義両親とのホームパーティーの翌々日の午後だった。
悠史の母から電話があった。くるだろうな、とは思っていたものの、いざ電話に出ると少しだけ緊張してしまう。

「先日はごちそう様でした」
「いえ、たいしたおもてなしもできなくて」

そんな定型文のような挨拶をしつつ、本当に話したいことは違うことだろうと思いながら、彼女の声を聞く。案の定だった。

「繭子ちゃん、本当に結婚式しなくていいの?」

神妙な面持ちが電話越しの声からも伝わってくるようだった。
私には本当のことを言っていいのよ、お話して、とは言われても、結婚式をしないことを二人で決めたのは本当なのだ。
本当は結婚式したいです、でも悠史がやりたくないって言っています。そういう言葉を彼女は期待しているようだった。

大多数の結婚の形とは違うことが、こんなに面倒なのだということを実感する。互いに必要としあって、結婚式を挙げて、周囲から認められる。その一連のことがなければ夫婦にはなれないのかと思う。

「あの日の夜も二人で話しました。結婚式はしたくなったらいつでもできるって。それこそおじいちゃんとおばあちゃんになっても、って」
何十年も先の未来を想像してみて笑いながら私は言った。もちろん本当のことは他にもたくさんある。でも私の言葉に嘘はない。笑って伝えると、義母は電話の向こうで今にも泣きそうな声で言った。

「ありがとうね。息子のわがままに付き合ってくれて。あなたたちが仲良くすることが何よりなのは私も一緒なのよ。ただ素敵な繭子ちゃんのウエディングドレスの姿を私も見たいし、ご両親だって見たいはずだろうと思うと」

義母はまた泣きそうな声を出す。私の両親に対して申し訳ない、という気持ちなのだろう。

「大丈夫ですよ。私の両親には私からもう話してあって、理解してもらっています。」
「でも、何かあったら必ずお話してね。もう私は繭子ちゃんのお母さんなんですから」
「ありがとうございます」

それからもう一つ用件があるのだと彼女は言い、今度一緒にヴァイオリンの発表会に出て欲しいということだった。一度は丁重にお断りをしたものの、ぜひ、娘と一緒にステージに立つのが夢だったのと言われて、私も折れた。

近いうちに一緒に練習しましょうね。そう約束をして電話を切った。
私は、義両親を好きだ。二人ともが私を娘として愛してくれていることに、応えたいと思ってしまう。
でも本当のところで、悠史は私を妻と思っているのだろうか。

その日、悠史は「遅くなるから夕食はいらない」という日で、私は一人でワインを開けた。
自分のために自分で買ったデイリーワインだがなかなかおいしい。ワインに合わせて作ったチキンのトマト煮も我ながら美味だった。ボトル半分ちょっと飲んで、口の中がべたついてきて、やめた。
悠史がいたら1本なんて簡単に空くのにな、と思った。
もっとも、彼がいたら、もうちょっといいワインを開けただろう。一人のときはつい簡単に済ませてしまう。

日付を超える少し前に悠史が帰ってくる音が聞こえた。鍵が開いて、扉が開いて、閉まって、鍵をかける音まで聞いて、私は安堵して、とたんに眠くなる。扉の無機質な音は、嫌ではなかった。

義母に頼まれた伴奏はエルガーの愛の挨拶だった。エルガーの音楽は私も素晴らしいと思うが、愛の挨拶を彼女と一緒に演奏することが何だかおかしい気持ちにもなる。これはエルガーが婚約を記念して妻アリスに捧げた愛にあふれた曲だった。


一人での練習に飽きた七月初め、まだ梅雨の湿っぽい曇り空が続く水曜日だった。
私は楽譜を携えて智のマンションを訪れた。

「わからないのよ」
「伴奏のコツが?」

彼の用意してくれた甘いカフェオレを飲みながら苦笑いしてしまう。

「もちろん伴奏もだけど。ねえ、旦那さんってどういう存在なのかしら」
「結婚していない僕に言われてもね」

智もまた少し困ったように笑った。

「しかし、君がそんな話をするようになるなんて、月日の流れを感じる」

ピアノの椅子に座ってこちらを向いてコーヒーを飲む彼に、どういうこと?と首を傾げてみると、彼は静かに言った。

「結婚したんだね」

その目は、とても遠く、目を細めなければ見られない程、遠くを見つめているようなまなざしだった。

「まだ、半年ほどよ」

籍を入れて半年がたったのだ。厚いニットだったトップスは半そでのブラウス一枚で十分な季節になった。

「十分、立派だよ。」

そういって、彼はまたコーヒーを啜った。夏でも温かいコーヒーを飲むのが彼の常だった。そのコーヒーカップを持つ手をどれほど自分だけのものにしたいと思ったか。ずっとその横顔を見ていたいと、どのくらい思ったか。

「前も言ったでしょ。誰かを好きになることは悲しい。喜びであり苦しみであるって」

智は笑って言う。

「理解できないわ」

理解できなくていいよ、と彼は笑った。

「でもそういうことなんだよ。どうでもよければ痛くもかゆくも、なんともない。現に僕は君といて、かつてほど苦しくもない」

じっと自分を見つめる視線に、私は固まってしまう。そう言われて、ちょうど合わさった視線を逸らすことができなかった。

「恵理さんといると苦しいの?」

恵理さんというのは、彼の現在のパートナーであるヴァイオリニストだ。ドイツを拠点にしているが時折コンサートなどで来日する。
同時に、過去に自分を想ってどれほど苦しかったのか、また今はどのくらいなのかにも興味を持つが、聞かなかった。聞いても意味のないこと、つまり私と彼にその先はないことはわかっていたから。

もちろん、と言って彼は控えめに笑って頷く。

「一緒にいるときだけじゃない。彼女のことを考えるとき、ふと連絡しようかなとか、今何をしているかなとか、そんなちょっとしたときでさえ悩んでしまうよ」

そう、幸せなのね。言葉が口をついて出た。私は彼を見る目を細めた。先ほど彼が自分を見つめてくれたように、私たちは遠くにいるのだと実感した。人の気持ちは変わる。いくらでも、流れる水のように変化していく。

「でも私、あなたを変わらずに大切に思っている。いつも応援してるし、ピアノも弾いて欲しい。教えて欲しいこともたくさんあるわ」
「ありがとう、こちらこそいつでも」

そういった彼はいつでも会えるはずなのにもう手の届かないところにいる人なのだと実感するばかりだった。でも悲しくなかった。

彼のマンションを出て、帰り道のパン屋でクロワッサンとくるみとレーズンのカンパーニュ、ライ麦ブレッドを買った。大好きなミニサイズのチョコクロワッサンは今日はなかった。そういうわけで明日の朝はライ麦ブレッドで決まりだ。ということは、食後の果物を用意しなくてはと思い、駅ビルで今年初めてのびわを買った。オレンジ色の小さな卵型が、なんだか特別な感じがして嬉しかった。

「クロワッサン?」

食卓に載せられた月のような形のパンを見た悠史が言った。
珍しいクロワッサンのディナーに彼は違和感を持ったようだった。クロワッサンのようなバターを多く使ったパンを彼は少しだけ敬遠する。夜は特に。

「何回も食べているでしょう。国分寺の。ここのパンおいしいのよ。」
「わざわざ行ったの?」

テーブルを覗き込みながら悠史は言う。

「ピアノの練習よ。お義母さんの次の発表会の伴奏頼まれたから」
「へえ。いい先生でもいるの?」

エルガーの愛の挨拶を演奏するの、というのとほぼ同時に彼の声が重なった。今までだってこのクロワッサンを食べたことはあるだろうに、なぜ今夜に限ってこれほど気にかかるのだろう。切ったトマトをお皿に並べて、バジルを適当に散らしながら、私は平然と言った。

「ピアニストの友達がいるのよ。ちょっとわからないところとか教えてもらう程度だけど、私も今はただの趣味だし、わざわざ教室に習いに行くほどじゃないから、助かるのよ」
「初めて聞いた。そんな友達がいるなんて。なんて名前?有名なの?」
「どうかしら。国内のコンクールでは入賞したり、コンサートも開いたりしているから知ってる人もいるとは思うけど。渡辺智というの」

その名前を聞いた後、無音の間が少しあった。流し台に向かっている私は悠史の表情など見えないはずなのに、何か妙な気配、空気の変化を感じた。やがて彼は吐き捨てるかのような強い口調で言った。珍しい、と思った。

「うちの母親の趣味のためにわざわざプロからレッスンしてもらう必要ある?そんなことしなくていいよ」
「でもお義母さんとも一緒に発表会に出ましょうって約束したし、ちゃんとこなしたいのよ。」

嫁の務めだと思うのよ、これも。私、義母さんが好きよ。そう付け足すと悠史は眉間に皺を寄せたまま閉口していた。

智との関係は本当に今話した通りで、何もやましいことがない。私たちは一緒に楽器を奏で、私の練習に付き合ってもらっているだけだ。智はピアノを弾くことでお金をもらっているプロだが、同時に私の大事な友人でもある。かつて彼に特別な想いを抱いていたことがあったことも確かだが、それは胸の奥にしまって、このまま悠史に言わないままでも問題ないことだ。
でも、それは悠史にとっておもしろくないことなのかな、と思う態度だった。どこか妙な落ち着かない雰囲気が漂って、耐えきれなくなって言った。

「智と練習しないほうがいい?」

その言葉は冷たくひんやりしていたように思う。笑顔は嘘みたいだった。
私たちが相思相愛の夫婦なら、妬かないでよとからかう場面かもしれない。笑って、彼なら本当にただの友達よ、安心してと心から言える。でもそうじゃない。私たちはそんなこと言う必要がない関係じゃないの?そんな言葉が喉元まで出かかっていた。

数秒の沈黙の間、私たちはどちらも目をそらさなかった。沈黙の10秒は10分のように長かった。にらめっこに負けたような形で彼は表情を明るくする。まるで患者さんに今日はどうしました、と聞くかのような整った笑顔だった。

「いや、そういうつもりじゃない。繭子の時間に口出しして悪かった。練習頑張って。発表会は俺も聴きに行けるようにするよ」

食事をしよう、と椅子に腰かけた。
夕食には似つかわしくないクロワッサンだが、当日食べたほうが絶対おいしいから、いつも夕食に並べていた。買ってきたばかりのパンの甘く芳醇な香りは、大好きなはずだったのに今まで食べた中で一番味気なかった。トマトとバジルのサラダも、ローストポークも、私も悠史も好きなはずのメニューなのに食卓は暗かった。

どうして暗くならなければいけないのだろう。誰も何も悪いことをしていないはずなのに。また悲しくなっている。


翌朝はいつもと変りなく一日が始まった。おはようと互いに笑顔で挨拶をして、昨日買ったライ麦ブレッドも、彼は今年初めてのびわを見ても何も言わず、きちんとすべて食べ、九時少し前に家を出た。
いつも通りが繰り返されることは安心でもあり、不安でもあった。いつも通りに彼が帰ってくることは、嬉しくもあり、悲しくもあった。望んでも望まなくてもどちらかが手放さない限り日常は繰り返される。