕事の続き」
「いいのよう、照れなくても」
 肘で千波の脇腹をつつく。
「本当そんなんじゃないってば。あ、そうそう。今度の日曜日、また三人でお出かけ計画を立てたから」
 ぽん、と千波は手を叩く。
「いつも三人でってなんか悪いわ」
 本心だ。嘘はついてない。たまには二人きりで会ってほしい。恋人同士なら仕事以外でも一緒にいたいはずだ。
「いいのよ。ちょっと季節的には早いけど、海に行こうと思うの」
「海……」
 バルコニーに目を向ける。船が浮かんでいて、ところどころ海面が光っている。
「そう、海。お弁当作ってさ、のんびりするの。どう?」
「楽しそう!」
 両手を顔の前で合わせる。
 うれしかった。二人の心遣いが。
 記憶なんか戻らなくてもこうしてわたしは日々楽しくやっていける。芽衣ちゃんには申しわけないけど。巽くんにも悪いとは思うけど、これが今のわたしの精一杯だった。
 千波の前で、わざとらしくはしゃいでみせた。
 
 日曜日、わたし達は朝から大騒ぎだった。
 千波は唐揚げを揚げたり、卵焼きを焼いたりした。わたしはその隣でせっせとおむすびを握った。
 梅干し、たらこ、鮭。
 おかげで手のひらが真っ赤になった。千波も油と健闘し、全部つくり終えるとバスケットに詰めてマンションを出た。
 夏かと思えるほどの日差しに、目を細める。
 今日は海に行く。
 千波と伊織くんとわたしと三人で。
 泳ぐのはまだ早いけど、波打ち際を素足で歩くのはできそうだ。お昼には二人でつくったお弁当を三人で食べる。想像するだけで気持ちがすっ、と軽くなる。
 二人のアイディアに乗っかった形だけど、素直にうれしかった。
 きっとこのところわたしがふさぎ込んだり、悩んだりしていたのが、伝わってしまったから気を使ってくれたんだろう。
 笑わなきゃ、て思って、泣いちゃ駄目って何度も言い聞かせていたけれど、きっと顔には出てしまっていた。だから気分転換に提案してくれたのだ。
 二人できゃあきゃあはしゃぎながらエントランスから出た。突然、千波の足がぴたりと止まって、わたしは派手に背中に額をぶつけてしまった。
「急に止まらないでよう」
 ぶうっと文句を言ってから千波の顔を見る。両目が吊り上がっていた。その視線の先に、男の人が立っていた。
 茶色の髪が風に揺れていた。瞳も薄い茶色をしたその人は、千波ではなく、わたしを見つめていた。
 お母さんのスマホの中にあった写真の人だ。
 お母さんはたまたま街で撮っただけと言っていた。
 ぎゅっと胸を摑まれたみたいに苦しくなる。動悸が早くなる。
 おかしい。だって今日は楽しくみんなで海に行って、それから……。
「なにしに来たの」
 そう言った千波の両方の肩が震えている。
「おれ、やっぱり、どうしても……」
 伏し目がちに男の人は言った。
「どうしてもなに? 勝手ばかり言わないでよっ!」
 千波は背中でわたしを隠した。
「会いたくて、約束、したんだ。迎えに来るって。だから、おれ。桃」
 ぎゅっ!
 胸の苦しさが増す。
「迎えに、来たんだ」
 一歩前に踏み出された足が見えた。
「駄目っ!」
 わたしの前にいた千波が、大きく両手を広げる。
「来ないでっ! 桃花はもう忘れたんだよ。伝馬のことは全部。なにもかも」
 伝馬。
 その顔をもっとちゃんと見ようとした。
 だってこの人が伝馬。芽衣ちゃんが言っていた伝馬先輩。伊織くんが言っていた天馬陸。
 伝馬は戸惑った表情をしていた。
「桃、おれ、迎えに来たんだ」
 腕が伸ばされる。わたしに触れようとしているらしかったが、次の瞬間、のどの奥から悲鳴が迸った。
 やめて、来ないで。もう忘れたんだから。なにもかも捨てたんだから。時間の中に置き去りにしてきたんだから。
 もう一人のわたしが心の中で叫んでいる。
 伝馬って人が、泣き出しそうな顔をしている。
 知ってる。わたしはこの人を知っている。でも、会えない。もう会ってはいけない人。
 悲鳴がさらにひどくなり、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
 わけのわからない意味不明な言葉が、悲鳴と一緒になって迸る。
 千波に両方の肩を抱かれた。
「わかったでしょ。なにもかも伝馬が原因なの。桃花がこうなったのは、伝馬のせいなの。今になって勝手ばかり言わないで。早く帰って。伝馬がいると桃花が興奮する。いなくなって。ここから。桃花の前から。ここには二度と来ないでっ!」
 渦が巻いている。頭の中も心の中も。
 抱きかかえられてわたしは部屋に戻り、部屋にこもって泣いた。なんだか悲しくて涙が止まらなかった。なんでこんなに悲しいのか、自分でもよくわからなかった。
 ただ悲しくて悲しくて、涙があとからあとから零れてきた。
 ベッドに顔をうずめていつまでも泣き続けた。
 千波が頭を撫でてくれている。
「もう大丈夫だから。伊織ももうじき来るから」
 なにが大丈夫なのか。心は嵐に吹かれているのに。
 ちっとも大丈夫じゃない!