「――君は?」

 突然の事に思わず桜衣の腕を離した松浦が言う。

 背後の男は抱きしめる腕の力を入れなおし、桜衣の頭の上で落ち着いた声を出す。

「僕は桜衣の恋人です。今夜はデートの予定で……彼女に何か御用でも?」

(……なにを言ってるの?)

 自分を抱き寄せている男はもちろん恋人どころか、誰だかもわからない。

 だが、桜衣は動揺しつつも不思議とこの男から逃げようとは思わなかった。

 落ち着いた低い声と彼の纏う雰囲気にも奇妙な安心感を覚えたのだ。その安心感がわずかな冷静さをもたらす。

 スーツの色、先ほど仰ぎ見た時に認識した背の高さ。雰囲気的に今日フロアに居た新しい海営部長ではないだろうか。

 見ると彼は何か言いたげな顔をしている。もしかして桜衣が困っているのに気が付いて何とかしてくれようとしてくれているのかもしれない。
 何で自分の名前まで知ってるのかと、色々疑問はあるが、とりあえず上手くこの場を乗り切ってしまおう。

「え、なに、桜衣ちゃん、そうなの?」
 
 松浦は訝しげに尋ねてくる。

「あ、はい……この後彼と出かけるんです。ごめんなさい」

 このイケメンと自分が恋人に見えるのか?と思いつつも桜衣は平静を装って笑って見せる。

「……なーんだ。恋人がいるならいるって言ってくれたらいいのに。わかったよ、とりあえず恋人がいるうちは諦めるよ、まあ――別れたら連絡して」

 松浦は納得したのか、残念そうに言うとアッサリとその場を去って行った。

 ぼんやりと松浦を見送る。
(……そっか、その手があったんだな)

 恋人が居るって言っておけば良かったんだ。そうすれば、面倒な誘いは断れていたかも知れない。
(そうは言っても、聞かれてもいないのにわざわざこちらから『恋人がいます』って言い出すのも何だか微妙なのよね……)

 そこまで考えて桜衣はハッと我に返る。何故か未だに解けない腕の中で慌てて言う。

「助けていただいたみたいで、ありがとうございす。あの。腕を」

「あ、失礼」

 失礼と言ったわりに、ゆっくり腕を解かれる。距離を取った桜衣はホッと息を付く。
 やっと正面からまともに彼を見る事が出来た。

「……」

 やはり恐ろしく端正な顔をしている。一瞬心奪われるほど。

 くっきりした二重瞼の目元に黒い瞳、一見鋭く見える眼差しを長めの睫毛が柔らかい印象にしている。
 鼻筋も通っていて、形の良い薄めの唇。サラリとした黒髪は嫌味なく自然にセットしてある。
誰が見ても完璧なイケメンというだろうという容姿だ。

 その彼が頭一つ上からじっと見つめてくる。

 なんだか、非常に落ち着かない。それなりにイケメン耐性はあるはずなのに、規格外すぎるのだろうか。
 でも、やはりどこか既視感があるような――それは、今日見かけたとかそういう事では無くて……

「私、INOSEの法人営業部の倉橋と言います。失礼ですが、海外営業部に新しく来られた――」

 昼間のオフィスフロアで目が合った気がした時と同様、なかなか視線を外してくれない彼にいたたまれなくなり言うと、にこりと笑った彼がスーツの内ポケットから革の名刺入れを取り出し、出来立てであろう名刺を桜衣に渡す。

 桜衣はその文字を読んで息を飲む。

「……ゆうき、はるま」

 唖然としながらも書かれた名前を棒読みする。

「そう。今日から海外営業部に配属された結城陽真です。よろしく。本間…いや、倉橋桜衣さん」

 目の前の男は中学生の時の同級生、結城陽真その人だったのだ。

「久しぶりだね。桜衣」