夜の9時を過ぎた頃だろうか。

急だし、変なことは分かっているが、

母が、目の前にいるのにいない気がして、
何故か急に熱い涙が頬を伝った。

人は、不吉な事が起こる前に何かを察する事がある。未来の自身の不幸を感じるのだ。

母はその時私の方を見ていなかった。
いつもの”私が居なくなっても”の話を
優しい声で話している。
お母さんは最近あまり声を出せないと言っていたので、治ったのなら良かったとは思った。でもまだ涙は止まらない。
私は母の手を握った。
何故かそうしなければ後悔するような気がした。
母は私の涙に驚いたが、
直ぐにいつもの顔になり橙の瞳を私に向け、
いつもの笑顔を見せた。

でも、体の奥底から恐怖が襲うような。。

母が私に手を伸ばした瞬間、家の、ただでさえ古い扉を割るようにして強く開ける音がした。

『怪…ぶ…つ…?』

思わずそう声が出た。

怪物は話が出来そうにもなく、猛獣のようで、私達を襲おうとしているのは見た瞬間でも何となく分かった。

母の方を確認する暇もない。
ただ分かるのは、さっきと同じ状況ならば
お兄ちゃんは私の片腕を抱きながら寝ている。
母に迫るこの怪物から守れるのは、
今この状況では私しかいなかった。

私は状況整理に長けていた。

この大きすぎる怪物を一瞬で受け入れ、
どう母を守るか考えたのは
今の私でも褒められる。

母は私やお兄ちゃんのように
素早く逃げることが出来ない。
それも踏まえてどうするか____
それは幼い私にはどうすることも出来ない。
とっさに、でも確実に感じた。

でもやってみなければいけない。その時、私は怪物が見ている視線の方向は私なのだと気づいた。と、言う事は。私が何処かに動いたとしても怪物が追うのは私だ。それは私にとってかなり安心出来た。私はまず作戦を立てた。
私はどうしたんですかと無知な振りをして玄関近くの台所のコップに手をかける。襲ってくるかは分からないが。

そういえば…
母に昔聞いた怪物…否、”鬼”というの物に特徴が一致していた。

本当に”それ”なら、襲ってくる。そのコップを打ち付け、大声でお兄ちゃんを起こして裏口から逃げようと言う作戦を立てた。それが正しかったのか。それは今でも分からない。囮になる、というのは幼いからか考えるのが出来なかった。自分が死ぬのも大切な家族が死ぬのも想像も出来なかった。
ただ、戦うことを選んだ。
それが自分が死ぬ可能性がある事も考えていなかった。

玄関に当てた視線を切り替え、
右腕で眠るお兄ちゃんの方を一瞬で確認する。お兄ちゃんはあまり勘は鋭く無く、起きる気配が全く感じられなかった。それを確認した瞬間、

私は行動に出た。


お兄ちゃんの両腕を振り解き、怪物の方を見ずに台所の方へと歩く。
その時に母の方を確認する。母は何があったのかただただ呆然と、でもよく見ると手指が真冬のように震えている。

”血だらけですね。大丈夫ですか?お茶でも出しましょうか”

下を見ながら微笑み、慣れたような手つきを見せながらコップに手を付けた。
案の定。
この怪物は話せるような物では無かった。
醜い鳴き声の様なものを上げたが…何と表せば良いのだろう。子供がお母さんに菓子をねだるような。否、それは全国の子供に失礼だ。
母に影響されて震える指を抑えながら、近づいてくる怪物に向かって投げつけた。
パリン、と陶器が割れる音がした。

当たった。

怪物は1回よろめいた。
だが、怪物は私を掴もうと手を伸ばし下がらない。下がって母に襲いかかっても迷惑なのだが。口がまるで絵本で見たような鬼の形相をしていて、牙の様な形をした歯があった。私は台所の薪を手に取り、大きく開かれた怪物の口に挟み、抵抗した。
もう私は子供では無い。8歳なのだ。
もう太鼓踊楽に参加したいとも言うようなお子様では無いのだ。
恐怖心を抑え、私は前を向き、お兄ちゃんに届くように全力で声を上げた。
”お兄ちゃん!お母さんと裏口に!”
お兄ちゃんは目が覚めたようで、えええ!と動揺しているようだ。表情は忙しいのであまり見えないが取り敢えずこちらは思ったより、何とか抵抗すれば大丈夫そうだ。

この怪物は子供のようで、私と同じくらいの背だった。でも、最初入ってきた時私が巨大に見えたように、
かなりの威圧感は持ち合わせている。
力は強くはなかった。体勢が変わらなければ2時間くらいは持ちそうな感じだ。なんだ。やっぱり私も、もう大人じゃないか。

一瞬お兄ちゃんの方に視線を走らせる。
お兄ちゃんは私を心配しながらも母を背負っているようだ。その時、私に見せるようにお兄ちゃんが裏口の鍵をちゃらちゃらと鳴らした。
私は安心した。

行こう。

私は噛まれて歯型が付いた薪を離し、お兄ちゃんが裏口に走ったのを見計らい裏口に走った。怪物は付いてくる。私が裏口を出ると、お兄ちゃんが扉を強く閉めると鍵をかけた。
こんな状況で寝てたなんてごめんな、と頭を撫でながら言われた。



何か忘れているような。

”待って。玄関の扉閉めなくちゃダメじゃない?”

お兄ちゃんは三太九郎が存在しないと知った時くらいに大きく目を見開いた。寝ぼけているのだろう、仕方がない。
私は自分が持っている薪を見て、思いついた。
お兄ちゃんにお願いして、
そっと玄関の方に周って、玄関口の引き戸の溝に薪をはめて貰った。お兄ちゃんは上手くいったぞと言わなくても分かるご機嫌顔で帰ってきた。母は裏口の椅子に座っている。母はまだ震えが止まないのか、体調が悪いのか、一言も喋らなかった。