溺愛は蜜夜に始まる~御曹司と仮初め情欲婚~

梨乃の手からバッグを取り上げようとする殺気立った男性の声がその場に響き、梨乃は恐怖で目を閉じた。
胸の中のバッグを必死で抱え、砂利交じりの地面の冷たさに震える。

「やめろ」

突然辺りが明るくなった。
鋭い声に恐る恐る目を開くと、ひったくりが現れた角からライトを手にした警官が駆け寄ってきた。

「おい、なにをしてるんだ」
「あ、あの男です、さっきも私の後をついてくるから怖くて」

警官に続いて現れた女性が、ひったくりを指さし、大声で叫んだ。

「な、なんだよお前ら」
「女性相手にひったくりを繰り返しているのはお前か」

警官はそう言うが早いか、梨乃に馬乗りになっていた男をあっという間に羽交い絞めにした。

「なんだよ、俺がなにをしたっていうんだ」
「うるさい、おとなしくしろ」

警官は、暴れる男の手を背中でまとめ上げた。

「うっ。痛いだろ、離せよ」

ひったくりのうめき声を間近で聞きながら、梨乃は丸めていた体からようやく力を抜いた。
遠くからパトカーのサイレンの音も聞こえてくる。

「大丈夫ですか?」

ここまで警官を連れてきた女性が、梨乃の傍らに膝をついた。

「は、はい……大丈夫です」

梨乃は助かったとホッとしながらゆっくりと体を起こしたが、気持ちが緩んだせいか目眩を覚え気分が悪くなった。

「あ……」
 
どうしようと頭の中で繰り返しながらも、くらくら揺れる視界がどんどん小さくなり、そして。

「しっかりしてくださいっ」

女性の声を聞きながら、梨乃は再び地面に倒れ込んだ。
気が遠くなる意識の中で、梨乃は胸に抱えたバッグの中からスマホの着信音が聞こえたような気がしていた……。