「ただいまー。梢。」

「お帰り。お母さん。夕ご飯できてるよ。」

梢は仕事から帰ってきた母の姿に笑顔で声をかけた。

「はあ…。お腹空いた。今日のメニューは何?」

「今日はビーフシチューだよ。」

「わあ!美味しそうー!梢は本当に料理が上手よねー。あたしの娘とは思えない位だわー。いつもいつもありがとうね!」

勢いよく母に後ろから抱き着かれ、びっくりして皿を取り落としそうになる。

「わわっ!母さん、急に抱きついたら危ないよ!」

手洗いとうがいをするように促し、梢は煮込んだシチューを皿によそった。



「んー!美味しいー!お肉、凄い柔らかいー。」

美味しそうに夕食を食べる母の姿に梢は笑った。

「今日もお仕事忙しかったの?」

「まあね。中途採用で雇った派遣社員の指導とか発注のトラブルとかでちょっとバタバタしちゃってね。ごめんねー。後もう少ししたら、仕事も落ち着くからそれまでは家事の事任せちゃって悪いわね。」

「大丈夫だよ。私、家事をするのは好きだから。母さんは仕事に専念して。」

「梢ー!ありがとう!」

感激したように目を潤ませる母に梢は微笑んだ。

「そういえば、学校はどう?楽しくやってる?」

梢はピクリ、と一瞬スプーンを持つ手をびくつかせるがすぐに笑顔を浮かべると

「うん。すごく楽しいよ。勉強はちょっと大変だけどノートを貸してくれる子もいるし、学校帰りにカフェに行ったりゲーセンに行ったりしたんだ。」

「そう?なら、良かった。誰かに虐められたりしたらすぐに母さんに言いなさいよ。学校に抗議してやるんだから!」

「ありがとう。母さん。」

頼もしい母の言葉に梢はそれだけで救われた。母子家庭で女手一つで自分を育ててくれている母に余計な心配はかけたくない。
母と一緒にご飯を食べたり、他愛ない話をする。そんな何気ないやり取りが梢にとっては幸せな一時だった。その時、電話が鳴った。

「誰だろう?」

「ああ。いいわよ。梢。あたしが出るわ。」

電話に出ようとする梢だったが母が代わりに出た。

「はい。もしもし?」

―あ…、グラス空になってる。

電話の対応は母に任せ、梢は母親のグラスにワインを注いだ。
だから、気付かなかった。電話をとった母の表情が固まったことも。無言になったことも。

「…何度、言えば分かるの。電話してくるなって言ったでしょ!?
こっちはあんたの面なんて、二度と見たくないし、声も聞きたくないっていうのに!…寝言は寝てから言いなさいよ!梢には絶対に会わせないから!もうかけてこないで!」

母がこんなに怒った姿は久しぶりだ。気が強いがいつもおおらかで溌溂とした笑顔が特徴の母の怒りに梢はびくりとする。そして、電話の相手が誰なのか予想がついた。母をここまで怒らせた人物には心当たりがあった。無理矢理電話を切った母に梢は恐る恐る聞いた。

「もしかして…、今のお父さん?」

「…そう。全くしつこいったら…。」

目頭を抑えて溜息を吐く母の姿に梢は目を伏せた。

―お父さん…。

「また、梢に会わせて欲しいってしつこくってね。厚かましいにも程があるわ。梢、心配しないで。あんな最低な父親に大切な娘を近づかせてなるものですか!面会なんて絶対に許さないから!」

父親を毛嫌いしている母の姿に梢はうん。と頷いた。
母がこれ程に父を嫌う理由を梢は知っている。
でも…、梢には分からない。父親を好きなのか嫌いなのか。
二つの相反する感情が入り混じったような複雑な感情…。
自分の事なのに父に対するこの感情が分からないのだ。
小さい頃は公園で遊んでもらった記憶もある。
梢はギュッと手を握りしめた。
でも…、自分が父に会いたいと言ったら、母はどう思うだろう。母が頑なに梢を父親に会わせないのは梢を心配してくれているからだ。
その母の気持ちを踏みにじる訳にはいかない。
やっぱり、会わない方がいい。こんな気持ちで父親に会っても冷静ではいられない。それに、母親もそれを望んでいないのだ。
父親と母親、どちらかを選べといわれたら梢は迷うことなく母親を選ぶ。
今、こうして母と暮らしていることが梢にとっての幸せなのだから。
母の思いを踏みにじってまで父親に会いたいとは思わない。
梢を守ろうと必死になってくれる母を裏切りたくない。だから、梢は父親に会いたいとは思わなかった。



「ふう…。」

風呂上がりに髪を乾かした梢はベッドに腰掛けた。

―どうか、明日も一日が無事に過ごせますように。

梢はそう願った。