次に目を開いたら、そこに映っていたのは木造の天井だった。
 いつの間に宿に戻って来ていたのだろう。撫子が布団から体を起こすと、そっと声がかかる。
「まだ早いですよ。眠っていなさい」
 いつものスーツ姿に身支度を整えたオーナーが、軽く屈みこみながら撫子の肩に手を触れた。
「父さんと母さんは?」
 撫子が問いかけると、オーナーは目を伏せた。
 嫌な予感がして、撫子は布団から抜け出すと隣の部屋の障子を開いた。そこには両親が宿泊しているはずだった。
「数刻前に終点に出発されました」
 そこには丁寧に畳まれた、二組の布団があるだけだった。
 撫子は全身からさっと血の気が引いたような音を聞いた。
「あなたは寝かせておくようにと」
「どうして起こしてくださらなかったんですか!?」
 違う、オーナーを責めるところじゃない。いや、誰も責めることなんてできない。
 わかっているのに、撫子は言葉を叩きつけるなり踵を返す。
「撫子?」
 撫子は寝起きの浴衣の格好のまま、裸足で部屋を飛び出す。
「待ちなさい、撫子!」
 後ろでオーナーが呼びとめる声が聞こえたが、撫子は構わず宿の外に出るなり走りだした。
 祭りばやしはもう聞こえなかった。薄闇の中、温泉街は皆寝静まっているのか、撫子の呼吸音だけが耳に響く。
――私たちが行くべき道は、こちらでいいんだね?
 坂道に出ると、撫子はそこを真っ直ぐ下り始めた。両親が通った道は、ここに違いなかったから。
「なんで……! 私はいつも、頭が足らない……!」
 息を切らして走りながら、撫子は後悔した。
 両親と景色を見たり温泉に入ったりしている内に、忘れてしまっていた。これはただの旅行じゃなくて、最後の旅行だということを。
 見ないようにしていた。怖くて、目を塞いで耳を覆ってしまっていた。
 終点に着いたら、両親と永遠にさよならだという事実を。
「いやだ……」
 どこからか霧が満ちてきていた。辺りはけむって、道の脇にあるものさえ見えなくなってきていた。早朝の空気のように、明るいのか暗いのかもわからない。
 遥か前方に、途方もなく大きな何かがある気配がした。
 それは光の塊のようにも、闇の谷底のようにも思える。
 誰に教えられたわけでもない。でも撫子はそれが「終わり」だとわかった。
「待って! 父さん、母さん!」
 行かないで。まだ私の側にいて。
「まだ、まだ私は……!」
 私はあなたたちの娘だよ。生きてはいないけど、まだ死んでいない。
 あとちょっとでいい。一緒に休暇を過ごそう。
 ……そうしたら私も一緒に、行くべきところを決めるから。
 顔をくしゃりと歪めて、いっぱいに手を伸ばした。
――待っていたよ。
 ふいに父の声が撫子の耳に届いた。
「父さん!? どこ?」
 気がつけば撫子は長いつり橋の上に立っていた。
――あなたを一人にはさせないわ。
 吊り橋の前方に、揺らぎながらも二つの影が立っている。
「母さん? 待って、今そっちに……」
 二人が手を差し伸べたのが見えた。
――もう寂しい思いはさせないから。
――一緒に行きましょう。
 撫子はぴたりと足を止める。
 ああ、そうか。そうなのだ。
 どっと押し寄せてくる悲しみの波に、撫子は唇をかみしめてうつむいた。
「撫子!」
 後ろから腕を引かれて引き寄せられる。
「終点に近付いてはいけません! この辺りには終わりに引っ張りこむ魔物がいて……」
「うわぁぁん!」
 オーナーの言葉が終わる前に、撫子はオーナーの胸にしがみついて泣いた。
「撫子?」
「逝っちゃいました! 父さんも母さんも、もうどこにもいないんです!」
 わあわあ泣き喚きながら、撫子は言う。
「二人は一緒に逝こうなんて絶対言いません! いつだって二人一緒にいれば満足で、私を置いて逝っても未練なんて全然なく休暇を楽しんじゃう人たちなんです!」
 力いっぱいオーナーに抱きつきながら撫子は言葉を並べたてる。
「親として失格ですよね!? 生きてる内から父さんは生計も構わず借金ばかりして、母さんはそれを笑って許してて、お人よしじゃ済まないこといっぱいして。欲はなかったかもしれませんけど、駄目人間だって知ってました!」
 撫子は目をぎゅっと閉じて涙を零す。
「……でも私にとっては大好きな両親だったんです!」
 後は言葉にならずに、撫子はわんわん泣いた。
 凍りついたように立ちつくしていたオーナーが、そっと撫子の背中に腕を回す。
「存じております」
 オーナーは撫子の背中を、子どもをあやすように撫でてくれた。
 霧は次第に晴れ始めて、恐ろしい何かも遠ざかって行ったようだった。
 魔物とオーナーは言ったが、たぶんそれは撫子を苦しみも悲しみもない世界に連れていってくれたのかもしれない。
 でもオーナーの腕の中は、やっぱり温かい。振り払って遠くへ行き失せようとはもう思わなかった。
 口をへの字にして、撫子はぽつんと言う。
「オーナーは何でも知ってますね」
「そうでもありません」
 撫子はぐしゃぐしゃな顔のまま、オーナーを見上げる。
「私はあなたにご両親の滞在を告げた時から、あなたが一緒に逝くかもしれないと恐れていましたから」
「いや……そのつもりで同行したわけじゃないんです」
 撫子は苦笑を浮かべて言う。
「私が一緒に逝ったって両親は少しも喜ばないです。ずいぶん苦労はさせられましたけど、二人は私を心中させるような人たちじゃないんです」
 オーナーは優しい目をして微笑んだ。
「いいご両親です。立派な方たちでした」
 撫子はもう出ないと思っていた涙があふれるのを感じた。
 誰かにそう言ってほしかった。オーナーが撫子の大好きな気持ちを受け止めてくれた気がした。
 オーナーは気づいていたのかもしれない。本当は撫子が迷ったことを。
 寂しさに、ついていきたいとも思った。だけど祭りの中で両親が残した言葉が、引きとめたオーナーの腕が、撫子をかろうじて終わりから遠ざけた。
 撫子の涙も尽きるときが来たようだった。両手で顔をごしごしと拭って、オーナーから離れようとする。
 その途端、オーナーは片腕で撫子の体を抱き上げた。
「わぁ!?」
「戻りますよ。裸足ではありませんか。はしたない」
 下ろしてほしいと頼もうとして、ちょっと甘え心が湧いた。
 白い霧の中を、オーナーは歩いていく。どうして断らないんだろうと自分が不思議で、撫子は黙ってオーナーの首に腕を回してつかまっていた。
 涙も乾いて周りを見る余裕が出来た頃、前方に人影が見えた。
「遅かったな」
 三毛猫のご主人が着物の袖に手を入れながらそこに立っていた。
「何で靴履いてないんだ?」
 撫子はその時になってようやく、オーナーも靴を履いていないことに気付く。
「お嬢さんも裸足だし。夫婦そろって仲いいことだな」
 オーナーは眉をひきつらせたが、撫子は複雑な顔をして何も言えなかった。
「撫子。お別れの機会ならまだありますよ」
 そんな撫子を横目でちらと見ながら言ったオーナーに、撫子は目を見開く。
「私たちは引き取りに来たんですから。終わった後の命をね」
 霧の中、どこかで汽車の笛の音が聞こえた。