悲しいジュトゥヴ

例年より暑いという梅雨時、兄夫婦のマンションを訪れた。子供が生まれる前に一度遊びにおいでと誘ってくれたのだ。

兄のお嫁さんの咲さんは少し食欲が落ちているというので、お土産に食べやすそうなゼリーと紫陽花など涼しそうな彩りの花を持って行った。少しふくらんだお腹の咲さんは愛にあふれた顔で微笑んでくれた。愛されている喜びと、愛する存在のいる喜びで満ち溢れていて、化粧なんてしていなくても美しいと思う笑顔だった。
ノンアルコールのスパークリングワインで乾杯をして、デリバリーのお寿司を三人で食べて、夕方、兄が私を送ってくれた。咲さんからは玄関で、また会おうね、いつでも遊びに来てねと見送ってもらう。今度会うときは、もう赤ちゃんがいるのかもしれないなと思った。
そのとき私は何をしているだろう。この胸に、どんな想いを抱いているだろう。


兄と車に二人きりになると、世間話をしながらも兄は何か言いたそうにしていた。

「遊びにおいでなんて珍しい誘いだと思ったけど、何か話でもあるの?」

品川の街を横目に車は進んでいく。
兄妹だけでしたい話ということであれば、両親や家族のことかとも思ったが、違った。

「悠史くんのこと」

その言葉を聞いて、なんとなく、ああ、やっぱりとも思った。

「うまくやってるのかなと思って」
「大丈夫よ、心配性ね。夕食だって週の半分以上一緒に食べているし、私の料理を上手って言ってくれるわ」

笑って見せたが、兄は正面の信号機から目をそらさないまま、その真剣な横顔のまま、数秒の沈黙と一呼吸の後で言った。

「後輩で、悠史くんを知っているやつがいるんだけど。見たっていうから。女の子といるの」

優しく真面目で誠実な兄は、申し訳なさそうに言った。兄がそんな顔をする必要はどこにもないのに、知らせないでおくかどうかもきっと相当悩んでくれたと思う。兄が優しいことが、これほど心に痛いものかと思う。

想像できる。優しく女の子をエスコートする悠史。お店は、麻布か六本木か。青山もありえるかもしれない。彼は車でアクセスしやすい場所を選ぶ。きっと、美味しい料理をごちそうして、きちんと話を聞いてあげて、微笑んで、送ってあげるのだろう、と思った。
私はいたって平然とした様子で言う。

「別にそれくらい。昔からそうじゃない。悠史はもてるから仕方ないわ。でもちゃんと帰ってきてうちで寝てるし、朝も起きてくるし」

兄は一瞬だけ寂しそうな顔をこちらに見せて、青信号に変わると再び顔を正面に向けて車を静かに走らせた。

「繭子は、智くんと結婚したいんだと思っていた。それを応援してあげられなかったことを今さら申し訳なく思っている」
「何を言ってるのよ」

智の名前が出たことにも驚いて、少しだけ同様してしまう。智のことは、よく話にしていたし、実家に遊びに来てくれたこともあるから、家族みんなが知っていた。兄は私のことをわかっているようでもあり、わかっていないようでもある。ただどこまでも優しい。

「悠史くんときちんと付き合っていた期間があるわけでもなく、結婚式もしない。他の女性と食事をしても平気。俺にはありえない。なんで結婚したのか、ずっと納得できないままなんだ。気にしすぎだろうか」
神妙な面持ちで兄は言う。
「気にしすぎよ」
私は正面の赤信号を見ながら言う。
「お母さんに、今の話、しないでね。心配しちゃうから」
兄は納得していない声で「うん」と返事をした。

やがて見慣れた街が見えてきた。駅から電車に乗って30分もすれば智の住む街についてしまう。実家も、そのくらいの時間で行くことができる。友達と集まろうというときにも、アクセスは悪くない。

でも、今はこの住み始めたマンションに帰りたいと思える。駅地下のスーパーも商店街のパン屋も好きだし、チェーン店のコーヒーショップもいくつもあって退屈しないし、少し歩けば公園も川もある。この街はいいところだ。そしてこの家も。たとえ悠史がいても、いなくても。灯りのついていない家に帰ることがあっても、自分をどう思っているかわからない相手を待つ日々があっても、だ。

そのくらい、私の新しい日常は充実していた。
でもふと、寂しさは込みあげる。悲しくもなる。
車から降りるとき、私は聞いた。
「お兄ちゃんは、咲さんといて悲しくなる?」
私は真顔だった。兄は悲しそうに言った。
「ならないよ。」

駅前のロータリーには帰ってきた人とこれから行く人、見送る人と見送られる人がごちゃ混ぜになっていて、生活の匂いがした。帰りたい、と思った。


その後も晴れの日は少なくすっきりしない空模様が続いた。
せめて室内だけでも明るくしたくて、思い立ってインテリアショップに行く。引っ越して半年ほどだというのに、ふと、カーテンの色を爽やかな水色にしたいと思って、でも家具の雰囲気と合わないような気もして、明るく黄色もいいのかなどと迷って、店内をうろうろする。

時計は16時、この時間は少し休憩していることがあると聞いて、携帯電話はつながらないだろうと病院に電話をした。受付の人につないでもらって、いつも通り保留音のサティのジュトゥヴが響いて数十秒の後、何も知らない悠史が「はい、髙澤です」と言った。私の声を聞いた彼は驚いた様子でどうしたの、と言って、今まで何度か電話したときと同じように怒ることも責めることもしなかった。

「好きにしていいよ、繭子のセンスを信じてる。お任せする」

あわただしく電話を切った後、1人きりを味わって、寂しさがこみあげて、私は何も買わないで店を出た。一緒に過ごす家のカーテンの色を一人で決めるのは荷が重い。
そういうことは、そのあとも何度もあった。インテリアグッズから食器、その日飲むワイン、献立。どれも悠史にとっては絶対に決断したいものではないだろうことはわかっていた。でも一人で決められなかったのだ。

「最近電話が多いね」
怒ってもいないし、うっとうしそうでもない。嬉しそうでもないし、悲しそうでもない。落ち着いた口調で悠史は言った。

「わからないのよ、迷っちゃって。意見が欲しいの」
「好きにしていいよ。カーテンの色も、家具も家電も、夕食のメニューも、繭子の好みで選んでいい。リクエストがあるときは俺も言うし。」

あわただしく電話口でそう言われて、わからないのにわかったわ、と返事をして電話を終えた。
受話器からはツー、ツーとむなしい音だけが響いて、音楽は流れなかった。
自由がこんなに苦しい。室内はいつも悠史の気配がない。彼を待つ夕方は終わりのない留守番をしているかのような心もとなさだった。

しかし寂しさのピークは梅雨明けと同じくらいに落ち着いていった。気象病だったのかとも思うと気楽になる。考えてみたら、結婚するまで実家で暮らしていて、1人暮らしなどしたことのない私にとって1人の時間が寂しいのは自然なことのようにも思えた。

悠史は晴れの日も雨の日も同じように挨拶をして、笑い、私の話に頷く。自分といて心が乱れるということはないんだろうと思う。そのことを、悲しいと思うことは、もっと悲しいのかもしれない気がした。