僕は今、恋をしている。なんてことないありふれたおとぎ話のようなほんの少し非日常的な恋。それは雨の降る夜を境に起こった。家族の都合で都会に引っ越してきたばかりだったある日、僕は寝付けなくてウロウロと散歩をしていた。雨の中散歩するなんておかしいと思うかもしれないが、雨に打たれながら歩くのが好きだった。ちょっとした厨二病を拗らせたものかもしれない。雨が肌を伝って雫を落とす感触や肌に張り付く感じが好きだった。そうしていつも通りと言える散歩をしていると、人気の少なそうな木々に囲まれた小高い丘のような場所を見つけた。細い小道はあるものの整備と言える程は整っていなかったため人目につかなさそうだと思ったのだ。
「もう夜中なのにこんなにも明るいのか」
丘から見下ろす街並みは昼間とは全く違う表情をしている。ビルやマンション、終電と思われる電車にタクシーや車と様々な明かりが忙しなく点滅していた。
「都会では星は地上に降るのよ」
いきなりそう聞こえた声は凛としていて鈴のようによく通る声だった。驚いて振り向くと涼し気なショートカットの女が立っていた。
「随分ロマンチックだね。君は?」
「ここの先住人ってとこかしら」
そういうと僕の隣に並ぶようにして彼女のいう地上に降る星をしばらく眺めていた。
「田舎では星は空に降るものだったでしょう?どうかしら、都会の星も好きになれそう?」
まるで見透かしているみたいだった。家族の都合でとは言え知らない土地に田舎と異なる文化の中に放り込まれた僕はあまり都会が好きではなかった。
「そうだね、雨の夜でも見れるって言うのは大きな魅力かな」
田舎では確かに空に星が降っていた。だけど僕の好きな雨の夜にはそれは見えないもので少し残念に思っていたものだ。
「ここは私のお気に入りの場所なの。他の人には内緒にしてね、あまり人に知られたくないの」
そう約束して以来、雨が降っていない日もいつもあの場所に通った。彼女は不思議な人だった。僕のことをよく知っているかのように心中を言い当ててくるし、僕の好む答えを持ち合わせている。いつの間にか彼女に惹かれ、心地よくすらあった。あれだけ好きではなかった都会が少しずつ好きになっていく。
「やぁ、来たね」
お互い昼に会おうとか連絡先の交換をしようなどとは言わなかった。私生活にはお互い触れなかったし、知りたいと踏み込むこともない。それはきっと何かを感じあっていたのだ。触れてほしくない、触れてしまったら今には戻れなくなると…。だけど今日は違った。
「たぶんね、もう会えなくなると思うの」
何故と問うと彼女は僕に背中を向けた。タイムリミットが近づいてるのかもしれない。僕は気付いていた、彼女は--。
「君が叶えてくれちゃったから」
「どういう…」
「気付いてるんでしょ」
くるりと振り向いた彼女の足はもうほとんど消えかけていて今日が最後であることを僕に見せつける。
「…成仏、するんだね」
そう、初めて会った時から気付いていた。あの日、雨が降っていたにも関わらずどこも濡れていなかったこと。毎晩同じ時間に同じ場所に立っていたこと。昼間会おうとしなかったのも、昼は会えないからだと分かっていたからだ。それでもよかった。毎日通ううちにいつかふらっと何も言わず消えていたらどうしようと不安はあったが、僕が彼女を好きになった頃にはある種の信頼関係が成り立っていて最後であることを匂わせるくらいはしてくれるだろうと信じていた。そしてそれは運良くその通りだったらしい。
「未練、なくなったんだね」
「うん」
幸せそうに微笑む彼女はぐっと背伸びをした。
「素敵な恋ができたから」
そういうと触れられないはずの手をそっと僕の手に重ねた。もちろん暖かくも冷たくもない。
「私に素敵な恋をさせてくれてありがとう」
「僕も君に恋して毎日が幸せになった、ありがとう」
抱きしめることも叶わないふわふわとした実態のない彼女を少しでも感じようとふわりと腕を回す。
「ずっと好きでした」
「私も」
「君が消えてしまうまで、こうして寄り添っててもいいかな」
「もちろん」
最後の幸せを噛み締めようと必死だった。本当は失いたくなんてない、成仏しないままでいい。だけどそんなこと言えるはずがなかった。そしてそれは恐らく彼女も同じ思いだったことだろう。
「私初恋が出来なかったのが心残りだったの」
「僕なんかでよかったの?そんな大事なこと」
「君じゃなきゃダメだったんだよ。じゃなきゃ出会ってないし成仏も出来ない」
確かに、と笑うと重みの無い体をこてんと預けてくる。大切な人を失う痛みを今初めて痛感している。どうすれば一番いいのか分からないまま、夜明けが来るまで寄り添い続けた。少し周りが明るくなった頃には体のほとんどが透けてしまっていた。もうお別れなのかと思わず涙がこぼれそうだった。
「ちょっと、泣かないで見送ってよ」
「ご、ごめん…」
「私も、泣いちゃうじゃない…」
泣きそうな顔をした僕達は顔を見合わせるとふっと笑えた。
「今までたくさんありがとう」
「これからも、私が居なくてもちゃんとしてよね」
「…僕、君と一緒に--」
「生きて幸せになって、またここにその報告しに来てよ。成仏しても私はここにいるから」
あとを追いかけることすら許してくれない彼女は意地悪だ。
「またね」
「…また、いつかどこかで」
僕達の間にはそれだけで十分だった。
あっという間に登ってきた朝日に君の姿はかき消された。そこにもう君はいなかった。

「残された僕は彼女の言いつけ通り、そのあと幸せになってたまに報告をしに行くそうです。おわり」
「えー!じゃあはなればなれになっちゃったままなの?」
可愛い娘がそんなの可哀想だと騒ぎ始める。
「まだちょっと話するには難しかったかな?」
「むぅ…そんなことないもん!ちゃんと分かったもん!」
「そのお話大好きだもんねー大きくなったらまた違う感想になるかもね」
この世で一番愛してる妻が娘を宥める。他にこんなに幸せなことがあるだろうか。
「じゃあ父さんは少し出かけてくるな」
「いってらっしゃい」
儚い恋だったけど今も律儀にこまめに報告に行く。娘には本当にあったことを噛み砕いて絵本のように読み聞かせている。随分この話が気に入ったようで何度も読み聞かせてとせがんでくるようになった。
「なぁ、君の言う通りの幸せになれたかな。君は今もこんなぼくを望んでくれているのかな」
そういうと返事をするかのように木々のざわめきが強くなる。そっと1本のバラを供えると、また来ると言い残して家に帰る。地上に降る星を眺めて--。