撫子は手首に巻きついた糸を三度弾く。瞬きをした後には黒ずくめのお迎えの姿があった。
 その後ろには笑顔を浮かべながらも口の端を下げている、オーナーの姿もあった。
「補助人の申請をいたします。許されますか?」
「可能です。ただし一人一つまで」
 お迎えは短く答えると、撫子に真っ黒な瞳を向ける。
「準備はよろしいですか?」
 撫子は少し考えて、うなずいた。
「それでは、二度まで質問を認めます。どうぞ」
 撫子はすぐには質問を思いつかなかった。貴重な二回のヒントをどう使うか、ごくりと息を飲んで考える。
「……では、三毛猫のご主人にお訊きします」
 撫子は迷いながら、一つ目の質問を使った。
「それは先代のオーナーがつけた名前ですか?」
「違う」
 三毛猫のご主人はすぐに否定した。
「本当の名前は生まれた時につけられた名前だと思うだろうが、そいつは先代がつけた名前を改名してる。だいたい百……」
「質問への回答以外の答えは禁じられています。止めてください」
 お迎えが言葉を挟んで三毛猫のご主人を制した。ご主人は気にいらなさそうに鼻を鳴らす。
「大丈夫です。ありがとうございます」
 撫子の質問の仕方はあまりよくなかったと思う。手探りのようにして訊いたから、三毛猫のご主人もなるべく推測しやすいように情報をたくさんくれようとしたのだろう。
 キャットが正解でないことは確からしい。でもそうなると、撫子は知らない可能性が高い。
「ヴィンセントさんにお訊きします」
 撫子は二つ目の質問を投げかけた。
「どうやったらその名前を知ることができるのでしょうか?」
 ヴィンセントは撫子をみつめて答えた。
「オーナーと過ごしたときを振り返ってください」
 謎かけのような言葉だった。
 いつか聞いたことがある名前という意味だろうか。撫子は記憶を掘り起こすが、それらしい名前は見当たらない。
「質問は終わりです。では、答えてください」
 撫子は答えがわからなかった。勘がいい方ではないし、オーナーとの長い付き合いがあるわけでもない。
 命をかけた名前当てゲームに何としても答えなければ、両親の与えてくれた命を全うすることができないのに。
 無意識の内に撫子はオーナーをみつめていた。
 彼はいつものように笑いながら、目は撫子から外さない。
 その手が微かに動いたかと思うと、彼は髪を撫でつけるふりをして……自分の猫耳に触れた。
 まるで何かを示すように耳を指先で数度叩く。
 耳がどうしたのだろう。オーナーが耳を触る癖を見たことはなかった。
 砂時計の流れる音が耳の奥で響く。時間がないことをからかっている? でもオーナーの目は真剣だ。
 そういえば、初めて会った時に撫子はオーナーに問いかけた。
――その耳は一体。
 その時オーナーは何と答えたのだったっけ。そう昔のことではないのに、記憶がつながらない。
 目を落とした先には、残りわずかとなった砂時計が見える。
 焦りに身を固くした撫子の耳の奥に、オーナーの言葉が蘇った。
――アイデンティティーです。
 懐かしい言葉に、撫子は息を飲む。
 もしかしたら、そうなのかもしれない。それしか今の撫子には思い浮かばない。
「答えは……」
 先代がつけた名前ではなく、オーナーと過ごしたときの中で知ったもの。
 猫耳が彼の人格の一部であるように、オーナーの人格の一番大きなもの。
 彼がその身に賭けても守ろうとする自分は、名前になっている。
「答えは、「オーナー」です!」
 彼が人生をかけて作り上げたこのホテル。彼は今、そのたった一人のオーナーだ。
 一瞬の沈黙の後、お迎えは背中の翼から黒いものを取り出す。
 彼の身長ほどもある黒い巨大なカマだった。彼は撫子が驚いて後ずさる前に、それを撫子とオーナーの間に振り下ろす。
「……正解です」
 音を立てて何かが断ち切られる音がした。オーナーと撫子の交わした約束に違いなかった。
 パチパチと二人分の拍手が響く。振り向くと、三毛猫のご主人とヴィンセントが複雑な表情で手を叩いていた。
 撫子はオーナーに目を移す。
「どうしてヒントを……」
 彼は撫子に背を向けて、低く言い放つ。
「約束通り、あなたは自由の身です。好きになさい」
 その言葉は反論を許さなかった。言った自分自身にさえ覆すことを認めない、断固とした調子だった。
「時間がありません。参りましょう、撫子様」
 お迎えが撫子を促す。
「あの、私……」
 撫子はオーナーに話しかけようとした。
 だけどどんな言葉も口にはできなかった。オーナーの背中は撫子の謝罪の言葉も別れの言葉も、拒絶しているように見えた。
 お迎えに連れられて撫子は部屋を出ると、玄関までやって来る。
「撫子様、行ってしまわれるんですか?」
 チャーリーは撫子がお迎えと一緒にいるのを見て決闘の結果がわかったらしい。撫子を見るなり、大きなブルーの瞳にじわりと涙を浮かべた。
「お決めになったことならもう何も言いません。でも、お別れはやっぱり寂しいですね……」
「チャーリー君。ごめんね」
 撫子がチャーリーの肩を叩いて言うと、彼は撫子の肩に顔を埋めてしゃくりあげる。
 いつも片割れの行動を注意するヒューイも、チャーリーを止めなかった。
「お元気で、撫子様」
 静かに告げた彼に、撫子は無理に笑って言う。
「ヒューイ君も、ありがとう。君も元気で。チャーリー君と仲良くね」
 チャーリーは顔を上げて、泣き笑いの顔になる。
 二人は扉の左右に分かれて立つと、扉を引きながら頭を下げる。
「いってらっしゃいませ」
「うん。行ってくる」
 撫子は二人に振り向いてうなずいた。
「参りますよ」
 お迎えが撫子の手を引いて先に外に出る。
 扉の外には光がさんさんと差し込んでいて何も見えなかった。
 撫子はお迎えの手を頼りに、ゆっくりと外へと踏み出す。
 撫子の体を光が包み込んで、まぶしさに撫子は目を閉じる。
 意識が遠ざかっていく。その中で、撫子は思う。
 オーナーにまだ話したいことがあった。だけどもう時間がない。あっても、裏切った撫子が話していいことなのかどうかもわからない。
 意識の裏に焼き付いていたのは、白い髪に猫耳の、皮肉が好きで笑顔を絶やさない、キャット・ステーション・ホテルの主の姿だった。