私の彼氏は、美しい吸血鬼だ。
「さて、今週もこの日がやってきたわけですけど、準備はいいですか?」
彼が穏やかな声で私に問うた。
灯りの消した寝室、ベッドの上で2人向かい合って座っている。
窓から入ってくる月の光が、今夜は酷く眩しい。そのおかげで、彼が優しい眼差しで私を見ていることがわかった。
私は苦笑して答える。
「いいよ、朔夜。というか、いつも言ってるけど確認取るのやめない?なんか恥ずかしいんだけど…。」
「すみません、悠さん。宣言した方がフェアかなと思っているので。」
「別に吸血行為はアンフェアなわけじゃないから要らないよ、ってこの話先週もしたよね?」
「そうですか?」
今日は金曜日。週に一度の、彼に血を与える日。彼はいつも始める前に、私から許可を得ようとする。
そんなことより、と。
笑みを浮かべたまま首を傾げた彼は、話題を切り替えるように、するりと私の手に指を絡めた。
「悠さんが焦らすのがお好きなのは知っていますけど。」
「好きなわけじゃない。」
「はいはい。そろそろ、いいでしょう?」
繋いだ手を、彼が引く。決して強い力ではなかったけれど、有無を言わせない強制力のある動作。
私は特に抵抗せず、彼の腕の中に収まる。細いくせに大きな体に抱きしめられて、腰に腕が回った。反対の手で顎を掬われ、間近で合ったのは赤い瞳。
鈍い血の色、僅かに発光する彼の双眼が、私をーーー私の血管を皮膚越しに見ている。
どくりと音を立てて、速まる鼓動。その動きさえ、彼にははっきり分かるのだろうけど。
いつもは、この時間じゃなければ、彼に軽口を叩くのはとても簡単だ。
だけど、これは駄目。この瞳は、駄目なのだ。思考が曇って、ぼんやりとする。そういう効果があるのだと、知っていても。
「……悠さん。」
彼が私の名前を呼ぶ、掠れた声。その唇の奥には、いつのまにか鋭い犬歯があった。
吸血鬼の、吸血鬼たる所以。獲物から血を吸うための、彼の牙。
ぐらりと体が後ろに倒されて、彼の顔越しに天井が見えた。押し倒されたのか、とまだ冷静な頭の隅で気づいた。
彼の月影に囚われて、そしてその赤い瞳が欲に塗れた色で光っている。
「さくや……?」
「悠さん、あなたが欲しい。」
そう言って、彼が私の首に顔を埋める。ちゅ、と短いリップ音。何度も繰り返されて、時折舌で舐められる感覚を感じた。
息が乱れる。呼吸のタイミングが掴めない。
「さく、ん、ま、まって……。」
「悠さん、悠…。お願いだから、ください。やはり1週間は長い…。」
もう気が狂いそうなんです、と酷く弱々しい声で彼は告げる。
全身で求められていることに、ぞくりと背筋が慄いた。
「さ、っきまで…ひゃっ……いつもとっ…、んん……変わらなかったぁ……!」
「それは我慢していたからですよ。」
はぁ、と生暖かい息が首に当たり、唾液で濡れた場所がひやりと一瞬冷たくなった。彼も興奮しているのだろうか。喘ぐ声が止まらない。
今すぐ暴れて逃げてしまいたい羞恥を押さえ込まれたまま、薄い皮膚に尖ったものが当てられた。
「……っ、やだっ!朔夜、ちょっと待って…。」
「無理です。」
ぶつり、と喰われた。
体が勝手に跳ねて、でもそれさえ許さないとばかりにさらに牙が首に突き立てられる。
「ひっ………!い、たいっ……!」
首だけが熱を持つような痛み。
反射的に硬く閉じた目から、ポロポロ涙が溢れていく。
普段なら、私が泣こうものならすぐに心配してくれる彼は、自身が引き起こした痛みのくせに、私の泣き声を無視した。
じゅる、ちゅ、ぴちゃ、じゅるる、くちゅ、なんて彼と恋人にならなければ聞かなかったような音が部屋に響く。
そして、鼻につく鉄錆の匂い。
「ゆう、ゆうさん……。…っは、あなたの血は相変わらず美味しい……。……止まらなくなりそうだ。」
余裕がないのか、彼の敬語が取れていた。私はそれに気付けないほど、痛みに喘いでいたわけだけれども。
「さくや、さくやぁっ…。」
「ゆうさん、痛いですか?もう少しで気持ち良くなれると思うから、我慢して…。」
それまでこうしてるね、と囁かれて、子供のようにすがった手を握られる。
もう片方の手で、彼は生え際から髪を掴んで、私の首をしっかりと露出された。
ふ、と彼が息を短く吐いた。
(あ、くる……。)
一瞬だけ牙が抜けて、またぐちゅりと生々しい音をさせながら肉を押し開く。
ーーー予想通り、一番深くそれは突き刺さった。
「い、ぁぁああっーー!!」
先程とは比べものにならないくらいの痛み。そして、暴力的なほどの快感。牙の催淫作用が効いてきたのだろう。
両極端で、紙一重な二つの慣れない感覚に殴られて、私は無意識に叫んでいた。
(いたい、きもちい、いたい、いたい、きもちい、きもちい、きもちいい…。)
いたくて、きもちよくて、それしか考えられない。思考が放棄されていく。
涙で歪んだ視界の中で、死ぬのかも、なんて思った。
彼は夢中で私の血を貪っている。握った手は、しっかりと繋がれたまま。
私たちの境界が曖昧になっていくようだった。
「…ね、ゆう、きもちい?大丈夫になりましたか?」
何かを言われた気がするけど、完全に狂わされた脳では言葉の意味がわからない。
あー、うぁー、と母音だけを舌足らずに繰り返している私の様子に、微笑ましそうに笑う気配がした。
さらに溢れてきた血を、もったいないとばかりに彼は残らず舐めていく。
足りなくなったらまた抉って流して、そのたびに私は叫んで、また舐められて。
そんなことをしていたのだと、ぼんやり覚えている。
永遠にも思えるような時間は、私が貧血で意識を失うまで続いた。