その日の放課後、帰り支度を終えた僕は、返却日に間に合うよう徹夜で読んだ単行本を片手に図書室へ向かおうとしていた。

 最近、寝不足なのもその要因が大きい。
 当然ながら本の返却期限を過ぎれば、図書委員会から催促がきてしまう。

 今回、僕が借りた本は、現在話題沸騰中のベストセラー候補の小説ということもあり、貸し出される前に返却期限を絶対厳守するようにと、図書当番の生徒から強く念を押された。

 せっかく借りたのだから読まずに返却するわけにもいかず、睡眠時間を(けず)ってまで読んだ。
 寄り添う睡魔に(あらが)いながら読んでいたせいで、肝心の内容はよく覚えていない。

 時間に余裕があるときに、もう一度借りてじっくりと読もう。
 なんて思っていた矢先。 
 徐々に近づく人の気配を察知し、僕は顔を横に向ける。

「ねぇ、どうして西宮くんは笑わないの?」

 目と耳を疑った。 
 容姿端麗な転校生、東雲命花が唐突に話しかけてきた。 
 彼女は定規のように真っ直ぐな目で僕を見据える。

「それって僕に言ってる?」

 蛇足ながら、彼女に確認する。

「君以外に誰がいるの?」

 冷静に考えて僕しかいない。
 それは言うまでもなかった。
 なぜなら、西宮というのは僕の名前の姓だからだ。

「なんで僕が笑わないなんてわかるの?」
「笑ったところ見たことないから。 いつも、のっぺらぼうみたいな顔してるでしょ」

 してないよ、とは反論できなかった。
 十二分な自覚があったから。
 日常生活において、感情表現を必要最低限に抑えているのは事実。
 だからこそ、否定できないのがかなり悔しい。
 とはいえ、のっぺらぼうという比喩についてはあまりいい気分じゃない。
 
「そうかもね」

 僕は語彙力を放棄して、適当な返答をした。
 彼女が綺麗な黒髪を(なび)かせながら近寄ってくる。

「もう一回聞くよ。どうして西宮くんは笑わないの?」
「笑いたくないから」
「それじゃあ理由になってないよ」 

 彼女はさらに距離を詰めてくる。
 ほのかに香る女性特有のシャンプーのいい匂いが鼻腔をくすぐる。
 不覚にも心拍数が上がるのを感じた。
 
「笑うと疲れるんだよ」
 
 僕はそれを誤魔化すように言った。 

「能楽の役者さんに目指してるとか?」
「僕に日本の伝統文芸をこなせるような才能はないよ」

 たぶん、彼女は能楽者が舞台で使用する能面のことを言っているのだろう。  
 無表情を連想させる類義語のなかに、能面のようだ、という表現がある。
 少しばかり、話が噛み合っていないことは気にしない。

「なら、死んだ魚の目に憧れてるとか?」
 
 彼女は(かす)かに表情を(ほころ)ばせながら言った。
 見かけによらず、突拍子もないことを言う人だなと思った。

「残念だけど、死んだ魚の目を鑑賞してテンションが上がるような特殊な嗜好(しこう)は持ち合わせてないよ」

 もし仮に、僕が死んだ魚の目に憧憬(しょうけい)の念を抱いている変人だとしたら、今頃、この学校に通学ではなく、どこかの病院の精神科に通院していることだろう。

「ポーカーフェイス世界大会に出場したいとか?」
「実際にそんな大会が存在するのなら、是非ともエントリーしてみたいところだけど」
「間違いなく優勝だね!」
「馬鹿にしてるでしょ?」

 彼女は薄く微笑むと「馬鹿になんかしてないよ」「逆に褒めてるんだけど」と続けて言った。  

 どう見ても、馬鹿にされているようにしか思えない。
 いくらなんでも、ポーカーフェイス世界王者は大袈裟すぎる。 
 せめて、地区予選代表くらいにしてもらえるとありがたい。
 いや、一回戦敗退が望ましい。