「私もうすぐ消えるの」
振り向きざまに彼女はそう、笑顔で言った。目が痛いほどの赤に照らされた道に透けた足元をこちらに向けず、眩しいほどの笑顔だけを僕に向けている。
「なん、で…」
いいや、僕の問いもおかしいことはわかっている。何せ彼女はもう既に『死んでいる』のだから、今更何が起ころうと驚くことではない。
「あっはは!あたしを初めて見た時よりも驚いた顔してるよ」
カラカラと笑う彼女は皆が知っている彼女となんら遜色ない。
「なんで、消えるんだよ…なんで笑ってんだよ…!死にきれなくて今だってここにいるくせに、まだそれやり残してるくせになんで笑ってられるんだよ…!」
「あたしは死ぬべきだったからいいの。今も、あたしは消えるべきだってわかってるから」
慈愛に充ちた優しげな眼差しを道路に落として微笑むように笑う。
「なんで、何をしたって言うんだよ」
「人を殺したの」
いつもと変わらぬ笑顔でポツリとそう言う。固まる僕を宥めるように優しく頭を撫でながら、言い聞かせるように目を見つめながらゆっくりと口を開いた。
「あたしは、人を殺したの。誰よりも大好きだった人を、罪もないあの人を。許されないことをしたあたしは存在をもって裁かれるべきなの」
わかる?とでも言うように小首を傾げる。わかるわけが無い、だって僕は死ぬ前の彼女を知っている。誰にでも優しく、皆に慕われ、人に囲まれ、いつも笑っていた。そんな彼女が『消されなければならない存在』なわけがない。
「そんなの、有り得ないよ…だって、それなら、きっと殺された人に問題があるんだ、だから…」
「本当にそうかな?」
ゾッとした。僕の心の中を見透かすみたいに透き通っていて、それでいて光を宿さない瞳に気圧される。そしてなにより、そこまで彼女に心酔している僕自身に。
「それなら君は、自分は殺されて然るべきだと思うのかな?」
触れられないはずの彼女の指がトンっと僕の胸を突く。感触はないはずなのにその1本の人差し指に体が揺られる。半歩後ずさった僕は何も言えなかった。
「ねぇ、もしもその人が誰か君がわかったらさ」
フッとのしかかっていた重い空気が消えたように笑った彼女はいつもの彼女だった。
「その人に伝えて欲しいの。ごめんなさい、愛していましたって」
「なんで、僕に…?」
「君にしか出来ないからだよ。あっそうそう、それからあなたを殺したことを後悔していませんとも」
その時になって彼女の本当の罪に気付いた。人を殺したことが彼女の罪ではない。彼女の罪は…
「その人を殺したことを、悪い事だとは思ってないの?」
「うん。だって、彼のことが好きだったんだもの。好きな人を独占したいと思うのは当たり前でしょ?」
罪を罪と知っていながら罪悪感など持ち合わせていないこと。
「むしろ幸せだった。あたしだけのものになってくれたから」
その時の彼女は誰よりも優しい目をしていた。
「そろそろかな」
先ほどより幾分か消え始めている彼女の手を見つめながら、僕はただ一つだけ消える前に伝えたいことがあった。
「許すよ、あんたの全てを、この僕が」
やっとわかった。いや、思い出した。ここは冥界、天国と地獄の狭間。そして彼女を赦せるのは僕だけだということを…。