きみに ひとめぼれ


息を切らしながら教室にたどり着くと、彼女は今まさにかばんを持って帰ろうとしていた。


「よお」


彼女は驚いて目を見開いた。


「勝見君? 今部活中でしょ?」


彼女を見つめたまま息を整えようとした。

でも心臓がドクドクといつまでたっても落ち着かない。

それどころかどんどん速くなって、ますます大きな音を立て始める。


「坂井さんも、帰ったんじゃなかったの?」


声が震えていた。

だけど、それを表に出さないように必死だった。

彼女に気づかれないように、ふーっと大きく息を吐く。


「ああ、うーん……」


と、彼女はあいまいな返事をして下を向いた。

口元が緩んでいるのがかすかに見えた。

最後のひと吐きを大きく吐いて、俺はここに来るまでの間に何度も心の中で叫んだ言葉を解放した。


「なんか、会いたくなって」


不思議だった。

本当に自分ではなくなってしまったような、変な感覚になる。

俺がこんなこと、言えるはずがない。

今日の俺は、どうかしている。


俺はごくりとひとつ唾を飲み込んでから、ゆっくりと彼女の方に歩み寄った。

俺が近づいていくと、彼女は後ずさりするように体を後ろに引く。

彼女とぶつかりそうなぐらいの距離まで近づくと、触れてもいないのに、彼女の体温や感触が、彼女のすべてが、びりびりと伝わってきた。

俺はそっと手を伸ばした。

それはとても自然に。

彼女の柔らかな髪に指先が触れた。

形のいい頭の感触を確かめるようにそっと手を動かす。

触れたことのない、柔らかでさらさらとした感触に、思わず鼻から息がどっと漏れる。

呼吸が荒くなるのを抑えるのに必死だった。

彼女は下を向いて固まったまま動かない。

小さく見える彼女の姿が、なんだか愛おしかった。

かわいかった。

そんな気持ちが、こわばっていた手の力を奪っていく。

そっと何度か彼女の頭をなでた。

自分が思う一番の優しさで。

これが正解かどうかわからないけれど。


「勝見―」


廊下の遠くの方で園田の声がする。

俺はぐっと眉間に力を込めた。

それと同時に彼女の頭に置いていた手にも力をこめた。

俺の手は、彼女の小さな頭を自分の体に引き寄せ始めた。

彼女の体は俺の力に任せて動いた。

彼女の頭部が、俺の胸のあたりにすとんと落ちる。

その瞬間、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。

その香りに、手が震える。

心臓の高鳴りが限界だった。

彼女には、この心臓の音が聞こえているだろうか。

心臓の動きまで感じ取られているんじゃないか。

呼吸をするのが苦しかった。

のどがカラカラで、またひとつ、つばを飲み込んだ。

ごくりという音が、はっきりと耳に聞こえる。


「こんなの、ダメかな?」


もう震える声しか出ない。

彼女は俺の胸のあたりで、いったいどんな顔をしているんだろう。

首が小さく横に揺れたのが分かった。


「ダメ、じゃないよ」


その小さな声を拾い上げると、俺は両腕に力を込めた。

彼女の髪の匂いがさらに濃くなる。

彼女の体温も体全身で感じられる。

腕から伝わる皮膚のなめらかな感触や、カッターシャツ越しに感じる体の柔らかさに、頭がしびれてくるようだった。

彼女の両腕が、俺の腰のあたりにそっと置かれた。

一瞬、体に電流が流れたような感覚が走る。

だけど、それはだんだん収まって、彼女の手が置かれている部分だけじんわりと温かくなってくる。

少し、くすぐったい。


「勝見君、シュートするんじゃん」


急にそんなことを言うから、腕の力がふっと抜けた。


「今日だけだよ」


「かっこよかったのにな」


もう一度彼女を抱きしめなおして、何度も何度も彼女の頭をなでた。

唇をそっと彼女の頭に押し付けて、その髪の柔らかさと甘い匂いを自分の体の中に閉じ込めようとした。


「勝見―」


声がだんだん近くなる。


勘弁してくれよ、園田。

来ないでくれ。

来ちゃだめだ。

時間が止まってくれたらいいのに。

いや、そんな贅沢は言わない。

園田だけでも止めてくれ。


足音がだんだん近づいてくる。

俺はぐっと彼女を自分から離した。

この甘い時間を、彼女の柔らかな感触を、その匂いを、すべて惜しむように。


「ごめん」


よくわからないけど、そう言った。

そう言って、彼女を残して教室を出た。

出てすぐに、園田とぶつかりそうになった。

顔が合わせられるわけもなかった。

俺は今、いったいどんな顔をしているんだろう。

こんな顔、こいつには見せられない。


「顔洗ってから行くわ」


それだけ言って、園田から離れた。