まずは事態を従業員の皆に伝えなければと考えた撫子だったが、フロントに下りた途端異変に気付く。
「チャーリー君、何してるの?」
 ブルーグレーの耳をひょこひょこさせながら歩くチャーリーの手には、畳があった。
「ああ、撫子様。これは女将の指示で、玄関を畳に張り替えるところなんです」
 仕事を与えられるといつも嬉しそうなチャーリーは、今日も満面の笑顔だった。
 しかし今は全然ほほえましくない言葉だ。
「女将の言うことなんて聞いちゃ駄目だよ。君の上司はオーナーなんだから」
 撫子が言うと、彼はきょとんとして問いかける。
「オーナーって、どなたですか?」
「だからこのキャット・ステーション・ホテルの」
「ここは「猫のお宿」ですよ。女将がそう命名されました」
 これがチャーリーでなければ、撫子は彼が自分をからかっているのだと思った。
「……猫のお宿」
 だけど撫子が知る限り、彼以上に純心な従業員はいない。冗談を言っているとは思えなかった。
「ヒューイ君」
 撫子は扉の前で彫像のように待機しているもう片方のドアボーイに声をかける。
「はい。御用は何でしょう?」
 チャーリーとは対照的に無表情で振り向くのは、普段通りだ。
「ここはどこ? 主は誰?」
「こちらは猫のお宿。主は雀の女将でございます」
 即答に、撫子は嫌な予感を確信に変える。
 撫子が知る限り、彼以上に生真面目な従業員はいない。
 事態がらせんに巻き込まれているような心地がして、とっさにどうしたらいいのかわからなくなる。
 ふいにチャーリーが嬉しそうに声を上げる。
「あ、お呼びがありました」
 撫子が振り向くと、チャーリーはにっこり笑う。
「従業員は二階のレストラン「ハバナ」に集合だそうです。失礼いたします」
「私も行く!」
 瞬間移動した彼にすぐ追い付けるはずはないが、撫子は二階へ走る。
 レストラン「ハバナ」では、すでに従業員たちが集められていた。
「みなの者、これより当宿の方針を一新いたします」
 その中心に雀の女将の姿があって、前からそうだったように指示を出していた。
「当宿の信念は古き良き日本の温泉宿たること。それにふさわしくない施設はすべて閉鎖し、エレベーターなどの機械は撤去なさい。食事処は一階の料亭に統一します」
 そんな女将の話を従業員たちはうなずきながら聞いていて、撫子はぞくっとした。
「服装は着物を支給いたします。和装を徹底すること。何か質問のある者は?」
 完全にオーナーの立場になり代わっている女将に寒気を覚えながらも、撫子は一歩前に出ようとした。
「女将、一つ気がかりなことが」
 撫子の前に腕が差し出される。
 撫子の代わりに一歩前に出て、彼は言った。
「意見を述べても構いませんでしょうか?」
 ペルシャ猫の老ウェイター、ヴィンセントだった。
「わたくしの方針に異があるのですか?」
「この老身の言葉にも耳を傾けて頂きたく」
 ヴィンセントは低姿勢で切り出す。
「女将のお考えには全く敬服いたしますが、お客様にご不便をおかけするのは気がかりです。早急な改装はお待ち頂きたいと存じます」
「待っていてはいつまでも改装はできません」
 冷たく切り捨てた女将に、ヴィンセントは、ええ、と相槌を打つ。
「ではせめて、お客様が滞在中のお部屋の改装は後になさいませんか。お客様の休暇のお邪魔になっては大事ですので」
 女将は眉をひそめて何か言い返そうとしたが、別の従業員から声が上がる。
「ヴィンセントさんがそうおっしゃるなら」
 誰かがぽつりと告げたのと同時に、ざわめきが広がる。
「さすが古くから当宿にお仕えしている方の言葉には重みがあります」
「私もお客様にご不便をおかけするのは賛同できません」
 波紋が広がるように、従業員たちは口々に異を唱えだした。
「静まりなさい」
 女将は手を上げて彼らを制すると、厳しい口調で続けた。
「改装は決行いたします。施設は閉鎖、機械は撤去なさい」
「しかし……」
「女将、お考え直しを」
 まだ反論する従業員たちの中で、ヴィンセントは胸に手を当てて一礼すると後ろに下がる。
 ついと赤銅色の瞳で撫子を振り向く。
――玄関の外でお待ちしております。
 無声音で撫子に告げて、彼は微笑んだ。