朝一番、ガレージシャッターが巻き上げられた。旋盤だとかフライス盤だとか、男のなかの男のような顔をした機械たちがうなりをあげていく。そして陽が落ちるまでのあいだひっきりなし、鉄鋼の交響楽は歌いやまないー。
 角を曲がれば工場にあたるというくらい、小さな町工場がひしめきあっているこの町は、女よりも男が多かった。工業団地内にある寮には若い独身者や期間工として働く非正規雇用者で溢れ、近くの古いアパートには外国からの出稼ぎ労働者が多かった。時折けたたましく響く鉄鋼の打ち合う音と腐ったグリースが鼻をツンと刺激する臭いでいっぱいのこの町に、まだ二十歳とは見えない娘の乏しい部屋があった。
 オイルまみれの男たちが、昼休みに来ることもある。陽があってもなくても、娘の部屋のカーテンはいつも閉ざされていた。片隅に、ほんの形ばかりに、一輪のコスモスが挿してある。
「しっかしなんもねぇなぁ、この部屋は。」
「そうだよね。見たとおりでしょ? ごめんね、雰囲気なくて。」と娘は無邪気に言って、老いた男の首のうしろに冷たい手ぬぐいをあててやった。嘘のように何もない部屋で、それから娘はぱたぱたと布団を敷き直した。
 あお向けになったら、静かに瞼を閉じるのだ。鉄鋼の響き合う音のドームに包まれていると、不思議と天に守られている気がするのだった。娘は明日、この部屋を出てゆくことになっていた。
 その夜、月は高くのぼった。丈夫そうな上着をくしゃくしゃに丸めて抱えた男が階段を上がってきた。娘は見たことのある顔だと思った。
「なんだよ。ほとんど空じゃないか。夜逃げでもするつもりかい?」
「そうよ。私は今日までの命だもん。もう二度と会うことはないよ。」
「それ、ほんと?」
「ほんとだよ。」
「へえ、追っかけてもムダかい?」
「追っかけてもムダだよ。今日までの私は消えてなくなっちゃうからね。」
「へぇ、そうなの。しあわせになるの?」
「うん。しあわせになる。」
 男はそれを聞くと満足したように立ち上がったが、娘は取りすがった。男は娘とは十ほども年が離れていたが、すがりつく娘をやさしく突き放すほどには年を重ねてはいなかった。もみ合っているうちに二人は膝から崩れ落ち、男は娘をはげしく抱いた。
 娘はその間中、瞼を閉じたりひらいたりしていた。生まれて初めて、男の息づかいに身をまかせてみようと思った。すると、自分の知らないところから、しみじみと涙があふれてくるのだった。
「さあ、これでさよならだ。」
「うん。特別な夜になったよ。」と、娘は言いながらほんとうにそうだと思って、小さくはにかんだ。
 男がポケットをまさぐって、札を掴んだ手を引き出した時、小銭を勢いよくぶちまけた。布団の上から四方八方へと転がっていった。小銭はずいぶんとあった。
「これ全部やるよ。お祝いだ。」
 男が帰った後で、娘の全身に疲れがほとばしった。小銭をすべて拾い集めるのも忘れて、折りたたんだ布団の上に身を投げた。娘が目を覚ましたのは、あくる朝のことだった。
 迎えが来たら、娘はこの部屋を出てゆく。もう二度とこの町へと帰ってくることもないだろう。からだを布団の上に投げ出したままで、娘は恋人の迎えを待っている。
 昼になって、娘はようやく起き出した。六畳ほどの一間をほうきで掃き出していると、部屋の隅から小銭と金属片が転がり出て来た。見ると、五円玉とそれよりもひとまわり大きいナットである。
「あら、いけない。忘れ物。」
 娘にはその金属片が機械部品とは知れていても、それがナットと呼ばれる代物とは露にも思われない。汚れにまみれて黒ずんだ五円玉にくらべて、ナットのほうは新品のようだった。汚れもなければ傷もない、星のかけらのような輝きだった。
 娘は薬指に輝きをはめて、頭の上にかざして見た。旋盤やフライス盤がまたうなりをあげて、鉄鋼の響きが娘に降り注いだ。彼女は明るさにむかって、カーテンを開け放った。