今から用事があるから、夜話そうと、まなみの怒濤の質問攻めから一旦逃れて、奈津は一人帰路についた。今日は、こっち方面、誰もわたしとは帰ろうとしない。奈津は、日陰で自転車を停めると、タオルで額の汗を拭き、ラインをうった。

『部活終わったよ。』
『おっけ!うち来る?』
『うん!待ってて。』

たわいもないやりとりをする。ラインが届き、返事が返ってくる・・・。ただ、それだけのことで、不安はチャラになり、しおれそうな心が息を吹き返す・・・。まるで魔法みたいに・・・。
奈津はスマホを胸の前で握りしめる。コウキはスマホを握ったまま両手を挙げる。
お互いが切り離されて、存在すらも感じ取れなかった日々を思い出す。あの時は、唯一繋がっているだろう空さえ無言だった・・・。

昨日の夜・・・ 

「スマホになったんだね。」
「ほんとは、まだ、ちょっと怖いけど・・・。ありがと。奈津のおかげなんだ。」
別れ際、コウキは静かにそう言った。何が彼を怖がらせるのか、何がわたしのおかげなのか、奈津がそれを訊こうとした時、コウキはもう奈津の家のチャイムを鳴らしていた。コウキがチャイムを鳴らすと思っていなかった奈津は驚いた。奈津が横を見ると、コウキはちょっと顔を上げ気味に、下唇を噛んで、目をギュッとつぶっている。どうやら緊張してるらしい。家の中から、物音が聞こえると玄関のドアが開いた。案の定、そこには奈津の父親が立っていた。コウキはペコッと頭を下げる。
「奈津さんに会えました。それで・・・送ってきました。」
そう言うと、奈津の背中を左手でそっと押した。奈津の父親は、突然二人がかしこまって並んで立っている上、思いがけないコウキの丁寧な対応に、
「え、あ、う、うむ。」
と変な声しか出てこない。
「先日は、きちんと名乗れず、申し訳ありませんでした。ぼくは、田村弘輝(タムラコウキ)と言います。」
ここで一旦言葉を止める。
「5月にこちらの高校に来ましたが、・・・今月13日に韓国に帰ります・・・。」
そして、夜空を仰ぎ見るように一瞬上を向いてから、大きく息を吸い込んだ。
「それまで・・・」
「それまで、奈津さんと一緒に過ごすこと、許してください。」
そう言って、コウキは深く頭を下げた。
父親は突然の申し出に虚をつかれた。そして、間の抜けた質問が口をついて出る。
「夜・・じゃなくて、昼・・・だけだよね?」
「え!あ!・・・も、もちろん!」
コウキの顔が真っ赤になる。
「父さん、当ったり前でしょ!!」
思わず奈津も赤くなる。
「う、うむ。」
父親はちょっとバツの悪そうな顔をすると、改めてコウキを見た。
「すごい汗だな。・・・奈津、お茶を持ってきてあげなさい。」
「あ、ぼく、もう帰るから大丈夫です。」
「奈津、持ってきなさい!」
コウキが断る声にかぶせるように、父親が強めの口調で言った。さっきまでの父親とは違う、あまり見たことのない父親の迫力に、奈津は「う・・・うん。」と返事をすると、草履をぬぎ、家に上がり、キッチンの方に消えていった。奈津の姿が見えなくなったのを確認すると、父親がコウキに訊いた。
「奈津は、君といる時、笑ってる?」
突然の質問だった。でも・・・、コウキは父親の意をくみ取った。そして、一言一言噛みしめるように言葉にした。
「奈津さんは・・・よく笑います・・・。」
そして、コウキは下を向いた。
「でも、ぼくといると・・・泣きます・・・。ぼくは・・・彼女を泣かせてしまいます・・・。すみません・・・。」
最後の「すみません」は声になってるのか、なっていないのか、コウキは自分自身でも分からなかった。
「奈津は、君の前で泣くんだね・・・。」
コウキは頷いた。嘘がつけなかった。それが、奈津と一緒にいる資格がないことを意味していたとしても・・・。
「はい、麦茶!!」
奈津が明るい声で、コップに氷の入った麦茶を手にして戻ってきた。コウキは慌てて顔をあげる。
「父さん!コウキに変なこと言ってない?コウキ大丈夫だった?」
コウキに麦茶を手渡しながら奈津が言う。心なしかコウキの顔が曇っている気がする。父親が何か言ったに違いない・・・奈津がそう感じ取ったとき、
「短い間だが、奈津をよろしく。」
父親がコウキの肩をポンポンと叩いた。
「え・・・、あ・・・はい!」
コウキの曇っていた表情が驚きに変わる。父親がリビングに戻る前に冗談を言う。
「それにしても、コウキくんはかっこいいなあ。父さんの若い頃にそっくりだ。」
そして、はっはっはと笑った。奈津は「は?」という顔をすると、
「ぜんっぜん似てないからね!父さんのことかっこいいって言うのは母さんくらいだからね!!」
奈津はいつものこと、とでもいうように、笑顔で辛口だった。それから、
「父さん!」
と声をかけると、
「ありがと!」
と父親の背中に向かって言った。


今日の午後・・・

 自転車を押して、最後の坂を上ると、待ち構えていたようにボーダーのTシャツに白のハーフパンツ姿のコウキが縁側から飛び降りてきた。まるでネコ科の動物のようにぴょんっと身軽に。コウキはもう眼鏡をしていない。
「玄関じゃなくて、縁側から入って!」
コウキは奈津に声をかけた。自転車を停めて、黄色のTシャツにデニムのショートパンツ姿の奈津がこちらに向かって歩いてくる。昨日の浴衣やサッカーウェアとはまた違う奈津が・・・。
「おじゃまします!」
奈津は誰に言うでもなく声をかけると、スニーカーを脱いで縁側から上がった。コウキもそれに続く。そして、コウキは家の奥に向かって声をかけた。
「ばあちゃん!奈津来たよ!」
それから、奈津に向き直した。
「家でよかった?外より家のほうがゆっくり会えるかな・・・と思って。」
「うん!」
奈津は部屋を見渡した。二間続きの畳の上にテーブルが一つ置かれていて、そこには夏仕様の座布団が2枚置いてあった。縁側のひさしには金魚の形の風鈴が吊されている。奈津はその場で「へー」と言いながらゆっくり一回転すると、それから、足元の座布団にちょこんと座った。ちょうどその時、奥から、おばあさんが顔をのぞかせた。
「あらあら、ナツさん?」
おばあさんは嬉しそうに目を細めた。
「あ、はい!」
奈津は急にかしこまると、「こんにちは!」と言った。おばあさんはみかんの缶ジュースを二つのせたお盆を、若干かたむき加減に持っている。
「ばあちゃん、斜めになってる!呼んでくれたら取りに行ったのに!」
コウキはおばあさんのところに行くと、お盆を受け取った。そんなコウキのことなどまったくかまわず、おばあさんは、
「ゆっくりしていきさいね。」
と奈津に声をかけた。それから、やっとコウキを見ると、
「ばあちゃん、ちょっと買い物に行って来るけえね。」
と言った。
「な・・・、ばあちゃん、今、行かなくても。まだ、暑いし、奈津も来たばっかだし。」
コウキはいきなりのばあちゃんの不意打ちに、買い物行きを止める。
「暗くならんうちがええけえ。」
ばあちゃんはコウキの言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、耳など全く貸さない。そして、ゆっくりとマイペースに部屋を後にした。「ふう~。」ため息をついて、コウキはお盆をテーブルに置くと、自分も座布団にあぐらをかいて座った。
「ったく!耳もちょっと遠いし、自分のペースで動くからなあ・・・。」
そして、困った顔をすると、独り言のようにぼやいた。それを聞いて奈津は笑った。コウキとおばあさんのやりとりを思い出すと面白かった。あんなに空港でファンに囲まれて手なんか振って、クールぶってた人がばあちゃんの前ではたじたじだった。とても、同じ人には見えない。
「そう言えば、コウキを探しに来たとき、実は、わたしも困った!」
奈津がそう言って笑うと、「だろ~?」とコウキも笑った。その時、ちょうど日傘を差して坂道を降りていこうとしているばあちゃんの姿が二人の目に入った。
「いってらっしゃい!」
二人は声をかけた。もちろん、ばあちゃんは振り向かない。二人はまた顔を見合わせて笑った。そして、笑い終わると、コウキはちょっと神妙な顔をした。
「連絡できなかったの・・・実は、奈津の電話番号が書いてあるメモを、・・・仁川空港で落としたんだ・・・。ごめん!」
顔の前でコウキは手を合わせて、目もギュッとつぶって謝った。
「え?うっそ!だから?もう!連絡なくて、どれだけ心配したか!悲しんだか!」
「許さん!!」
奈津はむくれ顔をしてコウキを睨んだ。その顔を見て、コウキはもう一度謝った。
「ほんと、ごめん!」
しばしの沈黙。そして・・・
コツン!奈津はコウキのおでこに缶ジュースを当てた。
「イテッ」
コウキは目を開けた。
「怒ってない。会えただけでこんなに嬉しいから・・・。」
缶ジュースを手にした奈津が眩しい笑顔を向ける。コウキも奈津の笑顔につられて笑う。そして、受け取ろうと、コウキは缶ジュースを掴んだ。冷たい缶ジュースと、奈津の温かい指・・・コウキは同時に二つの温度を感じた・・・。外からうるさいくらいの蝉の声が聞こえている・・・。外の喧噪が、急に家の中の静けさを二人に気づかせた・・・。二人の顔から笑顔が消える。二人の手からすべり落ちた缶ジュースが畳の上を転がる。
ジジジ!
一匹の蝉が木から飛び去った・・・
・・・チリン
風が風鈴を静かに揺らした・・・